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終物語 上
終物語 上
西尾維新
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目 次 第一話 おうぎフォーミュラ 第二話 そだちリドル 第三話 そだちロスト あとがき 底本データ 一頁18行 一行23文字 段組2段 外字「①」「②」「③」「④」「⑤」「⑥」「⑦」「⑧」「⑨」「⑩」「⑪」「⑫」「⑬」「⑭」「⑮」「⑯」「⑰」「⑱」「⑲」「Ⅲ」使用。 第一話 おうぎフォーミュラ 001 忍野おしの扇おうぎは忍野扇だ。まったくのところ、あの転校生に関して言えば、それで話はおしまいである。彼女の名前を述べてしまえば、語るべきことが最早もはや他にない。もちろん、そんなことを言い出したら誰だって誰かであり、誰か以外ではありえない──究極的にはそれ以外に言うべきことがない。羽川はねかわ翼つばさは羽川翼だし、戦場せんじょうヶ原はらひたぎは戦場ヶ原ひたぎである──つまりは阿良々木あららぎ暦こよみが阿良々木暦であるように。ただ、それにしたって彼女、忍野扇はあまりにも忍野扇なのだった。他の何でもないくらい、忍野扇でしかない。『嫌なものは嫌』であり、『駄目なことは駄目』であるように、忍野扇は忍野扇であり、そこから先の議論には完全にと言ってよいほどに発展性がない。そういうものとしてはっきりと定義されていて、決まりきっていて、定められていて、まるっきり揺るがないという意味では、彼女は非常に数学的である──そう、忍野扇的である次くらいには。 ところで数学と言えば、『数学史上もっとも美しい式』をご存じだろうか? いや、まさか知らないとは言わせない、聞けば誰でも思い出す。個人的には数学史上どころか、それは人類史上もっとも美しい式だと思いたいくらいだが──『eiπ+1=0』。いわゆるオイラーの等式である。自然対数の底eと、円周率πと虚数iと、1と0が、一つの式に贅肉ぜいにくなく、あるべくしてあるように収まるこの公式は、もしもこの世に神様がいるとすれば、その最有力の証拠物件としてあげられる一品だろう。 面白いのは──もとい、美しいのは、この公式が『決まっていた』という点だ。テストに出る要点があるとするなら、そこだ。つまりオイラーの公式は人類にとって、発想の産物ではなく発掘の産物であり、仮に世界に人類が存在しなくとも、自然対数の底を、円周率を、虚数を、1を、0を、考えるおつむがひとつたりともなかったとしても、それでも自然対数の底の円周率×虚数乗に1を足せば、0になっていたということだ。 美しくはあるが──そう考えると、怖くもある。 なんとなく現代社会の風潮は、世界というものは実に曖昧模糊あいまいもこで、取り立てて有為転変ういてんぺんで、簡単至極しごくにひっくり返って、昨日までの常識は今日の非常識で、朝方のルールが夕方のルール違反で、確かな価値なんてひとつもなく、あてどもよるべも何もなく、だからこそ僕達は白紙の未来にだけは希望が持てる──というような感じだけれど、実際問題、未来なんてものは、つまり未知なんてものは、本当はとっくに、最初から決まっていて、僕達はそれを知らないだけなんじゃないだろうか? 未知は単なる無知なのでは? 円周率を知らない人間がたまたま計算したところで、円周を直径で割ればπになる。アインシュタインがその才覚を遺憾いかんなく発揮しなかったところで、相対性理論自体はずっと、そこにあった。たとえベートーヴェンを知らなくとも、その譜面通りに演奏したなら、交響曲第五番八短調の音は出るだろう──なに、感動が違う? ならば、感動するのと同じように演奏すればいい。天才代表、ヴィンセント・ゴッホ本人ではなくとも、彼と同じ筆致、同じ筆圧で、同じ絵の具を使用し、同じ環境において、同じ視点から、同じ花を素材に描けば、信じがたいことにどんなど素人しろうとでも『ひまわり』に至るように。猿にタイプライターを叩かせ続ければ、いつかはシェイクスピアが書き上がるというではないか。 答は変わったりしない──決まりは変わったりしない。 人々が『変わった』と思ったり、『新しくなった』と感じたりするものは、あらかじめ決まっていた別のプログラムが実行された事実の、微笑ほほえましい錯覚に過ぎないのだ。 そういう意味では、世界には、そして未来にも、曖昧な遊びなんて、模糊な余白なんて、微塵みじんもない。あるのはただ『こうすればこうなる』という厳然たる決まりごとだけだ。『駄目なものは駄目』『悪いことは悪い』というように──決まっていることは決まっていることでしかなく、意志の入り込む余地がなく、心を配置する隙間がない。ゆえに発想は発掘でしかなく、発明は発見でしかない。いやその発見すら、実は再発見でしかないのかもしれない──僕が必死に答を追い求め、頭を悩ませ続けている無理難題にも、既すでに模範解答のようなものが最初から用意されていて、僕の試行錯誤なん; て、そこに辿たどり着くまでの『寄り道』にしか過ぎないのかもしれない──見る者が見たら。 見る者。 あるいはそれは、化物なのかもしれないが。 とは言え忍野扇──あの転校生ならば、オイラーの公式の美しさについてさえ、ひょっとすると苦言くげんを呈ていすることだろう。 こんな風に。 「ええ、確かに美しいですねえ、阿良々木先輩──美しくて美しくて卒倒そっとうしちゃいそうです。一番美しいのは、答が0になるってところです。とは言え、私なんかは、答が0になるんなら、取り立てて計算しなくてもいいって思いますけれどね」 それを聞いてやっぱり僕は思うわけだ──忍野扇は忍野扇で、他に言い表しようがないのだと。彼女の前ではすべてが0、彼女はどんならしからぬことをしても、彼女らしくなってしまうのだと──というわけで今回は数学の物語だ。 お勉強をしよう。 数学と言うと構えてしまう向きもあるかもしれないので、砕くだいて算数の話と言い換えてもいい──いっそもっと端的たんてきに、数の話と言ってしまっても。なにせこれは、数の多さで解かいが決まってしまう話──即すなわち多数決の話なのだから。 多数決。 間違ったことでも真実にしてしまえる、唯一の方法。 幸せではなく示し合わせを追求する、積み木細工の方式。 僕達の不等式──僕達の不当式。 人類が本当の意味で発明したと言えるのは、これくらいのものだろう──そしてこれは、人類史上もっとも醜みにくい式である。 002 もしも初対面の後輩と、謎めいた教室の中、二人きりで閉じこめられて、既に一時間が経過したという経験をお持ちの人がいるならば、是非ぜひともアドバイスを求めたいところだった──まあ、そうは言っても、携帯電話は当然のように圏外で、Wi‐Fiの電波もどうやら遮断しゃだんされているらしいこの教室の中においては、外部にアドバイスを求めることすら、今の僕には許されていないようだが。 「駄目ですね、阿良々木先輩──」 と。 扇ちゃんが、教室前側の扉を開けようと、手も足もフルに使って躍起やっきになっている僕のところにてくてく、小さい歩幅で寄ってきた。 「──ああ、今のは阿良々木先輩が駄目ですねっていう意味じゃありませんよ? 色々試してみましたけれど、大窓も高窓も、やっぱりビクともしませんという意味です」 「……いや。僕が駄目っていう意味だなんて誤解を、とてもするような状況じゃないと思うけれど」 どういう注釈だ。 僕はやや気分を害しつつ、 「僕のほうも駄目だよ」 と言った。 「ああ。やっぱり駄目ですか、阿良々木先輩も」 「わざとやってないかい? 駄目なのが僕っぽく聞こえる言いかた」 そんなつもりは毛頭もうとうないんですけれどねえ──と、扇ちゃんはとぼけるように笑った。まあ、にこにこ笑顔を浮かべているが、あまり冗談が好きそうな子には見えないので、そんなつもりはないという彼女の言葉を、ここはとりあえず信じておくことにしよう。 どうやら僕達はこの教室に閉じこめられているらしいと判明してから、僕と扇ちゃんは役割を分担し、それぞれ脱出方法を探ったのだった──僕は通常の出入り口、即ち教室の前後に設置された扉を調べ、扇ちゃんは窓を調べた。 「鍵がかかっているって風じゃなくて……、なんだか、接着剤か何かで固定されているみたいな感じなんだが」 僕は一時間近く、扉と格闘した感想を述べる──痺しびれてしまった腕をぐるぐる回しつつ。一時間も使って出した結論が『みたいな感じ』とは、最上級生としていささか恥ずかしいものがあるが、事実は事実だ。 対する扇ちゃん──最下級生にして直江津なおえつ高校初心者の転校生──は、僕よりは見識を持った調査結果を微笑みと共に述べる。 「ええ、前述の通り、窓もまるっきり微動だにしません。鍵について言いますと、備え付けられているクレセント錠、これは可動します。かけるも外すも思いのままです──かけた状態でロックすることもできます。ですが、肝心の窓枠のほうが可動しません。クレセント錠のかかった状態ではもちろん、外した状態でも──そう、接着剤か何かで固定されている『みたいな感じ』、ですか」 「…………」 最後で僕の幼稚な表現を真似まねしてきたのが、先輩を立てているつもりなのか、先輩を馬鹿にしているのかは、判断のわかれそうなところだ。 「それは、すべての窓で例外なくそう?」 「ええ。もちろん総当たりでチェックしましたよ。サンプル調査なんて手抜きはしていません──大窓も、高窓も、廊下側の窓も、体育館側の窓も」 動きません、と扇ちゃん。 「体育館側の窓か……」 僕は言いながら、反転して、そちら側を見た。正直言って、閉じこめられていることそれ自体よりも、実のところそちらのほうが──そちら側のほうが、問題であるとも言える。 むろん、風景そのものに異様があるわけではない──窓の外に魔界が広がっているとか、恐竜がわんさかいるとか、火の海だとか、そういうことはない。見えるのは、ただの体育館だ──直江津高校の、当たり前な体育館だ。神原かんばるが引退したバスケットボール部とかが、今頃あの中で活動中だろう──にしては音が聞こえないが、それはこの教室が、外部からの音をシャットアウトしているからかもしれない。 音すらも出入り禁止とは徹底しているが、だが、それすらも、あるいは問題ではなかった──窓の外の風景に比べれば。 いや、だから体育館はただの体育館だ。 そこには何の異常性もない──問題なのは、僕達が今いる校舎からは角度的に体育館は見えないはずという点だった。 「本来は──ここからはグラウンドが見えるはずなんだけどね」 そうだ。僕と扇ちゃんが足を運んできたこの校舎は、グラウンドに並行して建てられている──だから窓から見える部活動は、室内競技のバスケットボール部ではなく、野球部や陸上部であるはずなのだ。 「…………」 できることなら窓から身を乗り出して、きょろきょろと首を回し、もっと外の風景を検分したいところだが、こちらの窓も開かないときてはそれもできない。ただただ、その当たり前な体育館から、当たり前でない不気味さを感じ取るばかりである。 それとも勘違いだろうか? グラウンドに向いている校舎に来たつもりで、間違えて体育館に向いている校舎に来てしまった、とか──いや、そんな酷ひどい間違いを、初対面の後輩相手に見栄みえを張ろうとしていた僕が犯すものか。 大体、僕達がいるフロアは三階のはずなのに、それにしては、窓の外の体育館の見えかたが不自然だ。五階か、せめて四階あたりから見ないことには、体育館の屋根があんな風に見えたりはしないはず──まあ、校舎を間違う可能性を考えるなら、フロアを間違う可能性だって考えるべきだろうが……。 ただし、仮に窓の外の風景があるべきものと違う原因がただの勘違いだったとしても、僕と扇ちゃんが閉じこめられている現状には、何ら変わりはないのだけれど。 それでも、なんとか窓から身を乗り出す以外の方法で、ここが何階かを知る方法はないだろうかと思っていると──僕がそんな地点で、思考の足踏みをしていると、 「そろそろ、頃合ころあいかもしれませんね」 と、扇ちゃんは言った。 「頃合い? 何の?」 「乱暴な手段に訴える頃合い──ですよ。ほら、阿良々木先輩も私も、このままだと飢うえてしまいます。飢えて渇いて死んでしまいます」 「まあ、そうだけれど……」 餓死がしというのは現時点ではまだ大袈裟おおげさな心配にも思えたが、このまま閉じ込められ続ければ、そういう必然が生じることは確かだった。いや、僕は多少の空腹には堪たえる自信があるが、育ち盛りであろう扇ちゃんはそうもいくまい。 「でも、乱暴な手段って」 どういう意味だいと訊きくために彼女を振り返ったことで、訊く意味はなくなった──一目瞭然いちもくりょうぜんだったからだ。扇ちゃんは教室にずらりと並べられていた机をひとつ、両腕で抱え上げていた。これから掃除の時間だから、床を掃はくために机を移動させようとしているといった体ていだが、しかしながら扇ちゃんがやろうとしていることは、掃除とはまったく逆の『とっ散らかし』だった。 「せえのお!」 そんなかけ声と共に扇ちゃんは、抱えた机を窓に向けて投げつけた。廊下側の窓ではなく体育館側(本来はグラウンド側)の窓に向けて、である。後のちに彼女が言うには「廊下側だと、誰かが向こう側を歩いていた場合危険ですからねえ」とのことだったが、そのリスクは別に、屋外に向けて机を投げた場合だって大差なかろう。むしろ(ここが三階にしろ五階にしろ)位置エネルギーが加わる分、割れたガラスも投げられた机も、より危険度は増すかもしれないくらいだ──が、どの道それは杞憂きゆうだった。 扇ちゃんが窓に、即ちガラスに向けて投げた机は、それが当たり前みたいに、さながら堅い壁にぶつけられたスーパーボールみたいに跳ね返って、教室内の床へと、その中身──教科書やノートや筆箱をぶちまけた。持ち主が机の中に相当の置き勉をしていたらしく、その散らかりようは悲惨の一語だった──机も何度かバウンドした挙句あげく、ひっくり返った状態で停止する。 ガラスには傷一つついていなかった。 ついでに言うと、跳ね返った机のほうも、ぶちまけられたその中身も、あちこちに散らばっただけで、壊れたり罅ひび割れたりということはない。扇ちゃんの取った『乱暴な手段』の、結果がこれだった──つまり、何の結果にも繋つながらない結果だった。 「……どうせ投げるなら、中身の入っていない机を投げたほうがよかったんじゃない? 後始末を考えると」 僕は言う──否、それを言うなら、無理して机を投げなくとも、ものは試しに投げつけるなら、椅子のほうが持ちやすくてよかったのでは? 破壊しようとする対象が何せガラスだから、素手すでで直接というわけにはいかないにせよ、決して大柄ではない細腕の彼女が、どうしてわざわざ机を選んだのかが疑問だった──が、この疑問はすぐに解消された。 扇ちゃんが、ぶちまけられた机の中身から、一本のボールペン(筆箱の中に入っていたもの)を拾い上げたからだ。それを持って、彼女は黒板のほうへと歩いていく。どうやらそのボールペンを取り出す手間を省くために、一石二鳥とばかりに、ガラスに投げつけるのを椅子ではなく、中身の詰まったその机にしたようだ。合理的なんだか億劫おっくうがりなんだか──しかし疑問が解消されたところで、次の疑問が首をもたげてくる。そのボールペンをいったいどうするつもりだ? カチリと音がしたところをみるとペン先を出したようだが、しかし黒板に字を書くための道具は、ボールペンではなくチョークのはず……。 「!」 止める暇いとまもなかった。彼女はそのボールペンで黒板を引っかいたのだ。例の、人間の神経をこれでもかと苛さいなむ、非常に不快な高音が、通常以上に密閉空間であるこの教室に響き渡──らなかった。 音はなかった。 加減をした風に見えない、刀で切りつけるような『一筆』だったにもかかわらず、黒板には傷一つついていないどころか、ボールペンのインクさえ付着していなかった。引っかいたと思ったのは僕の目の錯覚で、実際には扇ちゃんは空振りしたんじゃないかと思わされるくらいだった。 「──駄目ですね。ふむ」 「な……何をしようとしたの? 扇ちゃん」 「いえ、打撃による破壊が不可能だったので、次は音による共振作用でガラスを割ろうと思ったんですよ」 さらりと言う。振動で窓の破壊を目論もくろむとか、結構高度なことを何食わぬ顔をしてやってのけ──そして失敗したらしい。だがその失敗はあらかじめ織おり込み済みだったとでもいうように、何食わぬ顔のまま、扇ちゃんはボールペンを床に投げ捨てた。 机を投げ、ガラスにぶつけると同時にその中身からボールペンを取り出すという行為は合理的ではあっただろうが、その結果、こんなに教室を散らかしてしまうのは不合理だ、と思いながら僕はその辺を片付け、原状回復につとめる。ああしかし、あえて、僕がこんな風に片付けたくなってしまうほどに散らかしてしまうというのは、それはそれで合理的なのかな? 「ん……」 立て直した机の中に、教科書類を揃そろえて入れる際、ふと、マジックで書かれた名前が目に入った──『一年三組 深遠』。 ここは一年生の教室なのか? そう書いてあるということはそうなのだろうが……、入ってくるとき、プレートをちゃんと見てはいなかった。そもそもプレートがあったかどうかも、よく覚えていない。いやそれよりも深遠ふかどお? 深遠って……いや、よくある名前か? 「阿良々木先輩。ご多忙の中申しわけありませんが、ちょっとこちらにいらしていただけますか」 扇ちゃんの声が僕の思考を遮さえぎった。ご多忙も何も、今僕がしているのはきみが散らかした後始末だと言いたいところだったが、ともかく僕は片付けを一旦いったん中断し、いつの間にか、さっきまで僕が格闘していた教室の前側の扉のあたりに移動していた扇ちゃんのところに、呼ばれるがままに歩いて行った。 「ああ、違います違います──あと一歩下がってください。もう少し右に、行き過ぎです左に。んー、あと半歩後ろに下がって、気持ち、胸を張ってもらえますかね」 ……指示が細かい。どういうつもりなのか、何をするつもりなのかさっぱりだった──と言うのも、ガラスに机をぶつけ、黒板を引っかいたところで、彼女の、この教室に対する暴力的なアプローチは幕を引いたとばかり思っていたからだ。だが、そうではなかった──もうひとつ、彼女は手段を残していた。それもとびっきり、暴力的な手段を。 低く身を屈かがめたかと思うと、扇ちゃんは強烈な肘鉄砲ひじでっぽうを、僕の鳩尾みぞおちめがけて放ったのである──僕の反射神経は機能することなく、その一撃は見事に炸裂さくれつした。 「ぐはあっ!」 指示通り、胸を張っていた身体がバネ仕掛けのようにくの字に折れ曲がり、僕はもんどり打ってその場に倒れる。勢いあまって、危うく扉で頭を打つところだった──ぎりぎりかすめて、床にうずくまる。 「かっ……はっ。な、何を……扇ちゃん、きみは……」 「ふむ。やっぱり駄目でしたね──」 呼吸にさえ苦しむ僕を後目しりめに、扇ちゃんはしれっと言う。悪びれる風がまったくない。 「──いえ、胃酸で扉を浸食することができるかなって思ったんです。打撃も共振も無理だって、溶かすことはできるんじゃないかなって。でも、このアプローチも無駄のようです。扉が汚く汚れただけでした。まあ仮に溶けたところで、雀すずめの涙ならぬ阿良々木先輩の胃酸、扉を溶かし切れるはずがありませんけれど──あとで拭ふいておいてくださいね」 「…………」 エルボーで狙ったのは、鳩尾ではなくストマックだったらしい──僕に胃液を吐き出させるのが目的か。おとなしそうな顔をして無茶苦茶しやがる、この子。どうして僕、初対面の女の子にいきなり殴られなきゃなんねーんだよ……なんの因果いんがだ。 「ああごめんなさい、痛かったですか?」 抜け抜けとそんなことを言ってくるので、逆に腹も立たない。いっそ清々すがすがしいくらいだった──とは言え実のところ、幸い僕は家庭環境において、この手のバイオレンスには慣れっこだった。……胃袋殴られるのが慣れっこって、どんなDV家庭だよ。 因果というより因業いんごうだろ。 「別に。大したことないよ」 見栄を張りつつ、立ち上がる僕。平静を装うのはともかく、こんな風に後輩に見栄を張った結果が今なのだとすれば、そろそろ態度を改めるべき局面ではあるのだが。 「そうですか。さすが阿良々木先輩。まあ、私が胃液を吐いてもよかったんですけれど、絵的にちょっとキツいかなあって。阿良々木先輩は、女の子に胃液を吐かせるくらいなら自分が吐くってタイプでしょうから、不肖ふしょう私、気を回してみました」 「ありがたい気遣きづかいだね……確かに僕は、女の子に胃液を吐かせるくらいなら自分が吐くってタイプだよ」 タイプ分けとしてあまりにピンポイントだし、『胃液を吐く』なんて仮定がそもそも異様だが、にこにこしている扇ちゃんに、僕はそんな風に適当に応える。その笑顔が僕を馬鹿にしてのそれなのか、頼りがいのある先輩に甘えてのそれなのかは、やっぱりわかりにくかった。 この底知れない感じ。 なるほど確かに、『あの男』の姪めいといった感じだ──もっとも外見的にはまったく似ていないにしろ。 「いずれにしても、窓も扉も破壊不可能ってわけだ。もちろん、専門的な道具もなしじゃ、壁をぶち抜くってわけにもいかないだろうし」 「プラスチック爆弾でもあれば一発なんですけれどねえ」 物騒ぶっそうなことを言う扇ちゃん──実際、僕を肘撃ちしたときの迷いのなさから考えると、もしも手元に火薬爆薬があれば、躊躇ちゅうちょなく彼女はそれを使いそうではある。もっとも、そうしたところで、この教室の壁を壊しうるかどうかは別の話だ──内部にいる僕達が無事で済まないであろうことは間違いがないが。 「しょうがない、ここは長期戦だろ。変に出ようともがいて、精神的に消耗するほうが問題だ。外部からの助けを待とうぜ、扇ちゃん──幸い、僕達がここにいることは、神原が知ってるわけだし」 僕は大らかに言った。できる限り明るく、朗ほがらかに。 正直、そんなに余裕のある精神状態ではないのだが、しかし後輩に安心感を与える意味でも、器うつわの大きいところを見せておきたい。扇ちゃんからすれば、会ったばかりの男子と密閉空間で二人きりというのは、それだけで結構な不安だろうからな……そうすると先ほどの肘鉄砲も、一種の威嚇いかく、警戒心の表れとみることもできなくはない。 なんにしても、ここでの振る舞いは、男が試されている気もする。というか、ここで選択肢を誤れば破滅しかねない。 「どうですかねえ」 と、当の扇ちゃんは、しかしさして心配そうでもなく、平然とした風だ──僕同様、強気を装っているだけかもしれないが。 「あのかたの大ファンとして、神原先輩からの助けを期待したいのは私も同じですけれど──しかし外部からの救助は、やや望み薄だと思いますけれどねえ」 「? どうしてだ? 放課後に突然、生徒が二人、姿を消したんだぜ──神原でなくても、誰かが気付くだろう。きみのクラスメイトだって、僕のクラスメイトだって、そうなれば大騒ぎだぜ」 大騒ぎというのは大袈裟な物言いかもしれない──少なくとも僕がいなくなったくらいでは、僕のクラスメイトは『いつものこと』として処理しそうだ。戦場ヶ原や羽川も含め。だが扇ちゃんの場合は、転校してきて間もない生徒がいなくなったのだから、話題にはなるだろう。 「鞄かばんが置きっぱなところを見れば、学校から外に出ていないことはわかるだろうし。そうなれば遠からず、ここに辿り着くはず──」 「人の助けを当てにしますねえ、阿良々木先輩。人は一人で勝手に助かるだけ──なのに」 「!」 「失礼。これは叔父さんの主義でした──私にも阿良々木先輩にも無関係でしたね。しかしそれはともかくとして、阿良々木先輩、仲間を頼るのは悪いことではありませんが、基本的には私達は、自力で脱出しようという試みを、まだ放棄すべきではないと思いますよ。なぜなら」 と、扇ちゃんは指し示した。何をかと言えば、黒板の上に掛けられた時計をである──それを見た瞬間、僕は凍りついた。 時計の針は。 僕達がこの教室に入ってきたあのときから──一分一秒分すらも、微動だにしていなかった。一時間以上閉じこめられているはずの僕達は──まだ一秒だって、この教室で過ごしていなかったのだ。 「電池切れ──というわけでは、もちろん、ないんでしょうねえ」 扇ちゃんはにやにやしながら、そう言った。 003 ことの始まりは、僕が春休み、金髪金眼の吸血鬼に襲われてからちょうど半年が経過した、十月下旬のある日のことだった。昼休み、教室の自分の席でお弁当を食べようとしている僕を、僕の愛すべき後輩である神原駿河するがが訪ねてきたのだった。 「やあ阿良々木先輩! 神原駿河だ!」 相変わらず元気な後輩だった。 「一人か! 一人だな!」 相変わらず失礼な後輩でもあった。 「いや、一人と言うか……」 言いわけがましくなる僕。まあ、この正のエネルギーに満ちた後輩を前にすると、ただでさえ圧倒され、萎縮いしゅくしてしまうところがあるのだが。 「二学期に入ってから、戦場ヶ原と羽川がやたら仲良くってさ……、一緒に弁当食ってくれねえんだよ」 今頃二人でランチデートである。女子同士の友情がロマンスに勝利する、希有けうな例であった。 「ふうん。だったら他の友達と食べればいいのに。一人で食べる昼食ほど寂しいものはあるまい」 ずけずけと言いにくいことを言ってくれる。その主張に反対はしないが、それでも人は食わねば生きていけないのだ──たとえ他に友達がいなくてもだ。寂しさも侘わびしさも人生のうちである。 しかしすげーなこいつ。 三年生の教室に来ても、まったく物怖ものおじしていない──なんだったらそのまま、空いている椅子に勝手に座ってしまいかねない勢いだ。引退したとは言え、さすが一時は学校中のスターだっただけはある。 「まあ、そんな寂しい阿良々木先輩に、今日はいい話を持ってきたのだ」 「いい話? ほう、興味深いな。是非聞こう。いい話は大好きだ」 別に興味深くなかったが、僕が一人寂しく弁当を食べようとしていたことから話題が逸それるのであれば、国際政治論でもITビジネスの話でも、いい話だろうが悪い話だろうが、何でも聞きたかった。 「えっとな。実は阿良々木先輩に紹介したい子がいるのだ」 神原は言って、包帯ほうたいがぐるぐるに巻かれた左手で、教室の入り口を指し示す──廊下から半身を覗のぞかせている小柄な女子の姿が、そこにはあった。 「…………」 紹介したい子……あの子を、か? 誰だろう、見たことのない子だ──いや、紹介したいと言うのだから、知らなくて当たり前か。バスケットボール部時代の後輩かな? しかし、その見知らぬ女子をどうして、神原は僕に紹介しようというのだ? 雰囲気から判断すると一年生かな……この位置からだと遠過ぎて、学年章は見えないが……。 「可愛いだろう?」 神原は言う。まるで可愛さの前ではありとあらゆる疑問が消え去ると言わんばかりだ──まあ、それは案外、世間の真実を外していない。 「阿良々木先輩に可愛い女子を紹介するというのはなかなかリスキーなのだが、本人に頼まれたので致いたし方かたない。私も苦渋くじゅうの決断だ。いやはやまったく、戦場ヶ原先輩や羽川先輩が、たまたま留守にしているタイミングでよかった」 「お前は僕をなんだと思ってるんだ」 「獣よりは人間に近いと思っている」 「正解ではあるが……」 しかしあの二人の不在は、確かに狙ったようなタイミングではあった。今日はたまたま外に出ているが、戦場ヶ原と羽川は教室内でお弁当を食べることのほうが多いので(その場合も僕は外されている)、本当に狙ったわけではあるまいが──まさか。 しかし紹介したい、ねえ。 ご存じの通り、僕はあまり社交的な人格ではないので、老若男女ろうにゃくなんにょ問わず、知らない人と会うのはあまり好きではないのだが──超越社交的人格、知らない人と会うのが大好きという神原に、その辺の機微きびを理解してくれと頼むのは無理がありそうだ。 「いや、僕は人に会うのとか苦手なんだよ」 と言ったら、 「そうか! じゃあ得意になろう!」 と返されること請け合いである。 大体僕は先々月、神原にとある人を『紹介』している──その場合は紹介と言うより仲介だったが、ともかく、仕方がなかったとは言え、結構な危険人物を神原に引き合わせたことを、未だ心苦しく思っている立場だ。そうそう、それに、思い返せばその前には、暴力的な妹である火憐かれんを紹介したこともあったではないか。だからもしも、神原が僕に紹介したい人物がいるというのならば、たとえそれが何者でも、会わないわけにはいかないだろう。……冗談じゃなく、どんな友達がいてもおかしくないからな、こいつの広範こうはん過ぎる交友関係。 もっとも教室の外で神原の繋ぎを待っている彼女に、後ろぐらい雰囲気は皆無かいむだが。ただ、何というか、得体えたいの知れない感じはあるけれど── 「大丈夫、安心してくれ、阿良々木先輩」 僕の心中の不安を看破かんぱしたように神原はにやりと笑って言った。 「ちゃんと下着は外させてある」 「明後日あさっての方向へ帰れ!」 「大丈夫大丈夫、外させてあると言ってもパンツのほうだけで、ブラはつけさせたままだ。確か阿良々木先輩は、女子のブラは手ずから外したい派だったよな?」 「お前三年生の教室に来て一体いったい何を言ってるんだ!? 派とか組とか僕にはねえよ!」 ただでさえ神原は学校中の有名人なので、僕達の会話は耳目じもくを集めているというのに──奇異の眼で見られているというのに。が、幸い、神原の変態台詞へんたいぜりふは周辺にまで聞こえていないようで、皆は僕が一方的に神原を罵倒ばとうしていると見たらしく、先輩風を吹かす僕を非難する視線が痛いだけだった。つまり僕にとってはまったく幸いではないが、まあ、神原の変態が世間に知られるよりは幸いである。 「え? パンツまで自分で脱がせたいのか? すごい男っぷりだな、阿良々木先輩は。どれだけ女子をリードしたいのだ。あ、リードって言ってもSM的な意味ではなく」 「SM的な意味ではなく、僕はお前に首輪をつけときたいよ」 本当につけたいのは鈴だがな。とは言えこの辺の会話はいつもの、挨拶あいさつ代わりの神原ジョークだろう。僕もいい加減慣れてきた。 「で、あの子、なんなんだ? どういう正体なんだ? 僕に紹介したいって……僕は誰かに紹介されるほどの男じゃないぞ。生涯しょうがい自己紹介っていうのが阿良々木暦のキャッチフレーズなんだぞ」 「そんな悲しいキャッチフレーズがあるか。何もキャッチーではなかろう。いや、相談があると言うのだ──阿良々木先輩に。だから会ってやって欲しいのだ」 「僕に相談? おいおい、それこそ馬鹿げているぜ。誰に相談することがあっても阿良々木だけには相談するなっていう相談が、あちこちでなされているというのに」 「なんだ。その辺の奴らがそんな相談をしているのか。だったら私がぶっ飛ばしてくるぞ」 「ストップストップストップ! 冗談冗談冗談!」 にわかに凶暴な空気を帯び、僕のクラスメイトを睨にらみつけた神原を本気で止める僕。クラスメイトからは、話を切り上げて帰ろうとしたスター神原を、僕が力ずくで引き留めたように見えただろうが(僕の好感度が急落だ)、僕はお前らを救ったのだ。神原の左手には、今も人を『ぶっ飛ばす』力があるということは、先々月判明しているだけに、僕の引き留めは切実だった。 「で、そ、その、相談っていうのはなんだ? ぼ、僕だってあのファイヤーシスターズのお兄ちゃんだからな、人の相談にくらいたまには乗るぜ。お前の紹介状があるんだ、是非もない」 「私も詳しくは聞いていないのだが、怪異かいいがらみの相談らしい」 「え……」 怪異がらみ? 僕の表情に動揺が走ったのを見て、神原は、「うん、なんだか知っているみたいなんだ、あの子」と言った。 「私の左手のことも知っていたし、阿良々木先輩の血のことも知っていた。叔父さんに聞いた──と言っている」 「叔父さん……」 「あの子はこの間転校してきた一年生でな。なんと驚いたことに、忍野さんの姪っ子らしいのだ。名前を忍野扇と言う」 僕は動揺の表情のままで、もう一度改めて、彼女の──忍野扇の半身を見る。このとき初めて眼が合った。 吸い込まれるような──黒い眼だった。 004 「おかしいんですよね」 「おかしい」 「不思議なんです」 「不思議」 「つまり──怪しいんです」 「怪しくて──」 異なる。 僕の机の上に広げたノート、そこに描かれた図面を指し示しながら、忍野扇──扇ちゃんは淡々たんたんと言う。八月に臥煙がえんさんと、こんな風に向かい合って似たようなことをしたのを思い出すが、あのときはノートではなくタブレットを使ってのミーティングだった。今はもう高校生でもタブレットを使うのが珍しくなくなったけれど、あの忍野の姪っ子と言うだけあって、アナログのほうが性に合っているのかもしれない。 ノートに描かれているのは直江津高校の内部構造図だった──初対面の僕に堂々と見せるだけあって、専門器具を使って描いたかのごとく、とてもうまい構造図だった。玄関口にこのまま掲示してもいいくらいだった。 「おかしいんですよね──」 と、扇ちゃんは繰り返した。その図面の、ある一点を指さしたまま。 「…………」 僕は扇ちゃんの話を聞きつつ、図面と半々くらいの割合で、彼女を見ていた──彼女の眼を見ていた。吸い込まれるようなその眼を。 そう言えば臥煙さんがかつて、『忍野メメの妹』を名乗っていたことを思い出した。どうして姉でなく妹なのか、また適当っぽいことをこの人は、と、そのときは思ったものだけれど、あの名乗りには実在のモデルがあったわけか。考えてみればあの臥煙さんに『適当』なんてあるはずもない。 ただ僕としては、六月にこの町を去ったあの専門家の姪が、今、どうして転校してきたのかという点を、気にせずにはいられない。神原は「不思議な縁えんもあるものだな」程度の認識のようだが、八九寺はちくじの件を経験した僕としては……。 「あのう、聞いてくれてます? 阿良々木先輩」 「あ、えっと……」 気もそぞろなのを指摘され、僕は慌あわてて取り繕つくろう。 「お、扇ちゃん、座ったら? 立ったままじゃ説明しづらいだろうって、それが気になってさ。その辺の席の奴ら、グラウンドに出てて、チャイムが鳴るまで戻ってこないはずだし」 初対面の後輩を立たせっぱなしで自分は座っているという姿勢に気が咎とがめるというのもあってそう振ってみたが、扇ちゃんは遠慮した。神原も結局座りはしなかったけれど、しかし扇ちゃんの場合、その遠慮の物言いがものすごい。 「いえ、生憎あいにく、潔癖性けっぺきしょうでして。誰が座っているかわからない椅子には座りたくないんですよ」 「……さいですか」 潔癖性ね。だったらあの叔父さんのように、今はなき学習塾跡の廃墟で暮らすなんて真似は絶対にできないのだろうな。 「阿良々木先輩の膝ひざの上にだったら座ってもいいですけれど」 「やめてくれ」 「あー、阿良々木先輩、今エッチなこと考えたでしょー」 手を叩いて嬉うれしそうに言う扇ちゃん。この辺のはしゃぎようはただの一年生女子という感じだが、しかしこの振る舞いで彼女の底知れない印象が払拭ふっしょくされるわけでもない。 「エッチなことはきみが言ったんだ。罰としてそのまま立ってろ」 「厳しいなあ」 「で、なんだっけ? 何がおかしいんだっけ?」 「箸はしが転がってもおかしい──というのは、私の年頃ですが。えっと、ほら、私って転校生じゃないですか。家庭の事情と言うか一身上の都合で、私、転校が多くてですね──もう何度転校したか覚えていないくらいで」 「ふうん……大変だね。神原もそういえば、小学生のときに転校を経験しているはずだよな……」 ちなみに神原はもういない。僕に扇ちゃんを紹介するが早いか、全力でどこかへ駆けていった。あれで忙しい奴なのだろう──あるいは相談の詳しい内容を自分は聞くべきではないと思ったのか? 「やっぱ大変なんだろうな、転校って。周りの環境、ごっそり入れ替わるんだもんな」 「ええ。まあでも、さすがにもう慣れてますけれどね。で、私は転校するたびに、転校先の学校で、まず最初にすることがあるんですよ。なんだと思います?」 「何って……、先生方への挨拶?」 「それはしないこともあります」 「しないこともあるのかよ」 「だから──こういう図面作りですよ」 扇ちゃんはノートのページをぱらぱらとめくった。新品のノートだが、もう結構なページが校舎の図面で埋まっていた。かなり詳細しょうさいに、直江津高校を描いているようだ。構造図だけでなく立体図もある──全景の俯瞰図ふかんずなんて、どうやって描いたのだろう? まるで空撮くうさつだが。 「これからお世話になる学校を把握しておきたいという、まあ言ってしまえば私の癖くせみたいなものなんですよね──変だと思いますか?」 「いや、別に……」 正直に言うと、結構な奇行だとは思うが、しかし入学当初にそれと似たようなことをしていた人物を約二名ほど知っていたので、正面切って変だとは言いかねた。むしろ、あの約二名の他に、そんなことをする人物がいたということに素直に驚いた。 初対面の相手であり、また食わせ者であるあの忍野の姪ということで、ここまでどこか線を引いて、警戒的に扇ちゃんと接していた僕だったが、その奇行によって、彼女に対してちょっとした親しみを覚えた。 「館やかた系のミステリーが好きでしてね。冒頭に見取り図が挿入されていると、それだけで面白いって感じちゃうんです。ですから自分の新しい学生生活の冒頭に、こうやって見取り図を配置したくなるんです──もっとも、殺人事件を期待しているわけではありませんが」 彼女はそう言って笑ったが、しかしどことなく謎めいた雰囲気を持つ彼女が言うと、あまり軽口には聞こえなかった。殺人事件が起きたときのために見取り図を描いていると言ったなら、僕は素直にそれを信じていたかもしれない。 「ふうん……ちょっと見せてね」 「え? パンツをですか?」 「いや、ノートを……」 神原の後輩的な発言だ。神原の変態は周辺の努力もあり広くは知られていないので、そういう影響を受けているところを見ると、扇ちゃんは神原とかなり近しいようだが(ただしその発言から判断する限り、下着を外させてあるという神原の発言は、やっぱり口だけだったらしい)──だけど、転校してきたばかりの扇ちゃんが、どういう経緯でそこまで神原と仲良くなったのかが気になるところだ。まあ、誰とでも仲良くなりがちな神原ではあるが──僕はノートをぺらぺら、頭からお尻まで見る。こうしてみると、三年近く通っている学校なのに、色々知らない施設もあるものだ。普段どれだけいい加減に学校生活を送っているのか思い知らされる感じである。 「……それにしても絵が上手じょうずだね、扇ちゃん。僕、地図を読むのがそんなに得意じゃないから、こういうのを見てもぴんと来ないことが多いんだけど、このノートは、見ているだけで実際に校舎内を歩いているみたいだ」 「お褒ほめに与あずかり光栄の至いたりですよ。でしたら私が、何をおかしいと言っているか──おわかりですよね?」 「ん。それは……」 おわかりではなかった。おべんちゃらを言ったつもりはなかったのだが、しかしこれではいかにも、彼女の図面をおざなりに誉めた風になってしまう。やむなく僕は意見のようなものをひねり出す。 「校舎が多過ぎるとか、そういうことかな? 全校生徒の人数を考えれば、一棟校舎が節約できるはずとか──」 「全然違います。愚おろか者ですかあなたは」 丁寧ていねいな口調で辛辣しんらつだった。一瞬怒らせてしまったのかと思ったが、しかし扇ちゃんの表情はにこやかなままだったので、どうもそういうわけではないらしい──言葉のセレクトが独特なのは、ならば、あちこち転校しまくっているからだろうか? 酷い悪口が、その土地では一般的な二人称ってことはあるからな。 「それは単に少子化の影響でしょう。昔はきっとこれだけの校舎が必要だったのですよ。空き教室が多いのは、単に生徒の数が、開校当初と比べて減ったからだと推測できます──そうではなく、私が言っているのはここです」 「どこ?」 「ここ」 扇ちゃんは僕からノートを取り返し、あるページを開いて、一点を指さした──先刻せんこくも示していた一点だ。だがそこに、僕は特におかしさを見出すことができない。 「間取りが変なんですよ」 愚か者、もとい、僕からの返答を待ちかねたようで、扇ちゃんは自みずから説明を始めた。 「変と言うか、不自然ですかね──ほら、真上と真下のフロアを見てください」 ページを前後にめくりながら扇ちゃんは言う。 「それぞれちゃんと部屋があるでしょう? だったら、その真ん中にあたるここにも、一室、部屋がないとおかしいんですよ」 「おかしい──」 僕は改めて図面を、そういう先入観と偏見を持って見てみるが、しかし特に、さっきと違って見えるということはなかった。 「でも、この三階にもちゃんと部屋はあるじゃないか。視聴覚室が……」 「それは図面が間違っているんです。間違っていると言うか、一応、現実に合わせて描きはしているんですけれど、しかし実際の視聴覚室はこんなに長くありません。周囲と比較すれば、一・五倍くらい、縦長に描かれていることに気付くでしょう?」 「うーん」 周りの教室と見比べてみれば、まあ、そういう風にも見える──僕も学生生活の中何度か使ったことのある視聴覚室は、ここまで大きくなかったはずだ。ただ、これくらいは許容できる範囲内のミスと言うか……、扇ちゃんだって別に、工事現場で使用されるような本格的な測量器具を使ってこの図面を仕上げたわけではあるまい。きっとフロアのどこかでひとつ教室を見過ごしたり、単位を間違えたりして、結果しわ寄せが来る形で、視聴覚室が長くなってしまっただけではないだろうか。 「あれあれ? ひょっとして私をお疑いですか、阿良々木先輩。傷つくなあ、阿良々木先輩に疑われるだなんて」 「いや、疑われて傷つくほど僕に好意を寄せてないだろ、きみは」 「いえいえお慕したい申し上げておりますよ──私は簡単に騙だまされる愚か者のことを」 さらりとまた僕を愚か者扱いしやがった。かつての戦場ヶ原みたいに軽蔑けいべつと共に言われるのならばまだしも、笑顔と共に言われるので、天然で言っているのか悪罵あくばなのか、本当に区別できない。認知的不協和をおこしてしまう。 「私はミスなんてしませんよ。もしもこれが私のミスだったら、裸になって自分の広げた腕を定規代わりに学校中をもう一度測量し直しますよ」 「ものすごい迂闊うかつな約束をするね、きみ……」 僕だったらどんなに自信があっても、そんな約束はしないな。 ふふ、と笑って扇ちゃんは、「ミスではなくて」と枕まくらを置いてから、 「ミステリー小説ならば、こういう風に見取り図と実際が一致しない場合は、大抵の場合、そこには隠し部屋があるものなんですけれどね」 と言った。 「どうします阿良々木先輩? もしもここに部屋一つ分くらいの空きスペースがあって、金銀財宝ざっくざくだったら」 「どうして学校に隠し財産があるんだよ……見つけたってたぶん僕のものにはならないだろうよ」 「夢がないですね──受験生はこれだからリアリスティックでいけません」 「仮に、扇ちゃんが図面を製作したときのミスじゃないんだとすれば、校舎建築時のミスって考えるのが妥当だとうじゃないのか? つまりここはデッドスペースで、コンクリかなにかで埋められているってだけの──」 視聴覚室の隣にそんなコンクリの壁があった覚えはないけれど──じゃあその周辺がどうなっていたのかと問われれば、記憶は茫洋ぼうようとしている。土台どだい、学生生活なんて、自分の教室の位置さえ覚えておけば過ごせてしまうものなのだから。 「かもしれませんね。もちろん、そうだったらそれが一番いいです。いえ、一番いいのは金銀財宝ざっくざくですけれど、コンクリの塊かたまりざっくざくでも、別に構いません。ただ、もしもこれが」 扇ちゃんは言う。 不穏当ふおんとうなこと、不謹慎ふきんしんなことを言うのは楽しくって仕方がないというような口調で、言う。 「何らかの怪異現象だった場合──被害が出る前に調査しておいたほうがいいんじゃないかと思いましてね」 「…………」 正直な感想を言うと──発想の飛躍だ、と思った。なるほど図面と実際とが合わないというのは奇妙な話ではある──だが、だからと言ってそれが即、怪異現象に結びつくかと言えば、そんなことはあるまい。まだしも隠し部屋があるという説のほうが頷うなずけるくらいだ──まあ、文献を紐解ひもとけばそういう怪異もいるのかもしれないけれど。 だいたい、そんなものが校舎内にあって、忍しのぶが気付かないわけがない──春休みの段階で、忍野が気付いていなければおかしいとも言える。そう、忍野だったらきっと、「何か不思議なことが起きたとき、すべてを怪異のせいにするのは感心しないなあ」なんて言うだろう。 だが、それでも僕が扇ちゃんの意見を一蹴いっしゅうできなかったのは、扇ちゃんがまさにその忍野の姪っ子だからであり、また──彼女と同じように、直江津高校に入学する際、学校中をくまなく調査した約二名、つまり羽川翼と戦場ヶ原ひたぎからは、そんなデッドスペースのことは聞いていなかったからだ。 もしもそんなスペースが本当にあるとしたら──それが怪異に基づくものであろうとなかろうと──扇ちゃんは、何でも知ってる羽川翼はおろか、命がけで保身に走っていた頃の戦場ヶ原ひたぎさえ気付かなかった学校内の異常に、転校間もなく当然のように気付いたということになるのだ。 そんな事実──否、現時点ではあくまでも可能性だが、そんな可能性を突きつけられて、好奇心を刺激されないほどには、僕もまだ枯れていなかった。 「仮に怪異現象だったとしても、被害が出るタイプのものだとは限らないけれど……、まあ、念のために調査をしておいたほうがいいかもしれないってのは、賛成かな」 僕は慎重に、過度に鹿爪しかつめらしく言った。後輩からの提案にほいほい乗ったと思われたくなかったのだ──神原相手にはもうない、見栄を張りたい気持ちである。 「わあ、嬉しいなあ。阿良々木先輩ならそう言ってくださると思っていました。じゃあ、今日の放課後、私に会いに来てください。三年の教室に来るのって、緊張しちゃいますので」 神原と違って可愛いことを言う。実のところ彼女はこのとき、会って間もない先輩を呼びつけるというかなり礼を失した行為に及んでいるのだが、僕はそれに気付かなかった。 「わかった。会いに行けばいいんだな──けど、あんまり遅くなるのは困るぜ。放課後後輩と遊んでたという誤解を受けると、僕は暗殺される恐れがあるんだ」 「もちろん、お時間は取らせません。まあ、十五分と言ったところですね。何もないってことがわかるには、十分な時間でしょう」 十五分ですけどね、と言って、扇ちゃんは嬉しそうにしていた。そんな様子を見ていると、図面とか怪異とかはただの口実であって、この子は転校してきたばかりの、知り合いのいない高校で、間接的な知人である僕と仲良くなりたいだけなんじゃないのか、なんてうぬぼれたことを思った──もちろん、事実はまったく違い。 調査も十五分ではまったく不十分であり──現在をもって継続中なのだが。 005 放課後、宣言通り僕は扇ちゃんに会いに行き、そこから二人で視聴覚室のある校舎へと、早足で向かった。扇ちゃんが僕を先導する形で。そうしていると、僕が転校生で、彼女に学校案内を受けている気分だった。扇ちゃんは道中、僕を退屈させないためになのだろう、色んな話をしてくれた。『連載漫画のアオリ文が長いときは編集者が自信がないときの法則(逆に人気漫画のアオリ文は概して短い)』とか『値段が高くなるほど進行がゆっくりになる法則(料理の出てくる速度、お会計、納品、プレゼントの包装)』とか、そんなオリジナルの法則を語って聞かせてくれた。どうも彼女は『法則』が好きらしい。そうして饒舌じょうぜつに語っている姿は、確かに忍野メメにダブるものがあったし、また、ただのフレッシュな女子高生のようでもあって、僕は懐なつかしさと新鮮さを同時に味わいながら、目的地に到着した。果たしてその目的地──件くだんの校舎の三階、視聴覚室付近には。 あった。 教室がひとつ、あった。 「ほら扇ちゃん、見てごらん。ここにはちゃんと教室があるじゃないか。きみはこれを見落としたんだよ。この教室の分のスペースを、きみは視聴覚室に取り込んで描いてしまったってわけさ。きみのミスだってことがこれではっきりしたね。さあ、早速さっそく裸になって、自分の広げた腕を定規代わりに学校中を測量してもらおうか。なんだったらついでに僕の身長も測ってもらおうかな。最近伸びた気がするんだ」 と、僕が言ったかと言えば、言っていない。 だって、ここに教室があるほうが、教室がないよりも、よっぽどおかしいのだから──特別教室が集められたこの校舎の中に、どうしていきなりこんな風に、ぽつんと降って湧いたように、通常教室があるのだ? こんな印象に残る──言うなれば場違いなものがあって、覚えていないわけがない。図面では思い出せなくとも、見たら確実に思い出すはずだ。 「あれえ。なんですかねえ、この教室。私が図面作りのためにこの辺りを訪れた際には、こんなのありませんでしたけれどねえ。なーぞでーすねー」 と、なぜか扇ちゃんが棒読み口調で言った──表情はにやにやしたあれだ。この状況を面白がっている風にも見える。 「とにかく……、中に這入ってみよう」 僕は間違った判断を下した。どう考えてもここは一旦退いて、対策を練ねってから再訪するべきだった。羽川の知恵を借りるべきだったし、今は僕の影で睡眠中の忍に訊くべきだった──だが、後輩に頼りがいのあるところを見せたかった僕は、無謀にも扉を開け、教室内に踏み込んだのだ。 愚かしく。 外から窺うかがう限り、誰かが教室内にいる気配はなかったが、扉に鍵はかかっておらず、簡単に這入れた──中にはやはり誰もいない。並べられた机と椅子、あとは教卓や掃除用具入れのロッカーなんかがあるだけだ。 無人の教室──そういう意味では違和感はない。実を言えば、窓の外に見える体育館や、時を刻むことなく停まっている時計が、既に異彩を放っているのだが、僕はすぐにはそれに気付かなかった。金銀財宝ざっくざくという気配はなかったにせよ、こうしてみる限りはただの教室であり、じゃあ僕の記憶違いなのだろうか、ここにはずっと、この教室があったのだろうかと思い、胸をなで下ろしていた僕は、何にも気付かなかった──気付くべきことに、何ひとつ気付かなかった。 扇ちゃんが僕に続いて教室に這入り。 扉を閉めた。 「……で、今に至るというわけだが」 僕は黒板の上にかかった時計を見、そしてそれを自分の腕時計と見比べる──掛け時計の示す(停まった)時刻と、腕時計の示す時間との間には、隔へだたりがあった。 僕の時計は問題なく動いているわけだ──ならば掛け時計が電池切れで停まっている可能性はありそうなものだが、何も扇ちゃんはそれを、当てずっぽうで否定したわけではあるまい。もしもこの教室内の時間が停まっていると仮定するならば、扉が微動だにしないことにも、窓が割れないことにも、一応の説明がつくからだ。時の停まった教室──いや、時の流れない教室と言うべきか? 「問題は、どこまで固定されているのかってことですよね、阿良々木先輩──」 言って扇ちゃんはもう一度黒板に向かった。手にしているのは今度はボールペンではなく、黒板に字を書く普通の道具、即ちチョークだった。 「そう、チョークです。もっとも私は古めかしく、白墨はくぼくという言いかたをするほうが好きなんですがね」 言って扇ちゃんは黒坂に線を引いた。 ボールペンでは何の痕跡こんせきも残せなかった黒板に、果たして、白い線がはっきりと引かれた。 「お……おおお」 感嘆するような声を僕があげたのは、チョークで字を書くことはできるらしいという実験結果に向けてと言うより、次から次に様々な実験を、ひっきりなしに行う扇ちゃんのアクティブさに向けてだったかもしれない。普通、こういう密閉環境では、もっと慎重を期して行動しそうなものだけれど……。 「あははは。チョークなら大丈夫みたいですね。どういう理屈なのかな。こういうのはどうかな?」 扇ちゃんは、今度はチョークを横向きに持って、極太の線を引いた。チョーク一本をあっという間に消耗してしまう禁断の使用法だ。だが、それでも線は引けた。扇ちゃんはそのまま極太の線をかくかくと折り曲げ、相合あいあい傘がさの絵を描いた。 そこでチョークを縦に持ち替え、傘の左右に『こよみ・おうぎ』と記入した。 「あははは! なんちゃってなんちゃって!」 「ふざけてる場合かよ、扇ちゃん……」 おっと。いかん、僕こそ、後輩のおふざけにムキになっている場合か──僕も僕で、実験するなり試行錯誤するなりで、この密室から脱出する方法を考えなくては。 「電気はつくのかな……?」 採光は窓からので十分だったので、これまで電気のスイッチをいじってはいなかったが──僕はスイッチをまとめてオンにしてみる。こういうときまとめてオンにしてしまうのが僕のずぼらなところだが、ともかく天井の蛍光灯は一斉いっせいに明かりを灯した。 「電気は来ているのか……最低限、教室としては機能しているって感じなのかな?」 わからないが……、ただ、電気が来ているということは、脱出のための最終手段として、コンセントをスパークさせ、火事を起こせそうだ。昔火憐を助けるために月火つきひが似たようなことをしたことがあるのだが(まさしくファイヤーシスターズだ)、ただ、爆破よりはマシな案だとしても、密閉空間でそれをやるのは窒息ちっそくの危険があるので、本当の本当に最終手段だろう。 「……そもそも、そうでなくとも窒息の危険はあるのかな? 人間が酸素を消費する速度って、どれくらいなんだろう。あまりにこの状態が続くと、いずれは酸素がなくなるんじゃ……」 「いやあ、どうでしょう、阿良々木先輩。言ってもここ、教室ですからね──気体に対してまで密室ではないでしょう。テープで目張りでもしているならまだしも、窓の隙間とかから、人間二人が死なない程度の空気は入ってくるでしょう」 「そっか……なら安心だ」 安心と言いつつ、僕は扇ちゃんの口から出た『密室』という言葉を意識した。まあ、扇ちゃんはたまたま使っただけの言葉だろうが、そうだ、気密性がそれほどでもないというのならば、密閉空間と言うより、密室と言ったほうが、この場合は事実に即しているかもしれない。 やれやれ。 見取り図に導かれ、ミステリー小説のような隠し部屋があるのかと思えば──到着したのは密室というわけか。舞台装置としてはまずまずだが、探偵の不在が、こうなると嘆なげかれる。 「……どう思いますか? 阿良々木先輩」 「どう思うって……まあ、どうもこうも」 認めざるを得ないだろう──違和感のある図面や、記憶にない教室までなら勘違いで話がつくところだが、この密室状態には、合理的な説明はない。ゆえに非合理に、だから不条理に、説明せざるを得ない。 「だけど扇ちゃん、これがもしも怪異現象なんだとして──どういう怪異なんだ? 人間を教室に閉じこめる怪異なんてあるのか?」 「さてね、私は叔父さんと違って、そういう古めかしい知識は持っていないほうでして。漫画や映画に出てくるようなメジャーな怪異しか知りません」 とぼけているのか、謙遜けんそんしているのか、そんなことを言う扇ちゃん──底知れなくへらへらしているので、本当は知っているんじゃないかと思わされる。忍野と話しているときもこんな感じだった──どうしても勘繰ってしまう。僕のいぶかしむような眼を受けた扇ちゃんは、 「まあまあ、でも、密室から出られなくなる怪異っていうのは、あるはあるんじゃありませんか? よく聞くのは誰か次の訪問者が来るまでは部屋から出られなくて、そいつを言いくるめて部屋の中に入れれば、自分は出られるとか、そういうの」 と言った。 そういう怪談ならば僕も聞いたことがある──ならば次の誰かが来るまで僕達はこの教室から出られない? いや、違う──僕達が教室に這入るとき、別段、中に閉じこめられていた誰かが出て行ったということはないのだ。怪異現象だとしても、それとは別種の現象だろう。 「ですね。愚か者がこんな仮説に乗ってきたらどうしようかと思いましたよ」 扇ちゃんは優しげに微笑んだ──この子、僕を『愚か者』と言うときが一番可愛いのだが、どうしたものだろう。注意しかねる。タイミングを逸いっしてしまった感じだ。 「ただ阿良々木先輩、これだけは言えます。怪異にはそれにふさわしい理由がある──ですよ」 「…………」 それも忍野の台詞だったかな。となると、その理由を解き明かすことが、ここからの脱出に繋がるのだと推察できるが……。 「だとしても、教室から出られないという事態に、どんな理由があるんだ? 時計が停まっているってことにも──」 「時計が停まっている時間がキーなんじゃありません? 案外──だって、あんなデタラメな時間を指し示しているのは、やっぱり違和感でしょう?」 掛け時計が指している時間は六時少し前である──厳密に言うと、五時五十八分。ちなみに僕の腕時計が示している時間は、四時四十五分だ。扇ちゃんと調査を始めたのが確か三時半くらいだった──異常事態の勃発ぼっぱつから、既に一時間十五分が経過。 「あの六時前で停まっている時計がキーだとして、あれは午前なのかな? 午後なのかな? アナログ時計じゃ、それがわからないや」 「午後だと思いますよ──窓から外を見る限り」 「ん? ……いや、そうかい? むしろ……」 窓の外の風景から時間を判断するという発想はなかったので、心の中では扇ちゃんに感心しつつも、しかし後輩相手に見識の足りないところは見せたくなかったので、ケチをつけるようなことを言う僕だった。自分の小ささがつくづく嫌いやになる。 「午後六時なら、もっと暗くなってるんじゃないのか? この季節──扇ちゃんは転校生だから知らないかもしれないけれど、この辺の土地の太陽は、十月ともなればつるべ落としだぜ」 「そうなんですか? へええ、阿良々木先輩と話していると勉強になりますねえ。でも、それでもやっぱり午後六時なんですよ──体育館の影のできている方向を見てください。西日じゃないと、あの方向に影はできません」 「ん……えっと。でも方角は──ああ、違うか。窓から見えている風景が違うんだから、この校舎の立地条件を基準にするんじゃなくて、体育館の立地条件で判断すべきなのか。確か体育館は東西向きに建っているから……」 僕は扇ちゃんが作った図面の体育館ページを思い出しながら呟つぶやく──なるほど。だとすると確かに、あの時計の指しているのは午後五時五十八分ということになる。 「午後六時と言えばこの高校の下校時刻ですね。はは、私達は下校時刻までに帰れるんですかね──おっと、時計が停まっている以上、外に出てもまだ三時半のままなんですかね?」 「その場合は、僕の時計のほうが狂ったことになるわけか。ややこしいな……」 「何をおっしゃる。阿良々木先輩は時間旅行くらいお手のものでしょうに」 扇ちゃんはそう言った──ん? あれ、時間旅行の件は、忍野がこの町を去ったあとの話だから、扇ちゃんが知っているはずはないんだけれど── 「ややこしさはともかく、困ったことにはなりましたよね、阿良々木先輩。時が流れていないということは、いつまで経っても夜にはならないということです。つまり、ナイトウォーカー……忍さんに頼ることもできないということですものね」 「ん。ああ……そうなるのか」 僕の影に棲すんでいる吸血鬼・忍野忍は、かつては『怪異殺し』と呼ばれた、ありとあらゆる怪異現象の天敵みたいな奴だ──怪異を食い物にする怪異だ。もしもあいつがこの場に出現すれば、僕達が直面している状況など、教室ごと食ってくれるだろう。ただ、夜行性の彼女を『午後六時前』などという中途半端な時間帯に呼び出すのはいささか無理がある。やってできなくはないだろうが……ドーナツを何個請求されるかわからない。 「どうなのかな。教室の時間は停まっていても、僕の時間は動いているんだから──影の中の忍の時間も動いていると見るべきなのかな」 「阿良々木先輩の時間が動いているとは限りませんよ。意志が働いているだけで、私達の肉体の時間は、停まっているかもしれません。というより私としては、身体生理は動いていないことを望みますね」 「? どうして?」 「おしっこに行きたくなったらどうするんです?」 「…………」 それは切実な問題だな。あえて考えないようにしていたけれど、空腹とか渇きとかより、実のところよっぽど、そっちのほうが──ただ、それを言う扇ちゃんは、どちらかというと平然としていた。 「武勇伝は色々伝え聞いてはおりますけれど、しかし平成の谷崎潤一郎の異名を取る阿良々木先輩とて、女子と排尿を見せ合う趣味はないでしょう」 「誰が平成の谷崎潤一郎だ」 「この教室の時間が午後六時の直前で停まっているのだとしたら──それは何のために停まっているんでしょうね」 扇ちゃんは話の筋を元に戻した。 「何のためって……」 「表現を変えましょう。午後六時、つまりは下校時刻。生徒が教室から帰らなきゃいけない時間帯に、むしろ生徒を教室に閉じ込めるというこの現象の意味は、何なのでしょう」 「下校時刻なのに、帰さない……」 確かに変な話ではある──むしろ学校関係の怪異としては、いつまでも学校から帰らない生徒を襲うという、ある種の教訓を含んだタイプのものが一般的な気がするのだが。 「居残り授業ってことなんですかね──」 「居残り……」 ん。なんだ、その言葉には引っかかりを感じる──ぴんと来たというわけではないが、何か薄ぼんやりと、意味がありそうな。 記憶が刺激される感覚がある──居残り? 「阿良々木先輩はありますか? 居残りの補習を受けた経験。あはは、私はこれでもおつむの出来はいいほうでしてね、あんまり身に覚えがないんですけれど」 「僕もあんまり……」 「へえ、そうなんですかあ」 感心したような素振そぶりを見せる扇ちゃんだが、もっとも僕の場合、居残りや補習が身に覚えがないのは、決しておつむの出来がいいからではなく、居残りや補習を言いつけられても、大抵サボってしまうからという理由だ。大学受験を志す最近は、そういうわけにはいかないのだが……、でも、そう、去年や一昨年おととし……、特に一年生のときなんかは──一年生のとき? 「どうしました阿良々木先輩? 旗色が悪いですよ──じゃなくて、顔色が悪いですよ」 「ん……そうか? ごめん、ちょっと……、目眩めまいが」 「謝る必要はありませんよ。ぜーんぜん、謝らなくていいんです。きっと、頼りない後輩を前に気が張っているから、お疲れになったんじゃないですか? その辺の椅子に座ったらいかがです? 私と違って阿良々木先輩は潔癖性というわけではないでしょう──どうしてもと言うのでしたら、私のお膝をお貸ししますよ」 「僕に膝を貸すきみはどこに座るんだよ。座ろうとしないきみの膝を借りたら、組体操のサボテンだぜ。ったく……」 いい加減そろそろ、扇ちゃんのからかいにも慣れてきた。先輩としてその辺りはたしなめていくべきだろうが(そう、神原のように手遅れになる前にだ)、目眩、それに軽い頭痛があるのは本当だったので、僕は彼女の勧すすめに従って、一旦座ることにした──むろん、扇ちゃんの膝にではなく、教室の中にたくさんある、椅子のひとつにだ。長丁場になることも予想されるのだ、ここで無理をしても仕方がない。僕は移動し、椅子を引いて、そこに座った。 「どうしてそこに座ったんです?」 座ると同時に、いやちょっとフライングするくらいのタイミングで、扇ちゃんが訊いてきた。ん? なんだ? どうしてと言われても──扇ちゃんが勧めてくれたんじゃなかったっけ? 「いえいえ、ですから──教室の中にはいっぱい椅子があるというのに、どうしてその席を選んだのかを訊いたんです」 「…………」 そりゃあなんとなくだ、理由なんてない──と言おうと思ったけれど、しかし指摘を受けてみると、我ながら不可解ではある。疲労のために座るのであれば、そのとき立っていた場所から一番近い席に座るのが当たり前だ──なのにどうして僕はわざわざ移動し、机を縫ぬって、いくつかの椅子をスルーした末、前から四番目、右から三番目の席を選んで着席したのだ? もちろん、なんとなくとしか言いようがないのだが……。 「なんとなく」 扇ちゃんが言う。 「なんとなく──その席が座りやすかった? 座り心地が良さそうだった?」 「いや、座り心地なんて、どの椅子も大して変わらないと思うけれど……ただ、その」 「ただ、その?」 「──座り慣れているって気がして」 おかしなことを言っていると自分でも思う。言うに事欠いて座り慣れているとはなんだ──初めて来る教室で。そりゃあもしもここが、僕の所属するクラスだったなら、座って休もうというとき、たとえどの席に座っても大差ないとわかっていても、座り慣れている──なじみのある自分の席に着こうと、無意識のうちに考えてしまうのはわからなくはないが……だけどここは僕の教室なんかではまったくないわけで。 「本当ですか?」 「え? 何? 何だって、扇ちゃん?」 「いえ、可能性を総当たりしているだけですよ──ひとつの可能性として、ひょっとすると阿良々木先輩は、この教室に来るのは初めてじゃないんじゃないかって思っただけです。昔、その椅子に座ったことがあるから、いざ腰を落ち着けるとなったとき、迷わずその席を選んだってことはありません?」 「……いやあ、そりゃあ突飛とっぴ過ぎるぜ」 僕は半笑いで応えた──そりゃそうだ、真面目に取り合うべき仮説とは思えない。またぞろ扇ちゃんが僕をからかって遊んでいるだけだろう。 「ついさっきまで僕は、こんな場所に教室があることも知らなかったし──」 「私だって、初めてこの辺りに調査に来たときには、こんな教室はなかったんです。だけど阿良々木先輩と共に来たときにはこの教室が出現した──なら、この教室が阿良々木先輩に関わっていると考えるのは、私にとってはまったく自然なことです」 「ん……そうなるのか」 扇ちゃんが発見した怪異現象だから、ともすればこの現象の原因は扇ちゃんにあるのかもしれないと、正直考えなくもなかったのだが──扇ちゃんのほうから見れば、他ならぬ僕こそが怪しくなるのか。 「それに、言ってたじゃないですか、阿良々木先輩。なんだかこの窓からの景色には見覚えがある気がするって」 「え? そんなこと言ったっけ?」 「言いましたよ。教室に這入ったばかりの頃、まだ閉じこめられたことに気付く前にです」 記憶にないけれど──まあ、そこまではっきりと断言するのだから、きっと言ったのだろう。その後密室状態に気付いたから、記憶が飛んだということか。 僕は座ったまま、改めて窓の外を見る──体育館が見える風景。本来、この校舎のこのフロアからは、角度的に見えるはずのない風景──この席から見ると、窓際で見るのとはまた見えかたが違って、体育館の屋根も見えなくなり、遠くに山が望め、確かに、なんというか……。 記憶が。 刺激され。 「うん……見覚えがある。だけど……」 「だけど?」 追及、というより詰問きつもんするように、扇ちゃんは言う──いつの間にか彼女は、僕が座る席の間近にまで寄ってきていた。音もなく。その距離の近さに、ちょっとどぎまぎした。誤魔化ごまかすように僕は言う。 「いや……、だけど、取り立てて懐かしいって気分じゃないなって。むしろちょっと嫌な気分になるって言うか……」 「嫌な気分? そうですか? いい眺めだと思いますけれどねえ──このロケーション、このシチュエーション。ここは三階のはずなのに、五階か四階からの風景みたいだって話をしましたけれど、やっぱり五階ですかね、この高さは」 「五階……」 五階──だとしたら。 そうだ……考えかたを改めるべきなのだ。この校舎のこのフロアからはこの風景は見えるはずがないのだ。ここが五階だとして、体育館に向かう形で建てられている校舎にある教室──窓からこんな風景が見える教室だとしたら。 その教室を──僕は知っている。 深遠。 「…………!」 「おやおや? どうしました、阿良々木先輩──何かを思いついたという風ではないですね。ひょっとして私、空気読めないこと言っちゃいました?」 扇ちゃんが申し訳なさそうに言う──いや、申し訳なさそうではない、うきうきと楽しんでいる風だ。いつの間にか、また立ち位置を変えて、僕の真後ろに回っていた。 「思い出したくないことでも──思い出してしまいましたか?」 「……いや、そういうことじゃ、ない。思い出したことなんてない」 そうだ──僕は何も思い出していない。だって、忘れたことなんてないのだから──あの出来事を、忘れられるはずがないのだから。僕は唇を噛かみ締しめ、黙って、机の中に手を突っ込む──座り心地がよいと、自ら選んだ席の中身を調べる。家で勉強する気のない奴の机なのか、ぎっしりと教科書が詰まっていた。僕はそのうち一冊を引き出し、裏面を確認した。そこにはこう書かれていた──『一年三組 阿良々木』。 「ぐっ……」 口元を押さえる。咄嗟とっさに僕は、その名を隠そうとした──しかし時既に遅く、扇ちゃんは僕の肩越しに、その署名を目撃していた。 「あれあれ? 阿良々木って書いてませんでした、今の教科書? おかしいなあ、不思議だなあ、どうしてだろう──どうしてこの教室に、阿良々木先輩の教科書があるんだろう? 私が気付かないうちに持ち込んだんですか? いけませんねえ、持ち込み禁止ですよお、この教室?」 なんちゃって、まあ試験でもあるまいし、持ち込み禁止ルールなんてあるはずないですよねえ──と、ねちっこい、その癖軽かろやかな口調で扇ちゃんは言った。試験。そう──試験だ。扇ちゃんの言葉が一つ一つ、僕の記憶を刺激する──棘とげのように。薔薇ばらの棘ではなく、山嵐やまあらしの棘のように。 苦し紛まぎれに僕は訊く。 「扇ちゃん……きみ、何か知ってるの?」 「私は何も知りませんよ。あなたが知っているんです──阿良々木先輩。たとえば──」 扇ちゃんは隣の席に手を伸ばした。そして机の中から適当に一冊、教科書を取り出す──裏返して、そこに書かれている名前を読む。『一年三組 問嶋』。 「──この問嶋といしまさんのことだって、阿良々木先輩は知っているのではないですか?」 「ああ……知って」 知っている。 問嶋水仙すいせん。みんなからは短くスイと呼ばれていた──華道部だったかな。笑い上戸じょうごの女の子で、何を聞いても何を言われても笑っている奴だった。口を大きく開けて笑うのが女の子らしくないと、友達からはよく注意されてたっけ……、だけどその豪快な笑いかたは、むしろ男子からは評判がよかった。いや、先生にも評判がよかったくらいだ。特に授業中、ギャグを言う先生は、問嶋に相当救われていたと聞く。そうだ、席替えに本気の奴だったからな……、前から四番目、右から二番目なんていう中途半端な席になっていた『このとき』は、いかにも不満そうだった──僕は真隣に不満そうな顔をした奴が座っていたから、当初困惑したものだが、そのうち、そこが彼女の笑い声を間近で聞ける、特等席だということを知ったのだった。 「髪型が編み込みでさ……、僕は妹がヘアカタログみたいな奴だから、その髪型にどれだけ時間かかるか知ってて、だからそれ、毎朝大変だろうなって思ってて、だけどとうとう一度も言わなかった……」 「詳しいですね。問嶋さんについて」 「いや……、これくらいはクラスメイトなら、誰でも知ってる──僕は」 僕は何も知らなかったんだ──やっぱり。 僕が知らなかった頃だ──色々、知らなかった頃だ。 「では、さっきの深遠さんは? 私がひっくり返した机の持ち主は、どんなかたでした?」 扇ちゃんもあのとき、ちゃんと教科書に書かれた名前を見ていたらしい。見ていて、今まで触れていなかったのか──いや、それは不思議ではない。扇ちゃんにとってはなんら関わりのある名前じゃないのだから。 「……深遠霜乃しもの。僕はこいつが怖かった……、いや何をするって奴じゃなかった。無害だったと思うよ。だけど自己プロデュースがべらぼうに上手っていうか──端的に言うと、可愛子かわいこぶる奴でな。アニメでしか見ないようなファンシーな髪飾りをつけて学校に来て、よく注意されてたんだが、そのときも、『自分が何で怒られてるかわからない』って顔をしてた。わからないはずねーだろって……、勉強ができたり、物知りだったりするのが可愛くないって思ってるのか、テストでわざと悪い点を取ったりする奴だった──カマトトってほどじゃないんだが、まあ、そんな感じだ。将来の夢は『お母さん』だったな──まあ、『お嫁さん』と言ったほうが女子度は高いってことは僕みたいな唐変木とうへんぼくでも容易に予測しうることだから、これだけは本気の夢だったのかもしれない。だけど、僕の見る限り、あいつの目は一度だって笑っていなかった」 くそう。喋しゃべり過ぎだ。だけど語り出すと止まらなくなる。今までせき止められていた水が、一気に奔流ほんりゅうとなって溢あふれ出す感じだ──忘れることはできなくとも、もう考えるのはやめようと決めたはずなのに。 決まっていたはずなのに。 どうしてだ。どうしてあの一年三組が──二年前に僕が過ごした教室が、今、ここにある? 午後六時前。午後五時五十八分。下校時間直前。もう帰らなくちゃいけないのに──帰れない。 教室から──誰も出られない。 「……扇ちゃん。何かその辺に、日付がわかるものはないかな」 「日付ですか?」 「うん。今日が──じゃなくて、この教室が、何月何日かを知りたいんだ」 「だったらそんなの、黒板に書いてあるじゃないですか。ご覧くださいよ、ほら」 扇ちゃんが三度みたび僕の真後ろに戻ってきて、顔を真横に寄せ、そして僕の肩を抱くようにして、黒板を指さす。黒板の右隅をだ。どうしてだろう、今までまったく気付かなかったけれど、確かにそこには書かれていた、この教室の『今日』の日付が──それにその下には、『本日の日直』の名前も書かれていた。 七月十五日。木曜日。小馬・鞠角。 「…………!」 「おっと、七月十五日だったんだ、今日──じゃあ、窓の外がこんなに明るくても納得ですね。ふうむ、ではこう考えるのが妥当でしょうか? この教室──どうやら一年三組のようですが──で、七月十五日木曜日の午後六時辺りに、何かがあった、と。それはきっと無念なことだったのでしょう。その無念がこうして怪異という形で結実したに違いありません」 適当なことを適当な口調で、実に大雑把おおざっぱに言う扇ちゃん──僕は思わず、そんなざっくりしたものじゃないと抗議の声をあげそうになったけれど、しかし、できなかった。後輩の女子を乱暴に怒鳴りつけるようなことはできないというのが第一の理由だったが、第二の理由として、よくよく考えてみれば、扇ちゃんの言うことは実に的を射ていたからだ。 あの日、この教室で起こったことは──適当で大雑把で、だからこそ耐え難がたいことだったのだ。今は何に使われているかわからない、あの教室。体育館に向き合った校舎の五階、その真ん中にあった一年三組で、七月十五日の放課後に開かれた学級会。裁判とも言うべき学級会。とある事件を巡って、僕達は互いに糾弾きゅうだんしあった──己おのれの無罪を、相手の有罪を主張しあった。異議があって黙秘権があった。証言があって偽証があった。そして僕は──一年三組の阿良々木暦は、渦中の裁判の中心にいたのだ。 そうだよ。 あの日以来じゃないのか? 僕があんなことを言い出し始めたのは。 「友達はいらない──友達を作ると人間強度が下がるから」 扇ちゃんが、先回りをするように言った。先回りをして、僕の逃げ道を塞ふさぐように。僕を袋小路ふくろこうじに追い込むように。真横にある彼女の顔が更さらに寄ってきて、今はもう、頬ほおと頬がすり合わんばかりだ。近いなんてものじゃない、実際彼女の小さな顎あごは、僕の肩の上に載ってしまっていた。 「阿良々木先輩の口癖でしたよね──もっとも、羽川翼さんと縁があってからは、二度と言わなくなったそうですが。いやあ、人との出会いによって、人っていうのは変わっていくものですね──では、好奇心からお訊きしましょう。このクラスでは阿良々木先輩は、どう変わったのでしょう? 深遠先輩は、問嶋先輩は、小馬こうま先輩は、鞠角まりずみ先輩は──あなたをどう変えたのでしょう?」 「僕を──変え」 「中学時代のあなたと高校時代のあなたでは、だいぶ性格が変わったと聞いていますよ? その原因は、ひょっとして、この教室にあるんじゃないですか?」 ……そんなこと、誰から聞いたんだ? いや、知っている奴は知っていることだ──だけどもう昔の話であり、今となってはそんなことをほじくり返すのは、ファイヤーシスターズくらいのものである。 「何があったんです──阿良々木先輩。この教室で。あの日。あのとき」 追いつめるような口調で、扇ちゃんは囁ささやく。片腕が僕の首に巻かれ、締め上げられているような気分だ──真綿で首を絞められる気分というのは、こういうのを言うのだろうか。 「話してしまいましょうよ、阿良々木先輩──阿良々木暦」 扇ちゃんは言う。ぼそぼそと──細々と。 「話せば楽になりますよ──どんなに嫌な思い出も、話してしまえばただの物語です」 「物語……」 「大丈夫──私が聞いてあげますから。私はこう見えて、結構話せる奴ですよ」 「…………」 そんな中でも僕は、できる限りの平静さを保った──こんな状況でも、後輩に失態を見せたくないという気持ちは残っていた。つくづく僕も見栄っ張りである。 「……出られないんだよ」 「はい?」 「出られないんだよ──犯人がわかるまでは、この教室からは、出してもらえないんだ。僕達がやったのは──僕達が僕達に強いたのは、そういう学級会だった。信じられない話だけれど……、僕はそこで、議長を務めたりしたんだぜ」 006 高校一年生のときの阿良々木暦がどういう奴だったかと言うと、まあ、今よりはひねくれてなかったという自己評価、今よりもまっとうだったという自己点検ができる。もちろん吸血鬼に襲われてもいなかったので、昼も夜も、ブレなく人間だった。 さて、僕が通い、扇ちゃんが転校してきた私立直江津高校は、結構な進学校である──土曜日にも授業があるし、そういう意味ではあまり一般的な高校とは言い難い。入学試験の難易度も相当だ。僕なんかがその難関を突破したのは、ひとつのミラクルと言えるかもしれない──いや、ミラクルは言い過ぎか? むしろ何かの間違いで合格した、と言ったほうが正しいのかもしれない。だって、入学後、無理をして合格した、その『間違い』の代償をたっぷりと支払うことになったのだから──僕はあっという間に、直江津高校の度を越したカリキュラムについていけなくなった。一年生のときから大学受験を見据みすえて始まる遊びのない授業は、僕にとってかなりのカルチャーショックだった。ただ、それでも(何かの間違いであっても)、入学してしまった以上は腹をくくって、齧かじりついてでもついていくしかないと、あの頃はまだ思っていた。そう、一学期の末、夏休み直前あたりまでは。期末試験の直後までは──と言うべきか? まあ、とにかく、七月十五日の放課後までは、だ。 七月十五日。あの日以来、僕は真面目であること、まっとうな学生であることを諦あきらめた──羽川翼が言うところの不良に身を落とす決意をした。事実はただ、普通に落ちこぼれたというだけなのだし、別にあの日、あんなことがなくっても、遠からず僕は脱落していただろうが。 ともかく二年前の七月十五日、僕は今日も一日、わけのわからない授業を聞き流して(ついていこうとしてないじゃないか。教科書置きっぱだし)、ぐったりした精神状態で家路につこうとしていた。もうすぐ夏休み、もうすぐ夏休み、もうすぐ夏休みと、心の中で呪文のように唱えながら──もっとも、夏休みに出るであろう宿題の量を思うと、夏休みに突入するからと言って、いいことがあるわけではまったくないのだが。 なんとか一学期は乗り切ったけれど、こんなことが卒業まで続くのかと思うとうんざりした──しかし事実は違って、僕は一学期すら、この時点ではまだ乗り切っていなかったし、そして最終的には乗り切ることができなかったわけである。 影。廊下を歩く僕の行く手を遮る影があった──それも三つもあった。僕は精神的にとても疲れていたので、寸前まで気付かず、危うく衝突するところだった。 「阿良々木」 と、声をかけられ、ようやく俯うつむけていた顔を起こす──そこにいたのは、三人のクラスメイトだった。 「ちょっといい?」 足を止めた僕にそう切り出してきたのは蟻暮ありくれだった──蟻暮琵琶びわ。意地悪っぽい感じの女子で、何くれとなく文句を言いたがる傾向がある。正直に言うと、そこそこ苦手なタイプの女子だ──まあ、彼女を得意とする男子生徒は、たぶんいないと思われるが。ただし、常にスカートのポケットに手を入れているのは、別にあからさまに悪ぶっているわけではなく、手を守るためだという──実際ポケットから抜いてみたら、両手ともに手袋をはめている徹底ぶりだ。なんでもピアニスト志望なのだとか──口さがない者はそれを聞いて、『性格までは音に出ない』と言うのだけれど、しかし彼女の演奏がそれなりに見事であることは確からしい。僕は聞いたことがないけれど、まあ、噂うわさだからと言って、嘘だということにはなるまい。 ともかく精神的にぐったりしているタイミングで、苦手な女子に引き留められるというのは、なかなかつらい状況だった。 「僕はこれから家に帰るという大事な仕事があって……」 「何それ。なめてんの?」 絡からむように言われた──別になめてはいないけれど、ふざけた回答に聞こえてしまったことは確かだろう。僕のそういうところは、今も昔も変わらない。 蟻暮──ニックネームは『アリクイ』だったかな──の後ろにいた二人の女子のうち一人、雉切きじきりは、何も言わずに、どころか僕のほうさえ見ず、なんというか、ぼーっとしていた。こいつはこういう奴なのだ。マイペースというか、おおらかというか──意味もなく放課後教室に残っていたりするし、そうかと思えば不意に不登校になったりする。雉切帆河ほかは、生活態度が異様に気まぐれな女子なのだ──違う世界に生きているとさえ言われている。だからこそ、驚きではあった。そんな女子が、蟻暮とつるんで、僕の行く手を遮るという集団行動に手を貸しているとは──もっとも余所見よそみで、あくまでも我関せずのスタンスを崩していないけれど。 「いや、本当に僕は、早く帰らなくちゃいけないんだよ。その義務があるんだ。帰宅は僕の三大義務のひとつなんだ。お前にだけは教えるけれど、六年生の妹が今大規模な喧嘩に巻き込まれてて──いや大規模な喧嘩を巻き起こしてて、目が離せない状態なんだ」 「はあ? 冗談はやめてくれない? そういうの一番嫌いなんだけど」 蟻暮が、本気で気分を害したように言う──冗談ではなかったのだが、まあこの頃はまだ、僕の愛すべき妹達は『栂つがの木き二中のファイヤーシスターズ』として名を馳はせていなかったので、ただの虚言きょげんにしか聞こえなかっただろう。 「まあまあ、落ち着いて」 と、もう一人の女子、糖根とうねが蟻暮をなだめた──気持ち的には『まあまあ』ではなく『どうどう』と言った感じだったかもしれない。 「阿良々木くん、忙しいところ悪いんだけれど、お願いだから、一緒に教室に戻ってくれないかな? そんなに時間はとらせないんだよ。ね、助けると思って」 そんなに時間はとらせない。結果として彼女のこの言葉は嘘になったわけだが、しかし騙すつもりはなかっただろう──糖根軸じく。その名前からアイシングと呼ばれている。氷のアイシングではなく砂糖のアイシングだ(ややこしいことに一年三組には氷熊ひぐまという名字の男子生徒がいるのだが)。なんだか見るからに幸せそうな奴で、見ているほうも幸せにする雰囲気のある奴で、昔の表現で言うところの癒いやし系だろうか。名字やニックネームからすると甘いものが好きそうだけれど、実際は甘いものに限らず、なんでもかんでも好き嫌いなくよく食べる大食家だ。周囲からは常に幸せそうに見える彼女だが、本人いわく、ものを食べているときが一番幸せだそうだ──バイキングの常連である。 「…………」 まあ、一学期間机を並べて勉学してきて、三人それぞれに対して、僕はそのくらいの知識はあったけれど、しかしこの三人がグループだったという話は聞いていない。というか、三人で一緒にいるのを見たのも、これが初めてではないだろうか? いったいどういう話の流れでこうなったのだろう──そんなことを考えていると、痺れを切らしたように蟻暮が、「じれったいわね、阿良々木」と、怒気どきを孕はらんだ口調で言った。 「来るの、来ないの、はっきりしてよ。あたしは別に、来てくれなくてもいいんだからね」 「……行くよ。行けばいいんだろ」 僕がもう少しだけでも賢明だったならば、ここで彼女達について行ったりはしなかっただろう──不穏な空気を感じたのは確かなのだから。だが、僕はこの頃は、まだ高校生活を諦めていなかった。なぜこの三人? と不思議に思ったものだが、こうして思い返してみると、なかなか要領のいい人選だった。感じの悪い──失礼、押しの強い蟻暮を前面に配置して、その後衛を、ある種アンタッチャブルというか、会話が成立しづらい雉切と、癒し系の糖根で固めるという布陣相手では、こちらとしてはいまいち喧嘩腰にもなりにくい。対応を誤れば今後の高校生活に重大な支障を来きたすことになりかねないからだ──だから、どちらにしても僕は、今後の学生生活の大半を台無しにすることになっていたわけだが、だとしてもここでは、彼女達についていく以外に選択肢はなかっただろう。 教室に戻る──体育館に向かい合った校舎の五階の、一年三組の教室に。と、扉の前に、二人の生徒が立って、僕達四人の到着を待っていて、それで僕は『ああなるほど』と得心とくしんした。二人の生徒。男子と女子が一人ずつ──男子のほうは、この場合、問題ではない。問題なのは、僕を、敵意を持った目で睨みつけている女子のほうだ。僕の背後に親の仇かたきでもいるんじゃないのかというような、鋭い視線だ。 彼女の名は老倉おいくら育そだち。本人はオイラーと呼ばれたがっているけれど、実際にはハウマッチと呼ばれている。もちろんこれも名字由来のニックネームではあるのだろうが、他人を値踏みするような目で見る彼女には、存外ぞんがい、相応ふさわしいと僕は思う。まあいずれにしても、僕は彼女と、仇名あだなで呼び合うような仲ではない──むしろ彼女にとって僕はただの仇なのだ。 老倉は学級委員長である。今でこそ委員長と言えば、世界的に羽川翼一人のことを指すことになっているが(僕の中で)、当時はまだ羽川の令名れいめいもそこまでは響きわたっていなかったので、だから僕は彼女に、 「老倉委員長」 と声をかけた。呼び捨てにしづらい雰囲気だったのだ。 「どうしてここに? 僕を呼んだのって、お前?」 「……早く這入りなさい。みんなあなたを待っているのよ」 冷たくそう言って、彼女は教室の中に這入った。一緒にいた男子生徒も、そのあとを追う──ちなみに彼は一年三組の副委員長で、周井しゅうい通真つうまという。生真面目を人の形に練り上げたみたいな高校一年生で、直江津高校の生徒の模範みたいな奴だ。僕に対しては既に述べた通りだけれど、見た目からしてキツそうなところのある老倉よりも、彼のほうが委員長っぽくはあるのだが、しかし本人いわく、「自分は官僚タイプだから、メインよりもサブ」とのことだった。官僚タイプの高校生なんているのか、と僕は本気にしなかったけれど、しかし一学期の間、彼は見事に老倉の影に徹し、クラスの統率をサポートしていた──そういう才能もあるのだろう。ところで、一度だけ、僕はゲームセンターで彼を見かけたことがある。ダンスゲームで、すさまじくキレのある動きを見せていた。なんだか見てはいけない一面を見たような気持ちになったものだが、それ以来、どちらかと言えば相性の悪そうな彼のことを、僕は憎からず思っている。彼に迷惑をかけないためにも、老倉との衝突は避けなければと気を遣っていた。彼のほうは僕のことを、特になんとも思っていないだろうが……。 「ほら、阿良々木。這入れって言われたでしょ。這入りなさいよ」 蟻暮に促うながされ、僕は肩をすくめてから、言われた通りに教室に入る。老倉は答えなかったけれど、この三人に僕を追わせたのは、その指示を出したのは、やっぱり彼女なのだろう──自分で追わなかったのは自分で行くと僕と喧嘩になるからか、それとも威厳を保つためか……、何にしても、要領のいい人選が彼女の考えなのだとすれば、大いに納得だ。ただ、『みんなあなたを待っているのよ』という老倉の言葉が引っかかった──どういうことだろう? 僕は果たして、みんなが待ちこがれるような、そんなヒーローみたいな奴だったっけ? そもそも『みんな』って誰だ? 教室に這入って、『みんな』は、文字通りの『みんな』だったと知る──教室の中には、一年三組のメンバーが、一人も欠けることなく全員、勢揃いしていたのである。 007 「はあ。全員、ですか──フルメンバーということですね」 と、扇ちゃんは相槌あいづちを打った。 「今はこうして無人の教室ですが、そのときは、すべての席が埋まっていたというわけですか──なるほどなるほど。光陰矢こういんやのごとし、十年一日じゅうねんいちじつですねえ」 「ああ……、いや、十年じゃなくて二年だし、まあ、細かいことを言えば、僕を迎えに来た三人の席とかは空いていたわけだけれど。あと、副委員長の周井はそのときには着席していたが、老倉の奴は、教卓に立っていた」 「教卓の上にですか」 「老倉はそんな奇抜きばつな委員長じゃねえよ。さておき、教卓に立って、あいつは宣言したわけだ──『では、脱走兵一名も確保しましたので、これから臨時学級会を開催します』」 「脱走兵とは厳しい言いかたをしますねえ──怖い人だったんですね、老倉先輩。からかうようなことが言えないや。その人、まだ三年にいるんですよね?」 「ああ。いると言えばいるんだけども……」 あまり話したくないので、僕は曖昧に語尾を濁にごして、すぐに話を元に──過去の視点に戻した。 「臨時学級会。放課後にやるようなことじゃ、本来はないんだけどな──そういうのを開催できるほどのカリスマがある奴だったんだよ、老倉は」 「ふうん……でも不思議ですね。阿良々木先輩は、その学級会が開催されることを、直前まで知らなかったんですよね? だから迎えが派遣されたり、脱走兵呼ばわりされたりしたんですよね? ……どうして知らなかったんですか?」 「それは単純な伝達ミス……だったらしい。その日のうちに、クラスの全員に、連絡網というか……、折り畳まれた手紙とか、メールとか、そんなのが出回っていたらしいんだが、それらが一通も、僕のところには届かなかったんだ」 「え? それって……」 ずっとへらへらしていた扇ちゃんの表情から、初めて笑みが引いた。笑みが引いて、どん引きみたいな表情が作られた。色白な彼女が青ざめると、本当に青い。さながら色見本のごとくだ。 「今風に言うところの、ぼっちって奴なんじゃ……」 「おいおい。ぼっちとか。そんな人をでいだらぼっちみたいに言うのはやめてもらおうか」 「身長に対するコンプレックスが丸出しの聞き間違いはやめてください。なんだ、阿良々木先輩、『友達を作ると人間強度が下がるから』とか、たわけたことを言い出す以前から、友達なんていなかったんじゃないですか」 「やや誤解だ」 完全なる誤解ではないが。 「扇ちゃん、これは友達がいなかった奴が、友達がいらなくなるまでの過程を語る物語なんだ」 「ぼっちが言いそうな台詞ですね」 扇ちゃんは真顔のままで言う。青ざめてはいるが、この子、同情する調子はまったくない。むしろ蔑視べっしされているような気がする──先輩の威厳はどこへ行ったのかな。 「友達がいないのは寂しいですよ」 「普通に諭さとさないでくれ……」 「ならば悟ったようなことを言わないでくださいな。……では姿勢を正して聞かせていただきましょう。その臨時学級会とやらの話を。学級会の、本日の議題を──」 008 「本日の議題は『犯人当て』です」 老倉は、僕の着席も待たずにそう切り出した──周井に続いて、僕をここまで連れてきた三人の女子は、もうそれぞれ着席していたが。放課後だというのにメンバー全員が教室に揃っているという異常事態に、僕が呆然ぼうぜんと棒立ちしているのを完全に無視して、老倉は続ける。 「犯人を特定するまで、もしくは犯人が自ら名乗り出るまで、誰もこの教室から出しませんから、そのおつもりで」 厳しい口調だった──敵視している僕にすら、なかなか使ったことがないようなきつい口調だ。反論を許さない、妥協点や落としどころを探るつもりは一切ないと言わんばかりの彼女の態度に、教室の中の空気は、はっきり言って悪かった。険悪を絵に描いたような空気だ──まあ、空気は絵には描けないが。 「関係者以外立ち入り禁止の秘密学級会です。携帯電話の電源を切って、外部との連絡を絶った状態で臨んでください。──阿良々木。何してんの。扉を閉めなさい。扉を閉めることもできないの?」 老倉がようやくこちらを向いて言った。着座を勧めてくれるのかと思えば、扉の開けっ放しを注意された──別に扉が開いていてもそう困ることもないだろうに、と不満を覚えたが、それは『誰もこの教室から出さない』という決意の表れだったのかもしれない。 そう思って見れば、窓も全部閉まっている。夏場にこうも教室を閉め切るというのは、クーラーのない教室では結構な苦行なのだが……、あえて居づらい環境を、彼女は作ろうとしているのか? そうすることで、犯人が名乗り出たなら僥倖ぎょうこうと思っているのか──って、だから、犯人って、なんだ? 何の犯人だ? 犯人当て? 推理小説か何かの話だろうか──いや、それって、放課後に招集をかけてまでやることか? 僕は体育館側の一番後ろの席──深遠から数えて六つ後ろにあたる、戦場ヶ原ひたぎの席を確認した。はかなげな雰囲気を持つ、クラス一の美少女だ──僕なんかは恐れ多くて口を利きいたこともない、どこか貴族然とした彼女は、とても病弱で、サナトリウム文学のヒロインのようで──実際、学校も休みがちで、一学期の半分も登校してきていないイメージがある。そんな彼女までこうして出席しているのだから、かなり事態はシリアスだと思われる。 病弱女子の戦場ヶ原はもちろん、こうも教室に熱がこもれば、誰が熱中症になっても不思議ではないが……。 「老倉委員長。『犯人当て』って……いったい何の」 「黙って。お願いだから口を利かないで。今から説明するから。こっちにはこっちの段取りがあるのよ」 怒られた。強めの口調で。たとえ体重を訊いたって、普通の女子はここまで強めの口調で受け答えすまいという態度だった──お願いされては黙らざるを得ないけれど、しかし、早めに断っておくが、別に僕は、そこまで嫌われることを、彼女に対してした覚えはない。彼女の僕に対する敵視は、概おおむね理不尽なものなのだ。 ただし、副委員長の苦労を考えて、僕はここで更に重ねて訊くようなことはせずに、その場で沈黙したのだが、 「おいおい、勝手なことを言うなよ、老倉。なんでお前が仕切ってんだよ」 という、混ぜっ返すような声が、教卓に飛んだ。教卓のちょうど手前辺りの席に座っている、小馬沖忠おきただだった──小馬は如何いかにも不満そうに、机の下で足を組んで、老倉に文句をつけた。 「お前だって容疑者の一人だろうが、老倉──つーか、お前が最有力の容疑者なんじゃね? みんなお前を怖がって言わないだけで」 教室内の空気が一層ピリついた。小馬は非常に綺麗な声をしているので、口が悪くとも普段なら、そうそう印象の悪い結果にはならないのだが──彼の美声だけでは誤魔化せない、もといカバーできないくらい、ピリついた。事情はわからないが、たぶん小馬は、痛いところをついたのだろう──皆が思っていることを代弁した? そんなことができるのは、このクラスの生徒では、小馬を除けば、あと数名というところだろうが。当然僕には言えない。事情もわからないので、もっと言えない──だが、どうやら事情をまったく知らないのは僕だけらしい。僕がこの教室に来るまでの間に、一通りの説明は終わっているということなのか? だとすると、参ったな……。蚊帳かやの中に連れ込まれた割に蚊帳の外じゃないか。 「わかってるわよ、小馬くん。日直の使命感で苦言を呈してくれてありがとう」 と、老倉は言う。 僕を呼び捨てにする彼女だが小馬のことはくん付けで呼ぶ──というか、僕の知る限り、彼女が呼び捨てにする男子は、クラスで僕だけだ。僕に対する差別化を図はかっているのかもしれない。そんなものを図るなと言いたいが、むろん、言うわけがない。 「私は会を開くにあたって、暫定的ざんていてきにここに立っているだけよ。あとを任せてすぐに降りるわ──ただ、ことのあらましを語るのは、当事者であり、それこそ最有力の容疑者である、私が相応しいんじゃなくって? 早く塾に行きたくてたまらないのはわかるけれど、ちょっとの間だけ、お口にチャックしてもらってもいいかしら」 「けっ」 返事代わりに悪態をつき、しかし小馬は黙った──塾通いを引き合いに出されたのが嫌だったらしい。彼は進学校であるこの直江津高校を『滑り止め』で受験したという変わり種で──それがここにいるということは、即ち本命には落ちたということになる──、それゆえ、クラスにいまいち溶け込めていないところがある。不遜ふそんな態度も、実のところその表れだ。だからこそ恐れ知らずに、老倉に口出しできたのだろうが、しかしそんな生徒にも、委員長は引くことはなかった。……別に一年生から塾に通うことは、悪いことでもなんでもないのだが(むしろ直江津高校においては誉められるべき行いだろうが)、何をコンプレックスに感じるかは、人次第しだいと言ったところか。 「阿良々木と小馬くんのせいで話が飛んだけれど──まだ事態を完全には把握していない人もいるでしょうから、改めて説明させてもらいます」 さりげなく、どころか露骨に責任転嫁をしてから老倉は、状況説明を始めてくれた。とは言っても、その辺はさすがの手際てぎわで、わかりやすい説明だった。 「事件は先週の水曜日に起こりました。クラスで参加希望者を募つのって、この教室で勉強会を開催したのを覚えてますよね?」 覚えていない。というか知らない。いつ募ったんだ。僕の知らないところでそんな会が開催されていたのか……勉強会? 先週の水曜日といえば、期末試験の直前だから──なるほど、試験対策か。 「その勉強会に参加した生徒は、挙手してください」 老倉に言われて、クラスの半分くらいの生徒が手を挙げる──このときはすぐにみんな手をおろしてしまったので、数えるのは間に合わなかったけれど、少なくとも十五人以上は挙手していた──結構な規模の勉強会だったらしい。 逆に言うと、僕を含め、この場にいる半分くらいの生徒は、その勉強会に参加していなかったということだが──たとえば、さっき老倉に文句をつけていた小馬は、挙手していなかった。 老倉も手を挙げてはいなかったけれど、 「はい。もちろん、私も参加していました」 と、口で言った。 何がもちろんなのかはわからない。そういうイベントを自分が仕切らないなんてありえないということかもしれない。挙手しなかったのは、そんなポーズは淑女しゅくじょとしてありえないという主張かもしれない──いずれにしても嫌な感じではあった。参加しなかった人間を、言外げんがいに責めているようでもあったからだ──協調性のない、自分勝手な奴だ、と。まあ、僕に限って言えば、確かに協調性のない自分勝手な奴ではあるのだが……。 「勉強会を欠席した人達のために説明しますと、それは主に数学の勉強会でした」 任意の会のはずなのに、いつの間にか不参加がイコールで欠席扱いになっているのはともかくとして──そうだ、翌日の木曜日に行われた試験は、数学と保健体育の二科目だったか。一時間目が保健体育で、二時間目が数学。だからその勉強会では、対象を数学一本に絞ったということなのだろう──まあ、みんなで顔をつき合わせて、保健体育の勉強をするというのも、あまりぞっとしない。 「それぞれ、わからないところを教え合い、学び合い、互いを高め合うという、実に素晴らしい会でした──あのような会を開催できたことを、私は誇りに思います」 まるでそれが自分の手柄のように言う老倉。まあ、実際に彼女の手柄なのだ、きっと。性格的にあまり人気者とは言いがたい彼女だけれど、しかし人気者でもないのに公正な選挙で委員長に選出されたことには、それなりに理由があるのだ。 「が、しかし、そのめでたさに水を差す事態が起こりました──ゆえに皆さんに、こうして集まっていただいたというわけです。こういうときこそクラス一丸いちがんとなり事態に対処することこそ、直江津高校生としての義務だと私は思います」 「あの……」 と、おずおず挙手し、発言を求めたのは、小馬の隣の席、やはり教卓の真ん前に位置する席に座る、速町はやまちだった。 「あたし馬鹿だからよくわかんないんだけど、老倉……、勉強会で起きた問題なんだったら、勉強会に参加した奴だけで対処すればいいんじゃないの? あたしとか、勉強会があったことさえ知らなかったんだけど……」 仲間がいた。別に速町──速町整子せいこのほうは、僕を仲間だとは微塵も思っていないだろうが。 「速町さん。『あたし馬鹿だから』という発言を、まず取り消してください。他の生徒に対して嫌味です」 と、老倉は返した。何が嫌味なのかと言えば、速町が見た目に反して結構な天才肌だからだ──見た目に反して、というのはあまり礼を尽くした物言いではないけれど、この直江津高校にネイルを装飾し、薄くない化粧をし、髪を茶色にして登校してくる彼女は、そんな風に言われても仕方あるまい。まあ、どちらかと言うと速町は天才肌と言うより、努力家のようなのだが……、老倉からすれば、小馬と並んで(机も並んでいるが)、不愉快な生徒だろう。 それでも僕ほど嫌われているわけではないだろう──僕のことは、不愉快どころか目障めざわりと思っているだろう老倉委員長である。 「馬鹿だから馬鹿って言っただけなんだけどなー」 と、特に発言を取り消すこともなく、髪をカールさせるようにくるくるいじりつつ、反省する態度も見せない速町のことは無視して、老倉は、「問題は、返却された数学の試験です」と言った。 「勉強会に参加した意識の高い皆さんは、総じて高得点を獲得しました──それは非常によいことです。しかし、ここで問題が生じました。いえ、有体ありていに言えば、それは問題ではなく、疑惑ですね。疑惑が生じました」 「疑惑?」 僕がその言葉に反応すると、老倉は僕を睨んだ。意識の低い僕は反応して呟くことすら許されないのか。見れば、鉄条てつじょうが同情するような視線を僕に送っていた。鉄条径こみち。ソフトボール部。老倉がクラスの指揮者ならば鉄条はクラスのまとめ役であり、彼女も彼女で、僕と老倉との不仲には気を揉んでいる。ただ、こういう局面においては口を出すことはできないようで、普段よりも大人しい。僕に同情の視線をくれることが精一杯なのだろうか……、しかし、申し訳ないが、それは何の意味もない視線だ。まあ変に口を挟まれ、老倉と鉄条の舌戦ぜっせんが始まってしまうよりはいい──舌戦も何も、舌鋒ぜっぽう鋭い老倉と舌足らずな鉄条では、いまいち勝負にはならないのだが。 「疑惑と言うのは、平たく言えばカンニング疑惑です──勉強会に参加した生徒のテストの点数が、勉強会を欠席した生徒に比べて、高過ぎるのです」 老倉は言った。 「勉強会に参加した生徒と、勉強会を欠席した生徒との間には、平均点にして約20点ほどの開きがあります──これが10点くらいならば、勉強会の成果として認めることができるでしょう。しかし、20点となると、これは看過できる有意差ゆういさではありません。なんらかの不正行為があったと見るべきです」 「…………」 不正行為──カンニング。 つまり『犯人当て』というのは、カンニングの犯人を当てるということなのか──いや、でも、この場合……。 「それって、カンニングって言うん? カンニングって言うのは、テスト中に他の人の答案を覗のぞき見ることやろ?」 と言ったのは、鉄条の後ろに座っている、目辺めべだった──目辺実粟みあわ。関西出身の女子生徒で、『ホイップ』という愛称で通っている。『粟』は『ホイップ(泡)』ではないのだが、彼女は糖根と仲がよいので、スイーツ繋がりでホイップになったのだとか。彼女はその気さくな性格ゆえに、老倉ともそれなりに友好的な関係を築いており(僕からみれば奇跡だ。是非とも教えを乞いたいところだが、しかし僕ときたら、気さくな目辺と口を利いたことがない)、だからそんな身も蓋ふたもない指摘をできるのだろう。 「そうね」 案の定、老倉は、ここでは穏やかなものだった。そういえば目辺は勉強会には参加していたのだろうか? さっきの挙手のときには、あまり詳しく見ていなかったので、わからないが……。 「実際にはこういう不正行為があったのだと予想されます──何者かが」 何者か、という言いかたに強い敵意を感じる──僕に向けるのにも匹敵ひってきするほどの敵意だ。 「何者かが、職員室から数学の試験問題を入手し、その試験の内容を、勉強会でさりげなく反映させた──だから勉強会に参加した生徒の成績が、総じて高くなった」 「ん? それ、どういう意味があるん?」 目辺が首を傾かしげる。 「試験問題を……、その、不正に入手したゆうんやったら、自分だけで独り占めしたらええやん。それやのに、勉強会でみんなに教えるやなんて──」 「どういう意味があるのかは、理由が複数考えられて、特定できません──カムフラージュかもしれませんし、愉快犯かもしれませんし」 老倉は、考えられる理由をすべて列挙するのは手間てまだと考えたのか、ここでは『カムフラージュ』と『愉快犯』という二つだけ例を挙げた。検討は後回しということなのだろう。 「ともかく、神聖なる勉強会を、そして不可侵の期末試験を汚した者がいるとすれば、それは許されることではありません──勉強会に欠席した生徒も、自分は無関係だなんて思わないでください。これは私達、一年三組全体の問題です。繰り返しますが」 ばん、と教卓を叩いた。そしてなぜか、僕を睨みつけて、老倉育は言うのだった──宣戦布告のように。 「犯人を特定するまで、もしくは犯人が名乗り出るまで、誰もこの教室から出しませんから、そのおつもりで」 009 「あはは。『見取り図』の『隠し部屋』から始まっての『密室』状況、そしてお次は『犯人当て』ですか──いよいよミステリー小説じみてきましたね。面白いなあ、阿良々木先輩のお話は。エキサイティングでもあり、エキセントリックでもあり」 「面白くはねえよ……素人が寄り集まっての犯人探しが、どんな流れになるかなんて、この時点で概ね予想がつくだろ」 楽観的な感想を言う扇ちゃんに、僕はいやいやをするように、首を振った。ここまで話しただけでも既に相当気が重い──どうして僕は、初対面の女の子にこんな話をしているんだろうという気がしてくる。 こんな話、忍にさえしていないのに。 「ふふ。それにしても本当に苛烈かれつなかたのようですねえ、おいらくの恋──じゃなくて、老倉委員長は」 「おいらくの恋? はは、いい言い間違いだな、それ……、本人に言ってやればよかった」 もちろん、言う度胸なんてあるわけもないが──当時の僕は、彼女に心底、ビビっていたから。なんて言うか、意味がわからないほどこちらに敵意を持っている奴というのは、通常以上に怖いものがある。 「もっとも老倉の苛烈さは、後のちに知る戦場ヶ原に比べればまだ可愛げがあったけどな──戦場ヶ原の場合は、敵意というより悪意だったから」 「あ、そうだ。お話を遮っちゃ悪いと思って黙っていましたけれど、それを訊こうと思ってたんでした。お話にでてきた戦場ヶ原さんって、今、阿良々木先輩と恋人関係にある戦場ヶ原さんでいいんですよね? 毒舌の魔女、ツンデレ女王戦場ヶ原さんで」 「きみは戦場ヶ原のことをどう聞いているんだ……? まあ、それであってるけれど」 今は改心し、更生しているのだが──当時高嶺たかねの花(実際は棘しかない薔薇ばら)、サナトリウム文学のヒロイン(実際はホラー小説のモンスター)、深窓の令嬢(実際は真相の令状)だと思っていた彼女と僕が、二年後の今、恋人関係になっているというのは、人間関係はまことにわからないものがある。 ……とは言え当時のクラスメイトで、今、僕と友好的な接点があるのは、戦場ヶ原ひとりなのだが。 「ただし、僕は当時戦場ヶ原の正体を知らないわけだから、このままあいつは病弱な深窓の令嬢って体で語らせてもらうぜ」 「どうぞどうぞ。体でね。ていてい」 楽しそうに相槌を打つ扇ちゃん──聞き上手と言うか、本当に楽しそうに、面白そうに僕の話を聞いてくれる。話していて愉快な話ではまったくないのだが──そんな風にされると、口を閉じることができない。おかしな描写になるけれど、口が勝手に喋っているようだ──ひとりでに。 「えーっと。どこまで話したっけ?」 「老倉先輩が犯人がはっきりするまでこの教室からは誰も出さないと宣言したところまでですよ。ん? となるとこのあと、老倉先輩は議長の座を阿良々木先輩に譲ゆずり渡したということですか? 学級会の議長は阿良々木先輩が務めたという話でしたよね?」 「ああ、そうだ──そこで議長交代だ」 「なるほど。老倉先輩が仮親で、サイコロを振って阿良々木先輩が親になったというわけですね」 「麻雀でたとえると、却かえってわかりづらくなると思うけれど……」 渋い趣味を持っているらしい。ひょっとすると扇ちゃん、花札、知ってるかな? 「でも、だからと言って実際にサイコロを振ったわけじゃないですよね? 老倉先輩は意志を持って、阿良々木先輩を議長に指名したんでしょう? だから阿良々木先輩を座らせずに、立たせておいたんですよね?」 「うん──そういうことだ」 だからって別に僕をずっと立たせておく必要はないとも思うが。 「だとすると、やっぱりわかりません。阿良々木先輩は、どうして指名されたのでしょう? 誰かに反対されたりしなかったんですか?」 「もちろん、全員が賛成したってわけじゃない──たとえば、品庭しなにわって男子生徒がいたんだが。品庭綾伝あやづてっていう、なんていうか、エリート意識の権化ごんげみたいな奴が……、人を見下す癖のある奴で、特に僕みたいな奴は一番低いところに見下されていて。そいつは、結構強硬に反対していた」 「いろんな人に嫌われてますねえ、阿良々木先輩。エリート意識かあ。まあ、多そうですよね、この学校には。老倉先輩の苛烈さも、そういう意識に基づくものなのかもしれませんし。ま、嫌われるのも人徳のうちですよ、阿良々木先輩」 「適当な慰めかたをするなよ……、一瞬納得しそうになるけど、嫌われるのが人徳なわけがないだろ。それに、品庭には別に嫌われていたわけじゃない。見下されていただけだ」 「おんなじじゃないんですかねえ。ちなみにその品庭先輩は、勉強会には参加されていたんですか?」 「いや、独学派だったからな──あいつは。もっとも、小馬ほど排他的だったわけじゃない。自分より下の奴は見下して、時によっては切り捨てるけれど、自分と同格、もしくは格上と見込んだ奴とは、実にフレンドリーに接する性格だった」 「最悪っぽいですけど」 「悪い奴じゃなかったよ」 悪い奴じゃなかった──まあこれも、あまり親しくない奴相手だからこそ言える台詞だ。僕がいったい、品庭綾伝や、老倉育の何を知っているというのだろう。外面的なプロフィールを知っていれば、それで友達だとでも? 「……でも、最終的にはその品庭先輩を含め、クラスの人達は阿良々木先輩が議長であることを認めたんですよね? どうしてですか?」 「老倉が最有力の容疑者と言われたように、勉強会に参加した生徒が場を仕切るのがまずいってことはわかるよな? これでクラスの約半分は資格を失うわけだが──かと言って、残りの誰でもいいってことにはならない。なにせ、議題の中心にあるのは数学の試験だ。試験問題の検分に話が及ぶことは避けられない──じゃあ、数学の成績が、あまりよくなかった者には任せられないってことになるだろう?」 「はあ。まあ、そう──ですかね」 別に検算をするわけじゃないのだから、数学が苦手な者が議長をやっても問題はないんじゃあ、と言いたげだったが、扇ちゃんはとりあえずそう頷いた。 「でも、勉強会を欠席──もとい、勉強会に不参加だった生徒の平均点は、参加者より20点も低かったんでしょう? いるんですか? 不参加者の中に、勉強会参加者に匹敵する好成績高得点を収めた生徒が」 「いるよ、そりゃあ──速町なんか、確か、92点、取ってたしな。必ずしも、勉強会に参加していた生徒だけが高得点を収めていたわけじゃない──それが話をややこしくしているとも言えるが。ただし、勉強会に参加していた生徒全員よりもいい点をとったのは、僕だけだった」 「え」 「だから僕が──議長に選ばれたわけだ」 010 100点。 100点満点で100点──それが僕の、期末テストにおける数学の点数だった。次点が老倉育の99点である(ちなみに老倉の99点が、勉強会参加者の中での最高得点だ)。 直江津高校のカリキュラムにまったくついていけていない僕ではあるが、数学だけはその例外だった──得意科目と言うと口幅くちはばったいが、まあ、考えなくていい分、他の教科よりは楽なのだ。それにしても満点は出来過ぎだった──だから答案を受け取ったときは、何か揺り返しがあるんじゃないかと、嬉しさよりもむしろ嫌な予感を覚えたものだったが、見事その予感は的中したというわけだ。 なんてこった──こんな貧乏くじを引かされることになるなんて。僕は教卓に立ったものの、できればそのまま、教卓の下に隠れてしまいたいくらいだった。普段先生がたは(あるいは老倉は)、こんな視点で教室を見ているのか──集まる視線に耐えきれない。雉切とか戦場ヶ原とかみたいに、興味なさげにそっぽを向いてくれている生徒の存在が、むしろありがたかった。 「さあ、迅速じんそくに進行してもらいましょうか、阿良々木。私達の無実を証明して頂戴ちょうだい」 敵意たっぷり、皮肉たっぷりに老倉が言う──彼女の席は一番後ろなのだが、その圧力は、間に机五個分の距離を置いても、まったく変わらなかった。 ……もう伝わったとは思うが、老倉委員長が僕を病的なまでに嫌っている理由は、僕が数学が得意だからである。自分がオイラーと呼んでもらえないのは、数学の点数において己おのれを上回る僕のせいだと、彼女は強く確信しているのだ。逆恨みを通り越して八つ当たりみたいな理由で嫌われることには、さすがに納得はいかず、「他の教科では全部お前が、相手にならないほど上回っているんだからいいじゃないか」と(無謀にも)反論したことがあるのだが、彼女に言わせれば、だからこそ業腹ごうはらなのだそうだ。作家志望の人間の前で、猿がシェイクスピアを書き上げているようなものだと言っていた──ひでえことを言いやがる。 だからと言って、僕にとって直江津高校のカリキュラムに食らいつく最後の望みの綱である数学で、わざと悪い点数を取るわけにもいかないし……彼女にはなんとか自力で僕を追い抜いて欲しいところだが、取ったのが満点では、それも望めない。 「もっとも、クラスで満点を取ったのは阿良々木だけなんだから、それを論拠に、答案を盗んだのは阿良々木と見なすこともできなくはないんだけどね──」 と、老倉は絡むようなことを言う。てめえで議長に指名した癖に。僕はこんな因縁いんねんみたいな意見に、議長として反論しなくちゃいけないのか? 「それはないんじゃないかな?」 と、そこで、僕に代わって──ではないのだろうが、老倉に言ったのは、彼女の真ん前の席に座る、一年三組の出席番号一番、足根あしね敬離けいりだった。彼が出席番号一番、僕が二番だ──出席番号が連続していることがあって、多少、仲がいい。いや、仲がいいというほどではないが、まあ、喋ったことくらいはある──その些細ささいな縁で、僕を庇かばってくれたのかもしれない。彼もまた、目辺と同じく、老倉と友好的な関係にある数少ない者なのだが──ただ、彼の場合は、老倉のみならず、女子のほぼ全員に対して、ある程度の影響力を持っている。なにせ彼のニックネームは、そのまんま『美男子』だ。イケメンなどというチャラチャラした表現で語られることはない──その上、僕みたいな面倒な奴にもわけ隔てなく接してくれたことからもわかるよう、性格もよかった。『美男子』で『いい奴』。隙がねえという感じだ──そんな隙がない彼が、隙のない発言を続ける。 「だって阿良々木くんは、その勉強会の存在も知らなかったんでしょ? そして勉強会に参加していた誰とも接点を持っていないはずだよ──だったら、勉強会に参加した生徒の平均点に、阿良々木くんが噛んでいるはずがない。第一、老倉さんが阿良々木くんを議長に指名したのは、彼がクラスの誰とも利害関係を持っていないからというのもあったんじゃないの?」 「ま、まあ、そうだけれど……」 と、珍しく老倉は、口ごもるような喋りかたをした──値踏みの女も、美男子には弱いのか。なかなか残念な事実だが、しかし僕にとって真に残念なのは、その美男子が前提のように語った、『阿良々木暦がクラスの誰とも利害関係を持っていない』という事実のほうだった。庇ってくれているようで、しかしばっさり切られた気分である。 まあ、確かにな。この手の学級会で、何か交流的なイベントがある際、二人組を作るのでも三人組を作るのでも四人組を作るのでも、常に一人余る阿良々木くんである──その縁故えんこのなさは案外、独立したポジションである議長には向いているのかもしれない。 気の重い作業ではあるが……。 「じゃあ……、まずは、勉強会に参加していた皆さん、手をあげてください」 僕は言った──横柄おうへいに命令口調で言うことも考えたが、まあ、不要な波風は立てないに限る。ここは下手したてに出て、事務的に進行しよう。正直なところ、こんな議論をしたところで犯人がわかるとは思わないけれど……、それでも、やるべきことは粛々とやらなければなるまい。老倉が言ったときにはさっと手を挙げていた連中が、今度はのろのろと挙手する──互いに様子を窺いあうように。 「そのまま手をあげっぱなしにしておいてください──今、黒板に名前を書き出しますから」 「あ、じゃあそれ、あたしがやるよ」 と、激坂げきざかが席を立った。書記を買って出てくれるらしい──彼女らしい積極性だ。ただ、彼女はさっきまで手をあげていた、つまりは容疑者の一人なのだが……、いや、勉強会に参加していようと参加していまいと、書記くらいは任せてもいいのか。僕が承諾の返事をする前に、激坂は席を縫うように前に出てきて、まず自分の名前を黒板に書いた。そんな彼女を、裏切り者を見るように見る目もあった──挙手している生徒の中に、だ。いや、そういう出しゃばった行動を、逆に怪しんでいるのかもしれない──ただ彼女、激坂なげきは、そもそもその開けっぴろげな性格ゆえに、疑いをかけられやすい奴ではあった。何というか、男女の壁、垣根みたいなものをあまり意識しない奴で、異性相手にも構わずスキンシップを取るところがある。それが元でトラブルになることが多いとか……まあわかりやすく言うと、『こいつ俺のこと好きなんじゃねえの?』と、思われやすい女子というのか……。今だって僕は、彼女が書記を買って出てくれたことから、いらぬ邪推じゃすいをする気持ちがまったくないとは言いがたい。これは要は男子が馬鹿だという話なのかもしれないが──とにかく、『投げキッス』という愛称は、何も『なげき』という名前だけに由来するものではないのだ。しているうちに、彼女が、自分のものも含め、挙手している生徒全員分の名前を黒板に書き終え、席に帰って行った──戦場ヶ原のふたつ前の席だ。 その結果はっきりした、勉強会に参加していた生徒は、以下の十九人だった。実際には激坂は挙手している生徒の名を五月雨式さみだれしきに、目についた順番に名字だけを書いたのだが、わかりやすくするため、ここでは五十音順、フルネームで表記する。 ①足根敬離 ②医上いがみ道定みちさだ ③老倉育 ④効越ききごえ煙次えんじ ⑤雉切帆河 ⑥苦部くべ合図あいず ⑦激坂なげき ⑧甲堂こうどう草書そうしょ ⑨周井通真 ⑩趣沢しゅざわ住度じゅうど ⑪巣内すうち告詞こくし ⑫題野だいの木苺きいちご ⑬長靴ながぐつ頂下ちょうか ⑭把賀はが濾過ろか ⑮氷熊戚朗せきろう ⑯菱形ひしがた情路じょうろ ⑰歩藤ほどうしじま ⑱窓村まどむら壁かべ ⑲余来よき承継しょうけい 011 「へええ。ではこれで、容疑者は十九人にまで絞られたというわけですね──わくわくするなあ。いや、こんなことを言うのは不謹慎で謹慎処分ですかね、うふふふ」 そんな自粛するようなことを言いながら、惜しみなく笑みを漏らす扇ちゃん──完全に楽しんでいる風情ふぜいの彼女に僕としては少し水を差したくもなり、 「そんな単純な話でもないよ」 と注釈した。 水を差すというより釘を刺すわけだが。 「勉強会に参加した奴が疑わしいのは確かだけれど、しかし勉強会に参加していない奴の容疑が完全に晴れているかと言えば、そんなことはまったくないわけで。極論きょくろん、誰かが答案を盗み出し、その内容を勉強会の参加者の誰かに吹き込めば、間接的に試験問題を勉強会に反映させることは不可能じゃないだろう?」 「間接的にですか。ふむ」 ありえますねえ、と嬉しそうに扇ちゃん──水を差しても焼け石に水、釘を刺しても糠ぬかに釘という感じだ。 「クラスの平均点を上げて楽しもうって寸法なら、むしろそっちのほうがありそうだろ?」 「楽しいんですかね、それ」 「さあ。僕がやったわけじゃないからわからないけれど──無責任に想像すると、楽しいんじゃないかな? まるで、神様になった気分で」 「神様気取りですか──それはいただけませんねえ」 ん? ここでは扇ちゃんがあまりいい反応を返して来なかったことに、違和感を覚えた。やはり忍野の姪だけあって、神様関連の話には敏感なのだろうか? 僕はそう思って、軌道修正する。 「いずれにしても、不参加でも勉強会に情報を流すことはできる」 「その場合は──容疑者は、勉強会に参加していない生徒で、かつ、好成績を収めた生徒ということになりますよね。つまり、勉強会に不参加なのに、勉強会に参加した生徒と同程度の成績を挙げた──阿良々木先輩以外の生徒」 「は。どうせ僕は誰とも利害関係はないよ」 厳密に言うと老倉に強く睨まれているけれど、僕と老倉の間にあったのは、利害のみであって、関係ではない。 「拗すねないでくださいよ。ほら、私が優しくしてあげますから」 そう言って扇ちゃんは、僕の首に、今度は両腕を巻いてきた。気がつけば首元に絡みついてくる──なんだかマフラーみたいな子だ。 「ちょっと距離が近いと思うんだけど……」 恋人持ちの身として、いよいよ後輩に苦言を呈してみたが、 「失礼。私の育った地方では、これくらいの距離感が当然でして。まあ激坂先輩のスキンシップだと思ってください」 と、悪びれない。 激坂のスキンシップはここまで激しくなかったと思うが……。 「それより話を続けてくださいよ──十九人のうち、犯人は誰なんです?」 「いや、だから十九人には限らないんだって──それに、不参加の生徒が犯人だとしても、そいつが高得点をあげている必要さえない。むしろ疑惑を避けるため、わざと悪い点を取っているかも。そうなると、変わらず、みんなが容疑者だ」 「わざと悪い点ですか。そこまでしますかね。大事な試験で」 「するかもしれないし、しないかもしれない──何もわからないんだよ、要するに。もうここで言ってしまうけれど、扇ちゃん。この学級会で、犯人が判明したりはしないぞ」 「え?」 「そういう意味ではこの物語にオチなんてない──あるのは紛糾ふんきゅうだけさ。学級会は学糾会でね。険悪になるだけ険悪になって、最後には老倉にも周井にも鉄条にも、どうしようもなくなって──まあ、ぐだぐだになって何もわからないまま終わる。そして──」 「あ、そっか!」 ばしん、と両肩を叩かれた。スキンシップの領域を完全に越えた、それはただの打撃だった。僕としては、喋れば喋るほどに鬱々うつうつとしてきたので、もうここで話を打ち切ろうかという気持ちで、先に物語の結末を話したつもりだったのだが──しかし扇ちゃんは、それで着想を得たようだ。 「私達がこの教室から脱出する方法がわかりましたよ、阿良々木先輩。つまり私達は、二年前に未解決に終わったその事件を今こそ解決することで、ここから出られるんです」 「……? どういう意味だい?」 「『犯人を特定するまでこの教室から誰も出さない』と、老倉先輩は言ったんでしょう? 逆に言うと、その事件の犯人を特定することで──私達はここから脱出できる。そういうことでしょう?」 「…………」 そういうことに──なるのか? いや、この教室が、あの日、あの放課後の一年三組の忠実な再現なのだとすれば、そういうことに……なる。 実際には議論百出(と言えば聞こえはいいが、正しくはただの喧々囂々けんけんごうごう)の末、何もわからないままに下校時刻となり、あんな風に終わった学級会だが──この教室の時計は、その下校時刻の寸前で停まっている。 窓も閉まり、扉も締まり──帰れない。 「当時の一年三組の皆さんの、心にあった無念がこうして、学校の隙間で形になったということでしょう──言うなら、学級会の幽霊ですねえ」 「学級会の幽霊……そんなわけのわからないものに、僕は囚とらわれてしまったって言うのか? なんで僕が……」 「さてね。案外、それを一番気に病んでいるのが阿良々木先輩だから──かもしれませんね。阿良々木先輩の人生は、その日、一変したわけですから」 「一変──」 「あなたはその日以来、その事件について考えることを避けてきた。忌避きひしてきた──忘れた日なんて一日もないけれど、考えた日は一日もない。だけど遂ついに来たんですよ──過去と向き合う日が。謎を解き明かすべきときが」 どうして扇ちゃんが、そこまで確信的に言うのかはわからない──怪異現象の理由なんて、他にいくらでも思いつくじゃないか。 にやにやと、扇ちゃんは微笑む──誘うように。 「私も及ばずながら推理には協力しますから、まあ順番に聞かせてくださいよ。まずはその十九人の容疑者の細かいプロフィールを。なんだかんだ言って、その人達が最も怪しいのは確かでしょう」 「ああ……。じゃあ、順番に。既に紹介した奴は飛ばすけれど──」 012 ①足根敬離──紹介済み。 ②医上道定──名前からドクターなどと呼ばれているようだが、別に医者の息子というわけではない。ただし、医者ではないにしても、親はそこそこ裕福であるらしく、気前のいい奴として有名だ。制服を改造するような真似はしていないが、私服は相当派手だという噂を聞いたことがある。勉強会への差し入れに、人数分のお菓子を提供したという。ただし彼は自分が犯人なわけがないと強く主張した──何故なら、彼の試験結果は、68点だったからだ。 「みんなの平均点を上げて、勉強会にも参加して、それで自分が68点なんてことがあるか?」 まあ、そう言われればその通りなのだが、前述の通り、それで容疑を完全に払拭できるわけではない。勉強会に参加していた以上、犯行の物理的な可能度が高いのは確かなのだから。ちなみに勉強会の参加者の中で、60点台を取ったのは彼だけだ。70点台の生徒さえおらず、他の参加者は全員、80点以上を取っている。一人だけ異様に悪い点を取っているというのは、逆に疑いを濃くするかもしれない。 ③老倉育──紹介済み。 ④効越煙次──医上よりも、かの男子生徒の疑いは強いとも言える。と言うのも、彼の悪戯いたずら好きは知られているからだ。一例をあげると、黒板消しにカッターナイフの刃を仕込み、黒板に書かれた文字を消そうとすると刃が黒板をひっかくという仕掛けを施ほどこしたことがある──幸い未遂に終わったのだが、もしも実行されていたら、そのときは、窓ガラスが割れるじゃ済まなかっただろう。「俺は人を困らせるような悪戯はしない」という彼の言葉には、いささか説得力がない。ここから先は笑い話になるが、『煙次』という名前から由来する『スパイ』という彼のニックネームも、怪しさを増大させていた──親からもらった名前で疑われるなど、彼にしてみればはなはだ心外だろうが。 ⑤雉切帆河──紹介済み。特記事項として、彼女の場合は参加していたと言うより、ぼーっと、教室に残っていただけと言ったほうが真実に近いそうだ。まあ、事実として高得点は収めているし、その場にいたのなら、勉強会の内容が聞こえていなかったわけではないだろうが……。 ⑥苦部合図──図書委員と呼ばれているけれど、そんな委員会は直江津高校にはない。勉学以外のことはなるたけさせないという校風なのだ──読書好きだから、そう呼ばれているだけだ。登校中や休み時間はもちろん、場合によっては授業中まで読書タイム──高校一年生にして『アンの娘リラ』を読んでいる猛者もさだ。活字中毒と言えば、一年三組にはもうひとり、戦場ヶ原ひたぎがいるが、濫読らんどく派の戦場ヶ原に対して、苦部は海外古典小説を愛するようである──さすがに勉強会の最中は、何も読んでいなかったらしいが。 ⑦激坂なげき──紹介済み。 ⑧甲堂草書──女子バレー部に属す、背の高い女子だ。室内競技のバレー部員なのに日焼けしているのが不思議なのだが、まあ、筋トレとかランニングとかは、屋外で行うからなのかもしれない。何にしても、帰宅部が大半を占める一年三組においては、珍しい部活熱中派だ。ガサツで神経質という相反する二面性を持つ──と言えば人物紹介として大袈裟だが、簡単に言うと『人のものを勝手に使う癖に、自分のものを使われるのは嫌がる』みたいな性格だ。無許可でペンやノート、教科書を借りて、しかも壊したり破いたりなくしたりするのだが、自分のものは決して貸さない、勝手に使われたら烈火のごとく怒ると言う……、彼女の幼なじみである冬波ふゆなみに言わせれば『精神的に未熟』な奴だ。試験前は部活動は休止になるので、勉強会への参加に支障はなかった。 ⑨周井通真──紹介済み。勉強会を仕切ったのは老倉だが、そのサポートは当然のように、副委員長の彼が行った。「老倉さんが最有力の容疑者なら、僕も同じくらい最有力だろうね」と、平然と言った──見方によっては老倉への疑いを分散させようとしたとも取れるその発言に、しかし彼女は「最有力が二人いるのはおかしい。私が最有力」と言った。疑いにおいても、ナンバーワンは自分でなければ気に入らないと言わんばかりだった。 ⑩趣沢住度──たとえ挙手してなくとも、彼が勉強会に不参加だったとは思わなかっただろう。僕にはまったくわからない感覚だが、趣沢はそういう会が大好きな男子なのだ。勉強会が好きと言うか、教えるのが好きと言うか……教えたがりなのだ。僕も中間試験のとき、彼から色々『教えられた』ことがあったけれど、正直、ありがたみよりも押しつけがましさを感じたものだ。こっちの理解度なんてお構いなしだったから──ただ、教えたがりという彼のパーソナリティは、想定される犯人像に、合うと言えば合う。たぶん無関係だとは思うが、彼は両腕に時計をつけている。「こうすれば左右のバランスが崩れない」と言っていた──精神のバランスを欠いているのかもしれない。 ⑪巣内告詞──控えめな生徒だ。これと言って特徴のない、クラスで気配を消しているタイプ。教室内のマイノリティ側として、何となく行動を共にしたことがあるけれど、本当につかみどころのない奴だった。何が好きで何が嫌いな奴なのかはっきりしない──まあ、僕相手には腹を割れないということだったのだろう。あまり勉強会に参加しそうなタイプには思えなかったのだが、しかしそつなく参加しているところを見ると、決して人付き合いが苦手というわけではなさそうだ。となると、同類だと思っていたのは僕だけらしい。 ⑫題野木苺──個人的には下の名前のほうが特徴的だと思うのだが、何故か名字の頭一文字を取られて、男子からも女子からも『だあちゃん』と呼ばれる女の子。口から先に生まれてきたような弁の立つ奴で、自分がどれくらい疑わしくないかということを論理立てて説明してくれた──聞いていると、誰が犯人であっても、彼女だけは犯人ではなかろうと思いかけるのだが、ふと冷静になってみれば、そんなことはまったくないことに気付く。何か用事があるのだろうか、とにかく早く帰りたいみたいだった──帰りたいのはみんな同じだろうが。僕だって早く帰りたい。 ⑬長靴頂下──一言で言えばお調子者。一年三組のムードメーカーとも言える。ただし女子からは嫌われがち。ガチで嫌われがち。調子に乗り過ぎた振る舞いで、女子を泣かすことも多々あるからだ──実際には多々と言うほどでもないはずなのだが、しかし高校生にもなって女子を泣かすというのはなかなか印象に残り、みなに焼き付いてしまうものがある。あるいは反省の色がないのが問題なのかもしれない。老倉も彼については諦めているところがある──どうせなら僕のことも諦めて欲しいものだが。勉強会には参加していたが、あまり真面目に参加していた風ではなく、場を茶化していたとかいないとか。それを聞くと、むしろ彼の行いは参加組の平均点を下げたのではとも思う。 ⑭把賀濾過──陸上部所属のスポーティな女子だが、ゲーマーという側面も持つ。携帯ゲーム機を持ち込んでは没収されている問題児だ。音を消して授業中にゲームをプレイしていたこともある──苦部が授業中に本を読んでいるのとはわけが違う不法行為だ。ただ、部活とゲームに夢中になっていたら、中間テストの出来が散々さんざんだったらしく、それを取り戻すために、勉強会に参加したとか──その甲斐あって96点との好成績を収めた。だからこんなケチがついてとても残念だと、老倉と同じことを言っていた。そういうことなら、彼女の他の教科の結果がどうだったのかが少し気になった。 ⑮氷熊戚朗──中学時代は生徒会長を務めていた奴で、学期初頭の委員長選挙では、老倉と競った。僅差きんさで落選したとは言え、副委員長にも推薦されたのだが、元々彼はその手の役職に興味がなかったようで、それも辞した(中学時代も、別になりたくてなった生徒会長ではなかったみたいだ──先生に無理矢理任命されたらしい)。ただ、そういう姿勢が謙虚けんきょな美徳と映ったようで、女子の人気が高い男だ──『美男子』足根の次くらいには。最初の頃『氷』の一文字から『アイス』と呼ばれていたが、糖根の『アイシング』とかぶるという理由で、戚朗の真ん中を取り、『キロ』と呼ばれるようになった。 ⑯菱形情路──何かと頼られがちな、姉御肌のソフトボール部員である。恐れられるカリスマである老倉や、今いち頼りないまとめ役の鉄条とは、また違うタイプだが、まあ、クラスの中心にいる奴であることは間違いない。ただ、菱形の場合は基本的に女子の味方であり、男子とは対立しがちだ──だが、男子相手にも一歩どころか半歩も引かない強気な態度は、実のところ、彼女に圧倒される男子からも評判はいい。喧嘩っ早さについては、やっぱりどうにかして欲しいところだろうが。 ⑰歩藤しじま──水泳部女子。お父さんがプロ野球の選手だという嘘をついている。謎の嘘だが、彼女自身、引っ込みがつかなくなっているところもありそうだ。髪の毛が茶色だけれど、速町と違って、プールの塩素で脱色されたものだと言う──これも嘘かもしれないが。ただ、周囲の証言があるので、勉強会に参加していたというのは、少なくとも嘘ではない。 ⑱窓村壁──彼もまた、部活動に所属している少数派の生徒だ。しかも直江津高校にそんな娯楽めいた部活があったことが驚きだが、軽音部員である。とすると、逆立ち気味の髪はロック精神の表れだと思いたいところだが、それはただの寝癖らしい。なんだかがっかりだ──子供の頃から洋楽ばかり聞いていたので英語は得意だが、数学は苦手で、だから勉強会に参加したのだという──英語は得意だが、という前置きは果たして必要か? ⑲余来承継──大時代的な男子だ。時代錯誤と言ってもいいかもしれない。よく『男とは』みたいなことを語っていて、そういう暑苦しさが女子はもちろん、男子からも鬱陶うっとうしがられているのだが、本人だけはそれに気付かず、男語りを続けている。ただ、暑苦しさを我慢して聞いてみると、意外と実のある話をしていたりもする──『男とは』と言いながら、語っているのはどちらかと言うと紳士論に近いものだが、まあ、いずれ時代錯誤なことに変わりはなかろう。物事を大上段から決めつける悪癖あくへきを持ち、悪戯好きのスパイ、効越が怪しいと言い出したのも彼である。 以上──十九名。 この十九名が、試験前日の勉強会に参加した生徒だ。犯人はこの中にいるかもしれないし、あるいは、いないかもしれない。 013 「一年三組は大半が帰宅部……、ということですけれど、具体的に訊いてもいいですか? 部活に参加しているかたは、あと何人くらいいます?」 「ん……、なんでそれが気になるの?」 「いえ、真相を暴あばく上では、いったい何がヒントになるかわかりませんし。部活動参加者は少ないと言いながら、最後のほうで三人ほど連続していたものですから、なんか気になっちゃって。色んな集合を探っていきたいところです」 真相を暴く、というややバイオレンスな表現が気になったが、僕はその質問に答える──既に言ったよう、勉強会参加者の中では、バレー部の甲堂、陸上部の把賀、ソフト部の菱形、水泳部の歩藤、軽音部の窓村。この五人だ──確かに、五十音順に並べたらたまたま三人連続したけれど、十九人中五人なら、やっぱり少ないほうだろう。 「ええ。ですから私は、勉強会に参加していない生徒で、部活動に所属している生徒を知りたいんです──確か、問嶋水仙が華道部だって、最初に聞きましたっけ? 老倉育と双璧そうへきをなすクラスのまとめ役、鉄条径は、ソフトボール部だと言っていましたよね?」 「ああ……菱形のいるソフトボール部だ」 「なるほど。ソフトボール部──その二人の他にソフトボール部に属しているかたは?」 「いないよ。何を期待しているのかわからないけれど……、どこの部活もそうなんだけど、ソフト部は特に、毎年部員不足に悩まされていてな。確か鉄条が菱形を誘ったんじゃなかったっけ? 勉強会に参加していない一年三組のメンバーについて言うと、あとは、品庭が把賀と同じく陸上部だ。そして冬波がバレー部」 「冬波。一度名前が出ましたね──ああ、甲堂先輩の幼なじみさんでしたっけ? へえ。幼なじみ同士で同じ部活に所属しているだなんて、なんだかロマンチックですね」 「男子バレー部と女子バレー部は、基本、別の部活みたいなものだと思うけど……」 いや、これはただの予想というか、ただの先入観だが──部活動の内実なんて、中学時代から一貫して帰宅部の僕にわかるわけがない。 「冬波──冬波境篤さかあつは、背を伸ばすためにバレー部に入ったって奴でさ。いや、あるんだよ、バレー部とかバスケ部とか、身長があれば有利な競技をすれば、必要に応じて背が伸びるって都市伝説が……僕は眉唾まゆつばだと思うけど」 「ははあ。だから阿良々木先輩は帰宅部なんですね」 「ほっとけ。うん、でもまあ確かに、冬波は、身長が僕と同じくらいの奴で……、入学当初、仲間だと思ったのか、向こうから僕に近付いてきた──甲堂が精神的に未熟だ云々うんぬんって話を聞いたのは、その頃なんだけれど。でも、背が低い男子同士でつるんでも何の慰めにもならないということに気が付いたのか、結構な早さで、僕から離れていった。で、比較的がっしりしている体格の、氷熊あたりと仲良くし始めた」 「はあ。なんだかなあ。精神的に未熟なのは、幼なじみさんだけではないみたいですねえ。あまりロマンチックじゃないです」 「そんで、実崎みざきが美術部員……、ああそうだ、うっかりするところだった、湯場ゆばが野球部員だ」 「実崎。湯場。どちらも初めて出る名前ですね」 「ああ──実崎は実崎明媚めいび。『明媚』からの連想で、『カモ』って呼ばれてた」 「カモですか……なんだか一年三組、ニックネームのつけかたが独特ですね。ちなみに阿良々木先輩はなんて呼ばれていたんですか?」 「僕にニックネームなんかなかったよ」 「悪いことを訊いてしまいましたか?」 申し訳なさそうにする扇ちゃん──そんな顔をされるくらいだったら、にやにやして、僕を愚か者呼ばわりしてくれるほうがいくらかマシだ。 「実崎は芸術家気質の自由人で、クラスでも浮いているところがあったよ。そういう意味じゃ、巣内よりもなお、僕に近い立場にいる奴だった。勉強会にも不参加だったし」 「でも、ニックネームはついていた」 「まあね。休み時間に、頼まれて女子の絵とか描いてたし、まあ、少なくとも嫌われてはいなかったのかも……」 そう言えば老倉も、彼のモデルになっていたことがあるような──案外あの芸術家気質は、彼なりの処世術だったのかもしれないと、今にして思う。 「湯場というかたは? どうも阿良々木先輩、忘れかけていたようですが──印象の薄いかただったのですか?」 「違う違う、湯場の印象はむしろ濃い──ただ、野球部に籍を置いていたってだけで、あいつは完全に幽霊部員だったんだよ。だからぱっと出て来なかった──湯場職則しょくのりの名前は」 「幽霊部員。とすると、この幽霊教室と、何か関わりがありますかね」 「いや、それはないと思うが……」 あらゆる可能性を考えてみるべきとは言え、さすがに幽霊部員と怪異現象を結び付けるのは牽強付会けんきょうふかいもいいところだ。 「しかし印象が濃かったというのは?」 「僕がなんだかんだと学校をサボりがちだったってことは、神原や忍野から聞いてるか?」 「んー、まあ、多少は」 何故かここではとぼけた仕草を見せる扇ちゃん──訳知り顔ばかりするわけではないらしい。 「湯場は、一年の一学期の段階で、既に僕以上にサボりがちだった。遅刻するし早退するし、気に入らない授業には出ないみたいな奴だった。雉切も不登校気味ではあったけれど、あいつの場合はまた種類が違うし……、うん、湯場より学校に来ていないのは、病院通いの戦場ヶ原くらいだったと思う」 「阿良々木先輩みたいなライトな感じじゃない、本物の不良ですか」 「そういうわけでもないんだが……、ただ、凄すごみのある奴ではあったな。振る舞いに口出ししづらいと言うか……、眼光鋭い坊主頭で──」 いや。坊主頭は、単に野球部だったからということもあるのかもしれない──幽霊部員とは言え。 「怖いなあ。今後の学校生活で、関わらないようにしないと」 「その心配はないよ。湯場はもう学校をやめてるから」 「あら。そうなんですか?」 「この学級会の直後にな──あるいは僕と同じで、絶望しちゃったのかもしれない。友達とか、クラスとか、団結とか──そういうのに、飽き飽きしちゃったのかも」 今はどこでどうしているんだろう。 当時の僕は、そんな彼にかけるような言葉の持ち合わせはなかったけれど──今なら、言える言葉もあるのだが。 「ちなみに、湯場は、件の数学の試験、0点だ」 「0点? いや、0点っていうのはないでしょう──0点なんて、取るほうが難しいはず」 「白紙で提出したんだよ──何らかの意思表示だったんだとは思うが。まあ、その反抗的とも取れる態度は、疑う理由にはなるかもな──テストっていう制度をコケにしたかったんだとすれば、解答を横流しして、自分は0点を取るというのも、ない考えかたではないだろう」 「私はないと思いますけれどね──でも、色んな考えかたをするかたがいますからね、世の中には。ただ、そんな強面こわもてのかたに、解答を横流しするようなルートはあったんですか?」 「それはあった。怖がられてはいたけれど、不思議と孤立はしていなかったから──ところで彼は『頬杖』と呼ばれていたんだ。授業に出席しているときも、頬杖をついた不敵な態度だったからだ──学級会の最中も、その姿勢だった」 「そんなかたにもニックネームがあるのに阿良々木先輩にはなかったのですか。強烈なエピソードですね」 「……部活動参加者は、以上だよ。残りは全員帰宅部。そんなに多くないだろ? ああ、参考までに付け加えておくと──割取わりとりって女子がいてな。そいつは、部活にこそ参加してなかったけれど、放課後、なんだか本格的な剣道の道場に通っていた。実戦剣道とか、なんとか──」 実戦剣道と言われても、そちら方面には詳しくない僕にはよくわからないけれど、まあ、僕の妹である阿良々木火憐が通っている空手道場みたいなものだったのだろう。 「割取質枝しつえ──たまに剣道着で授業を受けてるから、最初は僕は剣道部員なんじゃないかと思ってたけどな。女子の中ではちょっと壁があるめの奴だった。もちろん、学校の中で竹刀しないや木刀を振るったりはしなかったけれど、何かあるとすぐに、箒ほうきとかで、人を叩く奴だったから。暴力的と言うか、手の出やすい奴なんだよ──手というか、棒かな? 喧嘩っ早さじゃ、菱形に次ぐ」 「全然精神修養できてませんね。精神的に未熟な人、多過ぎません?」 「実戦剣道だから、修養とか、そういうのはないんじゃないかな。それに、二年前──僕達が高校一年生だった頃の話だ。甲堂や冬波、割取に限らず──男子も女子も、精神的に未熟で当たり前だ」 老倉も、もちろん僕も。 未熟で、未成熟で──半熟だった。 二年前の段階で、それに気付いていたら──違う二年後もあっただろうに。 「まあまあ、阿良々木先輩。そういう経緯があったから、あなたは忍さんや羽川さんと出会えたんだし、戦場ヶ原さんとの縁も成就じょうじゅしたんじゃありませんか。人間万事塞翁さいおうが馬ですよ」 「まあ、そりゃそうなんだけども……」 まとめてくれるなあ、人の人生を。 「でも何にせよ、参考になりました。ありがとうございます。話の腰を折っちゃってすいませんでした──おかげさまでだいぶんことの真相に肉薄にくはくできましたよ。さ、ではお話を続けてください。十九人の有力容疑者を黒板に書き出して、その後、学級会はどうなったんですか?」 あまりに扇ちゃんが自然に話を運んだので、僕は聞き逃してしまった──彼女が『真相に肉薄できた』と、さらりと言っていたのを。 「……十九人の名前が書き出されたところで、真っ先に蟻暮が文句をつけてきたんだ。さっき言った、別に犯行可能なのは十九人に限らないって文句を──」 014 「ちょっと待ってよ。みんなして、その中に犯人がいるって、決めつけてるみたいな感じだけどさ──そうとは限らないんじゃないの? 速町がさっき、参加してない自分は無関係だから帰りたいみたいなことを言ってたけれど」 そこまでは言っていなかったと思う。が、蟻暮に関わりたくないのか、速町本人は特に反論するでもなかった。しかしそれを言い出すと、勉強会に参加していないことで、折角せっかく容疑を逃れている蟻暮自身も容疑の対象となってしまうのだが──こいつは文句がつけられたら何でもいいのだろうか? もちろんそういうわけではなかったようで、 「勉強会に不参加でも、高得点を取った奴は、容疑者に含めるべきだわ」 と主張したのだった──これだと数学の得点が65点だった彼女は容疑の圏外ということになる(92点の速町は、容疑の圏内だ)。むろん、疑いを避けるためにわざと低得点を取ったという線があるので(白紙を提出し、0点を取った湯場の例は極端だとしても)、その主張は弱いのだが。 「……じゃあ、まあ、一応、不参加だったけれど、点数が……、90点以上だった生徒の名前は、書き出しておきますね」 僕は渋々、そう提案した──妥協案もいいところだが。この次、『点数が低い生徒も怪しい』という者が現れれば、結局、クラスの生徒全員の名前を黒板に書くことになるわけだ──何の出席簿なんだよ。 不参加、かつ高得点(90点以上)の生徒の名は、五十音順で以下の通り──これはそんなに数がいなかったので、激坂の手を煩わずらわすまでもなく、僕が書いた。 ①阿良々木暦(100)②小馬沖忠(97) ③戦場ヶ原ひたぎ(98)④速町整子(92) ⑤目辺実粟(95) ……こうして見ると、僕も含めて曲者くせものが多い感じだ。ただ、その中でも特に異彩を放っているのは、目辺だった。と言うのも、あまり彼女には、成績がいいというイメージがないためである──僕の(奇妙とさえ言える)数学専攻は知られているし、小馬は塾に通っているし、戦場ヶ原や速町の成績優秀振りも有名だ。それに較くらべると、目辺はこれと言って──ただ、目辺の学力が常に平均以下をキープしているというわけではないし、もちろん、彼女にだって調子のいいときもあるのだろうが? 試験の結果は張り出されているので、全員の点数を全員が知ってはいたのだが、しかし、こうして一部だけ、条件をつけて切り取ってみると、なんだか不自然ではある──契機である蟻暮も、「あれ?」みたいな顔をしている。別に彼女に、個人を攻撃する意図はなかったのだろう。 当の目辺は、 「え? いや、ちゃうて──」 と、戸惑ったような顔をしている。クラスメイトから疑い、とは言わないまでも、不審の目で見られたときの、通常の反応にも見えるし──後ろめたいことがあるようにも見える。これは見る側の問題だろう。 「知らん知らん。私、知らんよ」 「中途半端な論拠で犯人を特定しようとするのはやめてくれるかしら、阿良々木」 老倉が、なぜか僕の責任みたいに言った──老倉が数少ない友人を庇ったのは明らかだったが、誰も何も言わなかった。確かに彼女の言う通り、目辺が95点を取ったというだけでは、犯人として特定する証拠には足りない。 「……って言うか」 と、ここで挙手した生徒がいた。速町の後ろの席に座る、浮飛うきとびだった。 「その……、あたしがたぶん、女子の中では最低点なんだけども。で、だから言い訳みたいに聞こえるかもしれないんだけど。今回の数学の試験って、かなり難しかったと思うんだよね──仮に模範解答を知ってたからって、解けるものなの?」 「…………?」 一瞬、浮飛が何を言おうとしているのかよくわからなかった──彼女自身、よくわかっていないようでもあった。 「何言ってるの? 模範解答を知ってたら、当然解けるでしょ。丸暗記すればいいだけなんだから──」 と、蟻暮が言ったが──言いながら、浮飛の言わんとする要点に、彼女も気付いたらしい。そうだ。もしも犯人が、どういう動機に基づいてかはともかく、試験内容を勉強会に反映させようとしたところで──解答を丸暗記させるような露骨ろこつな手段を取るはずがないのだ。二、三人の小規模のグループならばともかく、十九人もの大所帯おおじょたいでそんなことをしたら、絶対に誰かが学校側に報告する──俗な言葉で言えば、チクる。共犯関係は、たとえあったとしても少人数であり──勉強会に参加した生徒の大多数は、無意識のうちに、試験内容を刷り込まれたはずなのだ。 ただ、それにしては平均点が高過ぎる……。医上を除いて、全員が80点以上だなんて──曖昧に情報を流したにしては、あまりにも……。 「いや、まあ、そこまで疑い始めたらキリがないかもだけど……」 と、浮飛は、自分の発言から生じてしまった沈黙を誤魔化すように、そんなことを言った──浮飛急須きゅうす。確か彼女の点数は57点だった──女子の中で、と言うより、男子の中でだって、湯場を例外とすれば最低点を取ったことになるのだろうが、しかし彼女の指摘は、この学級会の中で唯一光っていたと言っていい。それまで、僕は彼女に対して何の印象も持っていなかったけれど──たぶん、学校の勉強は苦手でも、頭はいいというタイプなのだろう。漫画なんかじゃよくいる奴だが、実際に見るのはこれが初めてだったので、僕は思わず、彼女を凝視ぎょうししてしまった。 「ご……ごめん、阿良々木くん。そんなつもりじゃなかったの」 謝られてしまった──感心して見ていたのを、責めていると思ったらしい。悲しい誤解だが、これを解く方法はない。 「って言うかね、そもそもなんで、不正行為があった前提で話、進んでるの?」 題野が言った──皆が静まったタイミングを見計らって、得意の弁舌が始まったという感じだった。 「正直、頑張った身としては不愉快なんだけど。勉強会に参加した生徒の平均点が不参加の生徒の平均点より、20点高いってことだってあるでしょうよ。それに、不参加組の平均点は、誰かさんのせいで下がっているところもあるだろうし」 誰かさんというのは、当然、湯場のことだ──強面の彼を揶揄やゆするような発言に、クラスの温度が更に下がったが、しかし当の湯場は、大して気にした様子もなかった。いつも通りに頬杖をついて、題野を一瞥いちべつしただけだった。 「湯場くんが落とした平均点の分は、阿良々木が上げているでしょうよ」 老倉が皮肉を込めて言った──何故僕が皮肉を言われるのかは大いに疑問だ。酷い巻き込み事故である。 「でも、あなたの言う通りよ、題野さん。身に覚えもないことで疑われるなんて不愉快だわ。だからこそ私達は、自ら容疑を晴らさなければならないの」 答になっているようでなっていない──相手を肯定しながら、自分の意見を曲げていない。こうなると立場の弱いほうが折れるしかないわけで、当然のごとく、題野が黙った。不承不承ふしょうぶしょう。 ……あとでわかったことなのだが、そもそもこの学級会は、学校側から何か言われて開催されたものではなく、一から十まで、老倉の発案で行われたものらしい──張り出された試験結果を受け、違和感を覚え、自ら平均点を割り出し、比べ、分析し、更なる違和感を覚え──疑われる前に、疑いを晴らそうとしたようだ。 自分の人生に疑いの余地があるということさえ、彼女は許せなかったみたいだ──そのために、クラスのメンバー全員を巻き添えにした。とんでもない奴だし、あれから二年以上が過ぎた今でも彼女の行いを肯定することはできないが、しかし、その気位だけは、認めてあげなくてはならないだろう。そうでなければあまりにも報むくわれない──ただし、その気位の結果があの有様では、やっぱり報われないが。 「疑い出したらキリがない……と言うんだったら、そもそも私は、そんな勉強会が本当にあったのかどうかも、信じられないんですけれど」 いきなりそんな突飛なことを言ったのは本日の日直、鞠角だった。大柄な姉のお下がりだという制服を、だぼだぼに着ている女子生徒──ファッションにこだわりはないようで、ヘアスタイルも、ハサミでバシバシと適当に切ったようなザンバラ。変人扱いでやや遠巻きにされている彼女の発言は、皆を、浮飛とは違う意味で黙らせた。 「この世に確かなことなんてひとつもないじゃないですか。勉強会なんて本当はなかったのかもしれません。十九人が共謀して嘘をついていないと、どうして言えますか?」 「ふざけないでください、鞠角さん」 「ふざけていません、大真面目です」 老倉の睨みにも鞠角は動じない──まあ彼女、鞠角瓢衣ひょういもまた、老倉に臆せず接せられる一人ということになるのだろうが、この場合は周りが臆してしまう。とばっちりが来るので。 「……阿良々木、何か言ってやりなさいよ。あなた、議長でしょう!」 ほらな。 「えーっと……、確かにあらゆる可能性を考えてみるべきだとは思いますが、ただ、勉強会が行われなかったとまで言うのは、さすがにあまりにも荒唐無稽こうとうむけいと言いますか……」 「論理的にありえない真実なんです」 「え?」 一瞬、鞠角が何を言ったのかわからず、たじろぐ僕──どうやらシャーロック・ホームズの名台詞を略して言ったらしいとわかったが、そこまで略したら意味が変わっちゃうだろ。 そんな僕に苛立ったように老倉は、「何をやっているの」と言う。 「変人同士通じ合いなさいよ」 無茶苦茶言ってんな、このハウマッチ。 ただし老倉のこの『無茶苦茶』に対しては、鞠角が、 「阿良々木と一緒にしないでください」 と、真顔で反論した。 受け止めるには重い発言だ。 僕の孤立無援ならぬ孤立無縁ばかりが掘り下げられていく会だ──そこで、沈黙のままに挙手をした生徒がいた。何か言うのかと思えば、手を挙げたまま黙っている──指名を待っているらしいと気付き、僕は議長として、「砂浜すなはまさん」と彼女の名を呼んだ。 「何かありますか?」 「……わざわざ否定するのも面倒臭い説だけど、一応、勉強会はちゃんとあったらしいってことを、証言しておこうかと思って」 砂浜──砂浜すなはま類瀬るいせはいかにも億劫おっくうそうに言った。本来、こんな役回りは自分のものではないと言いたげだ。その態度には、本意ならぬ議長を任されている僕としてはどこか通じるものを感じたけれど、どうせ拒絶されるだろうから、そんな気持ちはおくびにも出さず、「なんですか?」と、先を促した。 「……って言うのは、あたし、数学の試験の日、日直で……、えーっと、だから、早めに学校来て、教室の準備をしなきゃだったのね? で、よく覚えてるんだけれど、勉強会をしたあんた達が」 と、ここで彼女は、左隣の席にいる老倉を迷惑そうに見た。 「散らかしに散らかしたまま帰ってたから、その後始末が大変だったんだよ。男子の日直だった長靴は、来ないしさ──結局、早く学校に来てたホイップとかジョーとかフッキーとかに手伝ってもらって、机並べ直したり、黒板消したり、ゴミ出したり。つーか、お前ら、食ったお菓子くらいは片づけて帰れっつーの!」 さすがにこれには、老倉も気まずそうに黙った──おおかた、下校時刻に追われて、取るものも取りあえず下校したという感じなのだろうが……。 砂浜は基本面倒がりの女子なのだが、なんだかんだでそういう散らかりを放っておけない奴なのだ──潔癖性とまでは言わないまでも、掃除魔なのだろう。そんな彼女が日直の前日に、教室を散らかしたままにして帰るとは、勉強会に参加していた奴らも大層たいそう気の利かないことだが……もしもこれが砂浜一人だけの証言だったなら、彼女も嘘をついているかもしれないと、あるいは鞠角は追及したかもしれないけれど、目辺と鉄条(『ジョー』というのは鉄条の仇名だ)と服石ふくいし(『フッキー』とは彼女のことである)も、同様の証言をするのであれば、彼女も行き過ぎた疑いを引っ込めざるを得ないだろう。特にクラスのまとめ役である鉄条の証言には信頼がおける。 ただ、今砂浜が名を挙げた三人、つまり目辺実粟と鉄条径、それに服石点呼てんこの三人は、あまり積極的に、声をあげて砂浜に同意するという感じではなかった──ただただ、砂浜の言葉を否定しないという程度だ。そのリアクションの悪さを、砂浜は多少いぶかしんだようだが、勉強会の主催者である老倉を恐れてのことだろうと合点したようである。しかしながら、鉄条と服石はそれでいいだろうが、目辺はどうだろう? 目辺は老倉を恐れてはいないはずである──気さくに友好的に、彼女と関係を築いている、貴重な女子のはずなのだが……? 「……服石さん。間違いありませんか?」 念のため、僕は服石に確認した──目辺に直接確認するのはあざといと思ったからだけれど、服石は、やっぱり気弱に頷くだけだった。元々、引っ込み思案なタイプで、こういう場で自己主張をする奴ではないから、頷いてくれただけでも上等と取るべきかもしれない。なにせ彼女は、『ふくいし』という名前を、手違いで『ふくせき』と登録され、先生からもクラスメイトからもそう呼ばれるのを、入学以来二ヵ月以上、言い出さなかったほどの内気な少女なのだから。 ならば鉄条にも口頭で確認を取っておくか? それとも、一気に目辺に──だが、目辺はさっきの気まずいやりとりがあったからこそ、それを引きずって、余計なことを言うまいとしているだけという線もある。だとすると、仮に僕が念押しの確認をしたところで、やっぱり寡黙かもくを貫つらぬくだろう。 僕が判断を迷っていると、 「じゃあ、勉強会はあったとしてさ──まあ僕、参加してるから、あったことは体験として熟知してるんだけど」 と、挙手もせずに切り込んできたのは、氷熊だった。中学時代の生徒会長経験者が、ついに動いたか? 僕のあまりに不甲斐ない進行を見てられなくなったのだろうか。いいぞ。なんだったら代わってくれてもいいくらいだ。 「もしも、誰かが──直接的にでも間接的にでも、勉強会に模範解答をこっそり横流ししたとして、実際問題、そんなことをされたら、気付くと思うんだよな。そんなの、どっかにわざとらしさが出るだろ?」 「そうとは限らないでしょ」 と、割取。割取と氷熊は同じ中学出身で、気難しいところのある割取も、氷熊には比較的(棒を出さず)なごやかに接するのだ。 「自然に、ばれないようにやったのかも」 「一人や二人を相手ならそれもできるだろうけど、十何人だぜ? 誰かが不自然だって思うだろうよ。露骨に丸暗記ってのももちろんだが、さりげなく無意識下に刷り込むってのだって、無理っぽくないか? 大勢を一気に騙すことなんてできないって」 生徒会長として全校生徒という大勢を相手にしたことのある、氷熊ならではの意見である──そう言われてしまうと元も子もなく、となると、そんな犯行は行われなかったということになりそうだ。 それでいいんじゃないかな、という気もした──ひょっとすると氷熊は、そのつもりで提案したのかもしれない。この学級会の着地点はそこだと、言いたかったのかも。 だが、老倉はそれを許さなかった。彼女はあくまでも、この『犯人当て』を続けるつもりだった。 「じゃあ、ここからは試験問題の具体的な内容を検証しましょう。勉強会でやった問題と、試験に出た問題が、どれくらい重なっているかを、参加者全員の証言を元に、特定していくのよ」 そして犯人を特定する。 特定するまで、教室からは誰も出さない。 015 「……特定できたんですか? いえ、犯人じゃなくて、その──重なっている問題って奴」 「いや、何せ一週間前の話だからな。それができれば苦労はないって言うか、参加者の記憶もいい具合に曖昧になっていて、確実な特定ってのは無理だった」 不毛な学級会の中でも、特に不毛な会議パートだった──特に、勉強会に参加していなかった者にとっては、嫌気が差すだけの時間帯だった。 扇ちゃんは「でしょうねえ」と頷く。 「ただ、そうは言っても、勉強会の成果が現れたことは確かなんですよね? いっぱい勉強した中から……、えーっと、山が当たったって言うんですか?」 「まあ、うん。具体的なことを言うと、小問はともかく、大問のほうだな──特に難易度の高い問題が三問くらいあって。検証の結果、参加者の概ねが正解していて、不参加者が間違いがちだったのは、その三問だ。極限、不定積分、確率分布の問題だったと思うが」 「……極限とか不定積分とか確率分