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憑物語
憑物語
西尾維新
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目 次 底本データ 一頁18行 一行23文字 段組2段 001 斧乃木おののき余接よつぎは人形である。別の言い方をするなら人間ではない。人ではなく、生き物ではなく、尋常ではない──それが斧乃木余接、式神しきがみとしての憑喪神つくもがみである。 見た目は可愛らしい童女であれど。 エキセントリックな言動で周囲を楽しませてくれる無表情な子供であれど、その本質は怪異であり、妖怪であり、化物であり、魑魅魍魎ちみもうりょうの類たぐいなのだ。 それゆえに。 人間社会とはどうしようもなく相容あいいれない。 「いや、実を言うとそうでもないのじゃよ、お前様──あやつの場合はの」 と、そんな話をすると、忍しのぶはそう言った。 僕の影の中からそう言った。 「なぜならあやつは出自しゅつじが人間の死体であり、そして人形じゃ──つまり作りとして人を模しておる。人真似ひとまねをしておる」 それは。 それは彼女が人間であろうと、人間になろうとしているということだろうか? そう思って問うてみると、しかし忍に言わせればそれも違うらしい。 模しているということは。 なろうとしているわけではない証明なのだと。 あくまでもそれは、人間社会に紛れるための手段であり──相容れるための手段であり──つまりは同化するための手段ではないのだと。 「外国語をいくら覚えようと、学習しようと、流暢りゅうちょうに話そうと、だからと言ってそれは、他国の人間とコミュニケーションを取るためであって、イコールで国籍を変えるためというわけではあるまい──それと同じじゃ。あやつが人の形を真似て作られたのは、人であるためでも人になるためでもない。人といるためじゃ」 あるためでも、なるためでもなく。 いるため。 なるほど外国語のたとえはわかりやすかった──まあ別に、他国というと問題がやけにグローバルだが、しかしこれを他文化というと、僕にとっても、誰にとっても、俄然、日常的な話になるはずだ。 異文化圏にいる誰かと友好関係を築くためには、その異文化を理解して臨まねばなるまい──諺ことわざで言うところの、郷に入いっては郷に従えという奴だ。 「大体お前様よ。どうして怪異──いわゆる妖怪変化の伝承としての姿が、人間の形を取っていたり、動物の形をしていたり──つまり、非現実の存在でありながら、現実に存在する形を基盤にしておるのか、考えたことはないのか?」 考えたことはなかった。 それはまあ、言ってしまえば人間の想像力の限界ということではないのだろうか──『ない』ものをイメージし、ビジュアル化することはできないので、『ある』ものをベースに、そこにスパイスを加えていくという『作り方』をせざるを得ないというような。 たとえば忍野おしの忍の原型、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードのありよう──姿は、吸血鬼としてのそれと言いつつも、美しい鬼と言いつつも、やはり人間をベースにした姿である。 羽を生やそうと、それは蝙蝠こうもりのようだし。 牙を伸ばそうと、それは狼のようだ。 吸血鬼という非現実、超現実の体現でありながら、その実体はどこまでも、現実的なイメージの集合体──あるいは理想化でしかない。 絵にも描けない美しさは、絵にも描けないし。 目にも見えない美しさは、目には見えないのだ。 それも言語の例え話になってしまうけれども、人は自分の知っている言葉でしか、現実を語れないのである──筆舌に尽くしがたい現実であれど、言い表しようのない夢であれど、それはやっぱり、筆や舌を使って、言い表すしかないのだ。 言葉を。 尽くすしかないのだ。 ただ、言ってしまえばと言ったところで、それを言っては身も蓋ふたもない。人間の想像力の限界で、その姿を象かたどられ、決定づけられてしまう怪異のほうはたまったものではあるまい。見る者によって姿を変える不安定さもやはり怪異のありようではあるのだが、周囲によって変形するのもまた怪異なのだが、しかし確たる形は欲しかろう。 だから僕は何も言えなかった。 現実的に今、あろうことか金髪の幼女、八歳児の姿を取って僕の前に存在している怪異、元吸血鬼の忍に対して、そこで言えるような言葉はなかった。そんな僕の心中を見透みすかして、見透かした上であえてそこには触れずに忍は、 「結局、人があってこその、人間がいてこその怪異じゃということじゃな」 と言った。 「これは怪異が人に依存しておるという意味ではなくな──観測する者がおらねば、観測される者もおらんということじゃ」 それは、なんだろう。 いわゆる観察者効果みたいなことを言っているのだろうか、と思ったが、しかしどうやらそれは違うようだった──そうではなく、そういう理論めい; たことではなく、もっとエモーショナルな、いわばセンチメンタルな話のようだった。 「どんな存在も、どんな行為も、見てくれる奴やつがおらねば、空しいばかりじゃろう。どんな英雄譚たんも、どんな怪異譚も、語られることがなければ、それはないのも同じじゃろう」 忍は言った。 我が身を振り返るように。 「伝説の吸血鬼と呼ばれた儂わしであれど──その伝説がなければ、吸血鬼でないのと同じじゃろう。語られない怪異は、怪異たりえん」 怪談は。 怪しい談でなければならぬのだ──と忍は言った。 「まあ、これは儂というよりも、あの不愉快なアロハの価値観、考え方なのじゃが──怪異とはつまるところ、思い入れなのじゃ」 思い入れ──気持ち。 それはひょっとして、人形に感情移入するような気持ちだろうか? 憑喪神や──俗に言う『もったないおばけ』などは、そうやって生じるものとも言える。 万物に神が宿るという考え方、八百万やおよろずの神という考え方は日本独自のものとも聞くが、しかし生物非生物を問わず、人間以外の何かに対する感情移入は、世界中にあるものだろう。 だから怪異話は世界中で語られる。 人間によって──語られる。 それはなるほど、納得できる話だった──いや、僕としては、納得せざるを得ない話だった。これまで数々の怪異を。 怪異譚を語ってきた僕としては。 吸血鬼のことを。 猫のことを。 蟹かにのことを。 蝸牛かたつむりのことを。 猿さるのことを。 蛇へびのことを。 蜂はちのことを。 不死鳥のことを。 語ってきた僕としては──納得せざるを得ない。 そして今僕はまたしても、人形のことを語ろうとしているわけだが、しかしいささか、語り過ぎた感もあるのも確かだろう。 都市伝説も、街談巷説も、道聴塗説も──語り過ぎれば、ただの雑談と並んでしまう。おどろおどろしさも、ものものしさも消え失せる──二学期初日から始まる奇妙な『くらやみ』のことや、年末年始における千石せんごく撫子なでこの、神々こうごうしい蛇神に関する事件のことなどを思い起こすと、一体いつまでこんなことが続くのだろうと、いささかうんざりもする。次々と出会う怪異に、いよいよ誤魔化ごまかしがきかなくなってくると、僕は絶望的な気分にもなる──だが、そんな気分は贅沢なのだ。 いつまでも続く。 そんな贅沢がこの世に存在するわけがないということを、僕は知るべきだった──いや、べきとか、そういうことを今更いまさら言っても始まらない。 どんな物語にも、エンドマークは打たれる。 おやおや、騒がしい日常はもう少しだけ続くようですよ? なんて言葉の繰り返しにだって、いつかは限界が来るのである。 これから語る人形の話は、僕がそれを、『知った』という話なのだから──否応いやおうなく知ったと言う話なのだから。 だからこれは終わりの始まりだ。 阿良々木あららぎ暦こよみという人間が、阿良々木暦という僕が。 終わり始まる物語だ。 002 「兄ちゃん、朝だぞこらー!」 「いい加減起きないと駄目だよー!」 今朝は急に目覚まし時計のありやなしやについて考えてみたくなった。ありていに言って目覚まし時計という言葉が、あるいは存在が、僕は好きではない。昔から好きではない。まったく好きではない。嫌気が差すほど好きではない。好きだったことは一度もない。僕の目覚まし時計の好きじゃなさには隙がないと言っていいだろう。 だがどうしてそんなに目覚まし時計が好きじゃないのかと問われれば、これはもうちょっとした禅問答ぜんもんどうとなること請うけ合あいである。目覚まし時計だから嫌いなのか、嫌いだから目覚まし時計なのか、嫌い時計だから目覚ましなのか、判然としなくなる。この世に存在するすべての目覚まし時計が地獄に落ちればいいのにと、僕が考えているのはまぎれもまぐれもない事実であるが、しかし地獄に落ちるものがすべて目覚まし時計であるとは考えていない。露つゆほども。大体、その仮説を信じるなら、たぶん地獄行きなこの僕もまた、目覚まし時計だということになってしまうではないか。 自身が目覚まし時計ではないかという恐怖。 そんなものと戦いたくはない。 仮説というならこんなことを考えてみたことがあるので是非ぜひ聞いて欲しい。聞いてもらわなければならない仮説だ。どうして僕が、いや言ってしまえばおそらくは世界中の誰もが、とまでは言わないにしてもその大半が、大多数の多数派が、目覚まし時計を親の仇かたきのように嫌悪するのか、娘の仇のように憎悪するのか、その理由を考えたときに必然的に浮かんだ仮説だ。仮説ではなく真説かもしれない──とは言え自分の気付きをさも大発見であるかのように述べるのは正直気が引けるが、そう、目覚ましと湯冷ましの語感が似ているから、目覚まし時計を好きになれないのではないかと僕は考えたのだ。 湯を冷ます。 折角せっかく沸かした湯を冷ます。 元の木阿弥もくあみ、烏有うゆうに帰す。 言うなればエントロピーの法則に逆らおうという不敬ふけいささえ感じるその行為が、睡眠から覚醒させられたときのあの不快さに通じるものがあるからこそ、僕は、そして我々は、つまり世界は、あれほどに目覚まし時計を嫌うのではないかと思う──これを僕はニュアンス仮説と呼んでいる。目覚ましと湯冷ましのみならず、語感が似ているものには似たような感想を持ってしまう、感情が引き摺ずられてしまうという仮説である。例はいくらでも上げられよう。たとえばブルース・リーとブルーレイなどはいかがだろうか。どちらも素晴らしいという点で共通した感想を抱くはずだ。 しかしながら、ニュアンス仮説そのものの真偽しんぎはさておくとしても、目覚まし時計を嫌悪する理由としてこの仮説を適用することには、いささかの不具合が生じることを、ここで我々は認めなければならない。なぜならば、第一に、目覚まし時計を嫌悪するという症状は、既すでに重々じゅうじゅう述べた通りに世界中の人間に共通する症状なのであって、この場合日本語のみで起こりうる『目覚まし』と『湯冷まし』という相似そうじ現象を、すべての原因と見るのは残念ながら若干じゃっかんの無理があるということだ。詳細に文献をあたったわけではないけれど、まさか目覚まし時計発祥はっしょうの地が日本であるということはないだろう。となると試しに両単語を英訳してみたくもなるけれど、しかし第二の反証を述べれば、その必要がないこともわかると言うものだ。 第二の反証、それがいわゆる『ぐうの音ねも出なくなる反論』ということになるのだが、つまるところ第二というより絶対の反証というべきなのだが、語感が似ている日本にフィールドを限ったところで、平均的な日本人としての育ち方をしたならば、湯冷ましという単語を、目覚ましという単語よりも先に覚えることはないはずだ、という反証だ。 この反証。 ぐうの音も出ない。 言われてみれば僕も、今現在に至っても、湯冷ましの正式な意味を知らない。湯、冷まし。沸かした湯を冷ました何かだということは、その名称からかろうじて予想がつくけれど、明確な定義を問われると沈黙するのみだ。沈んで黙るのみだ。というより、あくまでニュアンス仮説の立場を取るならば、どちらかと言えば目覚ましのせいで湯冷ましの印象が悪くなっているというだけの話かもしれない。 それでも僕は目覚まし時計が嫌いだ。 先人曰いわく、好き嫌いに理由はない、好き好きにも嫌々にも理由はない、理由はいらない──そうだが、それにしたって、己おのれという人間、つまり人物が、理由もなく好き嫌いをするような小物だとは思いたくはないのも偽いつわらざる事実である。人物は誰しも、一角ひとかどの人物でありたいものだ。こじつけてでも、そこに何らかの理由をあてがい、自身の価値を高めたいと思うのは決して僕が俗物だからではないはずだ。 ならばここで考えを更に深遠しんえんへと導くのも、僕が俗物でないがゆえと言えよう。ありえないのは私だが、考えないのは私ではないとはよく言ったものである、いや、それっぽく格言っぽく言ってみただけで、こんな意味不明にして意味皆無なことを言ったのは、僕が人類史上初めてだろうが。思想家はもちろん先人からの伝承を認めるべきだが、しかし己の愚昧ぐまいの責任を先人になすりつけるべきではない。 さておき、目覚まし時計。 目覚まし時計、目覚まし。 ニュアンス仮説の第二法則について、僕としたことがあろうことか、迂闊うかつにも説明するのを忘れていたが、それは語感のみならず、見た目についての条項だ。見た目が似ている字は、そこから得られる感触も似ている、似たものは同じものだと判断してしまう。言うなら第一の仮説が聴覚に基づくならば、第二の仮説は視覚に基づくというわけだ。 わかりやすく言えば『め』と『ぬ』は、音はまったく似ていないけれど形が九割方似ているゆえに、なればこそそこから得られるニュアンスも似ざるを得ないというわけだ。この場合挙げて呈示すべき平仮名の例はもちろん、『わ』と『ね』でもよい。 そしてその仮説から見る限り、目覚ましという言葉は、自覚なしに似ている。これはもう同じ、同一と判断する者がいても不思議ではないほどに。点の一つをとっただけで、『自』は『目』になるし、『な』を左右からプレスで圧縮すれば、『ま』になるであろうことは、もはや議論を俟まつまい。 ならば目覚ましは、自覚なしと同じなのだ。 イコールとは言わないまでも、ニアリーイコールではある。これを否定する証拠は現在のところ挙げられていない。 そして自覚がない、という言葉は、いや文章は、あるいはひょっとしたら台詞せりふはと言ったほうがいいだろうが、とにかくなんと表現したところで、どのように表明したところで、自覚がないという言葉は、前向きな意味合いで使われることはないはずだ。 何を言ったのかは重要ではない、誰が言ったのかが重要なのだと世に言うが、と言うより嫌というほど言われてきたが、しかし自覚がないという台詞は、どこのどなた様が口にしたところで、誰から言われたところで、それは一律に基本否定的な叱責しっせき、もっと言えば悪口となるだろう。 きみって自覚ないよね。 自覚がないんだよな、お前は。 正面切ってこんなことを言われて、やった褒ほめられたと思う人間はまずいるまい──たとえ己が師事しじする先生や師匠から愛情をもって言われたところで、己のことを思っての発言だとわかっていたところで、ほんの少しも気を悪くしない人間もまた、いないはずだ。 その嫌悪感が、目覚まし時計に対する嫌悪感と繋がっているのかもしれないという考えは、非常に論理的で理知的で理に適かなっていて、反論の余地がないように思われる。目覚まし時計は、いわば自覚なし時計なのだと。 ただ、僕がこの理論を学会へ提出するのに二の足を踏んでいるのは、決して栄誉を拒む遠慮深い気持ちからではなく、先ほどと同じ二つの理由である。つまり目覚ましと自覚なしの相似は、これも日本語においてのみの現象であり、また湯冷ましほど極端な断定はできないとは言え、しかし自覚なしという言葉よりも目覚ましという言葉をあとに知るということはないように思われる。 いや、単語として、つまり国語的な知識としてどちらを先に知るかはともかく、人間が、なんらかのスタンバイ状態から『目を覚ます』前に、自覚がないと怒られることはないだろうということは、なんとなく直感的に理解できそうだ。推理をする上で直感に頼るのはいささか愚かであるようにも思われるが、しかし直感というのはなかなかどうして当てになる。 たとえば『嫌な予感がする』と言えば大体当たる。嫌なことがひとつもない人生、嫌なことがひとつもない日などというものは残念ながら確実にないからだ。人生に一日もないからだ。まあだから、自己暗示としては、まず朝起きたら、『今日もいいことありそうだ!』と、あっけらかんと言い切ってしまうほうが吉である。していようとしていまいと、『いい予感がする』と言ってしまえばいい。いいことがひとつもない人生、いいことがひとつもない日などというものもまた、ないからである──というか、朝からそんなことを言える環境にあるというだけで、十分いい一日であると言えよう。とにかく直感は当てになる。というか、目覚ましと自覚なしに関連がないことくらい、考えなくても、説明できなくても、なんとなくわかるだろう。 なのでニュアンス仮説のことは一旦いったん忘れよう。 あれは悪い冗談。 寝覚めの悪い話だった。 己に似た者を探す行為が多く徒労であるよう、目覚まし時計に似た物を探す行為もまた、徒労であると考え、ならば個別の個体として考えようではないか。類は友を呼ぶという言葉があるが、この言葉を友であれば類であると解釈すれば、あの目覚まし時計に友がいるとは思えず、よって類があるはずもない。となると必然的に目覚まし時計をこの世に現存する唯一の物体、唯一の概念として語ってこそ、この嫌悪の正体が知れるというものだ。それでこそ人は巧者となれる。 目覚まし時計、目覚まし時計、目覚まし時計。 ましどけいめざ。 この言葉をこうして繰り返していると、めざしと聞こえてきて、極めて平均的な日本人であるところの僕としては朝食を連想せざるをえないが、しかしそれはむしろ喜ばしい連想であって、また連想はとりあえずもうしないと決めたのだから、それ以上は語るまい。 議論はその先だ。 目覚ましと体言化されているが、この言葉を文章として解きほぐすと、読み下すと、『目を覚まさす』ということになるだろう──対象、つまり目覚まし時計のかたわらで眠る人間、いわゆる実体としての『僕』の目を覚まさせる時計というのが、目覚まし時計ということになる。それが目覚まし時計の定義、大袈裟おおげさに言うならば存在理由となるだろう。目を覚まさせないのならば、目覚まさない時計と言うべきである。 言いにくい。 そしてここだ。 その目を覚まさすという言葉そのものに、狂おしい押し付けがましさを感じるがゆえに、僕は、僕達は目覚まし時計を嫌悪するに違いないのだ。そもそも目というのは放っておけばおおむね覚めるものであって、それを機械に依存するということ自体が気に入らないという、言うなればラッダイト運動的な気持ちが僕にあることも間違いないが、それ以前にどうして目を覚まさなければならないのかという根本的な問題がある。 目を覚まさないということは、それは夢を見ているということだ。目を覚ますということは即すなわち夢から醒めるということで、これも印象があまりよくはない。よくはない、はっきり言って、悪い。極悪ごくあくなる行為の具現と言ってしまうのが適当だろう。 不況、不景気、先行きのわからない世の中。 そんな夢を見ることもできないこんな世の中だからこそ、夜くらいは、夢を見ていたいものではないか。それを無粋ぶすいに引っ繰り返す目覚まし時計、あえて『彼ら』と擬人化して呼ぶが、『彼ら』の行いは、およそ許しがたい。人はいつか現実を知るのだ。ならば寝た子を起こすべきではないのではないだろうか。 できれば僕は目を覚ましたくないし。 目を冷ましたくないし。 そして目を醒ましたくない。 おはようございますという挨拶があるが、早いと思うならもう少し寝させてくれと言いたくもなるのが人情だろう。朝はおはようではなく、ちょうどいいねと言われたいものだ。少なくとも昨夜おやすみと言ってくれたのならば、休ませて欲しいものだ。寝る前におやすみと言ってくれた人に、朝おはようと言われれば、正直、裏切られた気持ちにもなる。 裏切りは悲しい。 そもそも朝だから起きなければならないという発想そのものが、もう旧態依然きゅうたいいぜんとした姿勢であることは、既に証明されている事実でもある。歴史が証明している。日本が誇る国際的文化であるアニメの大半が深夜に放映されていることからも了然であるように、今や人類は夜行性なのだ。これは遠からず、生物学者も認めることになるであろう、もはや冗談ではない揺るぎのない事実である。勉強も作業も、深夜に行われる。夜型になることで、人類は更なる進化を遂とげようとしているのだ。ともすると今後、月と太陽のイメージが逆になるかもしれない。だからこそ人は朝にこそ眠るべきであって、だからこそその朝に人を起こそうとする目覚まし時計は、人の進化を阻害する悪鬼羅刹あっきらせつの類であると言わざるを得まい。 気持ちはわかる。 目覚まし時計というひとつの機能に頼りたくなる気持ちはわかる──しかし今こそ人は勇気を持って、その機能に別れを告げるべきなのではないだろうか。決別のときが来たのだ。 もういいじゃないか、目なんて覚まさなくても。一生ぼんやり生きたところで、精々一笑せいぜいいっしょうに付ふされるくらいだ。むしろ笑いものにならない人生なんて、つまらないだろう? みんなの笑顔を見ながら生きていきたいじゃないか。 だから僕達は目覚まし時計にこう告げよう。 嫌悪ではなく、感謝の念を込めて。 「ありがとう。そしておやすみ」 「寝るなー!」 「寝るなー!」 殴られた。蹴られた。 突かれた。頭突ずつかれた。 それも的確に急所をである。その急所が、人体に多数ある急所のうちどこであるのかを列挙するのは手間になるのでここでは伏せるが、結構クリティカルな急所ばかりであったことだけは明かしておかねば、その後の僕の悶絶もんぜつと展開が繋がらなくなるだろう。 「起きたくないだけのことで、どれだけ言い訳するつもりだよ、兄ちゃん」 「大体私達、時計じゃなくて妹だし。目覚まし妹だし」 と。 阿良々木火憐かれんと阿良々木月火つきひ、ベッドの脇に仁王立ちした僕の二人の妹はそう言うのだった。仁王立ちというのはこの場合比喩ひゆではなく、話を面白くするための言語上のたとえ話ではなく、本当に仁王立ちである。阿吽像あうんぞうのポーズで、彼女達は僕に不平不満を述べているのだ。 火隣が阿で。 月火が吽。 おもしれえ。 このままフィギュア化とかして欲しい。 「いいんだよ。僕博士の提唱するニュアンス仮説によれば、似たような言葉は同じものだと判断していいことになってるんだから」 「時計と妹のどこが似てんねん」 火憐に関西弁で蹴っ飛ばされた。関西に何の由来も持たない火憐の関西弁はイントネーションがおかしいどころの話ではなく、『似てんねん』が『煮天然』と聞こえた。 何の調理だ。 「時計と妹。ただのしりとりじゃないの」 月火も言う。 それは突っ込みというよりもいちゃもんのような台詞だったが、しかし僕はその言葉から次なる発想(の飛躍)を得た。 「閃ひらめいたぞ。『とけいもうと』というグッズを販売するのはどうだろうな。長針が火憐で短針が月火。で、朝起こしてくれるんだよ。喜多村きたむらさんと井口いぐちさんの声で」 「個人名を出すな」 「お兄ちゃん。アニメはもう終わったんだよ。グッズももう出ないの」 「そうか……」 悲しいな。 悲しい事実だな。 だが、悲しいかな、受け入れなければならない現実だった。 もちろん火憐や月火も、アニメバージョンの起こし方をしてきたところを見ると、それなりに引き摺っているのだろうが。 「う~~~~ん」 と。 ショックな現実と向き合ったからというわけではないが、しかし妹達と話しているうちに、さすがにいい加減目が覚めてきたので、醒めてきて冴えてきたので、僕は悶絶し、うずくまるように丸まっていた姿勢から、背筋を伸ばすポーズを取る。女豹めひょうのポーズっぽいあれだ。あまり想像して欲しくはない、阿良々木暦の女豹のポーズ。 「よし、起きた。意識が覚醒した」 僕は言う。 とけいもうと達、もとい、妹達のほうを向いて。 「今、何世紀だ?」 「いやいや。なんでコールドスリープから目覚めた奴気取りなんだよ」 「世紀を跨またぐほど寝てないでしょ」 ツインエンジンで突っ込まれた。 なんというサラウンドシステム。 三人組で突っ込み二人というパターンも珍しい──気がする。 ただ、その珍しさはもっと追体験してみたくもあったので、僕は言葉をそこに重ねてみた。突っ込みやすい隙を見せてみた。 「僕が起こされたということは、特効薬が開発されたということか」 「なんで治療薬ができるまでコールドスリープされていた奴なんだよ」 「お兄ちゃんにつける薬はまだ開発されてないよ」 面白い。 若干月火が尊敬すべき兄に対して辛辣しんらつ過ぎて、普通の当たり障さわりのない突っ込みしかできない火燐の立ち位置が不遇ふぐうな気もするが。 「核戦争はもう終わったのか?」 「何を核戦争、終わってない」 「えっ……!?」 火憐の台詞に、月火が焦った。 前言撤回。 火憐がすべった場合、巻き添え的に一緒にすべったことになってしまう月火の立場のほうが本格的に不遇そうだった。 「ふむ……しかし、こりゃあいけるな。阿良々木三兄妹きょうだいでの予告編」 「いや兄ちゃん。だからアニメはもう終わったんだって。アニメが終わったんだから、予告編もないんだって」 「予告PVもないの」 突っ込みが激しい。 ていうか予告PVもないのか。 「そうか……じゃあ、原点に返って、一から出直しだな。裸一貫だ」 裸一貫、などと言えば、神原かんばるあたりが喜んでしまいそうだが、まあ心構えとしてはそれくらいのものである。 一から出直し。 頑張っていればまた、いつか映像化の話も来るかもしれないぜ。 「というわけで、火憐、今なんどきだい」 「いち、にい、さん、しい、ご、ろく……ん?」 落語的なノリに一瞬付き合ってくれそうだった火憐だが、現代を生きる中学三年生の彼女はどうやら元ネタをよく知らなかったようで、中途半端で止まってしまった。 これもまた月火が何も言えないパターンだった。 突っ込み二人のシステムにはやはり無理があるようだ。 僕は、二人から返答を得ることを諦めて、部屋に置かれている置時計を見るのだった。ちなみに僕の部屋には置時計が四つある。四つとも目覚まし機能は備えていないのだが。 以前、目覚まし時計を置いたこともあったのだが、火憐の正しい拳こぶし、即ち正拳突きで砕かれた。わあ、鉄って新聞紙みたいに破れるんだあ、と僕は蒙もうを啓ひらかれたものだった。 いわく、 「兄ちゃんの目を覚まさせるのはあたし達の役目だ! 機械に仕事は奪わせねえ!」 とのことだった。 不思議なキャラクター性の妹だった。 ラッダイト妹と言える。 僕を毎朝定時に起こすということは、つまりこいつらはそれよりも早く起きなければならなくて、それは決して簡単なことではないだろうに、それを人生的な任務として背負っているのは、しかし何故なぜなのだろうか……。 えーっと、そう。 確か、中学からなんだよなー。 僕が中学に上がってから、こいつらは僕を起こすようになったんだった……何故だ? 何故こいつらは僕を起こす? 失われた家族の絆きずなを取り戻そうとしているのだろうか……だとしたらそれはいつ失われたのだろう。 なんとなく、そんな今更な疑問を脳裏に残しつつも、僕という寝起きの者は、今が六時であることを確認する。長針と短針が、百八十度の角度を作っていることを確認する。 まさか夜ということはないだろうから、当然ながら朝の六時──また、僕がコールドスリープを受けたわけじゃないという事情を鑑かんがみれば、今日の日付は……。 「二月の、十三日か」 僕は声に出して確認する。 時計は四つある部屋なのだが、カレンダーはないのだ。 阿良々木暦なのにカレンダーがないとはこれ如何いかにという感じだが、僕はそこまで名前に即した生活を送っているわけではない。 名は体を表さない。 「バレンタインデーの前日だな。おい妹達、僕に渡すチョコの用意はできたのか」 「うわあ」 小粋こいきなウイットに対し、ドン引きの声を上げたのは月火のほうだった。枯れた花でも見るような目線だった。 「残念な兄だ……妹に堂々とチョコを要求するなんて、残念過ぎる。人としてありえない。人間の最終形態ってこうなるんだ……」 「何を言うか。ちょこっと残念、くらいなものだろう」 「今ので残念さも極きわまった。絶対に言ってはならない台詞だった。お兄ちゃんかわいそう。彼女がいるっていうのもきっと嘘なんだね。戦場せんじょうヶ原はらさんは時給千円で雇ったエキストラなんだね」 「戦場ヶ原さんをエキストラにするな。あいつは金で動く女ではない」 と言ってみたものの、よく考えたら結構、金に対する執着は強いほうの女子だった。時給千円ならまず動く。スピーディに動く。それを知っているらしい月火は、むしろ得意顔だった。得意満面な笑顔だった。こいつ彼氏面づらしてるくせに彼女のこと何にも知らないんだな、みたいな。 まあ。 確かに何にも知らないかもしれねーけど。 無知蒙昧かもしれねーけど。 ……それを差し引いても、この妹達に戦場ヶ原を妹達に紹介して以来、その関係は親密みたいなのだが──特に月火は性格的に合うようで、仲良くしているみたいなのだが。 この様子だと僕には用意していないようであるチョコレートも、彼女達は戦場ヶ原については用意しているかもしれなかった。 「そうか……これからは百合ゆり展開を前面に押し出していくつもりか。この商売上手じょうずさんめ」 「お兄ちゃんが何を言っているのかわからない。百合とかわかんない。百の合あいとかわかんない。それに商売上手って言うのであれば、百合よりもむしろBL的な方向へシフトすべきだよ」 妹が恐ろしいことを企たくらんでいた。 さすがファイヤーシスターズの参謀さんぼう担当。 計ったように、謀り過ぎだ。 「つーか兄ちゃんはバレンタインデーとか気にしている場合じゃねーだろうが。じゃねーだろうがねーだろうが。おらおら」 と、火憐が僕を踏みにじってきた。女豹のポーズをとり続けていた──というか、まあ目覚めの柔軟体操を繰り返していた僕の背を、ぐりぐりと踏みつつ、彼女は言うのだ。 「大学受験日程まで、あと一ヵ月ということだぜ。わかってんのか。わかってなけりゃ死んだほうがいいってわかってんのか。ぶっ殺すぞ」 「え? そこまで言われる憶えはないし、ぶっ殺される憶えもないぞ?」 とは言え確かに、今日からちょうど一ヵ月後、三月十三日が、いよいよこの僕、阿良々木暦の大学受験の日なのだった。 幸い、センター試験でずばっと足切りされることはなかった──あの頃の状況を思えば、それは奇跡的な結果だと言えそうだ。結果というより成果と言いたい。もちろん、ぎりぎりと言えばぎりぎりな結果だったので、成果だったので総合的に見れば残念なことに、ハードルはむしろ上がったという言い方もできなくはないのだが…… 「ったく、ったくもう。これだから兄ちゃんはゴミなんだよなー」 火憐は腕を組んで言う。酷ひどいことを言う。 漫画とかではよく見る表現だが、現実世界で、生きている人間をゴミと呼ぶ人間はそうはいないと思うのだが。 「自分のやらなきゃいけないことが見えてないんだよ。目先の、明日のこととかしか見えてなくて、一ヵ月後のこととか、全然見えてないんだ。未来に対して何の展望もないんだ、目を閉じてるんだ、瞑つぶってるんだ。そんな展望のないことで、どうやって生きていくんだよ。そのザマじゃ死ぬこともできねーぜ。たとえ大学に合格したとしても、その後が思いやられるぜ。思っただけでやられるぜ。このあたしに敗北を経験させるとはたいしたもんだぜ。大し過ぎだぜ、この親善大使が」 「親善大使って……」 そんなののしりかたをされた生きている人間も、まあ僕くらいのものだろうが、中学と高校の違いはあるとは言え、同じ三年生でありながら、しかしエスカレーター式なので進学のための勉強をほとんどしていない、しなくていい火憐嬢じょうは、僕に対してかなりな上からだった。 ただでさえ身長でも上からなのに(しかも信じられないことに、こやつはいまだ成長中なのだ! 僕よりって言うより、周囲の誰より長身になりつつある)、態度でも上からになるとは。 ここまでくるとコンプレックスではなく快感を持ってしまう。背の高い妹にぐりぐり踏みにじられながら僕の生活態度や人生観をねちねちなじられるという。しかもそれを、末の妹にじろじろ見られているという。 「ほら、さっさと起きて勉強しろよ。自分を追い込めよ」 「確かに追い込みの時期ではあるが、しかし自分を追い込む時期じゃあないと思うぞ……かくいうお前だって、あんまり油断していると進学できないかもしれないんだから、僕の心配だけをしている場合かよ」 と、僕は身体をよじって体勢を変え、僕を踏みにじっていたおみ足をつかんだ。身長が高いから当たり前なのだけれど、火憐の足は相応に大きい。両手でも持て余す感じだ。 「えい。くすぐってやる。えいえい」 「ははは。きかねーな。鍛えてあるから、あたしの足の裏の皮は相当分厚いぜ」 「えい。じゃあ舐なめてやる。えいえい」 「うひゃうっ!」 実際に舐めたかどうか、火憐が舐められる前に足を引いたかどうかは僕達兄妹のプライバシーを守るために特に秘すが、とにかく火憐は足を引いてくれた。これによって僕には自由活動が許されたので、ベッドから降りた。 今や目は完全に覚めていた。 ばっちりぱっちりだ。 油断すれば二度寝をしてしまう意志の弱い僕ではあるのだが、しかし、これだけ妹達に構ってもらっていればその二度目のタイミングは完全に逃した感じだ。 それは起こしてくれた二人にもどうやら伝わったようで、 「もう大丈夫みてーだな」 と、火憐は満足そうに頷うなずいた。 ただ兄を起こした程度のことで、一大事業を成し遂げた風格を漂わせている。 大した自己肯定力である。 「んじゃ、あたし、ランニングに行ってくるぜ。ランにニングってくるぜ。風呂の用意をしておいてくれ。火傷するような熱い風呂をな。なんなら兄ちゃんも一緒にひとっ走りどうだい?」 「お前のペースについていけるわけがねーだろ。ランニングが百メートル走なんだよ、お前の場合。しかもそれでマラソンなんだよ、四十二・一九五キロなんだよ。神原とでも走ってろ」 「本当に神原さんとすれ違うこともあるんだぜ、この時間だと」 「そうなんだ」 思い出してみれば、あの愛すべき愛しの後輩は毎朝十キロダッシュを二回やっているということだったな。フルとは言わないまでもハーフでマラソン、走ってるんだったな。だとすれば確率的に、火憐のマラソンとすれ違うこともあるだろう……タイプが違うので一概いちがいには言えそうもないけれど、神原と火憐、どっちのほうが体力はあるのかな? 「じゃあねー。あたしがいない間とっても寂しいだろうけれど、兄ちゃん、次は朝ご飯の席で会おうぜ。欠席したら、そのまま欠席裁判に雪崩なだれ込むからな!」 「僕の何が裁かれるんだよ」 まあ。 心当たりはないでもないが。 下手へたをしたら犯罪者のようにではなく、魚のように捌さばかれるか。 「あばよ! 兄ちゃんのとっちゃーん!」 台詞からそれが物真似なのはなんとなくわかるが、しかしあまりにも似てなさ過ぎて偶然かと疑ってしまうような台詞を残しつつ、火憐は僕の部屋から出て行ったのだった。走って出て行ったのだった。ランニングでも百メートル走でもマラソンでもいいのだが、しかし家の中から既に助走をつけて走っていく奴も、あいつくらいのものだろう。 まあ着替える必要もないジャージ女だしな。 ジャー女じょという言葉を考えたが、まあ、はやりそうもない。 「火憐ちゃん、髪伸びたよねー」 と。 そんな火憐を見送って、僕の部屋に一人残った月火がそんなことを言う。 「伸び伸びだよねー。夏休みにポニテを自切じせつしたときはびっくりしたものだけれど。だいぶ戻ったよね。もどもどだよねー。やっぱり成長が早いタイプの子って、髪が伸びるのも早いのかな?」 「ああ、そうだな……」 自切という言い方は、なんだかトカゲの尻尾しっぽ切りみたいで表現としていささか怖いが、まあ事実に即していないわけではないし、ともあれ、確かに火憐のポニーテイルもだいぶん回復した。さすがに元通り、とは言えないにしても、短い尻尾を作れる程度には伸びたのである。 「お前ほどじゃないにしてもな、月火」 「お前ほどでもないでしょ、お兄ちゃん」 「お前って言うな、お前」 兄の強権を発動する大人げのなさはともかくとして、確かに今や、月火と僕の髪の毛の長さは異様と言ってもいい感じになっていた。 月火が髪型をころころ変えるのは昔からなのだが、今はどういう心境なのか、彼女の心に何があったのか、ある時期から月火は己の髪を伸ばしっぱなしだった──月火の身体を物差しにしていうと、今や足首に届きかねないストレートである。 なんというか、趣味で着ている和服も相まって、髪の毛を武器に戦う女忍者みたいである。くのいち月火である。 月影である。 で、僕は僕で僕はと言うと、そもそもは『首筋』を隠すためだけに伸ばしていた髪の毛が、あの地獄のような春休みから約一年、足首とまでは言わないまでも、結構な長さにまでなっていた。背中の半分くらいのところまで毛先が届いていて、それこそ昔の火憐のポニーテイルくらいは作れそうな長さになっていた。 今度切ればいいや、明日切ればいいや、どうせいつか切るんだからそのいつかが今である必要はない、とか、どんどん先延ばしを繰り返していた結果、えらいことになってしまった。 どえらいことだ。 「私はともかくとして、お兄ちゃん、受験の前に切っておいたほうがよくない? 面接とかで印象悪いでしょ」 「面接なんかねーよ。大学受験に面接なんかねーよ。バイトじゃねえんだから。うーん、でもまあ試験官に対する印象ってのはあるだろうなあ。あっちゃうだろうなー、困ったことに。ていうか僕も好きで伸ばしているわけじゃないから、むしろ切りたいくらいなんだが、でも、受験願書の写真をこの状態で送っちゃったから、今切ると繋がらなくなるんだよなー」 僕は、特に寝癖のついていない髪に触れつつ、言う。 「まあ受験が終わったら切るぜ。ばっさりだぜ」 「見ていて暑いよー。冬なのに」 「お前に言われたくはないな。お前のは髪というよりトレンチコートだ……うーん」 意味もなく月火のほうに手を伸ばし、髪の毛をくしゃりとかき回す。すげー量の髪だ。なんだろう、人のせいにするのはよくないが、こいつがここまで髪を伸ばしたことが、僕の感覚を麻痺させていたような気がする。ほらあれだ、二本の棒を並べて、どっちのほうが長いでしょう的なあれだ。 まあ月火のほうが倍くらい長いわけだが……。 「さて……それでは火憐のために風呂でも用意してやるとするか。朝から労力をかけて、時間を割さいて、老体に鞭打って、あいつのために風呂の用意をしてやるか」 「恩着せがましいねー、お兄ちゃん。恩の重ね着を強要するねー」 「あいつ、ああやって身体をびしびし日本刀のように鍛えてるけどさあ、鋭い僕が考察するに、なんか部活とか入らないのかねえ」 阿良々木火憐は空手ガールである。 今風に言うなら空手女子だ(今風か?)。 ならば空手部とか、そうでなくともなんらかの運動部に所属してもよさそうなものだが……、妹になどなんの興味もない僕はそんなことを今まで考えもしなかった、想像だにしなかったけれど、今、ふと気になった。 「火憐ちゃん、部活には入れないんだよー。やれやれまったく、お兄ちゃんは何も知らないんだから。だから」 得意顔の月火である。 人にものを教えるのが好きという意味では親切な奴だが、それを加味したところで不愉快な態度である。まあ月火がむかつくのはいつものことだからあとでこてんぱんに殴るとして、その前に、火憐が部活に入れないというところが気になった。どういうことだ? 「どうして火憐は部活に入れないんだよ。それはもう完璧に初耳だな。妹のことで僕が知らないことがあるなんてあってはならないことだ。ブラックリストにでも載ってるのか? それともまさか、ファイヤーシスターズとしての活動が忙しすぎるからか?」 だとすればファイヤーシスターズとしての活動を、今すぐ禁止しなければならないと思うのだが。その口実ができたと言えそうだったが。 「違う違う。通っている空手道場の定め。学生は部活禁止なの。実戦派だから。超実戦派だから。派だから。だから」 「……? よくわかんねーけど?」 僕は首を傾かしげる。 「お前も妹なんだから、ちゃんと兄である僕に理解できるように説明しろよ、この愚か者が。ザ・フールが」 「すごい態度だね……私の態度も酷いけど、お兄ちゃんの態度は最悪に酷いね。酷ひどく酷こくだね。ぶっ飛びだね。いやほらだから、武道で帯取ってたり、プロボクサーのライセンスとか持ってたら、それは凶器携行けいこうと同じ扱いになるって言うじゃない。それと同じ」 「ああ……言うは言うな」 うーん。 それは俗説だという話も聞くけれど、まあ、でも、火憐が部活に所属できない理由はわかった。要するに通っている道場の規約に反するということなのだろう。 実戦派。 超実戦派。 という、わかったようなわからないようなその表現の内実がどういうものなのかはいまひとつ判然としないけれど、しかしその空手の技を身をもって体験したことのある僕からしてみれば、頷けなくもない話だ。あれを一般世界で使うと、色々とパワーバランスが崩れてしまいそうだ。 少なくとも僕なら、貫手ぬきてで雑誌を貫けるような奴と、組手をやりたいとは思わない──思える奴は、自分でも同じことができる奴、つまりは道場の身内のみだろう。 「ああでもそう言えばその話、聞いたことあったぜ。妹のことなんかどうでもいいから忘れていたよ」 「説明させといて、それ?」 「ついでに思い出した……、いつかあいつの師匠に会おうと思っていたんだった。その伏線を回収しておかないとな。その伏線さえ回収すれば、すべての伏線を回収したと言っていいはずだ」 「全然だと思うけど……」 「しかしなんだか勿体もったいない気もするなあ。惜しいっつーか、なんっつーか、火憐のあの体力が、肉体強度、フィジカルの強さが、表の世界に出ることなくファイヤーシスターズ内の、非合法な活動の中に埋もれていくというのは」 「非合法じゃない」 月火は主張するが、それは無視する。 非合法扱いされていないのは二人が女子中学生だからであって、彼女達の活動自体は概おおむね合法の範囲を超えているのだ。 法外なのだ。 ついでに言えば、僕から見れば正義でさえもないが、その議論を妹と始めると尽きないので、体力が尽きるまで議論が尽きないので、ここでは軽くいなす程度で終わらせておこう。 しかしそういう観点から見ても、つまり正義云々うんぬん、活動の意義云々は慈悲の心で置いてやるにしても、ファイヤーシスターズの活動には苦言を呈ていしておきたくもなる。 「月火、お前は惜しいとは思わないのか? 火憐のあの才能が埋もれていくのは」 「にゃ?」 「僕ほどじゃないにしても、奴が才能に満ち溢あふれた人間であることは確かだろう。何かこう、表舞台に立たせてやれないものだろうかと思わないかね? 道場とか、ファイヤーシスターズとかで縛らず、そうそう、オリンピックでも目指させて痛い!」 足を踏まれていた。 しかも可愛らしい踏み方ではなく、僕の足の小指の爪を、月火は己のかかとで踏み潰していた。狙いすましたピンポイント攻撃。踏み潰したという表現は過度に大袈裟にしたものではなく、事実である──だって爪とか割れてんだもん。 「何すんだお前!」 「え? だってお兄ちゃんがむかつくことを言うから……」 一瞬ピークに達したらしい感情は既に冷めたらしく、きょとんとした顔で応える月火。自分の行動に何の疑問も感じていない風だ。 「ファイヤーシスターズの絆を裂こうとする奴は、たとえお兄ちゃんでも許さない」 「えー……、お前だって解散とか考えてたじゃん。僕を女子中学生だらけの解散パーティに招待してくれるって言ってたじゃん」 「人から言われるのは腹が立つの」 とにかく自分を飾らない妹だった。 危険である。デンジャラスである。 「むかむかするの。なによ、なにがオリンピックよ。もうマンネリじゃない、あんなイベント。毎回毎回、同じようなことばっかりしてさ」 「伝統をマンネリと呼ぶな。四年に一度の祭典をマンネリと呼ぶな。オリンピックに駄目出しをするな。何者なんだよ、お前は」 「まあ、お兄ちゃんごときに教えてもらうまでもなく、火憐ちゃんがファイヤーシスターズをいずれは引退するだろうっていうのは確かだけどさ」 と、今度はそんな、冷静な風なことを言い出すのだから、この妹は難しい。憎らしい。 「高校生になったら、色々あると思うしね。あるめいてくると思うしね。環境も変わるだろうし。だけどそれでも、火憐ちゃんが道場をやめるってことはないと思うよ。火憐ちゃん、師匠にはすっかり心酔してるんだから」 「ふうん……」 なんだろう。 妹が心酔している見ず知らずの相手がいると聞くと、心中穏やかではなくなるな。こりゃあ伏線の回収云々はさておいても、その師匠とやらには一度会っておいたほうがいいかもしれない。僕の精神衛生上。 「お師匠さまのほうも、そうそう火憐ちゃんを手放さないだろうしねー。だってその人、お兄ちゃんとか以上に、火憐ちゃんのフィジカルを評価しているはずなんだから」 「何を? 僕以上に火憐を評価だと? おのれ、何様のつもりだ、その師匠とやらが一体、火憐の舌の柔らかさの何を知っているというんだ」 「いや、それは知らないと思うけれど……」 舌の柔らかさなんてどのタイミングで知るのよ、と月火が僕を睨みつけてきた。 「どうしてお兄ちゃんが火憐ちゃんの口腔こうこう内の魅力に詳しいの」 「むう」 いかん、撤退のときが来たようだ。 もはやこれまで。 どの道雑談だ、僕も今、この朝のたわいない雑談のうちに、火憐の今後の進退を決定できるとも思っていない。とりあえず月火に、ファイヤーシスターズ解散もやぶさかではない意志が残っている、まだあのときの話を忘れていないというのがわかっただけでも収穫だ。 まあ、僕の受験がどう転ぶのかはまだわからないけれど、どうすっ転ぶのかはまだわからないけれど、しかし、どの道もうしばらくすれば、火憐以上に、僕の環境が変わることも確かである。 その前に、火憐と月火。 この二人の妹になんらかの筋道をつけておいてあげたいという兄心が、意外なことに、僕に皆無なわけでもないのである──そう、いい加減、ファイヤーシスターズも。 目を覚ますべき頃なのだ。 僕も。 003 阿良々木火憐と阿良々木月火、栂つがの木二中きにちゅうのファイヤーシスターズと呼ばれる僕のにっくき二人の妹は、まあ親切心なのか習慣なのか、それとも嫌がらせや兄に対して優位に立ちたいという欲求からなのか、なんなのかなんでもないのか、とにかく僕を、朝起こす。夜歩くように朝起こす。平日であろうと日曜であろうと祝日であろうとおかまいなしに、ほとんどそれが生業なりわいであるかのように、命懸けであるかのように僕を起こす。 それを鬱陶うっとうしく思い、妹達にきつくあたったことも僕にはあったけれど(主に高一くらいの頃か)、しかしその点に関してだけは、彼女達はめげなかった。その後どんな目に遭わされようとも、目を合わせないくらいにシカトされても、彼女達は僕を起こすのだった。なんだかそこには執念さえ感じるくらいだった。 まあ最近、つまりここしばらくは、僕は受験勉強をしなければいけなかったので、それが深夜に及ぶこともあり、そういうときは、二人の『目覚まし』はありがたかったものである──今も正直ありがたい。と言うか、思い返してみればずっと、いつだってありがたい話である。 それを感謝できるくらいには僕も大人になった。 ただ、この二月という時期は、高校三年生である僕は、もう学校に行かなくてもよくなっていて、言ってしまえばここまで早く起きる必要はないのだ……効率を考えれば、そして健康を考えれば睡眠も一定時間は必要なので、早起きそのものにそうこだわることもないのだが、ここまでの約半年、散々その恩恵を受けたことを思うと、無下むげにもできない。まあだから、無下にしたところで彼女達は決してやめないのだけれど、受験勉強どころか、高校一年後半から二年にかけての遅刻欠席早退のせいで、そもそも卒業そのものが危ぶまれていた僕を救ったのがファイヤーシスターズだったことを思うと、無下にはできない。正義とかなんとかはともかく、彼女達の地道な目覚まし活動には、無視できない功績があるのだった。 受験に関して、僕の学力向上を支えてくれたのは間違いなく、羽川はねかわ翼つばさと戦場ヶ原ひたぎの両名だが、僕の卒業を支援してくれたのは、同じくらい間違いなく阿良々木火憐と阿良々木月火の両名なのである──それを考えると、まああれだ、軽い恩返しくらいはしてやりたくもなるのが人情だ。 人の情けだ。 念のために言っておくが、これは僕が妹萌えだからではない。 あんなものは漫画の中にしか存在しない(何度目の台詞だろう)。 むしろこれは心理学でいう返報性の原理という奴だ──そうに違いないのだ。人間は何か誰かから恩恵を受ければ、それを返したくなる『癖』があるらしい。 まあそれだけ聞くと、人間がまるでフェアな生き物で、フェアな精神を持っているかのような印象も受けるが、実際のところはそんな奇麗な話でもなく、要するに『他人に借りを作っている状態が気持ち悪い』ということらしい。 恩を受けたらそれを返してすっきりした状態になっていたい、あるいはちょっと多めに返して、こちらのほうが上に立っておきたいとか──まあ、そんな感じだろうか。 だからこそ、僕は今、火憐と月火に起こされ続けたこの半年──否、この六年間の借りを、そろそろ返したいと思うのだった。 兄として。 彼女達の将来を慮おもんばかる形で── 「まあ、火憐のほうはあのフィジカルだ、あの肉体美だ、僕が特に心を配らなくても、将来、なにがしかのものにはなるんだろうけれど……放っておいても一角のものにはなるんだろうけど」 ぼやきつつ階段を降りる僕。 壁に耳あり障子に目あり、影の中に吸血鬼あり。 どこで誰が聞いているかわからないのであえて最後まで言わなかったけれど、うん、けれど月火は心配だ。 阿良々木月火。 あいつの将来は結構真面目まじめに心配だ。 心を配らずには。 心を砕かずにはいられない。 来年の今頃、あいつが何をしているのかまったく想像がつかない……、頭の回転は速い奴なんだけれど、その回転の使い方を、完全に間違っている奴だから。 回転が空回りしている。 ファイヤーシスターズの戦闘担当、というか、行き過ぎた暴力を有する阿良々木火憐というオーバースペックな兵器、つまり言ってしまえば使い勝手の悪い暴力を使っていたからこそ、逆にと言うか、まだしもファイヤーシスターズの参謀として阿良々木月火は、まともに機能していたわけで……行動の自由度が上がってしまった場合、あいつがどんな策を練ねるのか、それは想像もつかないというより、考えたくもない。 あいつの人生をあいつがどう生きようが勝手と言えば勝手なのだろうが、しかしそれもまた人情として、僕のところにインタビューが来るような事態は避けたいものだ。 そう。 そういった諸々もろもろを含めて考えてみる限り、高校卒業を目の前にした僕が現在やるべきことは、もちろん言うまでもなく第一にまず受験勉強の総仕上げであり、そして言っておくべき第二として、妹達、特に月火ちゃんの更生なのである。 まあ具体的にそういう話を、もう両親としているわけではないけれど、もしも僕が大学に合格したならば、おそらく僕は家を出ることになるだろう──そうなったとき、あの妹達を残していくのはあまりに忍びない。 兄として無責任という気もするしな。 兄としてというより、人として、か? 繰り返して言うが、あんな奴らがどうなろうと知ったことではない。ないが、どんな人生でもどうぞお好きに送ってくれだが、それでもあとで僕が責められるようなことにならないよう、やるだけのことはやっておかねば。 というわけで、今日はとりあえず、どうせまた汗びっしょりになって帰ってくるであろう火憐のために、朝風呂を用意してやる僕なのだった。 違いますよ僕は無責任とかじゃないですよ、責任放棄とかちっともしてないですよ、だってほら僕はあいつのためにお風呂を用意してやったりしてましたからね、と、これで言えるのだと思うと、僕はもう得意満面だった。 くくくく。 奴の好みの熱い温度にしてやるぜ。 悪ぶってそんな気遣いをしたのがまずかった、火燐の好みの温度は、火傷するような熱さは、僕の好みの温度でもあったのだ。風呂場を掃除したり、アメニティを整えたりしているうちに、僕も風呂に入りたくなってきた。 走ってもないのに朝から風呂に入る奴があるかと言われるかもしれないけれど、人間、寝ている間にコップ一杯分の汗をかくという。ならばたとえジョギングの類をしなくとも、朝から風呂を浴びるというのは間違ってはいない。それに、別に今日に限ったことではなく、受験勉強をするにあたって、朝起きて(起こされて)、まず目を覚ますためにシャワーを浴びたりするのは、僕にとってそこまで珍しいことではない。 「…………」 そうだな。 かつて戦国武将は、食事を摂とるにあたって何人もの毒味役を立てたという。そのため武将の口に食事が入るときにはすっかりその食事は冷めたものになっていたというが、これはそれくらい、彼の命は大事にされていたということだ。ともするとこの逸話いつわは、用心のし過ぎでうまいものも食べられない武将の悲哀さを笑うものとなりかねないが、しかしそうではない、それは平和な現代からの上から目線でしかない。この仕組みのために実際に命を落とした毒味役だっていたはずなのだ。それほどまでに、武将の双肩そうけんには、そして壮健には、多くの命が乗っかっていたということだ。 振り返ってみて、ならば僕も、火憐のことを本当に大事にしようと思うのならば、彼女の身を、将来を本気で案じるならば、そのとき彼女のために行うことは、あいつに一番風呂を用意することではなく、先に風呂に入って、危険はないか確かめることではないだろうか。 風呂場というのは安全なはずの家の中で、もっとも死亡事故の多い場所のひとつらしいし、ランニングを終えた火燐をそんな危険地帯に送り込む前に、僕が安全を確認しておく必要がある。お湯の毒味を僕が務めるのだ。仕方なく。 というわけで僕は風呂に入ることにした。 気持ちよくひとっ風呂浴びることにした。 いやあ兄はつらいぜ、妹のために入りたくもない風呂に入らねばならないのだから、と、脱衣所で早速さっそく服を脱ぎ始める僕だったが、しかしそのタイミングで、 「あ」 と。 月火がそこに現われた。 しかも半分裸、つまり半裸で現われた。どうやら着ていた浴衣を、廊下に脱ぎ散らかしながら、この脱衣所に入ってきたらしい。いつものことだ。彼女は思いついたその場で服を脱ぐのだ。和服の脱ぎやすさがマイナスに働いているのである。その散らかした浴衣を誰が片付けるのかと言えば、そりゃ当然、月火以外の誰かである(主に僕だ)。 月火は半裸の状態できっ、と僕を睨みつけ、 「お兄ちゃん体裁ていさい!」 と言う。 「じゃなくて最低! 火憐ちゃんのためにお風呂を用意するとか言って、自分が先に入るつもりなんだね! 最低、最低、最低、最低!」 「いや、その姿を見る限り、そのあられもない姿を見る限り、お前もまったく同じつもりだったとしか思えないんだが……」 むしろお前の場合は、風呂を用意することもなく、僕が火憐のために用意した風呂を横合いから掻かっ攫さらうつもりだったであろう分だけ、たちが悪いと言えよう。その上でこちらを詰なじってくるというのだから、本当にこいつの将来が心配だ。 というか、こんな人格でよくもまあ今まで十四年間も無事でいられたな、こいつ。 ともあれ、月火は代謝たいしゃがいい奴なので、言ってしまえば汗っかきなので、タイミングがあれば風呂に入りたがる、ドラえもんで言えばしずかちゃんみたいな奴なので。 この機を逃すまいと現れたのだろう。 抜け目のない奴め。 抜け抜けと、抜け目のない奴め。 「とにかくそこをどいてお兄ちゃん。そのお風呂は私が入るんだから。私の邪魔をしたらいくらお兄ちゃんでもただじゃおかないよ」 「お前って奴は、風呂の順番争いくらいで、しかも朝風呂の順番争いくらいで、どうしてそこまで兄妹関係に亀裂きれつを入れかねない危なげな台詞が出せるんだよ……」 怖いよ。 どれだけその場のテンションで生きてるんだ。 「だってもう私、完全にお風呂な気分だもん。肉体こそまだここにあるけれど、気持ちはもう、風呂の中に入ってるもん」 「馬鹿を言うな。まだ半分ほどしかお湯は張られていないはずだ」 「私の体積分、もう増えてる」 「女子が体積を誇るな」 しかしここで順番を譲るには、僕もまた完全にもう風呂の気分になっていた。いや、月火のように気分が湯船に浸つかっているかと言えばそんなことはなく、気持ちも身体もいまだこの脱衣所にあるのだが、だけど妹に風呂を譲れと言われてあっさり譲ってしまうようでは兄の沽券こけんにかかわる。 妹が風呂に入ろうとしているのを兄が押しのけて入るというのならば至極しごく真っ当と言えなくもないが、その逆はあってはならない。それはそれで、兄としての責任を果たせていないと言わざるを得ないのである。 だから僕は胸を張って(ちなみに僕は今、上半身裸の状態である。半裸の妹に半裸の兄が向き合っているという対立の構図だ)、月火に対してこう宣言せねばならないのだった。 「妹よ。どうしても風呂に入りたいというのならばこの兄を倒しあぶねえっ!」 すんでのところでかわしたのは、奴が何の躊躇ちゅうちょもなく投げたシャンプーボトルだった。生意気にもこの中学生、マイシャンプーを持っているらしい。下手をすれば石鹸せっけんで頭を洗いかねない火憐と、その辺が違うオシャレさんだと言えようが、しかし真のオシャレさんならシャンプーボトルに回転を加えて人の顔面を目掛けて投げたりはしない。 「ちっ」 そしてオシャレさんは舌打ちをしない。 ていうかマジで怖いよこの妹。 何考えてんだ、何も考えてないのか。 「危ないだろ! 何をするんだお前は!」 「兄を倒せって言うから」 「違う違う、倒せというのは精神的な意味だ。肉体的にはむしろ倒すな、尊敬し、跪ひざまずくくらいの気持ちになって欲しい」 「厄介やっかいだなあ」 と言いながら、月火は後ろ手に扉を閉めた。鍵こそかけなかったが、とにかく自分はこの場所から決して出て行くつもりはないというアピールらしい。そして僕の後ろに吹っ飛んでいたマイボトルを拾いに来る。 しかもそのままさりげなく、流れるような自然な動きで浴場のほうに入ろうとしたので、僕は慌あわててそれを遮った。 男らしく身体を張ってである。傷ついた子供達を守るかのように、僕は風呂場への入り口を守ったのだった。 「ここを通りたくばこわっl」 今度は指で目を突いてきた。 目突きなんて、初期の戦場ヶ原がしたかしてないかくらいの攻撃だぞ(してたけど)。 しかも戦場ヶ原の場合はまだしも、己の抱える悩み、問題ゆえに頑かたくなに攻撃的になっていたというのがあるけれど、月火の場合、ただ風呂に入りたいというだけである。 「いい加減にしてよお兄ちゃん、お風呂をいい湯加減にしたところで、お兄ちゃんの役割は終わってるんだよ」 「絶対に言っちゃいけない台詞だな、それも」 「どけ」 「嫌だ」 なぜここでここまで意地を張るのかもわからないが、妹に対して後手ごてに回りたくない下手したてに出たくないという僕の兄としてのプライドだけが今僕をここに立たせていた。 恐怖で足が竦すくんでいるからと言ってもいいが。 だって月火ちゃん、本気で僕を睨んでるんだぜ? ヤンデレでもないのに病んでるよ、こいつ。 ヤンデレからデレを引いたら、もう普通に病んでる人じゃねえか。 「この風呂は僕が沸かしたんだから、僕が一番に入る権利がある」 「私のためにお風呂を沸かさせてあげたんだから、それで満足してよ、お兄ちゃん」 議論は平行線だった。 というか議論にさえなっていない。 かみ合っていない、強しいて言うなら今にもつかみ合いの喧嘩が始まりそうだというくらいである。 そもそも火憐のために沸かした風呂だという前提が、どこかに消えてなくなっている。 どころかこの時点で二人の頭からは、現在どこかを気持ちよくランニング中の火憐のことは消えていた。 あいつが爽さわやかに朝の風をエンジョイしている中、僕達はどろどろとした兄妹間の争い、いわゆる骨肉こつにくの争いを展開しているというのだから、阿良々木火燐は僕達三人のうちで一番勝ち組なのかもしれなかった。 ただ、その火憐にしたっていつかはそのランニングから帰ってきて、汗を洗い流そうとこの脱衣所に登場するのである──汗びっしょりの汗だくで颯爽さっそうと登場するのである。 そんな三みつ巴どもえの争いになった際、誰が勝つのかといえば、そりゃもう間違いなく火憐なのだった。状況的にも、風呂に入るには誰から見ても十分な汗をかいて登場するに決まっているし、また力ずくとなったとき、僕と月火が結託したところで、あいつの片腕にも勝てない。 こうして僕と月火の状況が拮抗きっこうしているのは、そう、僕と月火の戦力がおよそ拮抗しているからに他ならない。もちろん僕は男子なので、男子なりの腕力をもってはいるのだが、しかし月火には僕にはない狂気がある。ためらいなく人体急所を狙う狂気がある。 つまり互角なのだ。 となると、このまま僕と月火が均衡きんこうを保っているうちに、汗だくの火憐が現れて漁夫の利を攫っていくという未来図は目に見えていた──それはまた、月火にも見えている未来図だろう。 それさえわからないほどに後先を考えない妹ではない──いや、後先は基本的には考えないのだけれど、しかし頭の回転は、とにかく速いのだ。僕よりも先に、その未来図には辿たどり着いていたはずである。ただ、感情のブレーキがなかなか利かなかったため、結果として、今それに気付いた僕と、同じくらいの対応しかできなくなったというだけだ。 「よしわかった、お兄ちゃん。間を取ろう」 「間を取る?」 妥協案だきょうあんか。 ほほう。 なるほど参謀家らしい提案だ。 通常の戦争は、最初から落としどころを想定して行うというしな。 しかしこの場合、僕と月火の間にどんな落としどころ──妥協点があるというのだろうか。一番風呂の権利というのは、言うならば一点ものの商品であって、それを取り合うという状況は、ゼロサムゲームという奴だ。一方が勝てば一方が負けるというルール。ならばそこに妥協点も妥協案もないはずなのだが。 しかし月火はさすがである。 伊達だてに、それにこんな厄介極まりのない性格で、中学生のカリスマに上り詰めてはいない。並の参謀家では思いもよらない提案を、ファイヤーシスターズの参謀は僕にしたのだった。 「間をとって、一緒に入ろう」 004 間を取った。 なぜか月火と一緒に風呂に入ることになった。 「なぜだ……」 なにゆえだ。 どうしてこんなことに。 それは偏ひとえにお互いに意地を張り合った結果と言えよう。 言えようと、言いたくはないが、言えよう。 「えー? 入りたくないのー? じゃあお兄ちゃんって妹の裸に欲情するのー? ありえなーい。浴場だけにありえなーい」 という奴の言葉にたぶらかされた結果だとも言えるが、そもそも月火のほうにしたって、最初にその妥協案を出した時点では、そう申し出れば僕が怖気おじけづいてすごすごと脱衣所から出て行くだろうという読みがあったはずなのだ。 そんな読みがあるということがわかっていたからこそ、僕もすごすごと出て行くことはできなかったし、むしろ、 「おいなんだ、てめえ口だけか。言ってみただけか、このおませさんめ。本当は僕と一緒に風呂に入る度胸なんてなかったんだろう、このチキン女が」 と、挑発的な態度を取ることになり、そして現在に至るのである。 至る、いきつくところまでいったのである。 僕と月火、兄と妹が洗い場で並んで、二人、隣合わせに長い髪を洗っているという状況である。折角の機会なので月火のマイシャンプーを使わせてもらっているが、ふむふむなるほど、確かにこれは泡立ちが違う。 「…………」 「…………」 なんかあれだな。 あれっちゃあれだな。 想像していた十倍くらいきついな、ここまで育った兄妹が、一緒に風呂に入っている図って……。アニメ版ほど広い設定の風呂ではない、というか一般家庭の一般的風呂のサイズなので、中高生が二人揃えば、それで結構ぎゅうぎゅうである。 頭を洗っていて、互いの肘ひじががしがしあたる感じだった。 「……お兄ちゃん」 「なんだ、妹よ」 「なにか喋しゃべってください。思ったより気まずい」 「ああ……」 その通りではあるだろうが、お前がそれを言い出すなよ。 まあ言い出してもらって、こちらとしては助かったところもあるが。 このまま無限の沈黙が続くというのでは、物語的にもキツいものがあった。 たまに何か、テレビとかラジオとかで芸能人のエピソードとして、今でも親子でお風呂に入っている成人した娘さんの話なんかを聞くことがあるけれど、しかし兄妹って例はなかなかないだろうし、いないだろう。 そういう意味では現在進行形で、僕と月火はレアなレポートをお届けしていることになるのだが、このレアさを誰か求めているのだろうか。 むしろウェルダンという感じ。 しかしここで、気まずいのならば『じゃあちょっと先に僕あがるわ。ごゆっくり』とか、『私もう出るね。お兄ちゃん、ごめんなさい』とか、そういうことを言い出せないのが僕であり、月火であるのだった。 むしろ逆で、 「気まずいんだったら出ていけや月火。本当お前はいい格好しいなんだからなー。吐いた唾つばを飲むくらいだったら最初から言うなっての」 「お兄ちゃんこそ、天に唾するとはこのことだよ。私はお兄ちゃんの貧相な身体を見るのが気まずいと言ったんであって、一緒にお風呂に入っていること自体は、なんにも感じていないね。まるっきりの不感症だね」 と言い合ってしまう悲しさがあった。 僕達死ぬぞ。 「貧相な身体とは失礼な、この細マッチョを取り上げて」 「細マッチョ? それは放送禁止マッチョの間違いでは?」 「間違い過ぎだろ、ふざけんな。だけど月火、お前がどうしてもって言うなら出て行ってやらないでもないんだぜ」 「どうしても、どうしても、どうしても、どうしても出て行って欲しくないね」 それでもやっとのことで提示した僕の譲歩を蹴っ飛ばす月火。 なんて奴だ。 こいつ意地だけで生きてやがる。 「それともなに、お兄ちゃん、妹の裸に欲情しているから早く出て行きたいの。浴場から出て行きたいの」 「二回言うか? それを二回言うのかお前は。お前こそ、僕のボディに本当は見蕩みとれちゃっている癖に。割れた腹筋に触りたいって思っているんだろう、本当は」 「思ってないよ、そんな風に、八個に割れている腹筋になんか」 「数えてんじゃねえよ。腹筋の割れかたを数えてんじゃねえよ。ガン見みじゃねえか」 「お兄ちゃんこそ本当は、妹のおっぱいガン見なんでしょう」 「ありえないね。妹のおっぱいごとき、初めて見るわけでもあるまいし」 「おかしいでしょ? 妹のおっぱいを初めて見るわけでもない兄って」 「尽くしているね、知り尽くしているね。その二つの肉塊にくかいについては」 「肉塊って言うな。女子の胸を、焼肉屋さんみたいに表現するな」 「はっ。この鳩胸が。平和なんだよ、お前は」 言ってみたものの、しかしやはりこの状況に動揺しているのか、僕は単語としての鳩胸の意味をやや失念していた。どっちなんだろう、大きい胸という意味なんだろうか、なだらかな胸という意味なんだろうか。 月火がにやりと笑ったところを見ると、前者だったのかもしれない。しまった、敵に塩を送ってしまった。というかこの場合、これこそ鳩に豆鉄砲という感じだろうか。 何がこれこそなのかそれこそ意味不明だが。 「大体、よく考えたら」 僕は取り直す。 改めて。 「夏場は平気で、お前達姉妹は半裸で廊下を歩いているじゃないか。半裸っていうか四分の三裸くらいで生活しているじゃないか。生命活動を送っているじゃないか。それを思えば、一緒に風呂くらい全然たいしたことないぜ。問題があるとすれば、距離が近過ぎることくらいじゃねえか」 「だからそこが問題なんじゃないの。だからそこが大問題なんじゃないの、お兄ちゃん? 夏場の廊下でも、お兄ちゃんがこの距離まで寄ってきたら、エルボーだよ」 「エルボーなのか……」 リアルな攻撃方法だなあ。 今も肘は当たっているのだが。 「服を着ててもエルボーだよ」 「嫌い過ぎだろ、お兄ちゃんを。ていうかマジで狭いな……、誰かさんの心くらい狭い狭量さだ。月火、お前さっさと髪を洗い終えろよ。湯船に一番に入る権利は、仕方ねえ、この際譲ってやるからよ」 そこを譲ってしまえば、もうなんのためにこの一番風呂争いをしたのかが不明過ぎるが、最早もはや目的はそんなところにはないのだった。 今の僕の目的は月火を、阿良々木月火を、この小生意気な妹中学生を従えることにあって、上からものを言うことであって、風呂がどうとか、一番がどうとか、そういうところではないのだ。 この生まれてから一度もお礼を言ったことがないのではないかと疑わしい妹に、ありがとうお兄ちゃんと言わせてやりたい。 感謝の言葉を口にさせたい。 が、そう促うながすと逆らうところが阿良々木月火だった。 というより、彼女は彼女で、僕と似たような心境であるようだった。 「ふっ。お兄ちゃんこそじゃないの? お兄ちゃんに譲られるくらいだったら私はむしろ譲っちゃうね。柚子ゆず風呂だね」 「柚子? 冬至でもないのに? ふざけんな、先に入れっつってんだよ」 「嫌だっつってんだよ」 「がー!」 「ぐー!」 意地の張り合いが言語を失うと末期である。 世界の終わりである。 いよいよ激しくお互いの肘が、頭を洗うお互いの肘が、びしびしと、鞘当さやあてのようにぶつかるばかりだった──今は互いに正面を向いているからいいが、このままでは腹筋とおっぱいが向かい合いかねない。 言い合いになったことで、気まずさのほうはやや収まったけれど、それで根本的な状況解決になったわけでもない。 背徳感あふれる状況というか、普通に嫌なだけの状況だ。 ただ、ここでもクレバーなのは月火のほうだった──やはり頭の回転においてはこの妹、僕よりも速い。 彼女はこんな提案をしてきた。 「お兄ちゃん、じゃあちょっとさ、一人ずつ頭を洗おう。お互い、髪の毛の量が多過ぎるんだから、こうやって横並びで頭を洗うのは非効率だよ。不経済だよ」 「恐らく頭を洗うのに経済は関係ないとは思うが……」 しかし非効率なのはその通りだった。 たまにはその通りなことも言うじゃないか。 折角いいシャンプーを使っているというのに、これではコストパフォーマンスが最悪である。むしろストレスで髪が抜けかねない。 「しかし月火。横並びが駄目ならどうするんだ。一人ずつ頭を洗うって、具体的にはどういうポジショニングのことを言うんだ」 「つまりこうするのさー!」 元気よくテンションを上げて、立ち上がって僕の後ろに回る月火。こんな風に、何の前振れもおふれもなく、いきなり元気になるのも、彼女のピーキーさの一環と言えよう。それは裏を返すと、感情の起伏がプラスにもマイナスにもホットにもクールにもまったく読めない厄介な奴というだけのことにしかならないのだが、ともかく彼女は、僕の後ろに回って泡立っている僕の髪の中に手を突っ込んだ。 「こうやって私がお兄ちゃんの髪を洗ってあげるのさー!」 「なっ……!」 この『なっ』は、驚きの表現としての『何なに』の略の『なっ』であったが、しかし同時に、『なるほど』の略の『なっ』でもあった。確かにこの狭い空間においては、それぞれが同時に自分の髪を洗うのは難しいが、しかし相手の髪を洗うのであれば、まるでパズルをはめ込むように、それが嵌はまるという形になるのだった。 たとえるなら、誘拐され、後ろ手に縛られた人質同士が狭い部屋に閉じ込められたとして、その縄は自分では解けないかもしれないが、しかし背中合わせになり、互いの縄を解くのであれば、意外とすぐに解ける、みたいなものか。 なんたる発想の転換。 コペルニクス的発想の転換。 これは月火に一本取られたと、シャッポを脱ぐしかなかろう。 「……シャッポってなんだ?」 「帽子でしょ? この長ったらしい髪の、寝癖を隠すための帽子」 「いい加減なことを言うな。寝癖を隠すために帽子なんてかぶったことがねえよ」 「そうなんだ。私はあるけど」 「お前のオシャレ事情の裏事情を僕にばらすな」 「あわあわー」 僕の髪を泡立てるのに、擬音をつける月火。 なんだか僕の頭からそんな謎の音がしているようで、馬鹿みたいだからあるいは馬鹿にされているみたいだからやめろと言いそうになったけれど、しかし、無闇むやみにことを泡立てても、いやさ荒立てても仕方がないので、そこはぐっと我慢した。 大人の態度、大人物の風格。 「ふむ。人の頭を洗うっていうのは、これでなかなか、優位に立った気分で、快感だね。頭部という人体急所を、文字通り握っている感じが悦楽えつらく。生殺与奪せいさつよだつの権利を握っているって言うかさー。こりゃあ美容師さんの気持ちがわかったよ」 「勝手に人の気持ちをわかったみたいになるな、そして無茶苦茶なことを言うな。美容師さんはそんなこと思っちゃいないよ」 「いやでも、これが理容室とかになると、かみそりでお髭剃ひげそったりするわけでしょ? 顔剃りしたりするわけでしょ? それはもう、絶大な上下関係じゃないの」 「上下関係っていうか……」 信頼関係と言うべきでは。 ただまあ、いいかたはともかく月火の言っていることは、わからないでもない。 そしてまた、その逆もしかりだ。 生殺与奪の権利と言えばいかにも大袈裟だが、ともかく人体頭部を他者に委ゆだねてしまうというのは、場合によっては快楽と言うこともできるだろう。人は普通に生きているだけでも、無意識のうちに、己おのが身を守るために周囲八方に気を配っているものだ──その警報機を切れるというのは、ある種解放感となるかもしれない。 もちろん、相手が自分に危害を加えないというのが前提だが……、人が対人関係において信頼を大事にする大きな理由は、人を信頼するということは、ある種の解放感、ひいては快感に繋がるからだとする説には、それなりに説得力がありそうだ。 ……もっとも、極悪な妹である(正義はどこにいった)月火は、その信頼関係を、イコールで上下関係だと見做みなしているようだったが。 それもまた真理。 真理にして心理。 誰かを絶対的に従える、信頼を受けるというのも、また解放感であり、快感なのだから──まあ、やや話が広がり過ぎてしまったけれど、今の状況を整理してみると、朝から妹に頭を洗われているだけのことであった。 「うーん」 「どうした髪洗い」 「妹を変な妖怪みたいに言わないで。髪を洗おか人とって食おかとか、私は言わない。いや、人の頭って、こうして直じかに触ってみたら、あわあわとさわさわしてみたら、意外とちっちゃいなーって思って」 「ちっちゃいって言うな、ちっちゃいほうの妹」 「いやいや、今もう、お兄ちゃんと私、そんなに身長変わらなくない? 私もここんとこ、成長期気味だし」 「姉妹揃って、何センチになるつもりなんだよ、お前達は……」 「私も、さすがに火憐ちゃんくらいの大きさになりたくはないんだけれど……、あのサイズはさすがに色々大変そう。でも、それでも姉妹だからねー。私も火憐ちゃんみたいに、身長が伸びちゃうのもやむなしなのかも。考えたら小学生の頃って、私と火憐ちゃん、身長同じくらいだったわけだし」 「…………」 しかし、想像するだに恐ろしい事態だな。 二人の妹が二人とも、兄である僕の身長を抜くというのは……兄の威厳も沽券も、へったくれもあったものではない。 ちっちゃいが頭だけじゃなくなる。 「いやでも、ひょっとするとそれは希望のある話でもあるのかもしれない。兄である僕もまた、火憐くらいの大きさになれるかもしれないという希望が、そのパンドラの箱の底には眠っているのかもしれない」 「高三から身長は伸びないでしょ……、伸びる公算はないでしょ。その希望はお手上げ、つまりは降参でしょ」 「三段活用で僕の希望を壊すな。パンドラの箱を引っ繰り返すな。言っておくが月火、もしもお前が僕の身長を超えるようなことがあったら、足首を切り落としてでも僕より低くするからな」 「恐ろしいことを言っておかないで。犯行予告でしょ、それ」 「馬鹿な。足首であることに兄の情を感じないのか、貴様は。本当だったらそのもの首だったかもしれないんだぜ?」 「そんな本当だったらがあるか」 首をねじられた。 生殺与奪の権利を握られていることを失念していたぜ。 「むう。切り落とした足は僕の部屋に保存しておいてやるのに」 「猟奇性が増したよ。増し増しだよ」 「増し増しか」 「まあ実を言うと今でも、私が私のこの髪の毛を全部逆立てたら、お兄ちゃんどころか火憐ちゃんだろうと抜いちゃうんだけどね。ごぼう抜きなんだけどね」 「その量の髪の毛を逆立てるとか、それこそもう妖怪じみているだろ。どんなジェルだよ。だって、身長と同じくらいの長さの髪なんだから、単純計算で倍になるぜ?」 「そうだね」 「兄として、そんな妹とはバイバイだ」 「え? 今なんか言った?」 「訊き返すな!」 まあ逆立てなくても、足首まである髪だけでも、十分十二分十三分に妖怪じみているのだけれど。漫画とかイラストとかではそれなりにないでもないデザインの女子だけれど、リアルでいると実は結構怖い長さだ。 怖い怖くないというのはさておいても、家の中で何度か、自分で自分の髪を踏んで足を滑すべらしている月火を目撃したことがあるし。 受験生の前で滑るなよ。 さすがに切ればいいのになあ、と思わなくもないが、その辺はきっと僕と同じで、タイミングを逃している状態なのだろう。 「繰り返しになるけど、やっぱ髪伸びるの滅茶苦茶早いよなー、お前」 「お兄ちゃんこそ。こそこそ。伸ばし始めたのって、今年度からだったと思うけれど、普通一年足らずでここまで伸びないよ。どんなコソ練をしたの?」 「髪伸ばすのにコソ練なんてしねーよ。まあ……、僕も僕で、代謝のいいほうだからな」 正確に言うと。 春休み以来──代謝がよくなったのだが。 「えい。逆立てちゃえ」 と、月火が僕の髪で遊び始めた。 泡で形を作って、人を鉄腕アトムみたいな髪型にし始めたのだった。 「すごい。鉄腕お兄ちゃんだ。スーパーお兄ちゃんだ」 「スーパーサイヤ人みたいに言うな」 「洗い流すねー」 と、月火はシャワーヘッドを手に取り、僕の頭部から泡を流し落とした。流す際にもヘッドマッサージを忘れない手際てぎわは、まあ美容師っぽい感じではあった。 かつては美容室でヘアスタイルをころころ変えていた彼女の、門前の小僧という奴か。 続いてコンディショナーである。 これも月火のマイボトルだ。 考えたら、こいつの髪の量では、三回も頭を洗えば、コンディショナーが尽きてしまいそうだが……、代謝はいいかもしれないけれど、燃費は悪い身の上である。 「お。コンディショナーはワックスっぽいから、セッティングの自由度が更に上がるよ。うふふ、リーゼントっぽくー」 「お前、人の頭で遊ぶのもいい加減にしろよ……すべてにおいていい加減にしろよ」 どうなってるか、自分では見えないが。 たぶん悲惨なことになっている気がする。 「けっけっけ。このまま身体も洗ってやるぜ」 と、僕の言うことには耳を貸さず、風呂場に常備されている、家族共通のボディソープのボトルを手に取る月火。それを手に適量取り出し、泡立て始める。 「あっ! お兄ちゃんお兄ちゃん」 「なんだよ。そんな明らかに閃いたとばかりの声を上げやがって」 「一発ギャグを考えた。すごい面白い奴」 「なんだその振り。不安でしかねえぞ」 そもそも、『すごい面白い』という形容自体が、一発ギャグという響きとそぐわない気がする。いや、一発ギャグを生業とするかたがたにはいささか失礼な物言いになるのかもしれないが、一発ギャグって基本的に面白い面白くないではなく勢いがすべてというイメージがあるのだが。 「あのね、あのね。こっち見て、こっち見て」 「なんだよ」 言われて、僕は首だけで振り返る。 というかこの妹、最早恥じらいも何もなく、自分の裸を見るように要求してきたのだが……。あまりにもそれがナチュラルだったため、僕もナチュラルにそれに従ってしまったが、果たしてこれでよいのだろうか。 よくなかった。 よくよく、よくなかった。 妹は裸でポージングしていた。 両手を頭の後ろで組んで膝を立てていた。 しかも、掌てのひらでなみなみと泡立てたボディソープを胸や腰、太ももなどにたっぷりとつけたコンディションで──である。 「タイトル・都条例」 「こえーっ!」 風刺を利かすな! 僕は慌てて湯船から、洗面器で掬すくったお湯をぶっ掛けた。泡は吹っ飛んだ。都条例的にはよりやばい状況下になった気もするけれど、しかし、こういうのは変に隠すほうがよっぽど嫌らしいというのが僕の意見である。 すっぱだかは健康的で芸術的なのだ。 「何をするんだー!」 「お前が何をするんだ、だよ!」 「うーん。ポージングはこうやって、両手を揃えて上に突きあげて、『スカイツリー』のほうが、遠回しでよかったかな」 実際にそのポーズを取る月火。 本人は先ほど脱衣所で体積がどうとか言っていたように、自分の体重を気にしている風でもあったが、実際にはそこまで肉付きがいいほうではないので、そんな風に縦たてに伸びてみるとあばら骨がはっきりと浮いていたりして、まあ、スカイツリーっぽいと言えばスカイツリーっぽかった。 「でもスカイツリーというのなら、髪の毛を逆立てたほうがいいかもな。あれ、高さ六百メートル以上あるらしいから」 「そうだにゃー。私の髪もさすがに六百メートルはないけれど。でもそうなると、火憐ちゃんがやったほうがいいのかもしれないねー」 「ふむ……」 確かに説得力がありそうだ。 が、しかし。 「だけど月火、火憐の場合は、身長がある分おっぱいも相応に巨大だから、タワーというには凹凸が危険っ!」 月火は風呂場というデンジャーゾーンにおいて、あろうことか蹴りを繰り出してきた。しかもハイキック、僕の首を狙ってである。こいつの突っ込み、というか攻撃、無言で唐突とうとつに繰り出されてくるから、本気で殺人的だ。 「妹のおっぱいを批評するな。並べて揃えて較くらべるな」 「ふっ。なるほど確かにそれについては僕が悪かったが、僕が悪いからと言って、そう簡単に謝ると思ったら大間違いだぜ」 「すごい態度だ……ほら、身体洗うから、もうあっち向いていいよー。あわあわー」 「その効果音、なんだか、お前が想像している以上に低年齢っぽいんだけど……もうちょっと賢かしこそうになれないもんか、お前」 「じゃあ、あばばばば」 「芥川龍之介かよ」 それはそれで、かの文豪のイメージを崩しかねないタイトルなんだけどな。 少なくとも高尚ではない。 「ていうかそれ、ちゃんと『ば』の数合ってるんだろうな」 「当然だよ。合ってるよ。なんだったら検証してみたらいいよ」 僕の背中を流しながら、自信たっぷりの月火。 しかし月火の場合自信と内実が一致することのほうが少ないので、というより自信がないときのほうが自信があるように振る舞う傾向があるので、その態度からは、合ってない可能性のほうが高いように思われた。 「あばば。あばばばばば、あばばばばばばばー」 案の定、複数回、色んな言い方をすることによって、何が真実かを誤魔化すという姑息こそくな手段を取りながら、月火は僕の身体を洗い始めた。 「ていうかこら。手で直接洗うな。横着するな。ちゃんと手順を踏んで、そこにあるスポンジを使え」 「手で洗ったほうが細かいとこまで奇麗に洗えるんだけど。手順なのに踏むってなんかおかしくない? え、ちょっと待って、じゃあまさかお兄ちゃん、妹の手で直接触られることに興奮してるの? やだ変態、一生ネタにしてやれ」 「お前のスリリングな、その場だけの、その場限りでその場しのぎな生き方を見ているだけで、僕は十分興奮しているよ……」 「ひっひっひ。足の指の間を洗ってやるぜ。これでも心中穏やかでいられるかな?」 「スリリングだ……」 よくも悪くも、おおむね悪くも、目の前のことをどうするかしか、考えていない。 頭の回転を、直前直後のことにしか使っていないのだ。 こんな奴に将来のことを考えろとか、もっと先のことを見据えろとか、そんなことを言っても無駄な気がしてきた……、馬の耳に念仏というか、わかっててやってそうという意味では釈迦しゃかに説法である。まだしも火憐のほうが、なんにも考えていない猪突猛進ちょとつもうしんの火憐のほうが、将来性という意味では真っ当だ。 まあ月火のほうも、流れに逆らえず妹と一緒に風呂に入ってしまっている僕に言われたくもないだろうが……ふうむ。 「よしっ、洗い終わった。ニスでもかけたみたいにぴっかぴかだ! 交代!」 「交代?」 「当然でしょ。次はお兄ちゃんが私の髪を洗うに決まってるんだよ」 「くっ……、貴様、嵌めやがったな」 そんな交換条件を提示してくるとは。 当然と言えば当然だが、決まっていると言えば決まっていたが、条件を後出しされると、こちらとしては敗北感でいっぱいになる。まあしかし、ここで嫌だと言うことは、イコールで僕が風呂場から出て行かなければならないということなので、こうなってしまえば月火の思惑おもわく通りに、彼女の頭を洗ってやるしかなさそうだった。 なんと。 妹の洗髪をする羽目になろうとは、なんたる屈辱……、仕返しに、ボディソープで頭を洗ってやろうかと画策かくさくしかけたが、バレたらボディソープを飲まされかねないので、やめておくことにした。 お互いに可哀相過ぎる。 仕方あるまい。 ここは大人の態度で、妹の頭を洗ってやるとしよう。 そんなわけで僕達兄妹は、ポジションをチェンジした。 横並びではなく、一人ずつ頭を洗うという作戦は功を奏しているように見えて、しかしそれは、実はそれほどそうでもなかった。これだけ髪の長い人間が同時ではなく一人ずつ頭を洗うということになればイコールで、それ相応の時間がかかってしまうことになり、結果として、一番風呂争いとして同時にここにいるはずの僕達は未だにどちらも、湯船に浸かれてはいなかった。 髪ではなく足を引っ張りあっている感じ。 なんだかこういう状態を言い表すいい諺があったような気がするけれど、なんだっただろうか。 「つーか、本当に、本格的にすげーな、お前の髪の毛の量……こうして実際に手に取ってみると、もうなんて言うんだろう。髪って言うか、ちょっとした布っぽいな」 「布?」 「着物の布。ずっしり来るし。水を吸ってるからなのかな、相当重いぞ、これ」 「あ」 「うん?」 「わかった、月火ちゃんわかっちゃった。最近太ったなーって思ってたんだけど。いくらダイエットしても体重減らないって思ってたんだけど、それは髪の重さだったのだ」 「なるほど……なるほどな馬鹿だな。もう切れよこれ。いい加減。お前も切るタイミングを逃しちゃってるんだろうけど。なんなら僕が今、この場で切ってやるよ。ばっさりやってやるよ。なあに、女子の髪を切るのは初めてじゃねえ」 「詳細はよくわからないけどすごいキャラ設定だね……、いや、いいの。いいのいいの、これは願掛がんかけだから」 「願掛け?」 「前掛けでも膝掛けでもないよー」 「いやそりゃそうだろうが……」 なんだ。 タイミングを逃したとかじゃなくて、ちゃんと理由があって、こいつは髪の毛を伸ばしていたのか……意外だなあ。その場のテンションでしか生きていない阿良々木月火が、そんな風に未来を見据えた行動を取るだなんて。 しかし考えてみれば、一ヵ月単位で髪形をころころと変える月火が、ただ伸ばしっぱなしにしているという時点で、そこに何か理由があるのではと考えるべきだったかもしれない。 これは兄として恥ずべき不覚だった。 「へー。そうだったんだ。どんな願を掛けてるんだよ。教えろよ」 「駄目だよ、教えられないんだ。教えたら願いが叶わなくなるもん」 「へえ、そうなのか。まあ、願掛けは人に話すと崩れるとは言うもんな……まあいいじゃないか。そう堅いことを言うな、お兄ちゃんは数の外だろう。話せよ」 「こういうときだけお兄ちゃん面しないで」 「うーむ。それにしてもすごい量の髪だ……」 言ってはみたものの、月火が何を願って髪を伸ばしているかなどさほど興味のなかった僕は、視点を月火の髪のほうへと戻した。 くそう。 量が多過ぎてうまく泡立たない。 あわあわという擬音が出ない。 これを僕の腕のせいだと思われては敵かなわない──というか、まあシャンプーの腕なんて、もとより持ち合わせてはいないのだが、それでも月火があれだけうまく泡立てたあと、僕がこのざまでは、兄として情けない。 全国のお兄ちゃんのためにも、これ以上兄の地位を下げるわけにはいかない。 「シャンプーの量が足りないんだな……本当、不経済というのならこの髪のほうだ。マイシャンプー、もったいなさすぎだろうこれ。あ、でもその分それだけ、美容室にいかなくてすむから、引き替えにお小遣いが浮くわけか」 「いや、美容室にはいくけどね?」 「何?」 「お兄ちゃんと違って、伸ばしっぱなしにしているわけじゃないよ……、毛先とかは揃えなくちゃいけないし」 「そうなのか……誰もお前の毛先なんて毛ほども見てないと思うけれど、そうなのか」 「酷いことを言うね。酷過ぎることを言うね。そういう心ない台詞を繰り返すことによって、私や火憐ちゃんの、ひねた正義が形成されてきたということをお忘れなく」 「ひねた正義と自分で認めるな」 お。 さすがに後から継ぎ足して、倍の量のシャンプーを使えば、月火の膨大な量の髪の毛もそれなりに見事に泡立ち始めた。お陰で、髪の量が更に増えたようにも見えるが。 「ふふふふー。泡立てー。もっと泡立てー。こりゃ確かに面白いな、はまるな、人の頭を洗うのって。クールな僕の心持ちも、なんだか浮き泡立ってくると言わざるを得ないぜ」 「たとえ言わざるを得なくても、浮き足立つみたいに言わないで」 「この髪にうずもれたいとさえ思えてきたぜ。お前の髪で僕の全身を縛りたい」 「変態過ぎるでしょ。その場合は全力で私、風呂場から逃げ出すよ。そのときは私の負けでいい」 「さっきお前は僕の身体をハンドやフィンガーで洗ったが、お前の身体を僕は、この髪の毛で洗いたいね」 「傷みまくるからやめて。枝毛だらけになるからやめて。ただでさえ、伸ばしてると傷みやすいのに。それをするならお兄ちゃん、せめて自分の髪でやって」 「いや真面目な話、どうなんだろう。この髪の毛を身体に巻きつければ、お前裸で往来を歩いても、裸だって気付かれないんじゃないのか?」 「裸で往来を歩く理由が、月火ちゃんにはそんなには見当たらないんだけどな……」 「ふーむ」 髪の毛を洗っているうちに、自然な流れでヘッドマッサージに移行した。月火の頭を揉もむ状態だ。なるほど生殺与奪の権利を握っている状態。なるほどこれは面白い。 半端じゃない優越感がある。 「すげーなこの上から感……、真上から感、頂上から感。くるっと回転させたら、お前の首、すぽっと抜けそうだもん」 「私はそこまでは考えなかった」 「おっぱいを揉むより頭を揉むほうが興奮するな」 「怖くて失礼なことを言わないで」 「もみもみもみもみもみ」 「私の頭を邪よこしまな気持ちで揉まないで。せめてあわあわって効果音で止めておいて。あ、でもシャンプーはそうでもなかったけれど、お兄ちゃん、そのヘッドマッサージは悲しいかな、認めたくはないけれど案外、プロ級に気持ちいいね」 「ふふん」 得意げになる僕。 もっともよそではまったく活かせそうにないスキルである。どう転ぼうと、僕の将来が美容師に繋がることはないだろうからな。 そしてその他に他人の頭をもむ職種が思いつかない。 「よし、次はコンディショナーだ……、ん?」 「どうしたお兄ちゃん」 「全然足りない。コンディショナーさんのボトルがほぼ空だ」 「なにぃ!?」 月火が取り乱した。 トリミングと言ってもいいだろう。 いやトリミングと言うのはおかしいが。 しかし取り乱したといっても、先ほど僕の頭をコンディショニングするにあたって、おそらくはまだそれなりに残っていただろうボトルを使い切ったのは、他ならぬ月火自身である。その恩恵を受けた身である僕の立場からではやや言いにくいことではあるけれど、 「お前が悪いだろう」 と僕ははっきり言った。言いやすく言った。 「事前に確認しなかったお前が悪い」 「いや、誰が悪いとか、そういう話じゃないわけでしょ? ここで大事なのは、このままでは私の髪が荒れに荒れちゃうってことでしょ? プリキュアが死んじゃうってことでしょ?」 「プリキュアが死ぬ? それは大事件じゃねえか」 何と間違えたのか一瞬わからなかったが、たぶんキューティクルだった。いや全然違うだろ。それともキュアクールとかいたっけな。 「いずれにしてもとにかく『スマイルプリキュア!』は面白いって話だ」 「そんな話してないでしょ?」 「テーマがスマイルだから、泣きたくなるようなシチュエーションでも頑張って笑顔を浮かべるヒロイン達が最高」 「お兄ちゃんのフェチとか聞いていない。笑顔フェチとかどうでもいい。スマイルという言葉は、もっと素直に受け取って」 「宮沢賢治がなー」 「なに。話飛ぶねえ」 「宮沢賢治が生徒に出した問題で、一番長い英単語は何かってのがあって、その答が確か『スマイルズ』だったらしい。なぜなら、SとSの間に、一マイルあるから」 「ほほうなるほど一里ある、もとい一理ある。結構面白い人だったんだね、宮沢さん」 「宮沢賢治を宮沢さんって呼ぶな。敬意を持て」 「さん付けじゃん」 「むしろ馴れ馴れしいんだよ。……でも確かに不思議だよな、さん付けすることで、逆に親しげな感じが出てしまう人物っているよな」 「確かに。宮沢さんの場合、呼び捨てにしたほうが敬意がこもってる感があるよね。どういうことなんだろう……その辺の基準を探ってみるのは面白そうだ」 「いやまあ、直に知ってるか知らないか、あるいは亡くなっているか存命かの違いってだけな気がするけれど……」 僕は言いながら、シャワーをかけて月火の髪から泡を流す。 「さ、これで終了だ。次は身体を洗おう。お前の髪で」 「お前は人の話を一個も聞いていないお兄ちゃんか!」 激情した月火が思いっきりそのまんまな突っ込みを入れた。 「私の髪も毛をどうするつもりだ! 傷みまくるだろうが!」 「髪も毛?」 「髪の毛ー! ヘアー! おぐし!」 月火は喚わめきたてる。 シャープでスマートな喋り方はできないのだろうか、この妹は。 「でもしょうがないじゃないか、コンディショナーは切れたんだし、僕はお前の身体をお前の髪で洗いたいんだし」 「後者はまるっきりお兄ちゃんの好みじゃん! しょうがあるよ!」 「むう。言われてみればその通りだ。なかなかの洞察力を持っているな、月火。月火キュール・ポワロとはお前のことだ」 「かけようとしろよ! 何かを!」 「む。かけようとしろで閃いたぞ」 僕はシャワーヘッドの向きを変えて、それから空っぽと見えるコンディショナーボトルのノズルを外し、その中にお湯を少量入れる。 そしてノズルを閉め直し、いぶし銀のバーテンダーよろしく、そのボトルをシェイクする。よく混ざるように。 イメージの中の僕はチョッキを着ている。 「何しているのお兄ちゃん」 「いや、空っぽって言っても、ボトルの壁側には、それなりに液が残っているはずだから、こうして水増しすることで、お前の髪残り一回分くらいは補えるんではないかと思って」 「やめてよね、そんな貧しい真似」 「貧しい真似とな!?」 そんなブルジョアジーな台詞が妹から出てくるとは……兄としてショックだ。いつからこんな高慢な性格になってしまったのだろうと目を疑ったが、よく考えたら最初からだった。疑いの余地なく最初からだ。 一人だけこんな高そうなコンディショナーを使っている時点で、そのキャラクターは察せられようというものだ。 「そんな貧しい真似をするくらいなら、髪の毛が、ナチュラルにスーパーサイヤ人みたいになるほうがいいよ。月火だけに」 「うーん」 来年度中学三年生になる妹の中では、スーパーサイヤ人と大猿との知識が混ざってしまっているようだった。 さすがにこれくらい世代をまたぐと、そういった伝言ゲームも起こるのだろうか。 ああでも、GT版ならあれだな、スーパーサイヤ人が月のパワーで、更なる変身を遂げたりするんだったな。 だとすると逆に、ものすごいマニアなのかもしれない。 「でも、どのみち薬液は髪に吸いついている水と混ざるんだから、先か後かの違いだろうが」 「薬液と言うな、高価なコンディショナーを。ショナーを」 「ほら、見ろ。言うほど水っぽくならないんだぞ。多少気泡が入っただけで、立派なコンディショナーだ。ショナーだ」 再びノズルを外し、ボトルから直接掌に取り出したコンディショナーのお湯割りを月火に見せる。月火は眉をひそめるようにそれを見たが、 「しょーがないなあ、ここはお兄ちゃんの顔を立ててあげよっと」 と、諦めたようにうなだれた。 うなだれたというのはあくまでも姿勢の話であって、単純に、僕がコンディショニングをしやすくしてくれただけのことである。 髪を立てて、もとい顔を立ててもらえたので、再び僕は月火の髪の中に手を入れるのだった。 水増しすることで一回分くらいはなんとかなるかと思ったのだが、しかし何しろ月火の髪の量が髪の量なので、なかなか思い通りにはいかない──これは大事に使わなくてはなるまい。 慎重に慎重に。 金箔を貼る漆器職人のごとく、慎重に。 「うーん……、月火。しつこく言うつもりはないが、願掛けか何か知らないけど、せめて前髪だけでも切ったらどうだ?」 「中途半端に切るとねー、前髪の先が目に入ってちくちくして痛いんだよねー。どんなに愛情を込めてケアしていても、目に入れても痛くない髪というわけにはいかないんだよねー」 「そうか……」 よくわからん。 「というか、お兄ちゃん、そういう発言は全部ブーメランとなって自分に返ってくるってこと、ちゃんとわかってる? お兄ちゃんだって、前髪、十分長いでしょ」 「自分が伸ばしている分には意外と気にならないんだよな」 「前髪と言えば」 と。 月火が急に言った。 僕に頭をもみもみされながら言った。 「撫子ちゃん。退院しました」 「……そっか。それはよかった」 「あれ。思ったより反応薄いね。小躍こおどりして喜ぶと思ったのに」 月火は軽く僕を振り向いて、言う。 素朴な目だ。 「裸踊りをして喜ぶと思ったのに」 「するか」 「お兄ちゃんが裸踊りをしやすいようにと思って、わざわざ今、この風呂場というシチュエーションで言ったのに」 「そんなシリアスな話題を呈するときに、余計なことを企むな」 「はーい。とにかく退院しました」 「そうか」 そうか。 そうか、としか言えない。言う資格がない。 でもよかった、退院したというのなら。 もう僕は千石に合わせる顔はないけれど── それでもよかったと思える。 なんとか、思えるようになった。 「お兄ちゃん」 「なんだ」 「痛い痛い痛い痛い痛い。私の痛い頭を痛い万力まんりきのように痛い潰す痛いつもり痛いですか痛い痛い」 「あ、悪い悪い。力が入り過ぎたようだ」 「お兄ちゃんさあ、まあ私に言われたくはないとは思うけれど、言われたくはないと思うからむしろ言うけど、色々背負い込み過ぎだよー? 力入り過ぎ。撫子ちゃんのことは、お兄ちゃんの背にも手にも負えることじゃなかったんだからさー」 そんなわかったようなことを言うけれど、別段月火は、千石のことについて、千石撫子の、ここ数ヵ月の行方不明事件のことについて、詳しい事情を知っているわけではない。 無関係でこそないが、しかし関係者とも言いがたい立ち位置にいる──だからこそ言えることもあるのだろう。 言われたくないことを。 言えるのだろう。 「大丈夫だよ。撫子ちゃん、大分元気になってたし。ちょっと明るく、前向きになってる感じでもあったしねー」 「そうか……だったらいいんだけどな」 「時折笑ってたし」 「そりゃ……よりよかった」 本当にいい。 もう僕はその顔を、笑顔を見られないということなど、気にならなくなるくらいに、いい。 「まあいつか会ってあげてよー。撫子ちゃん家で静養しなきゃだし、しばらくは受験で忙しくて、無理だと思うけどもー」 事情を知らない月火は、あっけらかんとそんなことを言う──事情を知って言っているのだとすれば、こんな痛烈な皮肉もなかなかあるまいが、阿良々木月火はいい意味でも悪い意味でも竹を割ったようなさっぱりとした性格なので、そういう皮肉は言わないだろう。 ただ、気にはなる。 ただただ──気にはなる。 千石撫子は──阿良々木月火に、どんな風に、阿良々木暦のことを語ったのか、気にせずにいることは不可能だ。 未練みれんというわけではないけれど。 しかし後悔と言っては言葉が足りない── 「いやー、でも撫子ちゃん、お兄ちゃんの悪口、すっごい言ってるんだけどねー。お兄ちゃん、撫子ちゃんに何かしたの?」 「マジで!?」 「え? 冗談だけど」 「…………」 こいつ、なんという冗談を言うのだ。 タイミングが怖過ぎるだろ。 というか、タイミングが神がかっている。 「……そっか、でも──そっちの問題も残ってるんだったな」 僕は呟つぶやく。 千石撫子が、山を降りて──彼女の『行方不明』が解消された今、いやもちろんそれはいいことで素晴らしいことなのだが、しかしそのよくて素晴らしいことと引き換えにまたぞろ、この町は霊的に不安定になっている。 とのことだった。 それについては僕も詳しい事情を、そこまで詳しく知っているわけではないのだが──とにかく今、あの北白蛇きたしらへび神社はまた、空っぽの真空状態になっているのだ。 それを解決しないことには、解決とは言わないまでもせめてどうにかしないことには、この町ではまだ、トラブルが続き続ける──妹達のことはもとより、それを残したまま、この町を出るのは、いささか心残りと言わざるを得まい。 万事解決、とはいかなくとも。 せめていいバランスを取らなければ── 「……バランスか。それは本来、僕の役回りじゃないんだけどな──」 役回り。 聞こえないような小さな声で言ったつもりのひとり言だったが、しかし月火は、まるで僕のその独白をなぞるように、 「役回りじゃないんだよ」 と、言った。 どきっとするが、それは兄妹ゆえのシンパシーというかシンクロニシティというか、要するにただの偶然だったようで、 「お兄ちゃんは背負い込み過ぎなんだよ」 と、さっきの話に戻った。 「なんでもかんでもお兄ちゃんが解決できるわけじゃないんだからさー。色々投げ出して放っておいて、身の程をわきまえて分相応に、人任せにしちゃうのもいいと思うよー? 撫子ちゃんのことも、火憐ちゃんのことも、それに私のことだって、お兄ちゃん、気にかけ過ぎ」 「…………」 そうか。 それを言いたかったのか。 別に今日、さっき火憐の才能について論じたからそれを察したということではなく、なんとなく以前からこいつは感じていたのだろう。 僕が高校卒業と、受験を機に。 色々なあれこれに、決着をつけ──解決していこうと、清算しておこうとしていることを。 なあなあにしてきたことを。 誤魔化してきたあれこれを。 終わらそうとしていることを。 感じていたのだろう。 「私達のこと──っていうか、少なくともまあ私のことは、私がなんとかするからさー。火憐ちゃんが卒業して、中学校に私一人になったあとのことが不安なのはわかるけれど、でもそれなりになんとかするからさー。だからそんな心配しなくっていいって。大丈夫だって、オールオッケー。火憐ちゃんももちろん、なんとかするだろうし。自分のことは自分のことだと、なんとかするだろうし。撫子ちゃんだって。だからお兄ちゃんはとりあえず、目の前の、受験問題だけを片付ければいいと思うんだよ」 「…………」 目の前のことだけを見て生きている月火に苦言を呈さなければならない、こいつにもっと将来のことを考えるように指導しなければならないと思っていた僕が、その月火から目の前のことだけに集中しろと言われてしまっては世話がない。 笑い話にもならない。 ただ、腹も立たなかったし、言い返す気にもならなかった──確かに僕は背負い込み過ぎたし、僕がすべてを解決できるわけでもない。 僕にできることなど限られている。 実際解決できなかった。 八九寺はちくじのこと。 千石のこと。 僕には解決できなかった──専門家の力を借りなければ、どうにもならなかった。と言うより、そもそもこの一年、僕が自力で解決できたことなんて、一体どれほどあったというのだろう? 数えるほどで、数えるほどもなかった。 そもそもその目の前に差し迫った受験だって、その前提となる卒業だって、自力ではどうにもならなかったじゃないか。だから背負い込み過ぎというのはそうなのだ。その通りなのだ。 兄としての責任とか、まあ言ってみたものの。 責任があるからと言って、人は必ずしもそれを果たせるとは限らないのだ──人の力を借りなければいけないことも、人任せにしなければいけないこともある。 卒業までに。 この町を出るまでに、すべての後始末をつけるなんて、土台どだい無理な話なのかもしれない──ただ、だからと言って、すべてを無責任に放棄することもまた、違うだろう。 背負い込み過ぎるのはよくないが。 やらなければならないことはある。 たとえできなくとも挑むべきことはある。 「って言うかお兄ちゃん、受験勉強のほうは実際のところどうなの? あと一ヵ月で、なんとかなりそうなの?」 「なんとか……は、なりそうかな」 と、そう答えるしかない。 なりそうじゃなくても、そう答えるしかない。 悲しい自己暗示。 戦場ヶ原はもう推薦で入学を決めてしまっているので、僕はもうそれを追うことしかできないのだった──今更滑り止めとかない。ありえない。 だから僕は、滑り止めを一校も受験しないという男の中の男っぷりを発揮している──いやそれは、親からの信頼度の低い僕が、高額の受験料をそんなに出してもらえなかったというだけのことに他ならないのだが。 「背負い込むんじゃなく追い込む時期だと、だから私は言っているんだよお兄ちゃん。うまいこと言ってるんだよお兄ちゃん。こんなところで、妹の身体を洗っている場合なの?」 「いや、これに関しては、僕は何らかの責務を負って、なんらかの役を自任して、お前の風呂の面倒を見ているわけじゃあないんだが……お前を泡立てたり揉んだりしているわけじゃないんだが」 「そもそもこれ、根本的な問題はまったく解決していないよね。身体を洗うのは順番にすることで、洗い場の狭さ問題を解決したとしても、互いの第一目標である湯船の狭さは」 「ああ、そうだな……仲良く一緒にというアイディアにしたって、幼女と入ると言うならまだしも、中学生と二人で入るのは難しい容積だしな、このバスタブ」 「幼女と?」 「なんでもない。記憶よ飛べ」 と、僕はあえて最後はシャワーを使わず、洗面器で、その中学生と二人で入るには狭いバスタブからお湯をすくい、さっき恐ろしい一発ギャグを飛ばした月火にそうしたように、今度は後ろから、頭から、お湯を勢いよくかけた。 コンディショナーは髪に絡みやすいので、シャワーの水圧で洗い流すよりもこういう乱暴なやり方をしたほうが、一気に流し落とせるだろうという算段である。 「ぎゃー!」 と、気持ち良さそうに叫ぶ月火が小気味良かったので、サービス精神で更に二回三回とお湯を浴びせた。 「ぎゃー! ぎゃーぎゃーぎゃー!」 楽しそうだ。 「ぎゃー! もっとやってー!」 楽しそう過ぎるだろ。 しかしそんな求めに応えて、応え過ぎて、あんまりやるとバスタブからお湯がなくなってしまうので、このくらいにして、あとはシャワーを使おうと、僕はそちらに手を伸ばした。 伸ばしたところで。 僕は固まる。 僕達が頭をシャンプーし合っていた洗い場には、大きな姿見が設置されているのだが、それは今まで、今の今まで湯気に曇って水滴がついて、何も映らない、映っていない状態だった──だったのが、そこに僕が洗面器で、月火にお湯を浴びせたものだから、その向こうに設置されていた姿見にも、お湯の飛沫しぶきは勢いよく飛んだのだった。 よって一瞬、その姿見を覆う水滴は洗い流され、その正面に座っていた月火の裸身を映し出す──それはただの自然現象で、即ち自然なことだった。 だが不自然なこともあった。 否。 超自然なことがあった。 月火の後ろに立っているはずの僕の姿が──阿良々木暦の姿が、その姿見の中には見えなかったのである。 彼は鏡に映っていなかった。 さながら──不死身の怪異、吸血鬼のように。 005 部屋で月火に潰された小指の爪は砕けたままだ──無惨に痛々しく砕けたままだ。よって僕は現在、吸血鬼化しているわけでもない。にもかかわらず、僕の姿は今、鏡に映っていないのだった──これをどう捉えるべきか? どうもこうも、少なくともこれは冷静に捉えられる事象ではなかった。 なぜならこれは僕が春休みに吸血鬼化して以来、初めての現象である──などと唐突に言うと、いよいよ僕の頭がおかしくなったのか、妹と風呂に入ったあたりから怪しかったんだと思われるかもしれないので、一応ここで釈明しておくと。 僕は春休み、一人の──一匹の吸血鬼に襲われた。 血も凍るほど美しい吸血鬼。 鉄血にして熱血にして冷血の吸血鬼──キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレードに襲われた。 首筋にかぶりつかれ、吸いつかれ。 憑つかれに憑かれ。 血を吸い尽くされ、精を吸い尽くされ。 存在そのものを搾り取られ。 そして僕は吸血鬼になった。 『成った』。 怪異へと──変異した。 人間である阿良々木暦は終わり、吸血鬼である阿良々木暦が始まった──それが地獄にも似た春休みの二週間である。 鬼気迫る十四日間である。 結果だけ言うと今こうして、こうあるように、その後僕は人間に戻った──多少の後遺症は残しつつも、鬼から人へと回帰した。 その代償だいしょうに失ったもの、捨てなくてはならなかったものの数は決して少なくはなかったけれど、多大だったけれど、とにかく──なにはともあれ、戻ったのだ。 喜ばしく、誇らしい。 僕が羽川翼を第二の母、聖母として崇あがめているのは、このときに助けてもらった恩があるからである──それについて語りだすと話が終わらないので、忸怩じくじたる思いだが、そのくだりについては今は端折はしょるとして。 地獄は終わった。 とにかく終わった、十四日間で。 終わったはずだった。 もちろん、すべてが奇麗さっぱり、後腐れなくなんのわだかまりもなく解決したのかと言えばそんなことはまったくなく、その後も色々引き摺ったし、そしてその春休みの体験は、引き続き数々の事件の引き金ともなったのだが──僕という一個人の吸血鬼化事件という一点に限れば、まあ、解決したはずなのだった。 僕は人に戻ったはずなのだ──なのに。 なのにどうして、僕が鏡に映らない? 鏡に映らない、というのは、吸血鬼の最たる特徴のひとつではなかったか──不死身、血を吸う、影になる、霧になる、変身する、空を飛ぶ、蝙蝠を使う。 そして。 鏡に映らない。 その姿が映し出されない。 これじゃあまるで──僕がまるで、出来損ないでも半端者でもない、真っ当な吸血鬼のようではないか── それが真実のようではないか。 「…………」 「え、お兄ちゃん、どうかしたの?」 僕は思わず沈黙してしまったのだが、月火のほうはそんな風にいきなり黙り込んだ僕に、当然のことながら違和感を覚えたらしく、特にためらいもなくこちらを振り向く──その時点では月火はまだ、今まで頭を洗われていた関係上、そして大量のお湯を浴びていた関係上、目を閉じていたので、まだ鏡に映らない僕に気付いていなかった。 気付かれたら大変だ。 と、僕は振り向いた月火の顔を両手で抱えて、固定した。 もみもみではなく。 がっしりと、だ。 当然のことながら、そんな月火の向こうにある鏡には、月火の身体しか映っていない。成長の途上にある彼女の裸体しか映っていない。本来その裸体と共にあるべき、僕の姿がない。 そこに何もないかのように、風呂場の壁が映っている──風呂場の壁のタオルかけにかかっているタオルだけがそこにあった。 他にはなにもなかった。 いなかった。 「な、何、お兄ちゃん」 混乱した風の月火。 そりゃあなんとなく振り向いて、兄から両手で頭を抱えられたら、混乱もするだろう。いくら頭の回転が速くても、そんな展開にスピンがついていくはずもない。 いや、頭の回転が速ければ、それはそれでそれらしく、辿り着いてしまう展開があるにはあるのだが── 「わかった。いいよ、お兄ちゃん」 言って月火は、そうっと目を閉じて、唇を尖とがらせた。 いいわけねえだろ! と普段の僕なら突っ込むところだったが、この状況下では仕方があるまい。今やすっかり阿良々木暦恒例こうれいということでおなじみになり市民権を得た行為、『キスで黙らせる』を、いよいよ妹に使うときがきたようだと、僕は身構えた。 「えい──」 と、覚悟してしまえば即決即断、恐るべきことに初めてというわけでもあるまいし、僕は四つ年下の妹の唇を奪うべく、アクションを始めたが、ここで世界から規制がかかった。 スカイツリーの仕業しわざかもしれない。 「ふー! いい汗かいたー! 兄ちゃん、風呂用意してくれてありがとー! あとでちゃんと礼を言いにいかなきゃなー!」 と、風呂場のドアがばっこーんと開いて巨塔、もとい、身長が百八十センチ近くあるアスリート系女子、阿良々木火燐が汗だくの素っ裸で、ハンドタオル片手に颯爽と現れたのだ。 「って、なにやってんだボケー!」 さすが格闘技者。 即決即断度は僕よりもよっぽど早かった。 登場した途端、狭い風呂場のその場のその場で回転してのローリングソバットで、僕と月火を一緒くたにまとめて吹っ飛ばし、湯船の中に叩き込んだのだった。 つまり一番風呂は、二人で仲良くわけあったという形である。頭の回転では月火のほうが上だったが、身体の回転だったら火憐のほうが上だったというような話なのだが──ええ、うん。 その後、僕と月火と火憐、三人きょーだい、何年振りかで仲良くお風呂に入って親交を深めました、などという展開があるはずもなく、僕は普通に火憐に叩き出された。 違う、これは兄としての責務が、意地が、沽券が、プライドが、展開が、などと論理的な反論を試みる僕を、 「アホか! 常識で考えろ! いや非常識で考えろ!」 で、追い出された。 非常識で考えろ。 僕に対してなんという的確な駄目出し。 まあ追い出された兄はそれなりにみっともなく悲しいが、その後、風呂場でお姉ちゃんからマジ説教を食らっている妹に較べれば、裁きとしてはマシだったかもしれない。 怒り心頭の火憐の下に月火を一人残していくのは兄として本当に心苦しくはあったのだけれど、しかしまあ、僕には僕の事情というものがあって、ここで鏡のない、外の廊下へ追い出されたというのは好都合ではあった。 いや、好都合もなにも。 現状が既に相当不都合なのだが── 「おい忍。忍。忍、起きてるか。いや起きてくれ、頼む、忍」 僕は自分の部屋で一人になって、部屋の鏡にも、やはり僕の姿がまるっきり映らないことを往生際悪く確認してから、絨毯じゅうたんに映った影に張り付くようにして、忍を呼んだ。 忍というのは、忍野忍。 春休みに僕を襲った吸血鬼、キスショット・アセロラオリオン・ハートアンダーブレード──の成れの果ての──幼女である。 八歳児である。 つまり彼女も彼女で、僕と同じく、既に吸血鬼ではなくなっているのだが──僕が今、よくわからないが吸血鬼としての『症状』を発している今、あいつもひょっとすると、『どうにかなっている』恐れがある。 いやそれは結構現実的な恐れである──なにせ今の僕と忍は、魂のレベルでペアリングされてしまっているのだから。 言ってしまえば僕と忍は同一人物みたいなものだ。 僕の影に潜ひそんでいる吸血鬼もどき。 影に棲すむ者──忍野忍。 「忍! 忍!」 まったく反応がない。 この反応のなさが、基本的に吸血鬼時代の夜行性を引き摺っているからこその反応のなさなのか、それとも『何か』ことがあっての反応のなさなのか、それが判断できない僕の動揺は、どんどん高まる一方だった。 忍。 どうした、忍。 「忍! 朝だぞこらー! いい加減起きないと駄目だよー!」 意味もなく妹達の真似をしてみたが、やはりノーリアクション。まさかこんな形であの二人の、寝ぼすけな僕を起こす苦労を知ることになろうとは思わなかった。 明日からは変に頭の中で言い訳なんてせず、きっぱりとすっきりと起きてやることを誓いつつ、僕は影の中への呼びかけを続ける。 「忍ー! ドーナツがあるぞ、忍ー! お前の好きなミスタードーナツだぞー! ゴールデンチョコレートだぞー!」 「ぱないの!」 そんな台詞と共に登場、金髪幼女。 あっさりと他愛なく登場。 意味もなく、昔のアニメの元気キャラみたく拳を突き上げて登場したので、影に張り付くようにしていた僕は顎あごにアッパーを食らった形になって、後ろ向きに引っ繰り返った。 さながら死んだ虫みたいに。 「ゴールデン! ゴールデンチョコレートはどこじゃお前様! もしも嘘だったら頸動脈けいどうみゃくを引っ張り出して殺す!」 「…………」 引っ繰り返った際、床で強打した頭も痛かったが、それとは別に、他でもない忍自身に殺されそうだった。 というか、リンクしているはずのダメージも感じさせない、この元気な感じ。 少なくとも忍に、目に見えての──目に見えなくなるような異常というのはなさそうである。そのことに胸を撫で下ろしつつ、同時に忍に糾弾きゅうだんされ殺されるかもしれないという新たなる不安も抱えつつ、僕は上半身を起こし、 「大変だ! 忍!」 と言った。 「僕が鏡に映らないんだ!」 「なんじゃそりゃ。白雪姫の童話の話か? そりゃお前様はいい男じゃが、さすがに世界一ではないじゃろう」 忍がきょろきょろと首を回しながら、そんな返事をする。 大声を出すことで、勢いこちらのペースに巻き込んでやれと思ったのだが、なかなかうまくいかないものである。まあきょろきょろしているのは単に、ドーナツを探してのことだろうが。 ……どうせ適当に言ったのだろうが、いい男と言われたことが意外と嬉うれしかったことは秘密だ。 「……………」 そして忍はきょろきょろするのをやめた。 どこをどう探してもドーナツなんて見当たらないことを知ったのだろう、その後、マジ睨みで僕を見据えた。 こえー。 なんか鏡に僕が映らないなんてどうでもよくなるくらいにこえー。 それが『我があるじ様』を見る目か? 「おいお前様よ。知っておるか」 「な、なんでしょう」 「この世にはついてよい嘘とついてはならぬ嘘があることを。ついてよい嘘は魂に関わらない嘘、ついてはならぬ嘘は魂に関わる嘘じゃ」 「いや、お前が許せないのはドーナツに関わる嘘だろ!?」 お前の魂は、それともドーナツでできてるのか!? 真ん中からっぽじゃねーか! 「その通り……」 ゆらりと動く忍。 凄惨せいさんに笑っている。その決めの笑顔をこんなところで使うな。 「ここにドーナツはない……ドーナツの中心のようにドーナツがない。じゃから胴体をぶっ貫いて、お前様をドーナツにしてやるわい!」 「ドーナツ化現象ー!」 と。 冗談抜きで実際に忍は飛びかかってきたのだけれど、あの春休み以来、吸血鬼としての能力のほとんどを失っている彼女の攻撃は、まあ見た目通りの八歳児のプリティなボディアタックでしかなく、僕は両腕で優しくそれを抱きとめるだけだった。抱擁力を発揮するだけだった。 けどまあ、一瞬ヒヤッとしたぜ。 顔だけはマジなんだもんな。 「ぬう。こうしてお前様に抱きとめられると、怒りも冷めていくわい」 「お前僕にデレ過ぎだろ」 とは言え、しかし僕がドーナツ化しなかったことは安堵あんどすべきことだったが、それは同時に安堵とは別の感情をもたらす現象でもあった。 今までの経験上、僕に、僕の精神と肉体に吸血鬼の『後遺症』──症状が強くなるときは、それに比例する形で、忍も吸血鬼の『性質』──症状を強くしていた。 それなのに現在、忍が吸血鬼としてのパワーを喪失したままでありながら、僕が、僕だけが僕のみが吸血鬼化している──これもまた今までにないことだ。 いや、今までにないこと──どころではない。 いつであろうと、あってはならないことじゃないのか? いつ──いかなるときでも、あっては。 「忍。聞いてくれ」 「んー。もっと抱いてくれなきゃ聞かないー」 「聞け!」 精神が肉体に引っ張られすぎだ、お前! 幼女化著いちじるしいぞ! 僕は今朝、妹達に起こされてからここまでの経緯をかいつまんで──いや、かいつまんではいない、かくかくしかじか、かなり詳細に、微びに入り細さいをうがち語った。 聞いていくつけ、さすがに忍の表情も、デレデレのゆるんだそれから、シリアスなものへと変質していった。どうやら今僕のおかれている状況の深刻さが伝わったようだ。 「──ということなんだ」 「ふむ。なるほどな」 忍は頷く。 「いよいよお前様と妹御いもうとごとの関係が、一線を越え始めたというわけか」 「いや、大事なのはそこじゃない!」 「大事でなくとも大事おおごとではあるじゃろ。どう始末つけるんじゃよ、それ。なんじゃ、再アニメ化とかもう諦めたのか」 「いや忍、まともに取り合ってくれ。妹の件は今度ちゃんと話をつけるから。今僕は、結構本気で困惑しているんだ──こんなこと、なにせ初めての経験だから」 僕は言う。 口調がやや早くなる。 「ていうか、自分の姿が鏡に映らないって、結構きついぞ。なんていうのかな、こう、精神的にかなり来る」 「そうか? 鏡なんぞ、所詮しょせんはただの光の反射じゃろうに」 そもそも吸血鬼で、鏡に映らないこと、それが当たり前の日常だったであろう忍には、この気持ちはいまいち共感できないものであるらしく、彼女はきょとんとした顔をする。そこに悪意はないのだろうが、その応対のテンポの違いに、僕はどうしようもなく焦あせりを覚える。 温度差を埋めたいが、どうすればよいのか。 ただ、僕がどうにか手を打つまでもなく、僕と魂でリンクされている忍は、現象に対する気持ちは伝わらなくとも、焦りそのものはワイヤレスで伝達するので、軽く肩を竦めたのち、 「なんじゃい」 と、ようやく僕に取り合ってくれる気になったようだった。 「要するに、儂に血を吸われたわけでもないのに、お前様は吸血鬼化しておる──ということじゃろう?」 「ああ、そうだ、そういうことだ……いや、ちょっと違う。見ろ、こっちの足の、小指の爪。割れてるだろ?」 「うむ。妹御に潰されたというの」 「これが回復していないってことは、吸血鬼化はしていないということだと思うんだ」 「ほう」 と、僕が片足を上げて見せた足首をつかみ上げ、そして忍はその問題の小指を当たり前みたいにぐりぐりと触ってきた。 「痛い痛い痛い!」 「騒ぐな。気が散る」 「……!」 まさかふざけてやっているわけでもあるまいし、僕はある種サドっ気の強いその光景を、黙って見守る──痛みをこらえつつ、忍のその『検証』の結果を待つ。 「ふむ。なるほどな」 「な、なにかわかったのか?」 「まあ、わかったようなわからんような──いや、何が起きておるのかはわかったが、どうしてそうなっておるのかが、どうにも──」 随分曖昧ずいぶんあいまいな言い方をする。 気をもたせているわけでもあるまいに。 その言を聞く限り、忍が何かをわかったということはなさそうなのだが──ただ、幼女が僕の足の指をいたぶったというだけで、話が終わってしまいそうなのだが、さすがにそれではたまらない。下がるのは僕の好感度だけだ。 「どういうことだよ、忍。わかったようなわからないようなとか、それこそわからない言い方をせずに、わかったことだけでもわかりやすく説明してくれよ」 「ああ、そうじゃな──しかしとりあえず、お前様よ」 忍は言った。 「服を着ろ」 006 「結論から言えば、お前様は今、確実に吸血鬼化しておる──それはお前様の推測すいそく通りじゃ。鏡に映らないのは、何らかの他の怪異現象ということではなく、吸血鬼の現象じゃ」 言われるがままに、その辺にあった服を着た僕に対して、忍は言う。その辺にあった服というのは、まあ学校に行かないので着ることもなく、壁にハンガーで吊るして干してあった学生服ということなのだが。 いわば裸学ランである。 エロいのだろうか。 「吸血鬼の現象……でも、ほら忍、だからよく見ろよ、足の小指が」 「そう何度も差し出すな。足をいたぶってやるのは一日に一回だけじゃ」 「いや別にそれを要求したわけじゃないよ? 悦よろこんではいないよ?」 「よく見ろは儂の台詞じゃ」 忍は言う。 彼女いわく、自分の台詞を。 「その指。回復しておるぞ」 「え?」 言われて僕は、自分の足を抱えて、その箇所を注視する──なんだか無理矢理なヨガのポーズのようだったが、とにかく問題の小指を見る。 爪が割れていて、出血したあとがあって──いや、特に回復した様子はないのだが。 「それは外面の話じゃよ──内面は違う」 「内面?」 「まあ儂は実際にそのシーンを目撃したわけではないので確からしさを持っては言えんが、おそらくは妹御にその足を踏まれたとき、その小指、骨折しておったぞ」 「骨折!?」 マジで踏み潰されてんじゃねえか! 痛い痛いじゃねえか! なにすんだあの妖怪髪洗い! 「落ち着け。骨折といっても微細びさい骨折じゃ」 「微細骨折……」 なにそれ。 微細な骨折だろうか。 それとも微細になるまで骨折することだろうか。 後者なら回復は見込みにくそうだが……。 「儂がいたぶって……もとい触診して検証した結果、その指の骨に、一旦折れて、引っ付いたような痕跡こんせきがあった──つまり回復しておるということじゃ。完全ではないにせよ、な」 「なるほど……」 ああ、でもそう言えば、戦場ヶ原からか誰からか、聞いたことがある。 足の小指を箪笥たんすの角にぶつけて蹲うずくまる、なんて話があるけれど、それはどこか滑稽こっけいな笑い話として捉えられる風もあるけれど、実際にそのとき、小指の骨を砕いてしまっているケースが少なからずあるのだとか。 ただ、足の小指の骨は、折ったところで実際問題としてそんなに生活に影響がなかったりするので、本人も骨折したことに気付かないまま、治ってしまうこともままあるのだとか──それと似たような話だろうか? ……ちなみに羽川に『小指を箪笥の角にぶつける話』を振ってみたとき、『え? 箪笥の角に小指をぶつけたことなんてないけど?』という答が返ってきたことがあったことも同時に思い出したけれど、それはともかく、となると、なるほどだ。 そう言えば、というか言われてみればだが、少なくとも最初にあった激痛は、痕跡も残らず消えている──そうか。 これでも──回復しているのか。 「……けど、その回復の仕方って、どうも吸血鬼のそれとは、イメージが違うんだけど……」 「イメージとな」 「うん」 春休み、僕がまるごと吸血鬼化したときの話は、正直引き合いに出すのも嫌なのだが──あのときは、腕が吹っ飛ぼうと、足が吹っ飛ぼうと、どころか頭が吹っ飛ぼうと、そんなものは次の瞬間には回復していた。 いや、次の瞬間という、いかにも大袈裟な表現でさえ、まだ真実に届かない。 部位が崩れると同時に再生している──というのが、もっとも真実に近い表現である気がする。こればっかりは、実際に見てもらわないと、納得してはもらえないだろうが。 しかし見るどころか、実際にそれを体験した僕が、実体験した僕が言うのだから間違いがない──吸血鬼の回復力というのは、もっとこう、でたらめで、滅茶苦茶で、かっ飛んでいて、どうしようもないものだった。 はずなのだが。 「ふむ……まあ、そうじゃのう。しかし少なくとも人間の回復力では、罅ひびの入った骨が一時間程度で治ったりはせんじゃろう?」 「そりゃそうだが……」 いや、火憐ならわからない。 あるいは火憐の師匠ならわからない。 会ったこともない火憐の師匠について、好き勝手言っているけれど。 「じゃったら、もっと簡単なテストをしてやるわい。腕を出せ」 「こうか?」 「ひっかき」 効果音(?)と共に、忍が僕の腕を引っ掻いた。 猫がそうするようにだ。 いつの間にか肉体操作をして、爪を伸ばして尖らしての所業しょぎょうである。 「痛っ──くは、ない」 「じゃろう。皮膚をちょぴっとかすりとっただけじゃからの」 忍はくるんと、その爪を僕に示すようにして、言った。 「理科の実験で口内の粘膜ねんまくをこそいだ程度のダメージじゃ」 「なんで吸血鬼のお前が理科の実験について知ってるんだよ」 「伊達に五百年生きておらん」 本当はほぼ六百年の癖に。 まあそのサバ読みについては突っ込むまい。 女性の年齢についてあれこれ言うのはマナー違反である。 怪異の年齢はどうか知らないけども。 「で、僕の皮膚をこそいでどうするんだよ」 「見てみ」 「ん?」 まさか、と言うべきなのか。 それともやはりと言うべきなのか。 僕の腕から、忍に引っ掻かれた傷が消えていた──いや、元々、傷と言うほどの傷ではなかったのだが、しかしとにかくその跡が、消えてなくなっていた。 「ほれ。回復力じゃろ」 「まあ、確かに……確かに」 なんだかその地味な傷の地味な回復に釈然としないものがあるけれど、しかし確かに、僕の回復力が──肉体的な回復力が、多少は増していることは確かなようだった。 「いや、釈然とせんのはわかるが、お前様よ。それでも気をつけるのじゃな──そこのカーテンは閉めることを勧める。吸血鬼がそんな程度の回復力で日光を浴びたら、燃え上がることもなく、普通に灰になって終わりじゃろ」 「お、おお……」 脅すような恐いことを言われて、僕は立ち上がり、窓からの太陽光を浴びないように身体をよじりながら、カーテンを閉める。当然、部屋が薄暗くなったので、電気をつける。 「ま、念のためじゃがの……、案外、というか多分、太陽の下でも平気に散歩できるかもしれん。別に回復力があるからといって、お前様のすべてが吸血鬼化しておるというわけでもなさそうじゃし。ほれ、いーってしてみろ」 「ん?」 「いーって」 あまりに幼い言い方をされたのでどういう意味か計りかねたけれど、二回目は忍が自分で実践じっせんしてくれたので──超可愛い──僕は唇の端っこを引っ張る形で、 「いーっ」 とした。 超可愛くはないだろうが。 その状態を忍は、まじまじと観察し、「うむ」と言う。 「とりあえず、牙は生えておらん」 「そうなのか?」 「うむ。不安ならば鏡を見よ」 「いやだから鏡には映らないんだって」 「そうじゃったの」 えへ、と笑みを浮かべる忍。 ふざけんなよこいつ。 わざとでもわざとでなくてもむかつく。 超可愛いけど。 「じゃあ触ってみい」 「こうか?」 「誰が儂の胸を触れと言った。お前様の自分の歯をじゃ」 「……はい」 クールに対応されると僕がただの変態のようだった。いや、どう反応されても僕はただの変態かもしれなかったが。 「ふむう」 「どうじゃ?」 「堅くて何も気持ちよくない」 「感触を訊いておるのではない」 「尖ってない」 この局面においても小粋なジョークを忘れない僕の姿勢は、あまり忍からは評価を受けないようだった。 「確かに、歯は歯のままだな──我ながら歯並びも奇麗なもんだ。えっと、あとこの場で確認できる吸血鬼化現象と言えば……」 「確認したければ朝食ににんにくでも食べてきたらどうじゃ?」 「そんな濃い朝食は摂りたくない……っていうか、それがあたりだった場合、ぽっくりと死んじゃうだろ」 「じゃのう」 「じゃのうじゃねえよ」 冗談でもねえ。 どんな死に方をするかわからない人生を歩んでいるこの僕ではあるけれど、しかしにんにくを食べて死んだとか、いくらなんでも親に顔向けできない。戦場ヶ原にも顔向けできない。にんにくを食べて匂いが気になるとかそういうことじゃなくな。 「まあそういった実験は後回しでもよかろう。今はただひたすらに最悪のケースを想定して考えることじゃな、お前様──お前様の気分としては認めたくない現実じゃろうが、少なくとも儂の判断では、お前様は現在、中途半端に吸血鬼化しておる。できれば儂は」 忍はここで、口調をシリアスにして、僕に対して言った。 「儂のこの判断を信じて欲しい。無駄な検証に時間を取るよりもの」 「……わかった。信じる」 釈然としない気持ちが消えたわけではない。 小指や肌の回復は、そりゃまあ回復はしたのだろうけれど、しかしありえない現象というほどではないようにも思えるし、だとすると、今のところ僕に起きている現象は、そして現状は、『鏡に映らない』だけだ。 それを吸血鬼化と決め付けるのには証拠不足というか、まだ時期尚早じきしょうそうであることは確かだろうが──少なくとも専門家、忍野メメならそんな判断、軽挙妄動けいきょもうどうと言いきるだろうが──しかし。 しかしそれでも、僕は。 僕は忍を信じる。 それはなんだろう、言うのも恥ずかしいくらいに、文章化することが白々しいくらいに、当たり前のことだった。 「となると、やっぱり心配なのはお前なんだが。お前は大丈夫なのか? 身体、なんともないのか?」 「うーむ。先ほどお前様の身体を貫通できなかったところを見ると、儂に力が戻ったわけではないのじゃろうし──」 本気で貫こうとしていたのか。 信頼関係が欠片かけらも窺うかがえない発想だ。 「それに、儂とお前様のリンクは、あくまでも血を吸うことによって生じるものじゃからのう──儂が夜中に寝ぼけてお前様の首筋に噛みつき吸いついたということがない限り、そこに関係性が生じるとは思えん」 「いや僕、言い出せなかったけど、その線結構ありそうだと思ってたぞ」 「失敬な奴め。儂は寝ぼけたことなど五百年間一度もない」 「ほう……」 まあ突っ込むまい。 検証に使う時間も勿体ない今、ボケと突っ込みに使う時間が勿体なくないわけがない。雑談こそが本編というスタンスを、今このときだけでも捨てなければ。 今重要なのは、忍の肉体に変化があるかないかだけなのだ。 「忍、とりあえず服を脱いでくれ。僕が見てみるから」 「儂に何をする気じゃ」 「幼女の足をいたぶる」 「儂の足はお前様の妹御に踏み潰されてはおらん」 「くっ……役に立たない妹だぜ。せめてそれくらいの手傷は負わせておけよ」 「儂は別に、お前様の妹御と戦ってさえおらんのじゃが……そうじゃ」 と、そこで忍が手を打った。 ぱーをぐーで打つ、あの手の打ちかただ。 「奴に訊いてみるというのはどうじゃ?」 「ん? 奴?」 「いや、お前様の肉体に何らかの変化が起こっておるのは確かじゃろう──もしもそれが儂の仮定通り、吸血鬼関連の変化だとするならば、それは専門家に相談するべきじゃろうがよ」 忍は腕組うでぐみをしながら、なぜか不本意そうに言う。 少なくともそれはいいアイディアが閃いたという態度ではないが。 「専門家って……、忍野か? 忍野メメ──だけどあいつは今どこにいるのか」 「いや、これはあの小僧の専門外という気がするの──もしもお前様の身に、そのような現象が起こる危惧きぐをあの小僧が抱いていたのなら、儂にそれを伝えないわけがないからの」 忍の名付け親でもあり、名前で彼女を縛っている主ぬしでもある忍野メメのことを、彼女はあまり好いてはいないのだが、しかし、その台詞からすれば、認めていないわけではないようだ。 少なくともあいつが、僕が陥るであろう危機が残っていることを知ったまま、この町を去ったりはしないと。 認めているのだ。 つまりこれは──忍野の掌握外しょうあくがいの事態なのだと。 忍は判断しているのだ。 その判断に、もちろん僕も異論はない。諸手もろてを挙げて大賛成だ。 「儂は、お前様の、現状に対する対処法を知らん。とすると、たとえあのアロハ小僧の所在を知っておったとしても、頼っても意味がないということじゃ。役立たずのクズじゃということじゃ」 「…………」 認めているだけで、やっぱ嫌いなんだな。 そりゃそうだけども。 「じゃあ誰なんだよ。お前が訊いてみようっていう、『奴』ってのは」 「じゃから奴じゃよ。儂がこのニュアンスで奴と言えば、それは奴のことなのじゃ」 忍は言った、本当に嫌そうに。 妖艶ようえんの美女から、いたいけな幼女の姿になってしまった原因の大きなひとつ、大きな一人であるところの、忍野のことを語るときよりも、よっぽど嫌そうに。 「オノノキヨツギじゃ」 007 僕が斧乃木余接と遭遇したのは、夏休みのことだった──そのときの『事件』を思い出すと、正直言って、あまりいい印象のある子ではない。 というか、はっきり言って敵対していた。 遭遇というよりはだから、したのは衝突なのだ。 忍が不快そうに言うのもわかる──その際、忍は彼女と、掛け値なく殺し合ったのだから。いや、忍にとってはそれは殺し合いでさえなかったのかもしれないが──ともかく。 斧乃木余接。 専門家──それも、吸血鬼を含む、不死身の怪異を専門とする、専門家である。 「斧乃木ちゃんか……、あ、でも正確に言うと、斧乃木ちゃんが専門家なんじゃなくって、斧乃木ちゃんを式神として使う、使い扱う影縫かげぬい余弦よづるさんのほうが専門家なんだよな?」 その辺、僕はちゃんと真実を認識できているかどうか怪あやしいが、そういうことだったはずだ。斧乃木ちゃんとはその後、事件後その夏休み以降もなんとなく、何度となく接点があって、まあ単純な敵対関係ではなくなっているのだが──彼女の主である影縫さんとは、夏休みに敵対したっきりだ。 噂は聞けど、顔は合わせていない。 斧乃木ちゃんと対決したのが忍なら。 影縫さんと対決したのが僕だ──まああれも、一方的な虐殺、一方的な蹂躙じゅうりんみたいなものだったが、それもまたともかくとして。 斧乃木余接と──影縫余弦か。 「うーん……まあ、確かにいいアイディアだよな。この『いいアイディアだよな』という台詞を、いい表情で言えないのがなんとも残念ではあるけれど……」 「じゃのう」 忍も複雑そうではある。 含むところもありそうだ。 不死身の怪異を専門とする専門家、ということは、つまるところ、本質的に忍の敵──ということになるのだから、当たり前なのだが。 もっともあの夏休み、僕と忍に関しては、既に不死身を喪失している『元』吸血鬼に過ぎないとして、見逃してもらっているのだが──なんだっけ、無害認定とかなんとか言ってたっけな? 「……斧乃木ちゃんはまだしも……、影縫さんはなあ。ああいう人で、ああいう専門家だからなあ。僕に吸血鬼化の症状が出ていると知ったらあの人、僕を退治しかねないんだけど」 「それも、じゃのう──じゃのうと言うしかないようじゃのう。じゃが、しかし奴らとて、いつもいつでも暴力的に物事を解決しているわけではあるまい。むしろ、一般人が不死身の怪異化するような事象じしょうを防ごうというのが、奴らの本筋とも言える大事な仕事ではないのか?」 「うーん……、ま、どの道タダってわけにはいかないだろうな。仕事なんだし」 安くないだろうなあ。 お高いんだろうなあ。 忍野には五百万円を請求されたことを思い出す──今から思えばあの男、高校生になんという額を要求するのだ。 「少なくとも影縫さんと斧乃木ちゃんはドラマツルギーとか、あの辺の奴とは毛色が違う……違っているはずだし」 というか違ってくれていないと困る。 ドラマツルギーを始めとする『あの三人』は、春休み、吸血鬼化した僕を問答無用で退治しようとしたからな──忍の被害者であるだけの僕を、だ。『不死身の怪異』より専門のレンジが狭い、『吸血鬼専門』にまでなると、まず吸血鬼をただの邪悪と見做していることが多いので、そういうことになるのだろう。 「影縫さん……、そうだな。そうだよな。僕の知る人物の中で、もっとも『強い』人であることは間違いないし、見方を変えて味方につければ頼もしい人なんだろうな、きっと」 いつだったか火憐が、影縫余弦を指して、『あたしの師匠でようやく互角ってところだろ』と言っていた──火燐の師匠の実力が果たしてどの程度なのかは今のところはまだ数々の逸話から想像するしかないけれど、しかしその言葉は、あの地面を歩くことを忌避きひする彼女を、影縫余弦という専門家をよく表しているように思えた。 「斧乃木ちゃんは斧乃木ちゃんで、彼女自身が、まあ言ってしまえばそのままそのもの不死身の怪異みたいなもんだし──」 「つーかゾンビじゃの、あいつは。死体の憑喪神。言ってしまえばそのままそのもの人形みたいなものじゃ」 「人形……」 そうだ。 そういう話だった。 「式神じゃからのう。ただ、式神というにはやや自由な奴じゃが……きっとそれは、主の性格によるものなのじゃろう」 陰陽師おんみょうじというのも最近ははやらんからのう、と忍は言った──それはもう、はやり廃すたりの問題ではないと思うが。 式神の自由度、ね。 「で、どうする? お前様」 「そうだな……」 個人的感情を除いて──恨みとかはもちろん、恐怖とかビビリとか、そういう感情も除いて考えるのならば、彼女達に頼るのは本当にいいアイディアだし、まるであつらえたかのような模範解答でもあるように思われる。 ただ、言ったように、彼女達──というか、まあはっきり言って影縫さんだ、影縫さんのほうが、極めて危険な性格と、『腕』の持ち主であることもまた確かなのだ。 あの不吉の中の不吉と言える極悪詐欺師・貝木かいき泥舟でいしゅうも、影縫さんとの接触は露骨に嫌がっていたくらいだ──暴力で物事を解決できる人間の特権、みたいなものを、あの舌先三寸の男は誰よりもよく知っているからだろう。 彼女に下手に頼って、力を借りるどころか逆に退治されてしまったり──いや、僕が退治されてしまうだけならば、究極的には自業自得ということで片がつくけれど、しかし本当に下手を打って、夏休みの件を蒸むし返されてしまった場合── 「……いや、って言うかちょっと待て、忍」 「なんじゃ」 「僕、あの二人の連絡先なんて知らない」 「なにい?」 忍はむしろ、僕を責めるように睨んできた。 やはりすごい目だ。 「カゲヌイはともかく、オノノキの奴とは、お前様は何度も共闘したりもしたじゃろうが──なのに、なぜ知らん。ケー番くらい訊き出しとけよ」 「ケー番言うな。吸血鬼が」 品位を大きく損なう。 今風過ぎるだろ。 忍者がメールで連絡を取り合っているかのような残念さがある。 「いや、それこそ斧乃木ちゃんは、ああいうキャラだから、たぶんそういうデバイスを持ち歩いてないと思うんだよな……、確か斧乃木ちゃん本人も、いざというときのために持ってないとか言っていたような……、そもそも怪異と機械文明って基本的に相性悪そうじゃん」 「奴がそんなデリケートな奴かのう……、うーむ。となると、なんとも困ったものじゃ。電話はできないとしても、なんとか奴と連絡を取る方法はないのか?」 「そうだな……」 そうだな。 なまじ、携帯電話やらメールやら、人と人との接点が増えた現代社会だからこそ、それらのツールに頼れない相手と連絡を取る方法というのは、ほとんど見当たらない。 というか、便利さにかまけて、僕達がそのスキルを失ってしまった。 妖怪ポストみたいなのがあったらわかりやすいんだけども、そんなもの、あるわけないし──うん、影縫さんや斧乃木ちゃんと連絡を取るというのは、町を去った忍野を探すのと同じくらいの労力が必要なように思われた。 「カイキならどうじゃ? カイキとなら連絡は取れるのではないか? カイキに連絡を取って、カゲヌイに繋いでもらうというのはどうじゃ」 「それを言うか、お前は」 僕が今、どれくらい渋い顔をしているかは、それこそ、鏡を見なくても、鏡に映らなくてもわかる。確かにあの詐欺師は、携帯電話というデバイスを若者よりもずっと的確に使いこなしていたが──使いこなして、この町で信じられないような一大詐欺を行っていたが。 「いや、まあ……うん。貝木のケー番なんて、もちろん僕は知らないにしても、戦場ヶ原が、ケー番ではないにしろあいつの連絡先を知っている可能性は、高いっちゃ高いんだけど……それは最後の手段っていうか、最後にだって使っちゃ駄目な手段だと思うんだよ、忍ちゃん」 「ちゃん付けするな。そんな情けない顔をするな、むろんジョークじゃ」 しかし、と忍は言った。 「そうなるともう、候補は一人しかおらんぞ」 「候補? まだいたっけ。ああ、羽川だな?」 「あの娘は聡さとくはあるが、専門家ではなかろうよ──そうじゃなくって、ガエンじゃ」 「臥煙がえん」 「ガエンイズコ。専門家の元締めじゃろ?」 「臥煙伊豆湖いずこ……」 そうだ。 言われてみれば、最初に思いついてもいいくらいの人だった──忍野や貝木、そして影縫さんもが、『臥煙先輩』と呼んで慕したう(?)、専門家の中の専門家。 まさに元締め。 助けてもらったことも、共闘したこともある──そして彼女は、多くの通信機器を持ち歩いていた。フィーチャーフォンからスマホから、ポケットに五、六個持っていたような感じだ。 そのうちひとつの連絡先を、僕は聞いていたような── 「……なんだろうな。助けを求めるにあたっての気が進まない度が、どんどん増していく一方だな……、臥煙さんは臥煙さんで、いい人なんだろうけれど……」 ──私は。 私は何でも知っている──と、恥ずかしげもなく悪びれずに言い切ってしまうあの人は、迂闊に頼ると酷い結末に連れて行かれてしまう。 影縫さんが暴力的過ぎて怖く。 貝木が不吉過ぎて怖いのならば。 臥煙さんは──賢過ぎて怖い。 「そうじゃの、今のお前様を襲う事象の解決策ならば、なんでも知っておるらしい臥煙が知っていてもおかしくはないが、直接あやつに頼るというのは、儂もお勧めできん。冗談ではないにせよ、これも言ってみただけなのじゃ。じゃから臥煙に連絡を取って、やはりカゲヌイ達に繋いでもらうというのが、現時点で取りうる最善の選択肢じゃろう」 「……………」 僕はしばし考えて、 「おっけ、異論はねーよ」 と、充電器に繋いでいた携帯電話のほうへと手を伸ばした。 「サンキュな、忍」 「礼には及ばん。ドーナツには及ぶがの」 まだ根ねに持っていた。 ドーナツ愛が深過ぎる。 深いというか根深い。 「ん……」 ん? と、携帯電話を取り、画面を立ち上げたところで僕は青ざめる。いや青ざめるというと、なんだか文章上の過剰かじょうな表現のように思われるかもしれないけれど、しかし心理的には正にそんな感じだった。 矛盾した表現になるかもしれないけれど、必死になって全速力で走って追いかけている相手に、先回りされたような感じ。 メッセージの着信が表示されていて。 その電話番号自体は初見しょけんのものだったのだけれど、文面はこんな感じだった。 『本日夜七時 駅前デパートの四階 ゲームコーナーにいけば余接に会えるよう 手配しておきました。 この恩はいつか友情で返してください。 あなたの友 臥煙伊豆湖より』 「………………」 ここで無理矢理冷静ぶって言うならば、まあ、驚くほどのことではないのかもしれない──臥煙伊豆湖という独自のキャラクターの、独特なキャラクター性からすれば、そう驚くことではないのかもしれない。 彼女の信条はとにかく『先回り』なのだから。 忍野が見透かしたような奴──ならば。 臥煙さんは見抜く人──なのだ。 看破の人なのだ。 僕が今現在、どういう状況にあるかを、的確に見抜き──そして的確に手を打ってきた。そういうことなのだろう。 「いや、お前様。お前様お前様。無理になんとか合理的に解釈しようとするなよ。普通に気持ち悪いじゃろ、こんな、すべてを掌握しておるかのようなメール。まるで儂らの会話まで聞いておったかのようではないか」 「僕がなんとかこの異常現象に対して現実的な折り合いをつけようとしているのに、お前が現実的なことを言うなよ……」 友情で返してくださいというさらっと記された要求がさり気になに気に怖過ぎるのだが、ともあれこれで道筋が立った──今晩七時に、駅前のデパートに行けば、僕は斧乃木ちゃんと会えることになったらしい。 斧乃木ちゃんと会うのは……、えっと、先月以来くらいか? そう考えると、あんまり長く会っていない感じではないけれど、あの頃は千石のことで大変だった時期なので、どうにも混乱のうちだったという感が強い。 もっとも、今もまた混乱のうちであることも確かなのだが──なにせ、あくまで鏡に映らない『だけ』だからな。 「ああそうだ、とは言え戦場ヶ原には連絡をしておかないといけない……、あいつには、怪異関連のことで秘密は作らないって、そういう約束をしているんだから」 「その約束もいい加減、破り過ぎじゃと思うのじゃが」 「言うな……、たとえ秘密にするつもりはなくとも、どうしても言えないってことはあるだろう。それでもしかし、これは言っておかなきゃならねーことだ──」 余計な心配をかけたくない。 という気持ちは正直あるのだが、だが──この『余計な心配をかけたくない』という気持ち自体が、戦場ヶ原の心配の種になってしまうケースが多々あったからな。 「羽川には……、まだ黙っておくか。臥煙さんが絡んでいるとは言え、いや絡んでいるからこそかな、神原にもまだ今のところは連絡は入れないほうがいいだろう」 「じゃろうなあ。前回共闘したときも、なぜかあの元締め、己の姪めいに正体を隠したがっておったからのう──案外その辺が、あやつの弱点なのかもしれんぞ」 「弱点とか探るなよ」 「いつ敵に回るかわからん女じゃぞ。弱点を探って不都合はあるまいよ」 「いやだから、いつ敵に回るかわからない人だからこそ、弱点を探るような不穏な行為をするなって言ってるんだよ。味方のうちはいい人であることは間違いないんだから」 「なるほどの」 僕はもう一度携帯電話の画面を確認する。 メッセージ再読。 この瞬間、また見抜いたかのようなメッセージが臥煙さんから届いているという展開を危惧してのことだったが、しかし、さすがにそんなことはなかった──怖がり過ぎかな? いずれにしても、臥煙さんからこのような助け舟にも似たメッセージが届いたというのは、僕にとってはいい展開だった。 どんなに怖くても。 いい展開だった。 あの人は、恐ろしくリアリスティックな人なので──悪夢みたいな現実主義者なので、もしも今の僕に、僕の状態に、何の打つ手もないのであれば、このようなメッセージを送ってきたりはしない。臥煙さんが斧乃木ちゃんと僕を繋いでくれたということは、つまり、なんらかの解決策はあるということなのだ。 そう思う。 そう思いたいだけかもしれないが。 じゃあ、進学も決まり、学校に行く必要もなく、日々をぶらぶら過ごしているであろう戦場ヶ原に電話をかけようか、いやさすがにまだ朝早過ぎるかな、などと思っていると、 「おにーちゃんー!」 と、蹴飛ばすようにドアを開けて、月火が僕の部屋の中に乱入してきた。ノックがなかったわけではない。 しかしそのノックは乱暴過ぎて、あくまで『蹴飛ばす』の一環でしかないように思えた。 「私を見捨てて一人逃げるとはどういうことだー! あのあと私が火憐ちゃんにどれくらいしばかれたと思ってるんだー!」 よっぽど怒り心頭なのか、バスタオル一枚で僕の部屋に突入してきた月火だった。しかもバスタオルは腰巻で、上半身は丸出しである。 すごいファッションだ。新し過ぎる。 忍はもう、僕の部屋における妹の乱入に対しては慣れたものなので、一瞬で僕の影の中へと舞い戻っていた。 「んにゃ? お兄ちゃん、なんでカーテン閉めてるの? 引きこもり? それとも二度寝を企んでいるの? 寝かさないよ?」 「いやいや。日の光が眩し過ぎてな」 言い訳のしようもなかったので、適当に誤魔化す──誤魔化せてはいないだろうけれど、カーテンの開け閉めくらい、そんな深く突っ込んでくるところでもないだろう。 案の定月火は、 「ほふにゃーん」 と、納得したように、カーテンについてはそれ以上追及してこなかった。……ほふにゃーん? なんだそりゃ? どんな納得の仕方だよ。 「とにかくお兄ちゃん。私に謝って。謝って、謝って。言葉で射って。言って射って。謝罪して。誤りを認めて謝って」 「すごい性格だな、お前……、よし、ちょっとこっちこい」 「お? 謝ってくれるんだね? ほっほっほ、苦しゅうない」 ちょこちょこと近付いてくるタオル腰巻のトップレス女。なんだろう、ただの風呂上りなのに、想像以上にいかがわしい妹だ。 僕はそのいかがわしい妹を抱き締めた。 ぎゅっと。 「ほふにゃーん!?」 月火は驚いた声をあげる──いや、その声が驚いた声なのか、納得した声なのか、なんなのか、さっさと統一して欲しい。 キャラがピーキーで曖昧過ぎる。 「何、この謝罪方法!? どの国の謝りかた? どこの国が、裸の女を抱き締めることで遺憾いかんの意を表明するの?」 「裸なのはお前が勝手にやっていることだが」 僕は言う。 月火の耳元で。 なるほど確かに身長は今や、僕と月火では大差ないらしく、別におとがいを下げるようなことをしなくても、普通に抱き締めた姿勢で囁ささやけば、それは耳元で囁く形になっていた。 「お兄ちゃんのお願いをひとつ聞け」 「なに? 謝るどころか要求だと? なんともこれはふてぶてしい……、手袋を逆から呼んでふてぶてしい!」 全然違うって。 六回ぶつぞこの野郎。 「命令と言わないだけめっけものだと思え」 「めっけものがたり?」 「……月火、いいか。今日の夜、お前は火憐と一緒に、二人で神原の家に泊めてもらうんだ」 「え?」 わけのわからないことを言われたという風に、月火は面食らった顔をする──まあ、彼女からしてみれば、わけのわからないことを言われたのだろうから、反応はそれで間違いない。 「どういうこと?」 「理由は訊くな。訊かないでくれ。神原と火燐には僕が話しておくから、お前はそうしてくれ。……ください」 臥煙伊豆湖の姉、臥煙遠江とおえの娘である神原駿河するがの家──咄嗟とっさに思いつく中で、もっとも安全な場所が、そこだった。 斧乃木ちゃんはともかく、影縫さんと接点を持とうという現在、月火は──隔離しておかねばならない、少なくとも、この家からは。 でないと。 夏休みの再来となる。 「むう」 月火は唸うなった。 はふにゃーん、と言わなかったところを見ると、不承不承、なのだろう。 「わかった。そうすればいいんだね?」 「ああ。お前がそうすれば、謝ってやってもいい」 僕は月火を抱き締めたままで言った。 過去形でなく現在形で言った。 「悪いな」 だが、このとき僕は不覚だった。 浅はかだった。 この後の展開を思えば──僕が謝るべきことは、まったく他のところにあったのに。 008 夜になった。 夜とはつまり、日没後という意味。 それまでずっと、僕は屋内で過ごした。 学校が休みの時期だったのは助かった──これ以上欠席記録を重ねると、本気で卒業できなくなる。そして受験勉強をしなければならない受験生、それもぎりぎりの受験生という立場もまた、幸いだった──カーテンの閉じた部屋に引きこもって、一日中勉強していても、誰にも怪しまれない。外に行こうと誘われたりもしない。 太陽が沈んだ後、家族全員で夕食を食べてから、僕は家を出た──かつて自転車を二台所有していた僕だが、それはもう昔懐しい話で、その二台は二台とも、自損事故的な何かで失っていた。あれを自損事故というのは、まったく納得いかないけれど──けれど、怪異がらみ、あるいは『くらやみ』がらみの何かは、自損と、自業自得と、根本的には言わなくてはならないのである。 というわけで徒歩である。 駅まで徒歩。 外に出、歩道をしばらく歩いていると、いつの間にか僕の横を、金髪の幼女が歩いていた──かつて僕が歩いている姿を羽川翼がGメン"75みたいと言っていたことがあったが、まあ、忍と二人で歩くのであれば、それくらいの心強さがあるのも確かだった。 「悪いな。付き合わせて」 「付き合っておるつもりはない。儂らは最初から運命共同体じゃ、自分のことを自分のことのようにするだけじゃわい」 「まあそう言うな」 と、僕は横を歩く忍の胴体を抱え上げて、そのまま自分の両肩に乗せた。いわゆる肩車という奴だ。 幼女の体力で駅までの徒歩は辛つらいだろうという、僕なりの気遣いである。 軽いなあ。 紙細工みてえ。 だけど、たとえ現在はほとんど人間化している状態とは言え、僕にとってこんなに頼りになる相棒もいない。 「あのふたりと会うにあたって一応念のために、儂を吸血鬼化させておくか? 成分献血分くらいの血を儂に飲ませておけば、最悪あのふたりから、逃げる程度のことはできるぞ」 「うーん……、でも、お前を吸血鬼化させると、僕も必然的に吸血鬼化してしまって、今ある症状がその中に埋もれてしまうからな……そうなると僕の症状について正確な『診断』ができなくなってしまうかもしれない。そもそも、臥煙さんからのメッセージには斧乃木ちゃんを待たせてあるとあっただけで、影縫さんがそこに同席するかどうかは明言されていなかったし……」 「彼女に別れは告げたのか?」 「いや、別れは告げてないが……」 戦場ヶ原には連絡しておいた。 一緒に行くとノータイムで返答した彼女を説得するのは、僕にとってかなり骨の折れる仕事ではあったが。 まあ、あの陰陽師&式神と、戦場ヶ原を会わせたくないというのは、僕の個人的なわがままでは決してないはずだ。 「ま、正直言ってあいつと話して少し気が楽になったよ」 「ふむ。かつて重さを失ったあの娘の痛みに較べれば、鏡に映らん程度なら、それほど、そこまでは気に病むことではない──とでも思ったのかの? お前様」 「うーん、なんというか、そういうわけじゃないんだが……」 いや、そういうわけかもしれないけれど。 「ただ、戦場ヶ原が色々とアドバイスをしてくれたからってのはあるかもな──あと、細かいことを確認してくれた。服を着て映ったときはどうなるのかとか」 「ふうむ……」 「ちなみにあとで試してみたら、その場合、服だけ浮いたように見えたから、やっぱり極力きょくりょく、鏡に映らないように気をつけなきゃ駄目みたいだけど。それと、クルマに気をつけろって言われた。自動車のサイドミラーやバックミラーにも映らないってことなんだから、轢ひかれる可能性が格段に跳はね上がるってさ」 「本当に細かいところに気がつく娘じゃのう……、どれだけ用心しながら生きとったんじゃ、この二年ほど」 言いながら忍は、僕の頭を抱き締めるようにした。身体のサイズが小さい忍は、僕の頭を抱えるだけでいっぱいいっぱいだったが。 なんのつもりなのかと思ったが、 「もう少し寝る。オノノキに会ったら起こせ」 と言って、そのまま目を閉じ、寝息を立て始めた。お前寝るなら影の中で寝てくれよと思わなくもなかったが、一瞬の後先でどう転ぶかわからない今後の展開を予測し、影から登場する手間を省くため、そこで眠ることにしたのかもしれない。 頭を揉むことを生殺与奪の権利を握ると表現したのはつい今朝のことだけれど、忍はそうやって僕の頭を抱くことで、僕の生殺与奪の権利を守ってくれているのかもしれない。 「さてと……」 お嬢様は上品な姿勢を保つために、頭の上に水の入ったコップを載せて、こぼさないように歩く訓練をするというけれど、まあ今の僕はそれに近いものがあった。 忍を起こさないようにしつつ、目的地である駅前のデパートまで辿り着いたのは、待ち合わせ時間(?)の直前である、午後六時五十五分のことだった──エレベーターのタイミング次第では遅刻してしまいかねない。 僕はやや小走りになりながら、デパートの中へと入った。 エスカレーターを使うか、いっそ階段を駆け上がったほうが早いかもと思った……一番早いのはエスカレーターを駆け上がる、だろうけれど、エスカレーターは駆け上がるべきものではない。 ので、僕は階段を選んだ。 階段なら駆け上がってもよいというものではないが、しかし斧乃木ちゃんを待たせるわけにはいかない。四階分ならば、到着したとき息切れしている程度だろう──待ち合わせ場所に息切れをした男が現れたら面食らうだろうが、しかし斧乃木ちゃん相手なら、そこまでの配慮は不要だろう。 例によって無表情で流してくれること請け合いである。 「ゲームコーナーって言ってたよな……、ゲームコーナー、ゲームコーナー……、でもそんなエリアがあったかな?」 あ、でも聞いたことがあるかも。 昔神原が、『ラブandベリー』というゲームに嵌っていたことがあって、それを遊んでいたのが、確かこのデパートのゲームコーナーだったような気が……。 そんなことを思い出しながら、僕はデパートの四階に辿り着き、そのフロアをうろうろする──すぐに見つかった。 言ってもデパートの中のゲームコーナーなので、親が買い物をしている間に子供を遊ばせておくためのようなスペースであり、規模としては小さな、形ばかりのゲームセンターなのだが、まあそれだけに、斧乃木ちゃんとの待ち合わせにはぴったりという言い方もできる。僕のパートナーである忍のような幼女がいても、不自然ではない場所だしな。 「……あれ? いないぞ」 丁度ちょうど七時に辿り着いたものの、そこには斧乃木ちゃんはもちろん、人っ子一人いなかった。 「そんな馬鹿な……誰もいないなんて。臥煙さんの指示に従って、その通りにならなかったことなんかないんだけど……」 ひょっとして斧乃木ちゃんのほうでトラブルがあったんじゃないかと心配になったけれど、しかしその気の回し過ぎとも言える心配も、『ラブandベリー』的な筐体きょうたいの次に僕の視界に飛び込んできた遊具を見たときに、吹っ飛んだ。 その遊具とは、いわゆるUFOキャッチャーである。 『トイ・ストーリー』で有名なあれだ。 『トイ・ストーリー』でなくても有名だろうが。 コインを入れて、アームを操作して、景品を取るあれ──その筐体の中、ガラスケースの