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化物語(上)
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西尾維新 [西尾維新]
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Volume:
1
Year:
2006
Language:
japanese
Series:
〈物語〉シリーズ
File:
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化物語(上) 西尾維新 目 次 化物語(上) 化バケモノ物ガタリ語 上 BOOK&BOX DESIGN VEIA 第一話 ひたぎクラブ 001 第二話 まよいマイマイ 001 第三話 するがモンキー 001 あ と が き 初出一覧 西尾維新〈にしお・いしん〉 化バケモノ物ガタリ語 上 西尾維新NISIOISIN 阿良々木あららぎ暦こよみを目がけて空から降ってきた女の子・戦場せんじょうヶ原はらひたぎには、およそ体重と呼べるようなものが、全くと言っていいほど、なかった──!? 台湾から現れた新人イラストレーター、〝光の魔術師〟ことVOFANと新たにコンビを組み、あの西尾維新が満を持して放つ、これぞ現代の怪異! 怪異! 怪異! 青春に、おかしなことはつきものだ! BOOK&BOX DESIGN VEIA FONT DIRECTION SHINICHIKONNO (TOPPAN PRINTING CO.,LTD) ILLUSTRTION VOFAN 本文使用書体:FOT-筑紫明朝ProL 第一話 ひたぎクラブ 第二話 まよいマイマイ 第三話 するがモンキー 第一話 ひたぎクラブ 001 戦場せんじょうヶ原はらひたぎは、クラスにおいて、いわゆる病弱な女の子という立ち位置を与えられている──当然のように体育の授業なんかには参加しないし、全校朝会や全校集会でさえ、貧血対策とやらで、一人だけ日陰で受けている。戦場ヶ原とは、一年、二年、そして今年の三年と、高校生活、ずっと同じクラスだけれど、僕はあいつが活発に動いているという絵をいまだかつて見たことが無い。保健室の常連で、かかりつけの病院に行くからという理由で、遅刻や早退、あるいは欠席を繰り返す。病院に住んでいるんじゃないかと、面白おかしく囁ささやかれるくらいに。 しかし病弱とは言っても、そこに貧弱というイメージは皆無だ。線の細い、触れれば折れそうなたおやかな感じで、それはとても儚はかなげで、その所為せいだろう、男子の一部では、深窓の令嬢などと、話半分、冗談半分に囁かれたりもする。まことしやかに、といってもいい。確かにその言葉の雰囲気は、戦場ヶ原に相応ふさわしいように、僕にも思われた。 戦場ヶ原はいつも教室の隅の方で、一人、本を読んでいる。難しそうなハードカバーのときもあれば、読むことによって知的レベルが下がってしまいそうな表紙デザインのコミック本のときもある。どうやら、かなりの濫読らんどく派のようだった。文字であれば何でもいいのかもしれなかったし、そうではなく、そこには明確な基準があるのかもしれなかった。 頭は相当いいようで、学年トップクラス。 試験の後に張り出される順位表の、最初の十人の中に、戦場ヶ原ひたぎの名前が必ず記されている。それも全教科まんべんなく、だ。数学以外は赤点ばかりの僕なんかと較べるのもおこがましい話だが、きっと、脳味噌のうみその構造が、はなっから違うのだろう。 友達はいないらしい。 一人も、である。 戦場ヶ原が、誰かと言葉を交わしている場面も、僕はいまだ見たことが無い──穿うがった目で見れば、いつだって本を読んでいる彼女は、その本を読むという行為によって、だから話しかけるなと、己おのれの周囲に壁を作っているのかもしれない。それこそ、僕は二年と少し、戦場ヶ原とは机を並べているわけだけれど、その間、彼女とは恐らく一言だって口を利いたことはないと断言できる。できてしまう。戦場ヶ原の声といえば、授業中に教師に当てられて、決まり文句のように発する、か細い『わかりません』が、僕にとってのイコールなのだ(明らかに分かっている問題であろうがどうだろうが、戦場ヶ原は『わかりません』としか答えないのだ)。学校というのは不思議な空間で、友達のいない人間は友達のいない人間同士で一種のコミュニティ(あるいはコロニー)を形成するのが普通だが(実際、去年までの僕がそうだ)、戦場ヶ原はそのルールからも例外にいるようだった。勿論もちろん、かといって苛いじめにあっているということでもない。ディープな意味でもライトな意味でも、戦場ヶ原が迫害されているとか、疎うとまれているとか、そういったことは、僕の見る限り、ない。いつだって戦場ヶ原は、そこにいるのが当たり前みたいな顔をして、教室の隅すみで、本を読んでいるのだった。己の周囲に壁を作っているのだった。 そこにいるのが当たり前で。 ここにいないのが当たり前のように。 まあ、だからといって、どうということもない。高校生活を三年間で測れば、一学年二百人として、; 一年生から三年生までで、先輩後輩同級生、教師までを全部含め、およそ千人の人間と、生活空間を共にするわけだが、一体その中の何人が、自分にとって意味のある人間なのだろうか、なんて考え始めたら、とても絶望的な答が出てしまうことは、誰だって違いないのだから。 たとえ三年間クラスが同じなんて数奇な縁えんがあったところで、それで一言も言葉を交わさない相手がいたところで、僕はそれを寂さみしいとは思わない。それは、つまり、そういうことだったんだろうな、なんて、後になって回想するだけだ。一年後、高校を卒業して、そのとき僕がどうなっているかなんて分からないけれど、とにかくそのときにはもう、戦場ヶ原の顔なんて、思い出すこともないし──思い出すこともできないのだろう。 それでいい。戦場ヶ原も、きっとそれでいいはずだ。戦場ヶ原に限らず、学校中のみんなきっと、それでいいはずなのだ。そんなことに対し、暗い感想を抱く方が、本来的に間違っているのである。 そう思っていた。 しかし。 そんなある日のことだった。 正確に言うなら、僕にとって地獄のようだった春休みの冗談が終了し、三年生になって、そして僕にとって悪夢のようだったゴールデンウィークの絵空事が明けたばかりの、五月八日のことだった。 例によって遅刻気味に、僕が校舎の階段を駆け上っていると、丁度ちょうど踊おどり場ばのところで、空から女の子が降ってきた。 それが、戦場ヶ原ひたぎだった。 それも正確に言うなら、別に空から降ってきたわけではなく、階段を踏み外した戦場ヶ原が後ろ向きに倒れてきただけのことだったのだが──避さけることもできたのだろうけれど、僕は、咄嗟とっさに、戦場ヶ原の身体を、受け止めた。 避けるよりは正しい判断だっただろう。 いや、間違っていたのかもしれない。 何故なぜなら。 咄嗟に受け止めた戦場ヶ原ひたぎの身体からだが、とても──とてつもなく、軽かったからだ。洒落しゃれにならないくらい、不思議なくらい、不気味ぶきみなくらいに──軽かったからだ。 ここにいないかのように。 そう。 戦場ヶ原には、およそ体重と呼べるようなものが、全くと言っていいほど、なかったのである。 002 「戦場ヶ原さん?」 僕の問いかけに、羽川はねかわは首を傾かしげる。 「戦場ヶ原さんが、どうかしたの?」 「どうかっつうか──」 僕は曖昧あいまいに言葉を濁にごした。 「──まあ、なんか、気になって」 「ふうん」 「ほら、何か、戦場ヶ原ひたぎだなんて、変わった名前で面白いじゃん」 「……戦場ヶ原って、地名姓せいだよ?」 「あー、えっと、そうじゃなくて、僕が言っているのは、ほら、下の名前の方だから」 「戦場ヶ原さんの下の名前って、ひたぎ、でしょう? そんな変わってるかな……ひたぎって、確か、土木関係の用語じゃなかったっけ」 「お前は何でも知ってるな……」 「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」 羽川は納得しかねている風だったが、しかし特に追及ついきゅうしてくるでもなく、「珍しいね、阿良々木あららぎくんが、他人に興味を持つなんて」と言った。 余計な世話だ、と僕は返した。 羽川翼つばさ。 クラスの委員長である。 これがまた、如何いかにも委員長といった風情ふぜいの女子で、きっちりとした三つ編みに眼鏡めがねをかけて、規律正しく折り目正しく、恐ろしく真面目まじめで教師受けも良いという、今や漫画やアニメにおいてさえ絶滅危惧きぐ種に指定されそうな存在なのである。今までの人生ずっと委員長をやってきて、きっと卒業した後でも、何らかの委員長であり続けるのではないかと、そう思わせる風格を持つ、つまるところ、委員長の中の委員長である。神に選ばれた委員長ではないかと、真実味たっぷりに噂うわさする者もいるほどだ(僕だけど)。 一年次、二年次は別のクラスで、この三年次で同じクラスになった。とはいえ、同じクラスになるその以前から、羽川の存在は聞いていた。当たり前だ、戦場ヶ原が学年トップクラスの成績ならば、羽川翼は学年トップの成績なのである。五教科六科目で六百点満点なんて嘘うそみたいなことを平気でやってのけ、そう、これは今でも明確に記憶している、二年生一学期の期末テストで、保健体育及び芸術科目まで含めた全教科で、落としたのは日本史の穴埋あなうめ問題一問のみという、とんでもなく化物じみた成果を達成したこともある。そんな有名人、知りたくなくとも勝手に聞こえてくるってものだ。 そして。 たちの悪いことに、いやいいことなのだろうけれど、とにかく迷惑この上ないことに、羽川は、とても面倒見のいい、善良な人間であったのだった。そしてこれは素直にたちの悪いことに、とても思い込みの激しい人間でもあった。過度に真面目な人間にありがちなように、こうと決めたら挺子てこでも動かない。春休みに、既に羽川とは、ちょっとした顔合わせが済んでいたのだが、明けてクラス替え、同じクラスになったと知るや否いなや、彼女は、「きみを更生させてみせます」と、僕に宣言したのである。 別に不良でもなければさして問題児でもない、クラスにおける置物のような存在だと、己自身を評価していた僕にとって、彼女のその宣言は正に青天の霹靂へきれきだったが、いくら説得しても羽川の妄想じみた思い込みはとどまることを知らず、あれよあれよと僕はクラスの副委員長に任命され、そして現在、五月八日の放課後、六月半ばに行われる予定の文化祭の計画を、教室に残って羽川と二人、練っているというわけだった。 「文化祭っていっても、私達、もう三年生だからね。さしてすることもないんだけれど。受験勉強の方が大事だし」 羽川は言う。 当然のように文化祭よりも受験勉強を優先させて考える辺り、委員長の中の委員長である。 「漠然ばくぜんとしたアンケートじゃ意見がばらけちゃって時間がもったいないから、あらかじめ私達で候補こうほを絞って、その中から、みんなの投票で決定するっていうので、いいかな?」 「いいんじゃないのか? 一見民主主義っぽくて」 「相変わらず嫌な言い方するよね、阿良々木くんは。ひねてるっていうか」 「ひねてなんかない。やめろ、人をむやみにトンガリ呼ばわりするな」 「参考までに、阿良々木くんは、去年一昨年おととし、文化祭の出し物、何だった?」 「お化け屋敷と、喫茶きっさ店」 「定番だね。定番過ぎる。平凡といってもいいかも」 「まあね」 「凡俗といってもいいかも」 「そこまでは言うな」 「あはは」 「大体──平凡な方が、でも、この場合はよくないか? お客さんだけじゃなくて、こっちも楽しまなくちゃならねえってんだから……ん。そう言えば、戦場ヶ原は──文化祭にも、参加してなかったな」 去年も──一昨年もだ。 いや、文化祭だけではない。およそ行事と呼べるもの──通常授業以外のものには、全くといっていいほど、戦場ヶ原は参加していない。体育祭は勿論、修学旅行にも、野外授業にも、社会科見学にも、何にも、参加していない。激しい活動は医者から禁じられている──とか、なんとかで。今から考えてみればおかしな話である。激しい運動とか言うのならまだしも、活動を禁じられているという、その不自然な物言い── しかし、もしも── もしもあれが、僕の錯覚でないとしたら。 戦場ヶ原に、体重がないのだとしたら。 通常の授業以外の、そう、不特定多数の人間と、ともすれば身体が接触する機会のある、体育の授業などは──絶対に参加するわけにはいかない、対象だろう。 「そんなに気になるの? 戦場ヶ原さんのこと」 「そういうわけでもないんだけど──」 「病弱な女の子、男子は好きだもんねー。あー、やだやだ。汚けがらわしい汚らわしい」 からかうようにいう羽川。 割合珍しいテンションだった。 「病弱、ねえ」 病弱というなら──病弱だろう。 いや、しかし、あれは病気なのだろうか? 病気でいいのだろうか? 身体が弱くて、それで必然的に身体が軽くなるというのは、分かりやすい説明だが──既にあれは、そういったレベルでの話ではなかった。 階段の、ほとんど一番上から、踊り場まで、細身の女子とはいえ、一人の人間が落下したのだ。通常ならば、受け止めた方でさえ、結構な怪我けがをしかねないようなシチュエーションである。 なのに──衝撃はほとんどなかった。 「でも、戦場ヶ原さんのことなら、阿良々木くんの方がよく知ってるんじゃないのかな? 私なんかに訊きくよりさ。なんったって、三年連続で同じクラスだっていうんだから」 「そう言われりゃ、確かにそうなんだが──女の子の事情は、女の子の方が知ってるかと思って」 「事情って……」 羽川は苦笑した。 「女の子に事情なんてものがあるとしたら、それこそおいそれと教えてあげるわけにゃいかないでしょうが、男の子に」 「そりゃそうだ」 当たり前だった。 「だからまあ、クラスの副委員長が、副委員長として、クラスの委員長に質問しているんだと思ってくれ。戦場ヶ原って、どんな奴なんだ?」 「そうくるか」 羽川は、話をしながらも進めていた走り書きを止め(お化け屋敷、喫茶店を筆頭に、クラスの出し物の候補を、書いては消し書いては消ししていた)、ふうむ、と手を束つかねた。 「戦場ヶ原、なんて、一見危なっかしい感じの苗字みょうじだけど、まあ、何の問題もない、優等生だよ。頭いいし、掃除とか、サボらないし」 「だろうな。それくらい、僕にもわかる。僕じゃわからないことが、聞きたいんだ」 「でも、同じクラスになって、まだ、丁度一ヵ月くらいだしね。わかんないってのが、やっぱりかな。ゴールデンウィーク、挟んじゃってるし」 「ゴールデンウィークね」 「ん? ゴールデンウィークがどうかした?」 「どうもしない。続けて」 「ああ……そうだね。戦場ヶ原さん、言葉数も多い方じゃないし──友達も、全然、いないみたい。色々、声かけてはみてるけど、彼女の方から、壁作っちゃってる感じで──」 「………………」 さすが、面倒見のいいことだ。 無論、それを見込んでの、質問だったのだが。 「あれは──本当に難しいわ」 羽川は、言った。 重い響さで。 「やっぱり病気の所為なのかな。中学生のときは、もっと元気一杯いっぱいで、明るい子だったんだけどね」 「……中学生のときって──羽川、戦場ヶ原と同じ中学だったのか?」 「え? あれ、それを知ってて私に訊いたんじゃないの?」 こっちが意外だというような表情を、羽川は浮かべる。 「うん、そうだよ。同じ中学出身。公立静風きよかぜ中学。もっとも、同じクラスだったことは、やっぱりないけれど──戦場ヶ原さん、有名だったから」 お前よりもか、と言いかけて、とどまる。羽川は、有名人扱いされるのを、ことのほか嫌うのだ。正直自覚が足りないとは思うが、本人は自分のことを『ちょっと真面目なだけが取り柄の普通の女の子』程度にしか捉えていないらしい。勉強なんて頑張がんばれば誰でもできるというお題目を、本気で信じているのである。 「すごく綺麗きれいだったし、運動もできたから」 「運動も……」 「陸上部のスターだったんだよ。記録も、いくつか残ってるはず」 「陸上部──か」 つまり。 中学時代は、あんな風ではなかったということ。 元気一杯で、明るい──というのも、正直言って、今の戦場ヶ原からは、全く想像ができない。 「だから、話だけなら、色々聞いたもんだったよ」 「話って?」 「すごく人当たりのいい、いい人だって話。わけ隔へだてなく誰にでも優しいって、そこまで言えば言い過ぎじゃないのかってくらい、いい人で、しかも努力家だって話。なんか、お父さんが外資系の企業のお偉いさんらしくって、おうちもすごい豪邸ごうていで、すごいお金持ちなんだけれど、それでも全然気取ったところがないんだって話。高みにあって、更に高みを目指しているって話」 「超人みたいな奴だな」 まあ、その辺は、話半分なのだろうけれど。 噂は噂。 「全部、当時の話だけれどね」 「……当時」 「高校に入って、身体を壊した、みたいなことは、一応、聞いてはいたんだけれど──それでも、だから、実を言うと、今年、同じクラスになって、びっくりした。間違っても、あんな、クラスの隅の方にいる人じゃなかったはずだもの」 私の勝手なイメージの話だけれど、と羽川。 確かに勝手なイメージなのだろう。 人は変わる。 中学生の頃と高校生の今じゃ、訳が違う。僕だってそうだし、羽川だってそうだ。だから戦場ヶ原だって、そうだろう。戦場ヶ原だって、色々あっただろうし、本当に、戦場ヶ原は身体を壊しただけなのかもしれない。その所為で、明るかった性格を失っただけなのかもしれない。元気を一杯、失ったのかもしれない。身体が弱っているときは、誰だって弱気になるものだ。もとが活発だったというのなら、なおさらである。だから、その推測が、きっと正しいのだろう。 今朝のことさえなければ。 そう言える。 「でも──こんなことを言っちゃいけないんだろうけれど、戦場ヶ原さん」 「何」 「今の方が──昔より、ずっと綺麗、なんだよね」 「………………」 「存在が──とても、儚げで」 沈黙するに──十分な言葉だった。 それは。 存在が儚げ。 存在感が──ない。 幽霊のように? 戦場ヶ原ひたぎ。 病弱な少女。 体重のない──彼女。 噂は──噂。 都市伝説。 街談巷説がいだんこうせつ。 道聴塗説。 話半分──か。 「……あー。そうだ、思い出した」 「え?」 「僕、忍野おしのに呼ばれてるんだった」 「忍野さんに? 何で?」 「ちょっと──まあ、仕事の手伝いを」 「ふ、ううん?」 羽川は微妙な反応を見せる。 いきなりの話題の切り替え──というか、露骨ろこつなまでの切り上げ方に、不審ふしんを覚えているようだ。仕事の手伝いという微妙な言い方も、その疑いに拍車はくしゃをかけているのだろう。これだから、頭のいい奴の相手は苦手だ。 察してくれてもよさそうなものなのに。 僕は席を立ちつつ、半ば強引に続けた。 「というわけで、僕、もう帰らなくちゃいけないんだった。羽川、後、任せていいか?」 「埋め合わせをすると約束できるなら、今日はいいわ。大した仕事も残ってないし、今日は勘弁してあげる。忍野さんを待たせても悪いしね」 羽川は、それでもとりあえず、そう言ってくれた。忍野の名前が効いたらしい。僕にとってそうであるように、羽川にとっても忍野は恩人にあたるので、不義理は絶対に有り得ないのだろう。まあ勿論、その辺は計算ずくだけれど、まるっきり嘘というわけでもない。 「じゃあ、出し物の候補は、私が全部決めちゃっていい? 後で一応、確認だけはしてもらうけれど」 「ああ。任せる」 「忍野さんによろしくね」 「伝えとくよ」 そして僕は教室から外に出た。 003 教室から出、後ろ手で扉とびらを閉じ、一歩進んだところで、背中から、 「羽川さんと何を話していたの?」 と、声を掛けられた。 振り向く。 振り向くときには、まだ僕は、相手が誰だか把握はあくできていない──聞き覚えのない声だった。しかし聞いたことのある声ではあった。そう、授業中に教師に当てられて、決まり文句のように発する、か細い『わかりません』── 「動かないで」 その一言目で、相手が戦場ヶ原であることを僕は知る。僕が振り向いたその瞬間、狙ねらい澄すましたように、まるで隙間すきまを通すように、僕の口腔こうこう内に、たっぷりと伸ばしたカッターナイフの刃を、戦場ヶ原が通したことも──知った。 カッターナイフの刃が。 僕の左頬ひだりほお内側の肉に、ぴたりと触れる。 「…………っ!」 「ああ、違うわ──『動いてもいいけれど、とても危険よ』というのが、正しかったのね」 加減しているのでもない、しかしかといって乱暴にしているのでもない、そんなぎりぎりの強さで──刃は、僕の頬肉を、引き伸ばす。 僕としては、もう間抜けのように、大きく口を開いて、微動だにせず、戦場ヶ原の忠告通り──動かずにいることしか──できなかった。 怖い。 と、思った。 カッターナイフの刃が──ではない。 僕にそんな真似まねをしておきながら、ちっとも揺るがない、ぞっとするくらいに冷えた視線で──僕を見つめる戦場ヶ原ひたぎが、怖かった。 こんな── こんな剣呑けんのんな目をした、奴だったのか。 確信した。 今、僕の左頬の内側に添えられているカッターナイフの刃が、潰つぶされてもおらず、絶対に峰みねでもないということを、戦場ヶ原のその目を見ることで、僕は確信した。 「好奇心というのは全くゴキブリみたいね──人の触れられたくない秘密ばかりに、こぞって寄ってくる。鬱陶うっとうしくてたまらないわ。神経に触れるのよ、つまらない虫けらごときが」 「……お、おい──」 「何よ。右っ側が寂しいの? だったらそう言ってくれればいいのに」 カッターナイフを持っている右手とは反対の左手を、戦場ヶ原は振り上げる。その素早さに、平手打ちでもされるのかと僕は、歯を食いしばらないように身構えたが、しかし、違った。そうではなかった。 戦場ヶ原は左手にはホッチキスを持っていた。 それがはっきりと視認できるよりも先に、彼女はそれを、僕の口の中に差し込んだ。勿論ホッチキスの全部を差し込んだわけではない、そうしてくれていたらむしろよかった、戦場ヶ原は、僕の右頬肉を、ホッチキスで挟はさみ込むように──綴とじる形で、差し込んだのだ。 そして、緩ゆるく──挟まれる。 綴じる、ように。 「か……は」 体積の大きい頭の方、つまり、ホッチキスの針が装填そうてんされている側を入れられているため、僕の口の中は大入り満員状態で、当然のように、言葉を発することができなくなる。カッターだけなら、動けないまでもまだ喋しゃべることはできたのだろうが──今はもう、それを試す気にもならない。考えたくも無い。 まず薄くて鋭するどいカッターナイフを差し込むことで大口を開けさせ、そこにすかさずホッチキスを続ける──隅々まで計算された、恐ろしい手際の良さだった。 畜生、口の中にこんな色々突っ込まれたことなんて、中学一年生の頃に永久歯の虫歯の治療を受けて以来だ。あれから、二度とそんなことがないように、毎朝毎晩毎食後、歯を磨き続け、キシリトール入りのガムをかみ続けてきたというのに、それがまさかこんなことになろうとは。 なんて足元のすくわれ方だ。 またたく間に──この状況。 つい壁一枚隔てた向こう側で、羽川が文化祭の出し物の候補を決めているだなんて、とても思えないような異常空間が、何の変哲へんてつも無い私立高校の廊下において、形成されていた。 羽川……。 何が『一見危なっかしい感じの苗字だけど』だ。 思いっきり名前通りの女じゃないか……。 あいつも案外人を見る目がないなあ! 「羽川さんに私の中学時代の話を聞いたところで、次は担任の保科ほしな先生かしら? それとも一足いっそく飛ばしに、保健の春上はるかみ先生のところへ行ってみる?」 「………………」 喋れない。 そんな僕をどう見ているのか、戦場ヶ原は、やれやれといった風に、大仰にため息をつく。 「全く私も迂闊うかつだったわ。『階段を昇のぼる』という行為には人一倍気を遣つかっているというのに、この有様。百日の説法屁せっぽうへ一つとはよく言ったものだわ」 「………………」 こんな状況でも花も恥はじらう十代の乙女が屁という言葉を口にすることに抵抗を覚える僕は案外いい奴なんじゃないかと思った。 「まさかあんなところにバナナの皮が落ちているだなんて、思いもしなかったわ」 「………………」 僕は今バナナの皮で足を滑すべらす女に活殺自在。 ていうかなんでそんなものが学校の階段に。 「気付いているんでしょう?」 戦場ヶ原は僕に問う。 目つきは、剣呑なままだ。 こんな深窓の令嬢がいてたまるか。 「そう、私には──重さがない」 体重が、ない。 「といっても、全くないというわけではないのよ──私の身長・体格だと、平均体重は四十キロ後半強というところらしいのだけれど」 五十キロらしい。 左頬が内側から伸ばされ、右頬肉が圧迫された。 「…………っ!」 「変な想像は許さないわよ。今私のヌードを思い浮かべたでしょう」 全然違うが、結果的には鋭かった。 「四十キロ後半強というところらしいのだけれど」 戦場ヶ原は主張した。 譲ゆずらないみたいだ。 「でも、実際の体重は、五キロ」 五キロ。 生まれたばかりの赤子と、そう変わらない。 五キロのダンベルを思い浮かべれば、一概にゼロに近いといえるほどの数字ではないが、しかし五キロという質量が、人間一人の大きさに分散していることを考えれば、密度の問題──実感としては、体重がないも同然だ。 受け止めるのも、容易たやすい。 「まあ、正確を期すなら、体重計が表示する重量が五キロというだけなのだけれど──本人としては自覚はないわ。四十キロ後半強だった頃も、私自身は、今も、何も変わらない」 それは── 重力から受ける影響が少ないということなのだろうか? 質量ではなく、容積──確か、水の比重が一で、人間もほとんど水で構成されている都合上、比重、密度はおよそ一──単純に考えて、戦場ヶ原はその十分の一の密度であるということになる。 骨密度がそんな数字なら、あっという間に骨粗鬆症こつそしょうしょうだろう。内臓だって脳髄のうずいだって、正しくは動作しないはずだ。 だから、そうじゃない。 数字の問題じゃ──ない。 「何を考えているかわかるわよ」 「…………」 「胸ばかりみて、いやらしい」 「…………っ!」 断じて考えていない! どうやら戦場ヶ原はかなり自意識の高い女子高生のようだった。それだけ綺麗な容姿をしていれば無理もないが──爪つめの垢あかでも煎せんじて、壁の向こうで仕事をしている委員長に飲ませてあげたい。 「底の浅い人間はこれだから嫌になるわ」 この状況では、どうも、誤解を解くのは不可能のようだとして──ともかく、僕が考えていたのは、戦場ヶ原は、つまり、病弱とは縁遠い、与えられている立ち位置がまるで看板違いな身体であるということだ。体重が五キロだなんて、それこそ病弱どころか貧弱であるはずなのに、そうじゃない。どころか──強いて言うなら、重力が十倍の星から地球にやってきた宇宙人みたいなものだろう、かなり、運動能力は高いはずだ。元々、陸上部だったというのだから、尚更なおさらである。ぶつかり合いに向いていないのは確かだろうが……。 「中学校を卒業して、この高校に入る前のことよ」 戦場ヶ原は言った。 「中学生でも高校生でもない、春休みでもない、中途半端はんぱなその時期に──私はこうなったの」 「…………」 「一匹の──蟹に出会って」 か──蟹かに? 蟹と言ったか? 蟹って──冬に食べる、あの蟹? 甲殻綱十脚目こうかくこうじっきゃくもくの──節足せっそく動物? 「重さを──根こそぎ、持っていかれたわ」 「…………」 「ああ、別に理解しなくていいのよ。これ以上かぎまわられたらすごく迷惑だから、喋っただけだから。阿良々木くん。阿良々木くん──ねえ、阿良々木暦こよみくん」 戦場ヶ原は。 僕の名を、繰り返して、呼んだ。 「私には重さがない──私には重みがない。重みというものが、一切ない。全く困ったものじゃない。さながら『ヨウスケの奇妙な世界』といった有様よ。高橋たかはし葉介ようすけ、好きかしら?」 「…………」 「このことを知っているのはね、この学校では、保健の春上先生だけなの。今現在、保健の春上先生だけ。校長の吉城よしき先生も教頭の島しま先生も学年主任の入中いりなか先生も担任の保科先生も知らないわ。春上先生と──それから、あなただけ。阿良々木くん」 「…………」 「さて、私は、あなたに私の秘密を黙っていてもらうために、何をすればいいのかしら? 私は私のために、何をすべきかしら? 『口が裂けても』喋しゃべらないと、阿良々木くんに誓ってもらうためには──どうやって『口を封じれば』いいかしら?」 カッターナイフ。 ホッチキス。 正気か、こいつ──同級生に対して、なんて追い込み方をするんだ。こんな人間がいていいのか? こんな恐ろしい人間と、机を並べて同一空間内に、二年以上もいたのかと思うと、素直に背筋せすじが震ふるえる。 「病院の先生が言うには、原因不明──というより、原因なんかないんじゃないかって。他人の身体をあそこまで屈辱くつじょく的に弄繰いじくり回して、その結論はお寒いわよね。元から、それがそうであるように、そうであったとしかいえない──なんて」 戦場ヶ原は自嘲じちょうのように言う。 「あまりに馬鹿馬鹿しいと思わない? 私──中学校までは、普通の、可愛かわいい女の子だったのに」 「………………」 手前で手前のことを可愛いと言い放った事実はひとまず置いておくとして。 病院に通っているのは、本当だったか。 遅刻、早退、欠席。 それに──保健の先生。 どんな気分なのだろう、と、考えてみる。 僕のように──僕のように、ほんの短い、二週間程度の春休みの間だけではなく──高校生になってから、ずっとそうだった、というのは。 何を諦あきらめ。 何を捨てるのに。 十分な、時間だっただろう。 「同情してくれるの? お優しいのね」 戦場ヶ原は、僕の心中を読んだのか、吐き捨てるようにそう言った。汚らわしいとでも、言わんばかりに。 「でも私、優しさなんて欲しくないの」 「…………」 「私が欲しいのは沈黙と無関心だけ。持っているならくれないかしら? ニキビもない折角せっかくのほっぺた、大事にしたいでしょう?」 戦場ヶ原は。 そこで、微笑ほほえんだ。 「沈黙と無関心を約束してくれるのなら、二回、頷うなずいて頂戴ちょうだい、阿良々木くん。それ以外の動作は停止でさえ、敵対行為と看做みなして即座に攻撃に移るわ」 一片の迷いもない言葉だった。 僕は、選択の余地なく、頷く。 二回、頷いてみせる。 「そう」 戦場ヶ原はそれを見て──安心したようだった。 選択の余地のない、取引とも協定とも言えない、こちらとしては同意するしかない要求だったにもかかわらず──僕がそれに素直に応じたことに、戦場ヶ原は、安心、したようだった。 「ありがとう」 そう言って、まずはカッターナイフを、僕の左頬内側の肉から離し、ゆっくりと、慎重しんちょうというよりは緩慢かんまんな動作で、抜く。その際に、誤って口腔を傷つけないようにと、配慮はいりょの感じられる手つきだった。 抜いたカッターの、刃を仕舞しまう。 きちきちきちきち、と。 そして、次はホッチキス。 「……ぎぃっ!?」 がじゃこっ、と。 信じられないことに。 ホッチキスを──戦場ヶ原は、勢いよく、綴じた。そして、その激しい痛みに反応して、僕がアクションを取る前に、すいっと要領よく、そのホッチキスを、戦場ヶ原は引き抜く。 僕は、その場に、崩れるように、蹲うずくまった。 外側から頬を抱えるように。 「ぐ……い、いい」 「悲鳴を上げないのね。立派だわ」 そ知らぬ顔で── 戦場ヶ原が、上から言った。 見下すように。 「今回はこれで勘弁してあげる。自分の甘さが嫌になるけれど、約束してくれた以上、誠意をもって応えないとね」 「……お、お前──」 がじゃこっ。 僕が何か言おうとしたところに、被せるように、戦場ヶ原は、ホッチキスを、音を立てて──中空で、綴じた。 変形した針が、僕の目の前に落ちる。 自然、身が竦すくんだ。 反射という奴だ。 たった一回で──条件反射が組み込まれた。 「それじゃ、阿良々木くん、明日からは、ちゃんと私のこと、無視してね。よろしくさん」 それだけ言って、僕の反応を確認するようなこともなく、戦場ヶ原は踵きびすを返し、すたすたと、廊下を歩いていった。僕が、蹲った姿勢から、何とか立ち上がるよりも前に、角を折れて、その後ろ姿は見えなくなる。 「あ……悪魔みたいな女だ」 脳味噌の構造が──はなっから、違う。 あの状況にあっても、そうは言っても、実際にやったりはしないのだろうと、どこか僕は、たかをくくっていた。むしろこの場合、あいつがカッターナイフではなくホッチキスの方を選択してくれたことを、幸運と取るべきか。 先刻さっきまでのように痛みを和やわらげるためではなく、頬の状態を確認するために、そっと、撫なでる。 「………………」 よし。 大丈夫だ、貫通はしていない。 続けて僕は、口の中に、今度は自分の指を差し込む。右頬なので左の指だ。すぐに、それらしき感触に行き当たった。 全然消えてなくならない、弱くもならない鋭い痛みで、分かりきってはいたことだが──ホッチキスの針は、実は一発目は装填そうてんされていなかった、やっぱりただの脅し脅かしでしたという、平和的な線は、消滅ってわけか……正直、かなり期待していたのだが。 まあいい。 貫通していないということは、針は、極端に変形していないということだ……ほとんど、コの字形の直角状態を保っているはず。言うなら返しのついていない形、ならばそれほどの抵抗なく、力任せに引き抜けるはずだ。 人さし指と親指で摘つまんで、一気に。 鋭い痛みに、鈍い味が加わった。 血が噴き出したらしい。 「……くあぁ……」 大丈夫。 この程度なら──僕は大丈夫。 べろで、頬の内側にできた二つの傷穴を、舐なめるようにしながら、僕は抜き取ったホッチキスの針を、そのまま折り曲げて、学ランのポケットに入れた。さっき戦場ヶ原が落とした針も、拾って、同じようにした。誰かが裸足はだしで踏んだりしたら危険だ。もう僕にはホッチキスの針がマグナム弾と同じようにしか見えなかった。 「あれ? 阿良々木くん、まだいたの?」 していると、教室から羽川が出てきた。 どうやら作業は終わったらしい。 ちょっと遅い。 いや、ナイスタイミングというべきか。 「忍野さんのところ、早くいかなくていいの?」 疑問そうに言う羽川。 何も悟ってない風だった。 壁一枚向こう側──そう、全く、こんな薄い、壁一枚向こう側なのだ。それなのに、羽川に全く悟らせずに、あれだけの荒業をやってのけた戦場ヶ原ひたぎ、やはり──只者ただものではない。 「羽川……お前、バナナ、好きか」 「え? まあ、別に嫌いじゃないけれど。栄養価高いし、好きか嫌いかでいえば、うん、好きかな」 「どんな好きでも校内では絶対に食べるなよ!」 「は、はあ?」 「食べるだけならまだいい、残った皮を階段にポイ捨てしてみろ、僕はお前を絶対に許さない!」 「一体何を言っているの阿良々木くん!?」 手を口に当て、戸惑とまどいの表情の羽川。 そりゃそうだろう。 「それより阿良々木くん、忍野さんの──」 「忍野のところへは──これから行くんだよ」 そう言って。 僕はそう言って、羽川の脇わきを抜けるように、一息に、駆け出した。「あー! こら、阿良々木くん、廊下を走っちゃ駄目! 先生に言いつけちゃうよ!」と、後ろから羽川の、そんな声が聞こえたが、当然のように黙殺する。 走る。 とにかく、走る。 角を折れたところで、階段。 ここは四階。 まだ、そう離れていないはずだ。 ホップ、ステップ、ジャンプのように、二段、三段、四段飛ばしで階段を飛び下りて──踊り場で着地。 衝撃が脚あしに来る。 体重分の衝撃だ。 こんな衝撃も── だから、戦場ヶ原には、ないのだろう。 重さが無い。 重みが無い。 それは──足元が覚束おぼつかないということ。 蟹。 蟹と──彼女は言った。 「こっちじゃ、なくて──こっちか」 まさか今から、横に折れたりはしないだろう。追いかけてくると思っているわけもない、素直に縦に、校門に向かっているはずだ。部活も、どうせ帰宅部に決まっている、仮に何らかの何らかに属していたとしても、こんな時間から始まる活動なんて有り得ない。そう決め付けて、僕は三階から二階へ、躊躇ちゅうちょ無く、階段を降りる。飛び降りる。 そして二階から一階への踊り場。 戦場ヶ原は、そこにいた。 どたばた音をさせながら、転がるように追いかけたのだ、既に察していたのだろう、こちらに背中を向けてはいるものの、既に、振り返っている。 冷めた目で。 「……呆あきれたわ」 そう言う。 「いえ、ここは素直に驚いたというべきね。あれだけのことをされておいて、すぐに反抗精神を立ち上げることができたのなんて、覚えている限りではあなたが初めてよ、阿良々木くん」 「初めてって……」 他でもやってたのかよ。 百日の説法とか言ってた癖くせに。 でも、確かに、考えてみれば、『体重が無い』なんて、触れられればそれですぐにバレてしまうような秘密を、完全に守り通すなんてこと、現実的には不可能だよな……。 そう言えば『今現在』って言ってた、こいつ。 本当に悪魔なのかもしれない。 「それに、口の中の痛みって、そう簡単に回復するようなものじゃないはずなのだけれど。普通、十分はその場から動けないのに」 経験者の台詞せりふだった。 怖こわ過ぎる。 「いいわ。分かった。分かりました、阿良々木くん。『やられたらやり返す』というその態度は私の正義に反するものではありません。だから、その覚悟があるというのなら」 戦場ヶ原はそう言って。 両腕を、左右に、広げた。 「戦争を、しましょう」 その両手には──カッターナイフとホッチキスを始めに、様々な文房具が、握にぎられていた。先の尖とがったHBの鉛筆、コンパス、三色ボールペン、シャープペンシル、アロンアルフア、輪ゴム、ゼムクリップ、目玉クリップ、ガチャック、油性マジック、安全ピン、万年筆、修正液、鋏はさみ、セロハンテープ、ソーイングセット、ペーパーナイフ、二等辺三角形の三角定規じょうぎ、三十センチ定規、分度器、液体のり、各種彫刻刀、絵の具、文鎮ぶんちん、墨汁ぼくじゅう。 …………。 将来、こいつと同じクラスだったという事実だけで、世間から謂いわれなき迫害を受けてしまうような予感がした。 個人的にはアロンアルフアが一番デンジャラス。 「ち……違う違う。戦争はしない」 「しないの? なあんだ」 どこか残念そうな響きだった。 しかし広げた両腕は、まだ収めない。 文房具という名の凶器は、きらめいたままだ。 「じゃあ、何の用よ」 「ひょっとしたら、なんだけれど」 僕は言った。 「お前の、力になれるかもしれないと、思って」 「力に?」 心底── 馬鹿にしたように、彼女は、せせら笑った。 いや、怒ったのかもしれない。 「ふざけないで。安い同情は真っ平だと言ったはずよ。あなたに何ができるっていうのよ。黙って、気を払わないでいてくれたらそれでいいの」 「…………」 「優しさも──敵対行為と看做すわよ」 言って。 彼女は一段、階段を昇った。 本気だろう。 躊躇しない性格であることは、先程のやり取りで、もう分かり過ぎるほど分かっている。嫌というほどに、だ。 だから。 だから僕は何も言わず、ぐい、と、自分の唇くちびるの端に指を引っ掛けて、頬を伸ばして見せた。 右手の指で、右頬を、だ。 自然、右頬の内側が、晒さらされる。 「──え?」 それを見て、さすがの戦場ヶ原も、驚いたようだった。ぽろぽろと、両手に持っていた文房具という名の凶器を、取り落とす。 「あなた──それって、どういう」 問われるまでもない。 そう。 血の味も、既にしない。 戦場ヶ原がホッチキスでつけた口の中の傷は、既に、跡形も無く、治ってしまっていた。 004 春休みのことである。 僕は吸血鬼に襲おそわれた。 リニアモーターカーが実用化し、修学旅行で海外へ行くのが当たり前みたいなこの時代に、恥ずかしくってもう表に出られないくらいの事実だが、とにかく、僕は吸血鬼に襲われたのだ。 血も凍るような、美人だった。 美しい鬼だった。 とても──美しい鬼だった。 学ランのカラーで隠れてはいるが、今でも僕の首筋には、彼女に深く咬かまれた、その痕跡こんせきが残っている。暑くなる前に、どうにか髪が伸びてくれればと思っているのだが、それはさておき──普通、一般人が吸血鬼に襲われたとなれば、たとえばヴァンパイアハンターとかいう吸血鬼専門の狩人かりうどだったり、キリスト教の特務部隊だったり、あるいは吸血鬼でありながら同属を狩る吸血鬼殺しの吸血鬼だったりが、助けてくれるのがストーリーってものなのだろうが、僕の場合、通りすがりの小汚いおっさんに助けられた。 それで、僕は何とか、人間に戻れたが──日光も十字架も大蒜にんにくも平気になったが、しかし、その影響というか後遺症こういしょうで、身体能力は、著いちじるしく、上昇したままなのだ。といっても、運動能力ではなく、新陳代謝しんちんたいしゃなど、いわゆる回復力方面の話だが。カッターナイフで頬を切り裂かれていたら果たしてどうだったかはわからないが、ホッチキスの針が刺さった程度ならば、回復するまでに三十秒もいらない。それでなくとも、どんな生物であれ、口の中の傷の回復は早いものなのだ。 「忍野──忍野さん?」 「そう。忍野メメ」 「忍野メメ、ね──なんだか、さぞかしよく萌もえそうな名前じゃないの」 「その手の期待はするだけ無駄むだだぞ。三十過ぎの年季の入った中年だからな」 「あっそう。でも子供の頃は、さぞかし萌えキャラだったのでしょうね」 「そういう目で生身の人物を見るな。ていうか、お前、萌えとかキャラとか分かる奴なのか?」 「これしき、一般教養の部類よ」 戦場ヶ原は平然と言った。 「私みたいなキャラのことを、ツンデレっていうのでしょう?」 「………………」 お前みたいなキャラはツンドラって感じだ。 閑話休題。 僕や羽川、戦場ヶ原の通う、私立直江津なおえつ高校から、自転車で二十分くらい行った先、住宅街から少し外れた位置に、その学習塾は建っている。 建っていた。 数年前、駅前に進出してきた大手予備校のあおりをもろに食らう形で、経営難に陥おちいり、潰れてしまったそうだ。僕がこの、四階建てのビルディングの存在を知ったときには、もう見事な廃墟はいきょになった後だったので、その辺りは全て、聞いた事情という奴だけれど。 危険。 私有地。 立入禁止。 そんな看板が乱立し、安全第一のフェンスで取り囲まれてはいるものの、そこらじゅうが隙間だらけで、出入りは自由と言っていい。 この廃墟に──忍野は住んでいる。 勝手に居ついている。 春休みから数えて、一ヵ月、ずっとだ。 「それにしてもお尻が痛いわ。じんじんする。スカートに皺しわがよっちゃったし」 「僕の責任じゃない」 「言い逃れはやめなさい。切り落とすわよ」 「どの部位をですかっ!?」 「自転車の二人乗りなんて私は初めての経験だったのだから、もっと優しくしてくれてもよさそうなものじゃない」 優しさは敵対行為じゃなかったのか。 言うことなすこと滅茶苦茶めちゃくちゃな女だ。 「じゃあ、具体的にどうすればよかったんだよ」 「そうね。ほんの一例だけれど、たとえば、あなたの鞄かばんを座布団ざぶとん代わりに寄越よこすなんてのはどうだったかしら」 「自分以外はどうでもいいのかお前は」 「お前呼ばわりしないで頂戴。ほんの一例だけれどって言ったじゃない」 それが何のフォローになっているのだろう。 はなはだ疑問だった。 「ったく──実際、マリー・アントワネットだって、お前よりはもう少し謙虚で、慎つつしみ深い人間だったろうよ」 「彼女は私の弟子みたいなものなの」 「時系列はっ!?」 「そんな気安く私の言葉に突っ込みを入れないでくれるかしら。さっきから、もう、本当に馴なれ馴なれしいわ。もしも知らない人に聞かれたらクラスメイトだと思われるじゃない」 「いや、クラスメイトじゃん!」 そこまで否定されるのかよ。 なんだか、あんまりだ。 「たく……お前を相手にするには、どうやらとてつもない忍耐力が必要とされるようだな……」 「阿良々木くん。その文脈だと阿良々木くんじゃなくて私の性格が悪いみたいに聞こえるわよ?」 そう言ったんだ。 「ていうか、お前、自分の鞄はどうしたんだ。手ぶらだけど。持ってないのか」 そういえば、戦場ヶ原が、手に荷物を持っている図というのを、僕はこれまで、見た覚えがない。 「教科書は全て頭の中に入っているわ。だから学校のロッカーに置きっぱなし。身体中に文房具を仕込んでおけば、鞄は不要ね。私の場合、体育の着替えなんかは、いらないし」 「ああ、なるほど」 「両手が自由になっていないと、いざというときにどうしたって戦いにくいもの」 「…………」 全身凶器。 人間凶器。 「生理用品を学校に置いたままにするのには抵抗があるから、困るのはそれくらいね。友達がいないから誰にも借りられないし」 「……そういうことをさらりと言うな」 「何よ。文字通り生理現象なのだから、恥ずかしいことではないわ。隠す方がいやらしいでしょう」 隠さないのもどうかと思う。 いや、個人の主義だ。 口は出すまい。 むしろ、意識に留めておくべきなのは、よりさらりと言った──友達がいないからという、発言の方なのかもしれない。 「ああ、そうだ」 僕は別にそういうのは気にしないけれど、先程のスカートに関する発言からも見て取れるよう、やはり戦場ヶ原も女の子だから、制服がほつれたりするのは嫌うだろうと、大きめの入り口を探し、そこに辿たどり着いたところで、僕は戦場ヶ原を振り向いた。 「その文房具とやら、僕が預あずかる」 「え?」 「預かるから、出せ」 「え? え?」 法外な要求を受けたという顔をする戦場ヶ原だった。あなたって頭おかしいんじゃないのとでも言いたげな感じ。 「忍野は、なんというか、変なおっさんだけど、一応、僕の恩人なんだ──」 それに。 羽川の恩人でもある。 「──その恩人に、危険人物を会わせるわけにはいかないから、文房具は、僕が預かる」 「ここに来てそんなことをいうなんて」 戦場ヶ原は僕を睨にらむ。 「あなた、私を嵌はめたわね」 「…………」 そこまで言われるようなことかなあ? しかし、戦場ヶ原は、かなり真剣な葛藤かっとうを、暫しばらくの間、一言の口も利かずに、続けた。時折僕をねめつけながら、時折足元の一点を見つめるようにしながら。 ひょっとしたらこのまま踵を返して帰っちゃうのかもしれないと思ったが、しかし、やがて、戦場ヶ原は、「了承したわ」と、覚悟を決めたように、言った。 「受け取りなさい」 そして、彼女は、身体中のあちこちから、百花繚乱ひゃっかりょうらん様々な文房具を、さながらマジックショーの様に取り出し、僕に手渡した。あのとき、階段の踊り場で僕に見せたのは、あれでもまだほんの一部、凶器にして狂気の片鱗へんりんに過ぎなかったらしい。こいつのポケットの中は四次元にでもなっているのかもしれない。二十二世紀の科学なのかもしれない。預かるとは言ったものの、僕の鞄の中に入りきるかどうかも、怪しいくらいのとてつもない物量だった。 ……こんな人間が何の制限も受けずに天下の公道を闊歩かっぽしているというのは、どう考えても、行政の怠慢たいまんなんじゃないだろうか……。 「勘違いしないでね。別に私は、あなたに気を許したというわけではないのよ」 全てを僕に渡し終えた後で、戦場ヶ原は言った。 「気を許したわけではないって……」 「もしもあなたが私を騙だまし、こんな人気の無い廃墟に連れ込んで、ホッチキスの針で刺された件で仕返しを企たくらんでいるというのなら、それは筋違すじちがいというものよ」 「…………」 いや、筋はものすごく合っていると思う。 「いいこと? もしも私から一分おきに連絡がなかったら、五千人のむくつけき仲間が、あなたの家族を襲撃することになっているわ」 「大丈夫だって……余計な心配するな」 「一分あればこと足りると言うの!?」 「僕はどこかのボクサーかよ」 ていうか躊躇無く家族を標的にしやがった。 とんでもない。 しかも五千人って、大嘘つきだった。 友達のいない身で大胆な嘘である。 「妹さん、二人ともまだ中学生なんですってねえ」 「………………」 家族構成を把握されていた。 嘘ではあっても冗談ではないらしい。 とにかく、多少の不死身を見せたところで、どうやら僕は全然信頼されていないようだった。忍野は、こういうのは信頼関係が大事だと言っていたから、その点から鑑かんがみるに、この状況はあまりいいとは言えないみたいである。 まあ、仕方がない。 ここから先は、戦場ヶ原一人の問題だ。 僕はただの、案内人である。 金網の裂け目を通り、敷地内に入って、ビルディングの中に這入はいる。まだ夕方だけれど、建物の中だというだけで、かなり薄暗い。長期開放置されっぱなしだった建物だ、足元がかなりとっちらかっているので、うっかりしていたら躓つまずきかねない。 そこで気付く。 僕にとって、たとえば空き缶が落ちていても、それはただの空き缶だが、戦場ヶ原にしてみれば、それは、十倍の質量を持った空き缶なのだ。 相対的に考えればそうなる。 十倍の重力、十分の一の重力という風に、昔の漫画みたいに簡単に割り切れる問題ではない。重さが軽いイコールで運動能力が高いと、単純に考えちゃ駄目なのだ。ましてこの暗闇で、見知らぬ場所である。戦場ヶ原が、まるで野生の獣けもののように、警戒心をむき出しにしても、それは仕方がないのかもしれない。 速さでは十倍でも。 強さは十分の一になるのだから。 文房具をあれほど手放したがらなかった理由も、そう考えれば、分かる気がした。 それに──鞄を持たない。 鞄を持てない、理由も。 「……こっちだよ」 入り口辺りで、所在なさげに踏みとどまっていた戦場ヶ原の、手首を握るようにして、僕は彼女を導みちびいた。少し唐突だったので、戦場ヶ原は面食らったようだったが、 「何よ」 と言いながらも、素直に僕についてきた。 「感謝するなんて思わないでね」 「わかってるよ」 「むしろあなたが感謝なさい」 「わからねえぞ!?」 「あのホッチキス、傷が目立たないようにと思って、わざと、外側じゃなくて内側に針が刺さるようにしてあげたのよ?」 「…………」 それはどう考えても、『顔は目立つから腹を殴れ』みたいな、加害者側の都合だろう。 「そもそも、貫通したらおんなじだったろうが」 「阿良々木くんは面つらの皮が厚あつそうだから、なんとなく大丈夫そうだと判断したわ」 「嬉うれしくねえ嬉しくねえ。しかもなんとなくって」 「私の直感は、一割くらいは当たるわよ」 「低っ!」 「まあ──」 戦場ヶ原は、若干じゃっかん間を空けて、言った。 「どの道、全然、無駄な気遣いだったわけだけれど」 「……だな」 「不死身って便利そうねって言われたら、傷つく?」 戦場ヶ原の質問。 僕は答えた。 「今は、そうでもない」 今は──そうでもない。 春休みだったら。 そんなことを言われたら──その言葉で、僕は死んでいたかもしれないけれど。致命傷だったかも、しれないけれど。 「便利と言えば便利だし──不便と言えば不便だし。そんなところかな」 「どっちつかずね。よくわからないわ」 肩を竦すくめる戦場ヶ原。 「『往来危険』が危険なのかそうでないのか、どっちつかずなのと、似たようなものかしら」 「その言葉の『往来』はオーライじゃない」 「あらそう」 「それに、もう不死身じゃない。傷の治りがちっとばかし早いというだけで、他は普通の人間だ」 「ふうん。そうなんだ」 戦場ヶ原はつまらなそうに呟いた。 「機会があれば色々と試させてもらう予定だったのに、がっかりだわ」 「どうやら僕の知らないところで、かなり猟奇的な計画が立てられていた模様だな……」 「失敬ね。ちょっと○○を○○して○○させてもらおうと思っていただけよ」 「○○には何が入るんだっ!?」 「あんなことやこんなこともしてみたかったわね」 「傍線部の意味を答えろ!」 忍野がいるのは、大抵四階だ。 エレベーターもあるが、当然のように稼動していない。となると、選択肢は、エレベーターの天井を突き破って、ワイヤーを伝って四階まで移動するか、階段を昇るかだが、誰がどう考えたって、それは後者を選ぶべきだろう。 戦場ヶ原の手を引いたまま、階段を昇る。 「阿良々木くん。最後に言っておくけれど」 「何だよ」 「服の上からだとそうは見えないかもしれないけれど、私の肉体は、案外、法を犯してまで手に入れる価値はないかもしれないわよ」 「…………」 戦場ヶ原ひたぎさんは、どうやら随分と高い貞操観念をお持ちのようだった。 「遠回しな言い方ではわからなかったかしら? じゃあ具体的に言うわ。もしも阿良々木くんが下劣な本性を剥むき出しにして私を強姦ごうかんしたら、私はどんな手段を行使してでも、あなたにボーイズラブな仕返しをしてみせるわ」 「…………」 恥じらいや慎みはゼロに近い。 ていうかマジで恐怖。 「なんか、その言葉のことだけじゃなくてさ、お前の行動、全般的に見て、戦場ヶ原、自意識過剰っつーか、ちょっと被害妄想、強過ぎるんじゃないか?」 「嫌だわ。本当のことでも言っていいことと悪いことがあるでしょう」 「自覚しているっ!?」 「それにしても、よく、こんな、今にも壊れそうなビルに住んでいるわね──その、忍野って人」 「ああ……随分な、変わり者でね」 戦場ヶ原とどちらの方がといわれたら、いまや即答の難しいところではあるけれど。 「事前に連絡を入れておくべきじゃなかったかしら? 今更だけれど、こちらから相談事をしようというのなら」 「その常識人みたいな発言には驚かされるばかりだけれど、残念ながら、携帯けいたいとか持ってないんだもん、あの人」 「どうにも正体不明ね。不審人物と言ってもいいくらい。一体、何をやっている人なの?」 「詳しくはわからないけれど──僕や、戦場ヶ原みたいなのを、専門にしているんだって」 「ふうん」 全然説明になっていない説明だったが、それでも、戦場ヶ原は追及してくるようなことはしなかった。どうせもう会うのだからと思ったのかもしれないし、訊いても無駄だと思ったのかもしれない。どちらも正解だ。 「あら。阿良々木くん、右腕に時計をしているのね」 「ん? あ、うん」 「ひねくれ者なの?」 「先に左利きかどうかを訊け!」 「そう。で、どうなのかしら」 「…………」 ひねくれ者だった。 四階。 元が学習塾なので、教室めいた造りの部屋が、三つあるのだが──どの教室も、扉が壊れてしまっていて、廊下まで含めて一体化している状態。さて忍野はどこにいるのだろうと、まずは一番近場の教室を覗のぞいて見たら、 「おお、阿良々木くん。やっと来たのか」 と。 忍野メメは、そこにいた。 ボロボロに腐食した机をいくつか繋ぎ合わせ、ビニール紐ひもで縛って作った、簡易製のベッド(とも呼べないような代物)の上に、胡坐あぐらをかいて、こっちを向いていた。 僕が来ることなど分かりきっていたという風に。 相変わらず──見透みすかしたみたいな男だ。 対して、戦場ヶ原は──明らかに、引いていた。 一応事前に伝えてあったとはいえ、忍野のその汚らしい風体が、今を生きる女子高生の美的基準を大きく逸脱いつだつしているのだろう。こんな廃墟で暮らしていたら、誰だってあんなボロボロのナリにはなるのだろうけれど、それでも、確かに男子の僕から見ても、忍野の見てくれは、清潔感に欠けているとは言えた。清潔感に欠けていると言うしかない、もしも、正直であろうとすれば。そしてそれより何より、サイケデリックなアロハ服というのが致命的だ。 いつも思うことだけれど、全く、この人が自分の恩人だっていうのは、なんか、ショックだよな……。羽川あたりは人間ができているので、そんなこと、毛ほども気にしないようだけれど。 「なんだい。阿良々木くん、今日はまた違う女の子を連れているんだね。きみは会うたんびに違う女の子を連れているなあ──全く、ご同慶の至りだよ」 「やめろ、人をそんな安いキャラ設定にするな」 「ふうん──うん?」 忍野は。 戦場ヶ原を、遠目に眺めるようにした。 その背後に、何かを見るように。 「……初めまして、お嬢さん。忍野です」 「初めまして──戦場ヶ原ひたぎです」 一応、ちゃんと挨拶あいさつをした。 無意味に毒舌というわけでもないらしい。少なくとも年上の人間に対する礼儀礼節は弁わきまえているようだ。 「阿良々木くんとは、クラスメイトで、忍野さんの話を教えてもらいました」 「はあ──そう」 忍野は、意味ありげに頷く。 俯うつむいてから、煙草たばこを取り出し、口に咥くわえた。ただし、口に咥えただけで、火はつけない。窓も、既に窓として機能していない、ただの中途半端な硝子ガラスの破片だが、忍野は煙草の先で、その向こうの景色を示すようにした。 そして、たっぷり間を空けてから、僕を向く。 「前髪が直線な女の子が好みかい、阿良々木くん」 「だから人を安く見積もるなって言ってるだろ。前髪直線が好きって、そんな奴普通に考えりゃただのロリじゃねえかよ。思春期と共に『フルハウス』があったてめえの世代と一緒にするな」 「だね」 忍野は笑った。 その笑い声に、戦場ヶ原は眉まゆを顰ひそめる。 ロリという単語に気分を害したのかもしれない。 「えっと──まあ、詳くわしい話は本人から聞いてもらえばいいとして、とにかく、忍野──こいつが、二年前くらいに──」 「こいつ呼ばわりもやめて」 戦場ヶ原は毅然きぜんとした声で言った。 「じゃあ、何て呼べばいいんだよ」 「戦場ヶ原さま」 「…………」 この女、正気か。 「……センジョーガハラサマ」 「片仮名の発音はいただけないわ。ちゃんと言いなさい」 「戦場ヶ原ちゃん」 目を突かれた。 「失明するだろうが!」 「失言するからよ」 「何だその等価交換は!?」 「銅四十グラム、亜鉛あえん二十五グラム、ニッケル十五グラム、照れ隠し五グラムに悪意九十七キロで、私の暴言は錬成れんせいされているわ」 「ほとんど悪意じゃねえかよ!」 「ちなみに照れ隠しというのは嘘よ」 「一番抜けちゃいけない要素が抜けちゃった!」 「うるさいわねえ。いい加減にしないとあなたのニックネームを生理痛にするわよ」 「投身モンのイジメだ!」 「何よ。文字通り生理現象なのだから、恥ずかしいことではないわ」 「悪意がある場合は別だろう!」 その辺で満足したらしく、戦場ヶ原は、ようやく、忍野に向き直った。 「それから、何よりもまず、私としては一番最初に訊いておきたいのだけれど」 忍野にというより、それは僕と忍野、両方に問う口調で、戦場ヶ原はそう言って、教室の片隅を指さした。 そこでは、膝ひざを抱えるようにして、小さな女の子、学習塾というこの場においてさえ不似合いなくらいの小さな、八歳くらいに見える、ヘルメットにゴーグルの、肌の白い金髪の女の子が、膝を抱えて、体育座りをしていた。 「あの子は一体、何?」 何、というその訊き方からして、少女が何かであることを、戦場ヶ原も察しているのだろう。それに、この戦場ヶ原ですらそこのけの、剣呑な目つきで、少女がただ一点、忍野を鋭く睨み続けていることからも、感じる者は、何かを感じるはずだ。 「ああ、あれは気にしなくていいよ」 忍野よりも先に僕が、戦場ヶ原に説明した。 「ただあそこで座っているだけで、別に何もできないから──何でもないよ。影も形もない。名前もなければ存在もない、そういう子供」 「いやいや、阿良々木くん」 そこで忍野が割り込むように言った。 「影と形、それに存在がないのはその通りだけれど、名前は昨日、つけてやったんだ。ゴールデンウィークにはよく働いてくれたし、それにやっぱり呼び名がないと、不便極きわまりないからね。それに、名前がないままじゃ、いつまでたっても彼女は凶悪なままだ」 「へえ──名前をね。なんて名前で?」 戦場ヶ原を置いてけぼりの会話だったが、興味があったので、僕は訊いた。 「忍野忍しのぶ、と名付けてみた」 「忍──ふうん」 思い切り日本の名前だな。 この場合、どうでもいいことだけれど。 「刃やいばの下もとに心あり。彼女らしい、いい名前だろう? 苗字は僕のをそのまま流用させてもらった。そっちにも幸い、忍の一文字は入っているしね。二重にすることで三重の意味を持つ。我ながら、悪くないセンスだと、結構気に入っているんだが」 「いいんじゃないのか?」 というか、本当にどうでもいい。 「色々考えて、最終的には忍野忍か、それか忍野お志乃しのか、どっちかにすることにしたんだけれど、言語上の統制よりも語呂の良さを優先してみた。漢字の並びが、ちょっとばかしあの委員長ちゃんっぽいところも、僕的にはポイント高いんだよ」 「いいと思うよ」 絶対的にどうでもいいんだって。 いや、まあ、お志乃はないと思うが。 「だから」 いい加減業ごうを煮にやした感じで、戦場ヶ原が言う。 「あの子は一体何なのよ」 「だから──何でもないってば」 吸血鬼の成れの果て。 美しき鬼の搾しぼりかす。 なんて言っても、そんなの、仕方がないだろう? どうせ、戦場ヶ原には関係ない、これは、僕の問題なのだから。僕が、これから一生、付き合っていかなくちゃならない程度の、ただの業なのだから。 「何でもないの。ならいいわ」 「…………」 淡白な女だ。 「私は父方のお祖母ばあちゃんから、淡白でもいい、わくましく育ってくれればと、よく言われていたものよ」 「わくましくってなんだ」 入れ替わってる入れ替わってる。 オーソドックスをオードソックスっていうみたいな感じ。 「そんなことより」 戦場ヶ原ひたぎが、元吸血鬼、肌の白い金髪の少女改め忍野忍から、忍野メメに、視線を移した。 「私を助けてくださるって、聞いたのですけれど」 「助ける? そりゃ無理だ」 忍野は茶化すような、いつもの口調で言った。 「きみが勝手に一人で助かるだけだよ、お嬢ちゃん」 「…………」 おお。 戦場ヶ原の目が半分くらいに細くなった。 あからさまにいぶかしんでいる。 「私に向かって──同じような台詞せりふを吐いた人が、今まで、五人いるわ。その全員が、詐欺師さぎしだった。あなたもその部類なのかしら? 忍野さん」 「はっはー。お嬢ちゃん、随分ずいぶんと元気いいねえ。何かいいことでもあったのかい?」 だからなんでお前もそんな挑発するような言い方をするんだ。それが効果的な相手も、たとえば羽川のように、いるのだろうけれど、しかし戦場ヶ原に限っては、それはない。 挑発には先制攻撃を以って返すタイプだ。 「ま、まあまあ」 やむなく、僕が仲裁ちゅうさいに入った。 二人の間に、強引に割り込むようにして。 「余計な真似を。殺すわよ」 「…………」 今、この人、ごく普通に殺すって言った。 何故僕に火の粉が飛ぶかな。 焼夷弾しよういだんみたいな女だ。 全く、形容するに暇いとまがない。 「ま、何にせよ」 忍野は対照的に、気楽そうに言った。 「話してくれないと、話は先に進まないかな。僕は読心の類たぐいはどうも苦手でね。それ以上に対話ってのが好きなんだ、根がお喋りなもんでね。とはいえ秘密は厳守するから、平気平気」 「…………」 「あ、ああ。まず、僕が簡単に説明すると──」 「いいわ、阿良々木くん」 戦場ヶ原が、またも、大枠を語ろうとした僕を、遮った。 「自分で、するから」 「戦場ヶ原──」 「自分で、できるから」 そう言った。 005 二時間後。 僕は、忍野と吸血鬼改め忍の居ついている学習塾跡を離れ、戦場ヶ原の家にいた。 戦場ヶ原の家。 民倉荘たみくらそう。 木造アパート二階建て、築三十年。トタンの集合郵便受け。かろうじて、シャワーと、水洗のトイレは備え付け。いわゆる1K、六畳ろくじょう一間、小さなシンク。最寄のバス停まで、徒歩二十分。家賃は概算、三万円から四万円(共益費・町内会費・水道代込み)。 羽川から聞いた話とは随分違った。 それが表情に出たのだろう、戦場ヶ原は、 「母親が怪しい宗教に嵌はまってしまってね」 と、訊いてもいないことを、説明した。 言い訳でもするように。 まるで、取り繕つくろうように。 「財産を全て貢みついだどころじゃ済まなくて、多額の借金まで背負ってしまってね。驕おごる平家は久しからずというわけよ」 「宗教って……」 悪徳な、新興宗教に嵌った。 それがどんな結果を招くのか、なんて。 「結局、去年の暮れに、協議離婚が成立して、私はお父さんに引き取られ、ここで二人で暮らしているわ。もっとも、二人で暮らしているといっても、借金自体はお父さんの名前で残っていて、今もそれを返すために、あくせく働いているから、お父さん、滅多めったに帰ってこないけれどね。事実上の一人暮らしは、気楽でいいわ」 「…………」 「まあ学校の住所録には前の住所を登録しているままだから、羽川さんが知らないのも無理もないわね」 おい。 いいのかよ、それ。 「いつか敵になるかもしれない人間に、なるべく住んでいる場所を知られたくはないもの」 「敵、ね……」 大袈裟おおげさな物言いだとは思うが、人に知られたくない秘密を持つ者としては、有り得ないというほどの警戒心では、ないのかもしれない。 「戦場ヶ原。お母さんが宗教に嵌ったって──それって、ひょっとして、お前のためにか?」 「嫌な質問ね」 戦場ヶ原は笑った。 「さあね。わからないわ。違うのかも」 それは──嫌な答だった。 嫌な質問をしたのだから、当然かもしれない。 実際嫌な質問だった、思い出して自己嫌悪に陥るほどに。するべきじゃなかったし、あるいは、戦場ヶ原は、ここでこそ、十八番おはこの毒舌で、僕を叱しかり飛ばすべきだっただろう。 一緒に暮らしている家族だ、娘の重みが無くなったなんて事実に、気付かないはずがない──まして母親が、気付けないはずがない。机を並べて授業を受けていればいい学校とは訳が違う。大事な一人娘の身体に、とんでもない異常が起こっていることくらい、簡単に露見する。そして、医者も事実上匙さじを投げ、検査を続けるだけの毎日となれば、心に拠より所どころを求めてしまっても、それは誰かに責められるようなものではないだろう。 いや、責められるべきなのかもしれない。 僕にわかる話じゃない。 知ったような口を叩いてどうする。 ともかく。 ともかく、僕は──戦場ヶ原の家、民倉荘の二〇一号室で、座布団に座って、卓袱台ちゃぶだいに用意された湯のみに入ったお茶を、ぼおっと、見つめていた。 あの女のことだから、てっきり『外で待っていなさい』とか言うと思ったのだが、すんなりと抵抗なく、部屋に招き入れてくれた。お茶まで出してくれた。それはちょっとした衝撃だった。 「あなたを虐待してあげる」 「え……?」 「違った。招待だったわね」 「………………」 「いえ、やっぱり虐待だったかしら……」 「招待で完璧に正解だ──それ以外にはない! 自分で自分の間違いを正せるなんてなかなかできることじゃない、さすがは戦場ヶ原さん!」 ……などと、精々せいぜいそんなやり取りがあった程度なのだから、僕としてはもう、戸惑うしかない。まして、知り合ったばかりの女の子の家に入るなんて、とか、そんなウブな文言もんごんを吐ける状況でもなかった。 ただ、お茶を、見つめるだけである。 その戦場ヶ原は今、シャワーを浴びている。 身体を清めるための、禊みそぎだとか。 忍野いわく、冷たい水で身体を洗い流し、新品でなくともよいから清潔な服に着替えてくるように──との、ことだった。 要するに僕はそれにつき合わされているというわけだ──まあ、学校から忍野のところまで僕の自転車で向かってしまった都合上、それは当然のことでもあったのだが、それ以上に忍野から、色々言い含められているので、仕方がない。 僕は、とても年頃の女の子の部屋とは思えない、殺風景さっぷうけいな六畳間をぐるりと見、それから、背後の小さな衣装箪笥だんすにもたれるようにして── 先刻の、忍野の言葉を、回想した。 「おもし蟹」 戦場ヶ原が、事情を──というほど、長い話ではなかったが、とにかく、抱えている事情を、順序だてて語り終わったところで、忍野は、「成程なるほどねえ」と頷いた後、しばらく天井を見上げてから、ふと思いついたような響きで、そう言った。 「おもしかに?」 戦場ヶ原が訊き返した。 「九州の山間あたりでの民間伝承だよ。地域によっておもし蟹だったり、重いし蟹、重石蟹、それに、おもいし神ってのもある。この場合、蟹と神がかかっているわけだ。細部は色々ばらついているけど、共通しているのは、人から重みを失わせる──ってところだね。行き遭あってしまうと──下手な行き遭い方をしてしまうと、その人間は、存在感が希薄になる、そうだ、とも」 「存在感が──」 儚げ。 とても──儚げで。 今の方が──綺麗。 「存在感どころか、存在が消えてしまうって、物騒な例もあるけれどね。似たような名前じゃ中部辺りに重石石ってのもあるけど、ありゃ全くの別系統だろう。あっちは石で、こっちは蟹だし」 「蟹って──本当に蟹なのか?」 「馬鹿だなあ、阿良々木くん。宮崎やら大分やらの山間で、そうそう蟹が取れるわけないだろう。単なる説話だよ」 心底呆れ果てたように言う忍野。 「そこにいない方が話題になりやすいってこともある。妄想や陰口の方が、盛り上がったりするもんだろう?」 「そもそも蟹って、日本のもんなのか?」 「阿良々木くんが言っているのはアメリカザリガニのことじゃないのかい? 日本昔話を知らないのかな。猿蟹さるかに合戦。確かに、ロシアの方にゃ、有名な蟹の怪異ってのがあるし、中国にも結構あるけれど、日本だって、そうそう負けてばかりもいないさ」 「ああ。そっか。猿蟹合戦ね。そういやそんなのもあったな。でも、宮崎やらって──どうしてそんなところの」 「日本の片田舎で吸血鬼に襲われたきみがそれを僕に訊くなよ。場所そのものに意味があるんじゃないからね、別に。そういう状況があれば──そこに生じる、それだけだ」 勿論、地理気候も重要だけれど、と付け加える忍野だった。 「この場合、別に蟹じゃなくてもいい。兎うさぎだって話もあるし、それに──忍ちゃんじゃないけれど、美しい女の人だっていう話もある」 「ふうん……月の模様みたいだな」 ていうか、忍ちゃん呼ばわりだった。 筋ではないが、少し同情してしまう。 伝説の吸血鬼なのに……。 切ないなあ。 「まあ、お嬢ちゃんが行き遭ったのが蟹だっていうんなら、今回は蟹なんだろう。一般的だしね」 「なんなんですか、それは」 戦場ヶ原は強気な調子で、忍野に問う。 「名前なんて、そんなのは何だって構いませんけれど──」 「そうでもないさ。名前は重要だよ。阿良々木くんにさっき教えてやった通り、九州の山奥で蟹はないからね。北の方じゃ、そういうのもあるみたいだけれど、九州じゃやっぱり珍しいよ」 「サワガニなら取れんじゃねえの」 「かもね。でも、それは本質的な問題じゃない」 「どういうことですか」 「蟹じゃなくて、元は神なんじゃないのかってことさ。おもいし神から、おもし蟹へ派生はせいしたって感じ──もっとも、これは、僕のオリジナルの説だけどね。普通は、蟹がメインで神が後付けだと思われている。真っ当に考えると、確かに、最低でも同時発生ってことになるんだけれども」 「普通も真っ当も何も、そんな化物は知りません」 「知らないってことはないよ。何せ──」 忍野は言った。 「遭っているんだから」 「…………」 「そして──今だってそこにいる」 「何か──見えるっていうんですか」 「見えないよ。僕には何も」 そう言って、忍野は快活に笑った。爽やかさが過ぎるその笑い方は、矢張やはり、戦場ヶ原の気に障さわるようだった。 それは僕も同感だ。茶化しているようにしか思えない。 「見えないなんて、まるで無責任ですね」 「そうかい? 魑魅ちみ魍魎もうりょうの類ってのは、人に見えないのが基本だろう。誰にも見えないし、どうやっても触れない。それが普通だ」 「普通──ですけれど」 「幽霊は足がないとか言ってさ、吸血鬼は鏡に映うつらないとか言ってさ、でもそもそもそういう問題じゃなく、ああいうものは、そもそも同定できないのが基本──しかし、お嬢ちゃん。誰にも見えないし、どうやっても触れないものってのは、この世に果たして、あるんだろうか?」 「あるんだろうかって──あなたが、今、そこにいると、自分で言ったんじゃないですか」 「言ったよ? でも、誰にも見えないし、どうやっても触れないものなんて、いてもいなくても、そんなの、科学的にはおんなじことだろう? そこにあることと、そこにないことが、全く同じだ」 そういうこと、と忍野は言った。 戦場ヶ原は納得いかないような顔をしている。 確かに、納得できる理屈ではない。 彼女の立場からすれば。 「ま、お嬢ちゃんは、運の悪い中じゃあ運のいい部類だよ。そこの阿良々木くんなんて、行き遭うどころか襲われたんだから。それも吸血鬼に襲われた。現代人としてはいい恥晒しだよ」 放っとけ。 かなり放っとけ。 「それに較べればお嬢ちゃんは全然マシだ」 「どうしてですか」 「神様なんてのは、どこにでもいるからさ。どこにでもいるし、どこにもいない。お嬢ちゃんがそうなる前からお嬢ちゃんの周囲にはそれはあったし──あるいはなかったとも言える」 「禅ぜん問答ですね。まるで」 「神道だよ。修験道しゅげんどうかな」 忍野は言う。 「勘違いするなよ、お嬢ちゃん。きみは何かの所為でそうなったわけじゃない──ちょっと視点が変わっただけだ」 最初から、そうだった。 それは──それじゃあ、匙さじを投げた医者と、言っていることがほとんど、変わらない。 「視点が? 何が──言いたいんですか?」 「被害者面づらが気に食わねえっつってんだよ、お嬢ちゃん」 唐突とうとつに、辛辣しんらつな言葉を、忍野は放った。 僕のときと同じように。 或いは、羽川のときと同じように。 戦場ヶ原のリアクションが気になったが──しかし、戦場ヶ原は、何も、返さなかった。 甘んじて受けたようにも思えた。 そんな戦場ヶ原を、忍野は、 「へえ」 と、感心したように見た。 「なかなかどうして。てっきり、ただの我儘わがままなお嬢ちゃんかと思ったけど」 「どうして──そう思ったんですか」 「おもし蟹に遭うような人間は、大抵そうだからだよ。遭おうと思って遭えるもんじゃないし、通常、障るような神でもない。吸血鬼とは違う」 障らない? 障らないし──襲うこともない? 「憑くのとも違う。ただ、そこにいるだけだ。お嬢ちゃんが何かを望まない限り──実現はしないんだ。いや、もっとも、そこまで事情に深入りするつもりはないけれどね。僕はお嬢ちゃんを助けたいわけじゃないんだから」 「…………」 勝手に助かる──だけ。 忍野はいつも、そういうのだった。 「こんなのは知っているかな? お嬢ちゃん。海外の昔話なんだけどね。あるところに、一人の若者がいたんだ。善良な若者さ。ある日、若者は、町で不思議な老人と出会う。老人は若者に、影を売ってくれるように頼むんだ」 「影を?」 「そう。お日様に照らされて、足元から生じる、この影だ。金貨十枚で売ってくれ、とね。若者は、躊躇無く、売った。金貨十枚で」 「……それで?」 「お嬢ちゃんならどうする?」 「別に──その状況になってみないと、わかりません。売るかもしれないし、売らないかもしれない。そんなの、値段次第ですし」 「正しい答だね。たとえば、命とお金とどっちが大切なんだって質問があったりするけれど、これは質問自体がおかしいよ。お金と一口に言っても、一円と一兆円じゃ、価値が違うんだし、命の価値だって、個々人によって平等じゃない。命は平等だなんて、それは僕が最も憎む、低俗な言葉だよ。まあ、それはともかく──その若者は、自分の影なんてのは、金貨十枚の価値よりも大事だとは、とても思えなかったんだ。だってそうだろう? 影なんかなくても、実質、何も困りやしないんだから。不自由はどこにも生じない」 忍野は身振りを加えながら、話を続けた。 「しかし、その結果、どうなったか。若者は、住んでいた街の住人や家族から、迫害を受けてしまうんだ。周囲と不調和を起こすことになる。影がないなんて不気味だ──と言われてね。そりゃそうだよ。不気味だもん。不気味な影という言葉もあるけれど、影がない方がよっぽど不気味さ。当たり前のものがないなんて──ね。つまり、若者は、当たり前を金貨十枚で、売ったってことなのさ」 「…………」 「若者は、影を返してもらおうと老人を探したけれど、いくら探しても、どんなに探しても、その不思議な老人を、見つけることはできませんでした──とさ。ちゃんちゃん」 「それが──」 戦場ヶ原は。 表情を変えずに、忍野に応えた。 「それが一体、どうしたっていうのですか」 「ううん、別にどうもしないよ。ただ、どうだろう、お嬢ちゃんには身につまされる話なんじゃないかと思ってね。影を売った若者と重みを失ったお嬢ちゃん、だから」 「私は──売ったわけじゃありません」 「そう。売ったわけじゃない。物々交換だ。体重を無くすことは、影を無くすことよりは、不便かもしれないけれど──それでも、周囲との不調和ということなら、同じだしね。でも──それだけなのかな」 「どういう意味です?」 「それだけなのかなという意味だ」 忍野はこの話はこれでおしまい、と言った風に、胸の前で両手を打った。 「いいよ。わかった。体重を取り戻したいというのなら、力になるさ。阿良々木くんの紹介だしね」 「……助けて──くれるんですか」 「助けない。力は貸すけど」 そうだね、と左手首の腕時計を確認する忍野。 「まだ日も出ているし、一旦いったん家に帰りなさい。それで、身体を冷水で清めて、清潔な服に着替えてきてくれる? こっちはこっちで準備しておくからさ。阿良々木くんの同級生ってことは、真面目なあの学校の生徒ってことなんだろうけれど、お嬢ちゃん、夜中に家、出てこられる?」 「平気です。それくらい」 「じゃ、夜中の零れい時ごろ、もういっぺんここに集合ってことで、いいかな」 「いいですけれど──清潔な服って?」 「新品じゃなくてもいいけど。制服ってのは、ちょっとまずいね。毎日着ているものだろう」 「……お礼は?」 「は?」 「とぼけないでください。ボランティアで助けてくれるというわけではないんでしょう?」 「ん。んん」 忍野はそこで、僕を見る。 まるで僕を値踏みしているようだった。 「ま、その方がお嬢ちゃんの気が楽だっていうなら、貰っておくことにしようか。じゃ、そうだね、十万円で」 「……十万円」 その金額を、戦場ヶ原は反復した。 「十万円──ですか」 「一ヵ月二ヵ月、ファーストフードでバイトすれば手に入る額でしょ。妥当だとうだと思うけれど」 「……僕のときとは随分対応が違うな」 「そうだっけ? 委員長ちゃんのときも、確か十万円だったと思うけれど」 「僕のときは五百万円だったって言ってんだよ!」 「吸血鬼だもん。仕方ないよ」 「何でもかんでも安易に吸血鬼のせいにするな! 僕はそういう流行任せの風潮が大嫌いだ!」 「払える?」 思わず横槍よこやりを入れてしまった僕を片手であしらうようにしながら、忍野は、戦場ヶ原に問うた。 戦場ヶ原は、 「勿論」 と、言った。 「どんなことをしてでも、勿論」 そして── そして、二時間後──今現在、だ。 戦場ヶ原の家。 もう一度──見回す。 十万円という金銭は、普通でも少ない額ではないが、戦場ヶ原にとっては、通常以上に、大金なのだろうと、そう考えさせる、六畳一間だった。 衣装箪笥と卓袱台、小さな本棚の他には何も無い。濫読派のはずの戦場ヶ原にしては、本の冊数も少なめなので、その辺は恐らく、古書店や図書館で、うまくやりくりしているのだろう。 まるで昔の苦学生だ。 いや、実際、戦場ヶ原はそうなのだろう。 学校にも奨学金で通っていると言っていた。 忍野は、戦場ヶ原のことを、僕よりも全然マシ──みたいな風に言っていたけれど、それはどうなのだろうと、思ってしまう。 確かに──命の危険という意味や、周囲に及ぼす迷惑という意味では、吸血鬼に襲われるなんてのは、冗談じゃない話だ。死んだ方が楽だと何度も思ったし、今だって、一歩まかり間違えば、そう思ってしまうこともある。 だから。 戦場ヶ原は、運の悪い中では、運のいい方なのかもしれない。けれど──羽川に聞いた中学時代の戦場ヶ原の話を思えば、単純にそうまとめ、そう認識するのには、無理があるような気がする。 少なくとも、平等ではないだろう。 ふと思う。 羽川は──羽川翼はどうなのだろう。 羽川翼の場合。 翼という、異形いぎょうの羽を、持つ女。 僕が鬼に襲われ、戦場ヶ原が蟹に行き遭ったように、羽川は猫に魅せられた。それが、ゴールデンウィークのことだ。あまりに壮絶で、終わってしまえば遥か昔の出来事のようだが、つい、数日前の事件である。 とはいえ、羽川は、そのゴールデンウィークの際の記憶をほとんどなくしているので、羽川本人は、忍野のお陰でそれがなんとかなったことくらいしか分かっちゃいないのだろうけれど、ひょっとしたら何も分かっちゃいないのかもしれないが、それでも、僕は──すべてを覚えている。 何しろ、厄介な話だった。 既に鬼を経験していた僕がそう思った。鬼よりも猫の方が怖いなんてことがあるとは、よもや考えたこともなかったけれど。 やっぱり、命の危険だったりの観点から見れば──戦場ヶ原より羽川の方が悲惨だったと、単純に言えるのだが、しかし──戦場ヶ原が一体どれほどの思いで今に至っているかを考えると。 現状を考えると。 考えてしまうと。 優しさを敵対行為と看做すまでに至る人生とは、一体、どのようなものなのだろう。 影を売った若者。 重みを失った彼女。 僕には、わからない。 僕にわかる話じゃ──ないのだ。 「シャワー、済ませたわよ」 戦場ヶ原が脱衣所から出てきた。 すっぽんぽんだった。 「ぐあああっ!」 「そこをどいて頂戴。服が取り出せないわ」 平然と、戦場ヶ原が、濡れた髪を鬱陶しそうにしながら、僕が背にしていた衣装箪笥を指さす。 「服を着ろ服を!」 「だから今から着るのよ」 「なんで今から着るんだ!」 「着るなって言うの?」 「着てろって言ってんだ!」 「持って入るのを忘れていたのよ」 「だったらタオルで隠すとかしやがれ!」 「嫌よ、そんな貧乏くさい真似」 澄ました顔で、堂々としたものだった。 議論が無駄なことは火を見るよりも明らかだったので、僕は這いずるように衣装箪笥の前から離れ、本棚の前に移動し、並んでいる本の冊数でも数えているみたいに、そこに視点と思考を集中させた。 ううう。 女性の全裸を、初めて見てしまった……。 だ……だけれどなんか違う、思っていたのと違う、幻想なんか持っていたつもりは全然ないけれど、僕が望んでいたのは、僕が夢見ていたのは、こんな、裸ん坊万歳みたいな、あけっぴろげな感じじゃなかったはずだ……。 「清潔な服ねえ。白い服の方がいいと思う?」 「知らねえよ……」 「ショーツとブラは、柄がらものしか持っていないの」 「知らねえよ!」 「相談しているだけなのに、どうして大声で喚わめいたりするの。訳がわからないわ。あなた、更年期障害なんじゃない?」 箪笥を開ける音。 衣擦きぬずれの音。 ああ、駄目だ。 脳裏に焼きついて離れない。 「阿良々木くん。まさかあなた、私のヌードを見て欲情したのではないでしょうね」 「仮にそうだったとしても僕の責任じゃない!」 「私に指一本でも触れて御覧なさい。舌を噛かみ切ってやるんだから」 「あーあー、身持ちの堅いこったな!」 「あなたの舌を噛み切るのよ?」 「マジでおっかねえ!」 なんていうか。 土台、この女を僕の視点で理解しようという方が、無理があるのかもしれなかった。 人間が人間を理解できるわけがない。 そんなのは、当たり前のことなのに。 「もういいわよ。こっちを向いても」 「そうかよ、ったく……」 僕は本棚から、戦場ヶ原を振り向いた。 まだ下着姿だった。 靴下も穿はいていない。 やたら扇情せんじょう的なポーズを取っていた。 「何が目的なんだお前は!」 「何よ。今日のお礼のつもりで大サービスしてあげてるんだから、ちょっとは喜びなさいよ」 「…………」 お礼のつもりだったのか。 意味が分からない。 どちらかというとお礼よりお詫びを求めたい。 「ちょっとは喜びなさいよ!」 「逆切れされたっ!?」 「感想くらい言うのが礼儀でしょう!」 「か、感想って……っ!」 礼儀なのか? なんて言えばいいんだ? えーっと……。 「い、いい身体してるね、とか……?」 「……最低」 腐敗した生ゴミを見るように唾棄だきされた。 いや、むしろ憐憫れんびんの入り混じった感じ。 「そんなことだからあなたは一生童貞どうていなのよ」 「一生!? お前は未来から来た人なのか!?」 「唾つばを飛ばさないでくれる? 童貞がうつるわ」 「女に童貞がうつるか!」 いや、男にもうつらないけれど。 「ていうかちょっと待て、さっきから僕が童貞であることを前提に話が進んでるぞ!」 「だってそうでしょう。あなたを相手にする小学生なんていないはず」 「その発言に対する異議は二つ! 僕はロリコンじゃないというのが一つ、そして探せばきっと僕を相手にしてくれる小学生だっているはずというのが二つだ!」 「一つ目があれば二つ目はいらないのでは」 「…………」 いらなかった。 「でもまあ、確かに偏見でものを言ったわね」 「わかってくれればいいんだ」 「唾を飛ばさないで。素人しろうと童貞がうつるわ」 「認めましょう、僕は童貞野郎です!」 恥辱ちじょくに満ちた告白をさせられた。 戦場ヶ原は満足そうに頷く。 「最初から素直にそう言っておけばいいのよ。こんなこと、残りの寿命の半分に匹敵する幸運なのだから、余計な口を叩くべきではないの」 「お前、死神だったのか……?」 取引すると女の裸が見えるのか。 すげえ死神の目だな。 「心配しなくとも」 言いながら、筆笥から取り出した、白いシャツを、水色のブラジャーの上から羽織はおる戦場ヶ原。もう一度本棚を見つめ本の数を数えるのも馬鹿馬鹿しいので、僕はそんな戦場ヶ原を、ただ、眺めるようにする。 「羽川さんには内緒ないしょにしておいてあげるのに」 「羽川って」 「彼女、阿良々木くんの片恋相手じゃないの?」 「それは違う」 「そうなんだ。よく話しているから、てっきりそうなんだと思って、鎌かまをかけてみたのだけれど」 「日常会話で鎌をかけるな」 「うるさいわね。処分されたいの」 「何のどんな権限を持ってんだよ、お前は」 しかし、戦場ヶ原も一応、クラスの中のこととか、見てないようで見てるんだな。僕が副委員長であることすら、ことによっては知らないんじゃないかと思っていたが。いや、それも、いつか敵になるかもしれない──からなのだろうか。 「よく話しているのは、向こうが僕に、勝手に話しかけてきているだけだよ」 「身の程知らずな口振りね。羽川さんの方が、あなたに片恋だとでも言いたいの?」 「それは、絶対、違う」 僕は言う。 「羽川のあれは単純に面倒見がいいだけだ。単純に、そして過剰に、な。あいつは一番駄目な奴が一番可哀想かわいそうだって、そんな愉快な勘違いをしているんだ。駄目な奴が、不当に損をしているって、そんな風に、思ってるんだ」 「それは本当に愉快な勘違いね」 戦場ヶ原は頷いた。 「一番駄目な奴は一番愚おろかなだけなのに」 「……いや、僕はそこまでは言ってません」 「顔に書いてあるわ」 「書いてねえよ!」 「そういうと思ってさっき書いておいたわ」 「そんな手回しがありえるか!」 大体── 僕が釈明するまでもなく、戦場ヶ原だって、羽川の性格は、よくわかっているはずだ。放課後、戦場ヶ原のことを訊いたとき、羽川は随分──戦場ヶ原のことを、気にかけている様子だった。 あるいは、だからこそなのかもしれない。 「羽川さんも──忍野さんの、お世話になったのね?」 「ん。まあな」 戦場ヶ原は、シャツのボタンを最後まで留めると、その上から、白いカーディガンを着るようだった。どうやら、下半身より先に上半身のコーディネートを済ませてしまうつもりらしい。なるほど、服には一人一人、別々な着衣順があるものだと思った。戦場ヶ原は、僕の視線なんて全く気になっていないのか、むしろ僕に自分の身体の正面を向けて、着衣を続けるのだった。 「ふうん」 「だから──一応、信頼して、いいとは思うぜ。ふざけた性格で、根明ねあかで軽薄な調子者だけれど、それでも、腕だけは確かだから。安心していい。僕一人の証言じゃなく、羽川もそうだっていうんだから、間違いないだろ」 「そう。でもね、阿良々木くん」 戦場ヶ原は言う。 「悪いけれど、私はまだ、忍野さんのことを、半分も信頼できてはいないのよ。彼のことをおいそれと信じるには、私は今まで、何度も何度も、騙され続けているわ」 「…………」 五人──同じことを言って。 全員が、詐欺師だった。 そして。 それが全てでも──ないのだろう。 「病院にも、惰性だせいで通っているだけだし。正直、私はもう、この体質については、ほとんど諦めているのよ」 「諦めて……」 何を──諦め。 何を、捨てた。 「この奇妙な世界には、決して、夢幻むげん魔実也まみやも九段くだん九鬼子くきこも、いてはくれないということ」 「…………」 「峠とうげ弥勒みろくくらいなら、ひょっとしたらいてくれるのかもしれないけれどね」 ありったけの嫌味を込めて、戦場ヶ原は言った。 「だから阿良々木くん。私は──だからね、たまたま階段で足を滑らせて、たまたまそれを受け止めてくれたクラスメイトが、たまたま春休みに吸血鬼に襲われていて、たまたまそれを救ってくれた人が、たまたまクラスの委員長にも関わっていて──そして更に、たまたま私の力にもなってくれるだなんて、そんな楽天的な風には、どうしたって、ちっとも思えないの」 言って── 戦場ヶ原は、カーディガンを脱ぎ始めた。 「折角せっかく着たのに、なんで脱ぐんだよ」 「髪を乾かすのを忘れていたわ」 「お前ひょっとしてただの馬鹿なんじゃないか?」 「失礼なことを言わないでくれるかしら? 私が傷ついたら大変じゃないの」 ドライヤーはやたら高そうなものだった。 身だしなみには気を遣う方らしい。 そういう目で見れば、確かに、今戦場ヶ原が着用している下着も、結構お洒落なそれであるようだったが、しかし、なんだか、昨日まではあれほど魅惑的に僕の人生の大半を支配していたその憧憬しょうけいの対象が、今となってはもうただの布きれにしか見えない。なんだかものすごい心の傷を現在進行形で植えつけられている気がする。 「楽天的ねえ」 「そうじゃなくて?」 「かもしんね。でも、いいんじゃねえの?」 僕は言った。 「別に、楽天的でも」 「…………」 「悪いことをしてるわけじゃないし、ズルしているわけでもないんだから、堂々としてりゃいいんだよ。今みたいに」 「今みたいに?」 きょとんとする戦場ヶ原。 自分の器うつわのでかさに気付いていないご様子だ。 「悪いことを──しているわけじゃない、か」 「だろ?」 「まあ、そうね」 戦場ヶ原は、しかし、そう言ったあとで、 「でも」 と、続けた。 「でも──ズルはしているかも」 「え?」 「なんでもないわ」 髪を乾かし終え、ドライヤーを仕舞い、戦場ヶ原は、再び、着衣を開始する。濡れっぱなしの髪で着た所為で、湿ってしまったシャツとカーディガンはハンガーに干して、別の服を箪笥の中から探していた。 「今度生まれ変わるなら」 戦場ヶ原は言う。 「私は、クルル曹長になりたいわ」 「…………」 脈絡みゃくらくがない上に、もう半分くらいなっているような気もするが……。 「言いたいことはわかるわ。脈絡がない上にわたしにはなれっこないっていうんでしょう」 「まあ、半分くらいはそんな感じだ」 「やっぱりね」 「……せめてドロロ兵長くらいのことは言えないのかよ」 「トラウマスイッチという言葉は、私にとってあまりにもリアル過ぎるのよ」 「そうかい……でもさ」 「でももなももないわ」 「なもってなんだよ」 何と間違ったのかもわからない。 勿論、何が言いたいのかよくわからない。 そう思っている内に、戦場ヶ原は話題を変えた。 「ねえ、阿良々木くん。一つ訊いていい? どうでもいいことなのだけれど」 「何」 「月の模様みたいって、どういうこと?」 「え? 何の話だ?」 「言っていたじゃないの。忍野さんに」 「えーっと……」 ああ。 そうだ、思い出した。 「ほら、蟹のことで、兎だったり美人だったりするって、忍野の奴、言ってただろ。あれのことだよ。月の模様って、日本からだと兎が餅もちをついているように見えるけれど、海外からだと蟹だったり、美人の横顔だったりするっていうから」 まあ、僕も実際に見たわけじゃないけれど、そうだという話だ。それを聞いて戦場ヶ原は、「そうなんだ」と、新鮮そうに相槌あいづちを打った。 「そんなくだらないことをよく知っているわね。生まれて初めてあなたに感心したわ」 くだらないって言われた。 生まれて初めてって言われた。 ので、僕は見栄を張ることにした。 「なあに、僕は天文学や宇宙科学には詳しいんだよ。一時期熱中したことがあってね」 「いいのよ、私の前では格好つけなくとも。もう全部わかってるんだから。どうせそれ以外は何も知らないんでしょう?」 「言葉の暴力って知ってるか」 「なら言葉の警察を呼びなさいよ」 「…………」 現実の警察でも対処できない気がした。 「何も知らないってことはないぞ、僕だって。えーっと、たとえばそうだな、日本じゃやっぱり、月の模様といえば兎なわけだけれど、なんで月に兎がいるか、知ってるか?」 「月に兎はいないわ。阿良々木くん、高校生にもなってそんなことを信じているの?」 「いるとして、だ」 あれ、いるとして、じゃないか? いたとしたら? 何か違うな……。 「その昔、神様がいてだ、仏様だったかな、まあそんなのどっちでもいいや、神様がいて、兎はその神様のために、自分から火の中に飛び込んで、その身を焼いて、神様への供物にしたという話があるんだ。神様はその自己犠牲ぎせいに心打たれて、皆がいつまでもその兎のことを忘れないようにと、空の月に、その姿を留めたと言うんだな」 子供の頃テレビで見ただけの、記憶が曖昧な話なのでいまいち知識として脇が甘い感じだが、まあディテール的にはこんな感じだったはずだ。 「神様も酷ひどいことをするわね。それじゃあ兎はまるで晒しモノじゃない」 「そういう話じゃないんだが」 「兎も兎よ。そうやって自己犠牲の精神を見せれば神様に認めてもらえるだろうという計算が見え透いて、浅ましいわ」 「そういう話じゃ絶対にないんだが」 「いずれにせよ、私辺りには分からない話ね」 そう言って。 着かけた新しい上着を、再び脱ぎ出す戦場ヶ原。 「……お前、実は自慢の肉体を僕に見せびらかしたいだけなのか?」 「自慢の肉体だなんて、そんなに自惚うぬぼれていないわ。裏返しで、しかも後ろ前だっただけよ」 「器用なミスだな」 「でも確かに、服を着るのは得意じゃないの」 「子供みたいな奴だ」 「違う。重たいのよ」 「あ」 迂闊だった。 そうか、鞄が重いなら、服だってそうだろう。 十倍の重さとなれば、服であれ、馬鹿にならない。 反省する。 気遣いの足りない──不用意な発言だった。 「こればっかりは、飽きることはあっても慣れることはないわ──けれど、意外と学があるのね、阿良々木くん。びっくりしたわ。ひょっとしたら頭の中に脳味噌が入っているのかもしれないわね」 「当たり前だろ」 「当たり前って……あなたのような生物の頭蓋骨ずがいこつに脳味噌が入っているというのは、それはそれは、もう奇跡のような出来事なのよ?」 「酷い言われようだなおい」 「気にしないで。当然のことを言ったまでよ」 「この部屋の中に死んだ方がいい奴がいるみたいだな……」 「? 保科先生ならいないわよ」 「お前今尊敬すべき人生の先導者である担任の先生のことを死んだ方がいいって言ったのか!」 「蟹もそうなの?」 「え?」 「蟹も兎と同じで、火の中に自ら飛び込んだの?」 「あ、ああ……いや、蟹の話は知らない。なんか由来があるのかな。考えたこともなかったけれど……月にも海があるからじゃないのか?」 「月に海はないわ。得意顔で何を言っているの」 「え? ないのか? なかったっけ……」 「天文学が聞いて呆れるわね。あれは名前だけよ」 「そうなんだ……」 うーむ。 やはり、本当に頭のいい奴には敵わない。 「やれやれ、馬脚ばきゃくを露あらわしたわね、阿良々木くん。全く、あなたに知識というものを少しでも期待してしまった私が軽率だったわ」 「お前、僕の頭がすごく悪いと思っているだろう」 「何故気付いたのっ!?」 「真顔で驚かれた!」 隠しているつもりだったらしい。 本当かよ。 「私のせいで、阿良々木くんが、自分の頭のお粗末さ加減に気付いてしまった……責任を感じるわ」 「おい、ちょっと待て、僕はそんな深刻なレベルの頭の悪さなのか?」 「安心して。私は成績で人間を差別したりしないわ」 「その言い方が既に差別的じゃねえかよ!」 「唾を飛ばさないで。低学歴がうつるわ」 「同じ高校だ!」 「でも最終学歴となればどうかしら」 「う……」 確かに、それは。 「私は大学院卒。あなたは高校中退」 「三年生になってまで辞めるか!」 「すぐに辞めさせてくださいと、自分から泣いて頼むことになるわ」 「漫画でしか聞いたことのない悪党発言を平然と!?」 「偏差値チェック。私、七十四」 「くっ……」 先に言いやがった。 「僕、四十六……」 「四捨五入すればゼロね」 「はあ!? 嘘つけ、六だから……あ、お前、さては十の位を──僕の偏差値になんてことをするんだ!」 三十近くも勝ってる癖に、死者を鞭むち打つような真似を! 「百、差をつけないと、勝った気がしないのよ」 「自分の数値も十の位を……」 容赦ようしゃねえ。 「そういうわけで、これからは半径二万キロ以内には近寄らないでね」 「地球外退去を命じられた!?」 「ところで神様は、その兎さんをちゃんと食べてあげたのかしらね?」 「え? あ、また話が戻ったのか。食べたかどうかって……そこまで話を進めたら猟奇的になるだろうが」 「進めなくても十分猟奇よ」 「さあね。知らないよ、頭が悪いから」 「すねないでよ。私の気分が悪くなるじゃない」 「お前、僕が可哀想になってこないのか……?」 「あなた一人を哀あわれんでも、世界から戦争はなくならない」 「たった一人の人間も救えない奴が世界を語るな! まずは目の前のちっぽけな命を助けてみろ! お前にはそれができるはずだ!」 「ふむ。決めたわ」 戦場ヶ原は、白いタンクトップに白いジャケット、そして、白いフレアのスカートを穿き、ようやく着衣を終えたところで、言った。 「もしも全てがうまく行ったら、北海道へ蟹を食べに行きましょう」 「北海道まで行かなくても蟹は食えると思うし、全然季節じゃないと思うけれど、まあ、戦場ヶ原がそうしたいって言うんなら、いいんじゃないのか?」 「あなたも行くのよ」 「なんでっ!?」 「あら、知らなかったの?」 戦場ヶ原は微笑した。 「蟹って、とっても、おいしいのよ」 006 ここは地方の、更に外はずれの町である。 夜になれば、周囲はとても暗くなる。真っ暗な、暗闇。それこそ、廃ビルの中も外も、ほとんど区別がなくなるくらいの、昼間からの落差だ。 僕にしてみれば、生まれてからずっと住んでいる町のことだ、それに違和感を覚えたり、不思議に思ったりすることもまずないが、それに、むしろそっちの方が、本来の自然であるのだろうけれど、流れ者の忍野辺りに言わせると、その落差が──概おおむね、問題の根っこに絡まっていることが、多いそうだ。 根っこがはっきりしている分やりやすい── そうも言っていた。 ともかく。 夜中の零時、少し過ぎたところで。 僕と戦場ヶ原は、例の学習塾跡に、自転車で、戻ってきた。後部座席用の座布団には、戦場ヶ原の家にあったものをそのまま使用した。 何も食べていないので若干空腹である。 自転車を夕方と同じ場所に停め、同じ金網の裂け目から敷地内に入ったら、入り口のところで、忍野はもう待っていた。 ずっとそこにいたという風に。 「……え」 その忍野の服装に、戦場ヶ原が驚く。 忍野は、白ずくめの装束しょうぞく──浄衣じょうえに身を包んでいた。ぼさぼさだった髪もぴったりと整えられて、夕方とは見違えてしまうような、少なくとも見た目だけは小綺麗な格好になっていた。 馬子まごにも衣装。 それなりに見えてしまうのが、逆に不快だ。 「忍野さんって──神職の方だったんですか?」 「いや? 違うよ?」 あっさり否定する忍野。 「宮司ぐうじでもなければ禰宜ねぎでもないさ。大学の学科はそうなんだけれど、神社に就職はしていない。色々思うところがあってね」 「思うところって──」 「一身上の都合だよ。馬鹿馬鹿しくなったってのが真相かもね。何、この服装は、単純に身なりを整えただけだよ。他に綺麗な服を持っていなかっただけ。神様に遭うんだから、お嬢ちゃんだけじゃなく僕だって、きっちりしておかないとね。言ってなかったっけ? 雰囲気ふんいき作り。阿良々木くんのときは、十字架持って大蒜下げて、聖水を武器に戦ったもんさ。大切なのは、状況なんだ。大丈夫、作法はいい加減だけど、これでも付き合い方は心得ている。無雑作に御幣ごへい振って、お嬢ちゃんの頭に塩撒まくような真似はしないさ」 「は、はあ……」 戦場ヶ原が、少し呑のまれていた。 確かに、面食らう格好でもあるが、しかしなんだか、彼女にしては若干過剰反応のようにも思えてしまう。どうしてだろう。 「うん、お嬢ちゃん、いい感じに清廉せいれんになっているよ。見事なもんだね。一応確認しておくけれど、お化粧はしていない?」 「しない方がいいかと思って、していません」 「そう。ま、とりあえず正しい判断だ。阿良々木くんも、ちゃんとシャワー、浴びてきたかい?」 「ああ。問題ないよ」 僕もその場に同席する以上、それくらいは仕方のないことだったが、その際戦場ヶ原が僕のシャワーを覗こうとしてひと悶着あったことは、秘密にしておこう。 「ふうん。きみは代わり映えしないねえ」 「余計なことを言うな」 というか、同席するとはいえあくまで部外者なので、戦場ヶ原のような着替えまでは行っていないのだから、代わり映えしなくて当然だ。 「じゃ、さっさと済ませてしまおう。三階に、場を用意しているから」 「場?」 「うん」 言って、忍野はビルディングの中の暗闇に消えていく。あんな白い服なのに、すぐに見えなくなってしまう。夕方と同じように、僕は戦場ヶ原の手を引くように、忍野を追った。 「しかし、忍野、さっさとなんて、えらく気楽に構えてるけど、大丈夫なのか?」 「大丈夫って、何が? 年頃の少年少女を、夜中に引っ張り出すなんて真似をしているんだ、早く終わらせたいっていうのは、大人として当たり前の人情だろう」 「その、蟹だかなんだかって、そんな簡単に退治できるもんなのかって意味だよ」 「考え方が乱暴だなあ、阿良々木くんは。何かいいことでもあったのかい?」 忍野は振り向きもせず肩を竦める。 「阿良々木くんのときの忍ちゃんや、委員長ちゃんのときの色ボケ猫とは、場合が違うんだよ。それに忘れちゃいけないよ、僕は平和主義者だ。非暴力絶対服従が、僕の基本方針。忍ちゃん達は、悪意と敵意を持って、阿良々木くんと委員長ちゃんを襲ったわけだけれど、今回の蟹は、そうじゃないんだから」 「そうじゃないって──」 事実、被害が出ている以上、そこには悪意なり敵意なりがあると、そう判ずるべきじゃないのだろうか? 「言ったろ? 相手は神様なんだよ。そこにいるだけ、何もしていない。当たり前だから、そこにいるだけ。阿良々木くんだって、学校が終われば家に帰るだろう? そういうこと。勝手にお嬢ちゃんが、揺らいでいるだけなのさ」 障らない、襲わない。 憑つかない。 勝手にというのは酷い言い草だと思ったが、しかし、戦場ヶ原は、何も言わなかった。思うところがないのだろうか、それとも、今からのことを考えて、忍野の言葉に、あまり反応しないよう心掛けているのだろうか。 「だから、退治するとかやっつけるとか、そんな危険思想は捨てなさい、阿良々木くん。今から僕達はね、神様にお願いするんだよ。下手に出てね」 「お願い──か」 「そう。お願い」 「お願いしたら、それではいどうぞと返してもらえるもんなのか? 戦場ヶ原の──重み。体重は」 「あえて断言はしないけれど、多分ね。年末年始の二年参りとは訳が違うんだから。切実な人間の頼みを断るほど、彼らは頑かたくなじゃないさ。神様っていうのは、結構、大雑把おおざっぱな連中なんだ。日本の神様は特に適当なんだよ。人間という群体そのものならともかく、僕達個々人のことなんて、連中、どうでもいいんだ。本当にどうでもいいんだよ? 実際、神様の前じゃ、僕も阿良々木くんもお嬢ちゃんも、区別なんかつかないよ。年齢も性別も重みも関係なく、三人とも、同じ、人間、ってことでね」 同じ── 同じような、ではなく、同じ、か。 「ふうん……呪いとかとは、根本的に違うんだな」 「ねえ」 意を決したような口調で、戦場ヶ原が言った。 「あの蟹は──今も私のそばにいますか?」 「そう。そこにいるし、どこにでもいる。ただし、ここに降りてきてもらうためには──手順が必要だけどね」 三階に到着した。 教室の中の、一つに入る。 入ると、教室全体に、注連しめ囲いが施ほどこされていた。机と椅子は全て運び出され、黒板の前に、神床──祭壇さいだんが設けられている。三方さんぽう折敷おしきに神撰しんせん、供物が備えられているところを見れば、今日あれから、急遽きゅうきょ作られた場というわけではないのだろう。四隅に燈火とうかが設置されていて、部屋全体がほのかに明るい。 「ま、結界けっかいみたいなものだよ。よく言うところの神域って奴ね。そんな気張るようなもんじゃない。お嬢ちゃん、そんな緊張しなくったっていいよ」 「緊張なんて──していないわ」 「そうかい。そりゃ重畳ちょうじょうだ」 言いながら、教室の中に入る。 「二人とも、目を伏せて、頭を低くしてくれる?」 「え?」 「神前だよ。ここはもう」 そして──三人、神床の前に、並ぶ。 僕のときや、羽川のときとは、全然対処法が違うので──緊張しているというのなら、僕が緊張していた。堅苦しい雰囲気というか──この雰囲気そのものに、おかしくなってしまいそうな感じだ。 身が竦む。 自然、構えてしまう。 僕自身は無宗教、神道も仏教も、区別がつかない最近の若い奴だけれど、しかしそれでも、こういう状況そのものに、反応する、本能的な何かが、心の中にある。 状況。 場。 「なあ──忍野」 「なんだい? 阿良々木くん」 「考えたんだけれど、これ、状況とか場とかっていうなら、僕、ここにいない方がよくないか? どう考えても、邪魔者って感じなんだけれど」 「邪魔ってことはないさ。多分大丈夫だけれど、一応、いざってこともあるからね。いざってことも、あるにはあるさ。そのときは、阿良々木くん、きみがお嬢ちゃんの壁になってあげるんだよ」 「僕が?」 「その不死身の身体は何のためにあるんだ?」 「…………」 いや、それはなるほど格好いい台詞ではあるけれど、少なくとも戦場ヶ原の壁になるためではないと思う。 大体、もう不死身じゃないし。 「阿良々木くん」 戦場ヶ原がすかさず言った。 「わたしのこと、きっと、守ってね」 「何故いきなりお姫さまキャラに!?」 「いいじゃない。どうせあなたみたいな人間、明日くらいには自殺する予定なんでしょう?」 「一瞬でキャラが崩くずれた!」 しかも、生きている内は陰口でだって言われないであろう言葉を面と向かって普通に言われてしまった。僕は一体前世でどんな悪いことをして、こんな毒舌を受けているのか、どうやら真剣に考える必要があるのかもしれなかった。 「勿論只とは言わないわ」 「何かくれるのかよ」 「物理的な報酬ほうしゅうを求めるとは、浅ましい。その情けない言葉一つに、あなたの人間性の全てが集約されていると言っても過言ではないわね」 「……。じゃあ、何をしてくれるんだ?」 「そうね……阿良々木くんがドラクエⅤで、フローラに奴隷どれいの服を装備させようとした外道げどうであることを、言いふらす予定だったのを中止してあげる」 「そんな話、一生で一回も聞いたことねえよ!」 しかも言いふらすことが前提だった。 酷い女だ。 「装備できないことくらい、考えたらわかりそうなものなのに……これぞ猿知恵ならぬ犬知恵といったところかしら」 「ちょっと待て! うまいこと言ってやった、してやったりみたいな顔してるけど、僕が犬に似ているなんて描写がこれまでに一度でもあったか!?」 「そうね」 くすりと笑う戦場ヶ原。 「一緒にしたら、犬に失礼かしら」 「………………っ!!」 ともすればありふれているとも取られかねない定型句を、ここで織り込んでくるか……この女、暴言ってものを、完全に使いこなしてやがる。 「じゃあ、もう、いいわよ。そんな臆病者は、尻尾しっぽを巻いてさっさと家に帰って、いつも通り一人スタンガンごっこでもやってなさいよ」 「なんだその倒錯した遊びは!?」 ていうか、お前さっきから、僕に関して悪質なデマをばらまき過ぎだ。 「私くらいになれば、あなたのような薄っぺらい存在のことなんて、全て完璧に、お見落としなのよ」 「台詞をかんだのに、結果としてより酷い暴言になってる!? お前一体何に愛されてるんだ!?」 そこはかとなくはかりしれない女だった。 ちなみに正しくは、お見通し。 「そもそも、忍野。僕なんかに頼らなくても、あの吸け──忍じゃ無理なのか? 羽川のときみたくさ」 すると忍野はさっぱりと答えた。 「忍ちゃんなら、もうおねむだよ」 「………………」 吸血鬼が夜に寝るのかよ……。 本当に切ない。 忍野は供物の内からお神酒みきを手にとって、それを戦場ヶ原に手渡した。 「え……何ですか?」 戸惑った風の戦場ヶ原。 「お酒を飲むと、神様との距離を縮めることができる──そうだよ。ま、ちょっと気を楽にしてってくらいの意味で」 「……未成年です」 「酔うほどの量は飲まなくていいさ。ちっとだけ」 「…………」 逡巡しゅんじゅんした後で、結局、戦場ヶ原はそれを一口、飲み下した。それを見取って、戦場ヶ原から返還された杯さかずきを、元あった場所に、忍野が返す。 「さて。じゃあ、まずは落ち着こうか」 正面を向いたまま── 戦場ヶ原に背を向けたままで、忍野は言う。 「落ち着くことから、始めよう。大切なのは、状況だ。場さえ作り出せば、作法は問題じゃない──最終的にはお嬢ちゃんの気の持ちよう一つなんだから」 「気の持ちよう──」 「リラックスして。警戒心を、解くところから始めよう。ここは自分の場所だ。きみがいて、当たり前の場所。頭を下げたまま目を閉じて──数を数えよう。一つ、二つ、三つ──」 別に── 僕がそうする必要はないのだが、ついつい、付き合って、目を閉じ、数を数えてしまう。そうしている内に、思い至った。 雰囲気作り。 その意味では、忍野の格好だけではない、この注連囲いも神床も、一旦家に帰っての水浴びも、全て、雰囲気作り──もっと言うならば、戦場ヶ原の、心のコンディション作りに、必要なものだったのだろう。 言うならば暗示に近い。 催眠暗示。 まずは自意識を取っ払い、警戒心を緩め、そして、忍野との間に信頼関係を生じさせること──それは、やり方は全然違えど、僕や羽川のときにも、必要だったことだ。信じる者は救われるなんていうけれど、つまり、まず戦場ヶ原に、認めさせることが──不可欠なのだ。 実際、戦場ヶ原自身も言っていた。 忍野のことを、半分も信頼できていない、と。 しかし── それでは駄目なのだ。 それじゃあ、足りないのだ。 信頼関係が大事──なのだから。 忍野が戦場ヶ原を助けられず、戦場ヶ原が一人で助かるだけ──という言葉の真意は、そういうところにある。 僕は、そっと、目を開けた。 周囲を窺うかがう。 燈火。 四方の燈火が──揺らぐ。 窓からの風。 いつ掻かき消えてもおかしくない──頼りない火。 しかし、確かな明かり。 「落ち着いた?」 「──はい」 「そう──じゃあ、質問に答えてみよう。きみは、僕の質問に、答えることにした。お嬢ちゃん、きみの名前は?」 「戦場ヶ原ひたぎ」 「通っている学校は?」 「私立直江津高校」 「誕生日は?」 「七月七日」 一見、意味のわからないというよりは全く意味のなさそうな、質問と、それに対する回答が、続く。 淡々と。 変わらぬペースで。 忍野は、戦場ヶ原に背中を向けたままだ。 戦場ヶ原も、目を閉じた上で、顔を伏せている。 頭を下げ、俯いた姿勢。 呼吸音や、心臓の鼓動すら、響きそうな静寂せいじゃく。 「一番好きな小説家は?」 「夢野久作ゆめのきゅうさく」 「子供の頃の失敗談を聞かせてくれる?」 「言いたくありません」 「好きな古典音楽は?」 「音楽はあまり嗜たしなみません」 「小学校を卒業するとき、どう思った?」 「単純に中学校に移るだけだと思いました。公立から公立へ、行くだけだったから」 「初恋の男の子はどんな子だった?」 「言いたくありません」 「今までの人生で」 忍野は変わらぬ口調で言った。 「一番、辛かった思い出は?」 「………………」 戦場ヶ原は──ここで、答に詰まった。 言いたくない──でもなく、沈黙。 それで、忍野が、この質問だけに意味を持たせていたことを、僕は知る。 「どうしたの? 一番──辛かった、思い出。記憶について、訊いているんだ」 「……お」 沈黙を守ることのできる──雰囲気ではなかった。 言いたくないと、拒絶も出来ない。 これが──状況。 形成された、場。 手順通りに──ことは進む。 「お母さんが──」 「お母さんが」 「悪い、宗教に嵌ったこと」 性質たちの悪い新興宗教に嵌った。 そう言っていた。 財産を全て貢いで、借金まで背負って、家庭が崩壊するまでに至ったと。離婚した今でも、父親は、そのときの借金を返すために、夜も寝られないような生活を、続けていると。 それが──一番、辛かった思い出なのだろうか? 己の重さが──失われたことよりも? 当たり前だ。 その方が辛いに、決まっている。 でも──それは。 それは。 「それだけかい?」 「……それだけって」 「それだけじゃ、大したことではない。日本の法律じゃ、信仰の自由は認められている。否、信仰の自由は、本来的に人間に認められている権利だ。お嬢ちゃんのお母さんが、何を奉たてまつろうと何に祈ろうと、それはただの方法論の問題だ」 「………………」 「だから──それだけじゃない」 忍野は──力強く、断定した。 「言って御覧。何があった」 「何がって──お、お母さんは──私のために、そんな宗教に、嵌ってしまって──騙だまされて──」 「お母さんが悪徳宗教に騙されて──そのあと」 そのあと。 戦場ヶ原は、下唇を強く噛む。 「う──うちに、その宗教団体の、幹部の人が、お母さんに連れられて、やってきて」 「幹部の人。幹部の人がやってきて、どうした?」 「じょ──浄化、だと言って」 「浄化? 浄化だって? 浄化だと言って──どうした?」 「儀式だといって──私──を」 戦場ヶ原は、苦痛の入り混じった声で言った。 「わ──私に、乱暴を」 「乱暴──それは、暴力的な意味で? それとも──性的な意味で?」 「性的な──意味で。そう、あの男は、私を──」 色んなものに耐えるように、戦場ヶ原は続ける。 「私を──犯そうとしたわ」 「……そうかい」 忍野は静かに──頷いた。 戦場ヶ原の── 不自然な形での貞操観念の強さ── 警戒心の強さ。 防衛意識の高さと攻撃意識の過敏さ。 説明が、ついた気がした。 浄衣姿の忍野に、過剰に反応したことも。 素人の戦場ヶ原にしてみれば、神道もまた、宗教であること自体には──変わりない。 「あの──生臭なまぐさ」 「それは仏教の観点だろう。身内の殺人を推奨する宗教だってあるさ。一概に言ってはならない。でも、犯そうと──ということは、未遂だったんだろう?」 「近くにあったスパイクで、殴ってやったわ」 「……勇敢だね」 「額ひたいから血を流して──もがいてた」 「それで、助かった?」 「助かりました」 「よかったじゃないか」 「でも──お母さんは私を助けてくれなかった」 ずっと、そばで見てたのに。 戦場ヶ原は──淡々と。 淡々と、答える。 「どころか──私を詰なじったわ」 「それ──だけ?」 「違う──私が、その幹部に、怪我をさせたせいで──お母さんは」 「お母さんは、ペナルティを負った?」 忍野が、戦場ヶ原の台詞を先回りした。 ここは忍野でなくとも次の予想ができる、そんなシーンではあったが──戦場ヶ原にと効果的であったらしい。 「はい」 と、彼女は、神妙に──肯定した。 「娘が幹部を傷つけたんだから──当然だね」 「はい。だから──財産。家も、土地も──借金までして──私の家族は、壊れたわ。完全に壊れて──完全に壊れたのに、それなのに、まだ、その崩壊は、続いている。続いています」 「お母さんは、今、どうしている?」 「知らない」 「知らないということはないだろう」 「多分、まだ──信仰を続けているわ」 「続けている」 「懲こりもせず──恥ずかしげもなく」 「それも、辛いかい?」 「辛い──です」 「どうして、辛い? もう関係ない人じゃないか」 「考えてしまうんです。もしも私があのとき──抵抗しなかったら、少なくとも──こんなことには、ならなかったんじゃないかって」 壊れなかったんじゃないかって。 壊れなかったんじゃないかって。 「そう思う?」 「思う──思います」 「本当に、そう思う?」 「……思います」 「だったらそれは──お嬢ちゃん。きみの思いだ」 忍野は言った。 「どんな重かろうと、それはきみが背負わなくてはならないものだ。他人任せにしちゃあ──いけないね」 「他人任せに──し」 「目を背けずに──目を開けて、見てみよう」 そして── 忍野は目を開けた。 戦場ヶ原も、そっと──目を開けた。 四方の燈火。 明かりが、揺らいでいる。 影も。 三人の影も──揺らいでいる。 ゆらゆらと。 ゆらり──ゆらりと。 「あ、ああああああっ!」 戦場ヶ原が──大声を上げた。 かろうじて、頭は下げたままだが──その表情は驚愕きょうがくに満ち満ちていた。身体が震え──一気に汗噴ふき出している。 取り乱していた。 あの──戦場ヶ原が。 「何か──見えるかい?」 忍野が問う。 「み──見えます。あのときと同じ──あのときと同じ、大きな蟹が、蟹が──見える」 「そうかい。僕には全く見えないがね」 忍野はそこで初めて振り返り、僕を向く。 「阿良々木くんには、何か見えるかい?」 「見え──ない」 見えるのは、ただ。 揺らぐ明かりと。 揺らぐ影。 そんなのは──見えていないのと同じだ。 同定できない。 「何も──見えない」 「だそうだ」 戦場ヶ原に向き直る忍野。 「本当は蟹なんて見えて、いないんじゃない?」 「い、いえ──はっきりと。見えます。私には」 「錯覚じゃない?」 「錯覚じゃありません──本当です」 「そう。だったら──」 忍野は戦場ヶ原の視線を追う。 その先に、何かが──いるように。 その先に、何かが──あるように。 「だったら言うべきことが、あるんじゃないか?」 「言うべき──こと」 そのとき。 特に、何か考えがあったわけでも、 何をするつもりだったのでもないだろうけれど、 戦場ヶ原は──顔をあげてしまった。 多分、状況に── 場に、耐え切れなかったのだろう。 それだけだろう。 けれど、事情なんて関係ない。 人間の事情なんて、関係ない。 その瞬間──戦場ヶ原は、後ろに跳はねた。 跳んだ。 まるで重みなんて無いかのごとく、一度も床に足を着くことも擦ることもなく、ものすごいスピードで、神床とは反対側の、教室の一番後ろ、掲示板に、叩きつけられた。 叩きつけられ── そのまま、落ちない。 落ちない。 張り付けられたがごとく、そのままだ。 礫刑たっけいのごとく。 「せ、戦場ヶ原──!」 「全く。壁になってやれって言っただろう、阿良々木くん。相変わらず、肝心なときに使えない男だね。それこそ壁みたいにぼーっとしているだけがきみの能じゃないだろうに」 忍野は落胆したみたいに言った。そんなことで落胆されても、目で追える速度ではなかったのだから、仕方がない。 戦場ヶ原は、まるで重力がそのベクトルに働いているかのように、ぐいぐいと、掲示板に押し付けられているようだった。 壁に──身体が食い込んでいく。 壁が罅割ひびわれ、崩壊するか。 あるいは、戦場ヶ原が、潰れそうだった。 「う……う、うう」 悲鳴ではなく──うめき声だった。 苦しいのだ。 けれど──僕には、変わらず、何も見えない。 戦場ヶ原が、一人で壁に張り付いているようにしか見えない。だけど、だけどしかし──戦場ヶ原には、見えているのだろう。 蟹が。 大きな──蟹が。 おもし蟹。 「仕方がないな。やれやれ、せっかちな神さんだ、まだ祝詞のりとも挙げてないっていうのに。気のいい奴だよ、本当に。何かいいことでもあったのかな」 「お、おい、忍野──」 「わかっているよ、方針変更だ。やむをえん、まあ、こんなところだろう。僕としては最初から、別にどっちでもよかったんだ」 ため息混じりにそう言って、つかつかと、しっかりした足取りで、忍野は礫刑の戦場ヶ原に近付いていく。 こともなげに近付いていく。 そして、ひょいっと手を伸ばし。 戦場ヶ原の顔の辺りのやや前方をつかみ。 軽く──引き剥がした。 「よっこらせっと」 そのまま、柔道の投げのような形で──つかんだ何かを、忍野は、勢いよく──思い切り、床に叩たたきつける。音もしないし埃も舞わない。しかし、戦場ヶ原がされたのと同じように、それ以上に強く──叩きつけた。そして、一拍の呼吸もおかない素早さで、叩きつけたそれを、踏みつけにした。 神を、踏みつけにした。 至極しごく乱暴に。 敬意も信仰もない、不遜ふそんな扱いで。 平和主義者は、神を蔑ないがしろに、した。 「…………っ」 それは、僕からすれば、忍野が一人で、パントマイムを──とんでもなく成熟したパントマイムを演じているようにしか見えないのだが、今も、器用にバランスよく、片足で立っているだけのようにしか見えないのだが、しかし、それがはっきりと見えている戦場ヶ原にしてみれば── 目を丸くするような、光景だったらしい。 光景であるらしい。 しかしそれも一瞬、支えを失ったのだろう、壁に張り付いていた戦場ヶ原は、べちゃりと、あっけなく、床に落ちる。そんな高さでもないし、戦場ヶ原には重みがないので、落下の衝撃自体は大したことないだろうとはいえ、完全に意表を突かれる形で落ちたので、受身を取れなかったようだ。足を強く打ったらしい。 「大丈夫かい?」 一応、忍野は戦場ヶ原にそう声をかけて、それから、己の足元を見遣る。それこそ──純粋に、値踏みするような目で。 価値を測るような細い目で。 「蟹なんて、どんなでかかろうが、つーかでかければでかいほど、引っ繰り返せば、こんなもんだよな。どんな生物であれ、平たい身体ってのは、縦から見たところで横から見たところで、踏みつけるためにあるんだとしか僕には考えられないぜ──といったところで、さて、どう思う? 阿良々木くん」 そしていきなり、僕に声をかけてきた。 「始めからもういっぺんやり直すって手も、あるにはあるんだけれど、手間がかかるしね。僕としては、このままぐちゃりと踏み潰してしまうのが、一番手っ取り早いんだけど」 「手っ取り早いって──ぐ、ぐちゃりって、そんなリアルな音……たかだか一瞬、頭、上げただけじゃないか。あんな程度で──」 「あんな程度じゃないんだよ。あんな程度で十分というべきかな。結局、こういうのって心の持ちようの問題だからさ──お願いできないなら、危険思想に手ェ出すしかないんだ。鬼や猫を相手にしたときのようにね。言葉が通じないなら戦争しかない──のさ。この辺はまるで政治だね。ま、このまま潰しちゃったところで、それでも一応、お嬢ちゃんの悩みは、形の上では解決するからさ。形の上ってだけで、根っこのところは残っちゃう姑息こそく療法で、草抜きならぬ草刈りって感じで、僕としては気の進むやり方じゃないけれど、この際それもありかなって──」 「あ、ありかなって──」 「それにね、阿良々木くん」 忍野は、嫌な感じに頬を歪ゆがめ、笑った。 「僕は蟹が──とてつもなく嫌いなんだよ」 食べにくいからね、と。 忍野はそう言って── そう言って、足を。 足に──力を。 「待って」 忍野の陰から声がした。 言うまでも無く──戦場ヶ原だった。 すりむいた膝をさすりながら、身を起こす。 「待って──ください。忍野さん」 「待つって──」 僕から、戦場ヶ原に、視線を切り換える忍野。 意地悪な笑顔のままで。 「待つって、何をさ。お嬢ちゃん」 「さっきは──驚いただけだから」 戦場ヶ原は言った。 「ちゃんと、できますから。自分で、できるから」 「……ふうん」 足を引いたりしない。 踏んだままだ。 しかし忍野は、踏み潰すこともせず、 「じゃあどうぞ、やって御覧」 と、戦場ヶ原に言った。 言われた戦場ヶ原は── 僕の視点からでは、とても信じられないことに、足を正座に組み、姿勢を正して──手を床について、忍野の足元の何かに対して、ゆっくりと──丁寧に、頭を下げた。 土下座どげざの──形だった。 戦場ヶ原ひたぎは──自ら、土下座をした。 進んで、誰にも言われないのに、その形を。 「──ごめんなさい」 まずは、謝罪の言葉だった。 「それから──ありがとうございました」 そこに、感謝の言葉が続いた。 「でも──もういいんです。それは──私の気持ちで、私の思いで──私の記憶ですから、私が、背負います。失くしちゃ、いけないものでした」 そして、最後に── 「お願いです。お願いします。どうか、私に、私の重みを、返してください」 最後に、祈りのような、懇願こんがんの言葉。 「どうかお母さんを──私に、返してください」 だん。 忍野の足が──床を踏み鳴らした音だった。 無論、踏み潰した──のではないだろう。 そうじゃなく、いなくなったのだ。 ただ、そうであるように──当たり前のようにそこにいて、当たり前のようにそこにいない形へと、戻ったのだろう。 還ったのだ。 「──ああ」 身じろぎもせず、何も言わない忍野メメと。 全てが終わったことを理解しても、姿勢を崩すことなく、そのままわんわんと声を上げて泣きじゃくり始めてしまった戦場ヶ原ひたぎを、阿良々木暦は、離れた位置から眺めるように見ていて。 ああ、ひょっとしたら戦場ヶ原は、本当は本当の本当に、ツンデレなのかもしれないなと、そんなことを、ただぼんやり、考えていた。 007 時系列。 時系列の捉とらえ方を、僕は間違っていたらしい。てっきり、戦場ヶ原が蟹に行き遭って、重みを失い、その後で戦場ヶ原の母親が、それを心に病んで、悪徳宗教に嵌っていった──のだと思っていたけれど、そうではなく、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは、戦場ヶ原が蟹に行き遭い重みを失う、随分と前だと、いうことだった。 考えれば分かりそうなものだ。 カッターナイフやらホッチキスなどの文房具と違って、スパイクなんてものは偶然、手を伸ばしたらそれで届くような、身近にあるようなものではない。スパイクという単語が出てきた以上、それは、戦場ヶ原が陸上部だった頃──中学生だった頃の話であると、あの時点で僕は、察しているべきだった。間違っても、体育の時間にも参加できない、帰宅部の高校時代では、ありえないのだ。 正確には、戦場ヶ原の母親が悪徳宗教に嵌ったのは──それを信奉するようになったのは、戦場ヶ原が小学五年生のときだったらしい。羽川ですらも知らない、小学生の頃の、話だったのだ。 聞いてみれば。 その頃戦場ヶ原は──病弱な女の子だったらしい。 立ち位置ではなく、本当にそうだったのだ。 そして、あるとき、名前を言えば誰でも知っているような、酷い大病を患わずらった。九割方助からないというような、それこそ医者が匙さじを投げるような、病状だったそうだ。 そのとき── 戦場ヶ原の母親は、心の拠り所を求めた。 つけ込まれたというべきか。 恐らくはそれとは何の関係もなく──「本当に関係ないかどうかは誰にもわからないよ」なんて知った風なことを、忍野は言ったが──戦場ヶ原は、大手術の結果、九死に一生を得たそうだ。これもまた、戦場ヶ原の家で、戦場ヶ原の裸を、もっと細部までじっくりと観察していれば、背中にうっすらと残っているという手術の痕跡を、僕はあるいは見つけられていたのかもしれないが、しかしそこまでを僕に要求するのは酷こくというものだろう。 こちらに身体の正面を向けて、上半身から服を着る彼女に対し──見せびらかしたいだけなのかとは、やっぱり、酷い物言いだったけれど。 感想くらい──か。 ともあれ、戦場ヶ原が一命を取り留めたことで、戦場ヶ原の母親は──ますます、その宗教の教義に、のめりこんでしまった。 信仰のお陰で──娘が助かったのだと。 完全に、型に嵌った。 典型的症例という奴だ。 それでも、家庭自体は──かろうじて保たれていた。それがどのような宗派のどのような宗教だったのか、僕には知りようもないけれど、少なくとも基本方針としては、信者を生かさず殺さず──だったのだろう。父親の稼ぎが大きかったことも、元々戦場ヶ原の家が素封家そほうかであったことも、その助けになっていたけれど──しかし、年を追うにつれ、母親の信仰具合、のめりこみ具合は、酷くなっていったらしい。 家庭は保たれているだけだった。 戦場ヶ原は、母親とは不仲になったそうだ。 小学校を卒業するあたりまではともかく──中学生になってからは、ほとんど口をきかなかったらしい。だから、羽川から聞いた、中学時代の戦場ヶ原ひたぎの姿が──それを知ってからもう一度見ると、どれほど歪んでいたかが、理解できる。 本当に──まるで釈明だ。 超人。 まるで超人だった、中学時代の戦場ヶ原。 それは──ひょっとしたら、母親に、その姿を見せるためだったのかもしれない。そんな宗教なんかに頼らなくても、自分はちゃんとできるんだから──と。 不仲なりに。 根本が活発な性格では、なかったのだろう。 小学生のとき病弱だったなら、尚更だ。 無理をしていたんだと思う。 でも、それは、多分、逆効果だった。 悪循環。 戦場ヶ原が、ちゃんとすればちゃんとするほど、模範であれば模範であるほど──戦場ヶ原の母親は、それを、教義のお陰だと、そう思ったに違いないのだから。 そんな逆効果の悪循環を繰り返し── 中学三年次。 卒業を間近にして、ことは、起きた。 娘のために入信したはずなのに、それはどこかで主客転倒を起こし、悪徳宗教の幹部に娘を差し出すところにまで、戦場ヶ原の母親は至った。否、それすらもまだ、娘のためであったのかもしれないと思うと、やりきれない。 戦場ヶ原は抵抗した。 スパイクで幹部の額を、流血するほど傷つけた。 その結果── 家庭は崩壊してしまった。 破局した。 全てを根こそぎ、奪われて。 財産も、家も土地も失い──借金まで背負い。 生かさず殺さず──殺された。 離婚が成立したのは去年だと言っていたし、あのアパート、民倉荘で暮らすことになったのも、戦場ヶ原が高校生になってからなのだろうけれど、全ては中学生の頃に、もう終わっていたのだ。 終わっていたのだ。 だから。 だから戦場ヶ原は──中学生でもない高校生でもない、そんな中途半端な時期に──行き遭った。 一匹の蟹に。 「おもし蟹ってのはね、阿良々木くん。だからつまり、おもいし神ってことなんだよね」 忍野は言った。 「分かる? 思いし神ってことだ。また、思いと、しがみ──しがらみってことでもある。そう解釈すれば、重さを失うことで存在感まで失ってしまうことの、説明がつくだろう? あまりに辛いことがあると、人間はその記憶を封印してしまうなんてのは、ドラマや映画なんかによくある題材じゃないか。たとえて言うならあんな感じだよ。人間の思いを、代わりに支えてくれる神様ってことさ」 つまり、蟹に行き遭ったとき。 戦場ヶ原は──母親を切ったのだ。 娘を生贄いけにえのように幹部に差し出し、助けてくれもせず、そのせいで家庭も崩壊し、でも、あのとき自分が抵抗しなければ、そんなことはなかったのかもしれないと、思い悩むことを──やめた。 思うのを止めた。 重みを、無くしたのだ。 自ら、進んで。 ズルを──した。 心の拠り所を──求めたのだ。 「物々交換だよ。交換、等価交換。蟹ってのは、鎧よろいを身に纏まとって、いかにも丈夫そうだろう? そういうイメージなんだろうね。外側に甲羅こうらを持つ。外骨格で、包み込むように、大事なものを保管する。すぐに消えてしまう泡でも吹きながらね。食えないよねえ、あれは」 蟹が嫌いなのは本当らしい。 忍野は軽いようで案外──不器用な男なのだ。 「蟹ってのは、解ったような虫って書くだろう? 解体する虫ってことでもあるのかな。いずれ、水際を行き来する生物ってのは、そういうところに属ぞくするものなんだよね。しかも連中──大きな鋏を、二つ、持ってやがる」 結論として。 戦場ヶ原は重みを失って──重みを失って、思いを失って、辛さから、解放された。悩みもなく──全てを捨てることができた。 できたせいで。 かなり──楽になったらしい。 それが本音だそうだ。 重みを失ったことなど──戦場ヶ原にとっては、本質的な問題ではなかったのだ。しかしそれでも──そうでありながら、戦場ヶ原は、金貨十枚で影を売った若者のように、そのことを、楽になってしまったことを、後悔しない日は、一日だって、なかったのだという。 でも、周囲との不調和からではない。 生活が不便になったからでもない。 友達を作れなかったからでもない。 全てを失ったからでもない。 思いを失ったから──それだけだそうだ。 五人の詐欺師。 それは、母親の宗教とは関係ないところの五人だったそうだけれど──それでも、忍野を含めて、半分も信用していないそんな奴らを、半分足らずとはいえ信頼してしまったのも──それがそのまま、戦場ヶ原の悔やみを表していると言える。惰性でずっと、病院に通い続けたことといい── 何のことは無い。 僕は最初から最後まで全く見当はずれだった。 戦場ヶ原は重みをなくしてからもずっとの間。 何も、諦めず。 何も、捨てていなかったのだ。 「別に悪いことじゃないんだけれどねえ。辛いことがあったら、それに立ち向かわなければならないというわけじゃない。立ち向かえば偉いというわけじゃない。嫌なら逃げ出したって、全然構わないんだ。それこそ娘を捨てようが宗教に逃げようが、全然勝手だ。特に今回の場合、今更思いを取り戻したところで、何にもならないんだから。そうだろう? 悩まなくなっていたお嬢ちゃんが、悩むようになるだけで、それで母親が帰ってくるわけでも、崩壊した家族が再生するわけでもない」 何にもならない。 忍野は揶揄やゆでも皮肉でもなさそうに、言った。 「おもし蟹は、重みを奪い、思いを奪い、存在を奪う。けれど、吸血鬼の忍ちゃんや色ボケ猫とは訳が違う──お嬢ちゃんが望んだから、むしろ与えたんだ。物々交換──神様は、ずっと、そこにいたんだから。お嬢ちゃんは、実際的には、何も失ってなんかいなかったんだよ。それなのに」 それなのに。 それでも。 それゆえに。 戦場ヶ原ひたぎは──返して欲しかった。 返して欲しがった。 もう、どうしようもない、母親の思い出を。 記憶と、悩みを。 それがどういうことなのかは僕には、本当のところはわからないし、これからもわからないままなのだろうけれど、そして、忍野の言う通り、だからどうということもなく、母親も戻らず家庭も戻らず、ただ戦場ヶ原が一人、ひたすら、辛い思いをするだけなのだろうけれど── 何も変わらないのだろうけれど。 「何も変わらないなんてことはないわ」 戦場ヶ原は、最後に言った。 赤く泣き腫はらした目で、僕に向かって。 「それに、決して無駄でもなかったのよ。少なくとも、大切な友達が一人、できたのだから」 「誰のことだ?」 「あなたのことよ」 反射的にとぼけてみせた僕に対して、照れもなく、それに、遠回しにでもなく、堂々と──戦場ヶ原は、胸を張った。 「ありがとう、阿良々木くん。私は、あなたにとても、感謝しているわ。今までのこと、全部謝ります。図々ずうずうしいかもしれないけれど、これからも仲良くしてくれたら、私、とても嬉しいわ」 不覚にも── 戦場ヶ原からのその不意打ちは、僕の胸に、深く深く、染しみ入ったのだった。 蟹を食べに行く約束は。 どうやら、冬を待つことになりそうだけれど。 008 後日談というか、今回のオチ。 翌日、いつものように二人の妹、火憐かれんと月火つきひに叩き起こされると、やけに身体がだるかった。無理矢理にその身体を起こし、それから立ち上がるだけでも一仕事。酷い熱でもあるときのように、ずっしりと、節々が痛い。僕のときや羽川のときとは違って、取っ組み合いや大立ち回りがあったわけでもないのだから、筋肉痛なんてこともないだろうのに、とにかく、一歩一歩が苦しい。階段を降りていても、ふと気を抜けば、そのまま転がり落ちてしまいそうだった。意識ははっきりしているし、インフルエンザの季節でもないだろうに、一体どういうことだろう。 考えて、まさかという考えが、脳裏をよぎる。 ダイニングに行く前に、洗面所に向かった。 そこにはヘルスメーターがある。 乗った。 ちなみに、僕の体重は五十五キロ。 メーターの数値は、百キロを指していた。 「……おいおい」 なるほど。 神様ってのは、確かに、大雑把な連中らしい。 第二話 まよいマイマイ 001 八九寺はちくじ真宵まよいと遭遇したのは、五月の十四日、日曜日のことである。この日は全国的に母の日だった。お母さんが好きな人でも嫌いな人でも、お母さんと仲がいい人でも仲が悪い人でも、日本国民ならば誰もが平等に享受きょうじゅすることになる、母の日。いや、母の日の起源は、確かアメリカだっただろう。ならばクリスマスやハロウィン、バレンタインデーなどと同列に、一種のイベントと考えるべきなのかもしれないが、とにかく、五月十四日というこの日は、カーネーションの消費が一年三百六十五日の中でトップを記録し、各地の家庭で、『肩たたき券』やら『お手伝い券』やらが、行き交っている日だったのだと思われる。いや、そんな風習が今も現存しているかどうかはわからないが、いずれにせよ、この年の五月十四日が母の日であることは、確かだった。 そんな日。 そんな日の、午前九時。 僕は見知らぬ公園のベンチに座っていた。馬鹿みたいに青い空を、馬鹿みたいに見上げながら、さして何をするでもなく、見知らぬ公園のベンチに座っていた。見知らぬどころか聞いたこともない、そこは、公園だった。 浪白公園と、入り口にはあった。 それが『なみしろ』と読むのか『ろうはく』と読むのか、あるいはもっと他の読み方をするものなのか、僕にはまるでわからない。何に由来するものなのかも、だから当然、わからない。勿論、そんなことがわからなかったからといって、どうということもない。何の問題も生じない。僕は確固たる目的があってその公園に来たわけではなく、ただ単に、でたらめに、気分気ままに足の向くままにマウンテンバイクで駆けていたら、その公園に行き着いてしまったという、あくまでそれだけのことなのだから。 来訪と到着との違い。 当人の僕以外には、同じことなのだろうけれど。 自転車は入り口付近の駐輪場に停めた。 駐輪場には、放置され過ぎ、雨風に晒され過ぎて、もう自転車なのだか錆さびの塊かたまりなのだかよくわからない物体が二台ほどあったくらいで、他には一台も、僕のマウンテンバイク以外は一台も、停められてはいなかった。こういうとき、アスファルトで舗装された道をマウンテンバイクで駆ける空しさを一層感じるものだが、何、そんなものは、たとえこういうときでなくとも、いつだって感じている空しさだった。 結構広い公園だった。 といっても、それは単純に、遊具が少ないせいでそう感じるだけなのだろう。広く見えているだけなのだ。端っこの方にブランコと、猫の額ひたいほどの砂場があるだけで、他には、シーソーもなければジャングルジムもない、滑り台すらない。高校三年生の僕としては、公園というその場所は、本来もっと郷愁を誘われるべき座標なのかもしれなかったが、むしろそれとはまるっきり逆の感情を、僕は、胸に抱かないでもなかった。 それとも、何だろう、ああいうことだろうか。公園遊具の危険性、子供の安全を考えての結果、みたいな話で、昔は色々と設置されてあった遊具が、撤去されてしまっての、その形だったのだろうか。もしそうだったとしても、僕の感想自体は変わらないけれど、それに、そうならば何より危ないのは間違いなくブランコだと個人的には思うけれど、でも、まあ、そういうこととは関係なく、今、自分が五体満足でいる奇跡とかを、痛感しなくもなかった。 子供の頃は色んな無茶をしていたなあ、と。 ノスタルジィとは違う感覚で、そう思った。 もっとも。 五月十四日の僕は、その一ヵ月半くらい前の段階で、既に五体満足と言えるような身体ではなくなってしまってはいたのだけれど──まだ心に根付いている感傷の方は、どうやらそちら、その現実に追いついてはいなかったということだ。正直言って、それは数ヵ月程度で整理のつくことではない。一生かかっても無理かもしれなかった。 しかし、と、思った。 いくら遊具がないからといっても、それでも、あまりに寂しい公園だった。何せ、僕以外、一人も、誰もいないのだ。今日は天下の日曜日だというのに、である。遊具がない分、気持ち広くなっているのだから、ゴムボールとプラスチックのバットで、野球でもやればいいのに、と思う。それとも、最近の小学生の間では、もう遊びといえば野球、それに次いでサッカー、みたいな習慣は、なくなってしまったのだろうか。最近の小学生は家でビデオゲームばっかりやっているのだろうか──それとも塾通いが忙いそがしい? あるいは、このあたりの子供は、一日かけて母の日を祝う、孝行者ばかりなのだろうか。 それにしたって、日曜日の公園に、僕しかいないだなんて、まるで世界に僕一人しかいないみたいじゃないか──というのはいくらなんでも大袈裟おおげさだとしても、まるで、この公園の所有権が、僕にあるかのようだった。もう二度と、家には帰らなくていいみたいな、そんな気分になった。僕だけ、一人だけだから……ん。いや、一人、いた。僕だけではなかった。僕の座っているベンチから、広場を挟んで反対側、公園の隅っこの方、鉄製の看板、案内図──この辺りの住宅地図を眺めている、小学生が一人。背中を向けているので、どんな子かはわからない。大きなリュックサックを背負っているのが印象的だった。一瞬、仲間を見つけたような気になって、僕の心はかすかに緩んだが、しかし、その小学生は、その案内図にしばらく向き合った後、何かを思いついたように、公園から去っていった。そして僕だけになった。 また一人か。 そんなことを思った。 ──兄ちゃんは。 そこでふと──妹の言葉が思い出された。 マウンテンバイクで家を飛び出るときに、僕の背中に、無造作に投げ掛けられた言葉。 ──兄ちゃんは、そんなことだから── ああ。 畜生ちくしょう、と、僕は、さっきまで取っていた空を見上げる姿勢から、今度は地面を一直線に見詰めるような、頭を抱える姿勢を、取ることになった。 暗い気分が、あたかも波打ち際のように、押し寄せてくる。 空を見て、大分落ち着いてはいたのに、今更のように、自分の卑小ひしょうさが嫌になる。自己嫌悪とはこういう感情を言うのだろう──普段僕は、あまりそういうことで悩むタイプではないのだが、むしろ悩みなんて言葉にはとんと縁がないのが僕なのだが、ごくたまに、そう、五月十四日のような、そういうイベントじみた日には、何故か大抵、そういうコンディションになってしまう。特別な状況、特殊な設定。そういうものに、僕は酷く脆もろい。落ち着きを失ってしまう。浮き足だってしまうのだ。 ああ、平日最高。 早く明日になってくれ。 そんな微妙なコンディションから──蝸牛かたつむりにまつわるそのエピソードは、始まったのだった。裏を返せば、僕がそんなコンディションでさえなければ、それはあるいは、始まりさえしなかったエピソードだったのだろう。 002 「あらあら、これはこれは。公園のベンチの上に犬の死体が捨てられていると思ったら、なんだ、阿良々木くんじゃないの」 人類史上恐らくは初めての試みになるであろう奇抜な挨拶が聞こえた気がして、地面から顔をあげると、そこにいたのはクラスメイトの戦場ヶ原ひたぎだった。 当たり前だが、日曜日なので、私服だった。いきなりの犬の死体呼ばわりに何か言い返してやろうかと思ったが、その私服姿、それに学校では下ろしているストレートの髪を、ポニーテイル風に結ゆわえている戦場ヶ原のその新鮮な立ち姿に、喉元のどもとまででかかった言葉を、僕は、思わず、飲み込んでしまった。 うわ……。 別に露出が多いわけでもないのに、妙に胸が強調された上半身のコーディネート──それに、普段の制服姿からは考えられないキュロットの丈たけ。スカートというわけでもないのに、黒いストッキングが、生足よりも艶なまめかしい。 「何よ。ただの挨拶じゃない。冗談よ。そんな、本気で鼻白はなじろんだみたいな顔しないで欲しいわ。阿良々木くん、ユーモアのセンスが決定的に欠如しているんじゃないの?」 「あ、い、いや……」 「それとも何。うぶな阿良々木くんは、私のチャーミングな私服姿に見蕩みとれちゃって至福の瞬間ということ?」 「………………」 表現が駄洒落だじゃれなのはともかく、図星というか、確かに概おおむねそんな感じで正解だったので、うまい突っ込みの言葉も出てこない。 「それにしても、見蕩れるの蕩れるって、すごい言葉よね。知ってる? 草冠に湯って書くのよ。私の中では、草冠に明るいの、萌もえの更に一段階上を行く、次世代を担うセンシティヴな言葉として、期待が集まっているわ。メイド蕩れー、とか、猫耳蕩れー、とか、そんなこと言っちゃったりして」 「……前に見た私服とは、随分ずいぶん印象が違ったから、びっくりしたんだよ。それだけだ」 「ああ、それはそうね。あのときは、大人しめの服を、ということだったからね」 「そうなのか? ふうん」 「とはいえ、この服は、上下ともに、昨日、買ったところなのだけれどね。さしあたり、全快祝いと言ったところかしら」 「全快祝い──」 戦場ヶ原ひたぎ。 クラスメイトの少女。 彼女はつい最近まで、とある問題を抱えていた。とある問題を、つい最近まで──そして、高校生になってから、ずっと。 二年以上の間。 間断なく。 その問題のせいで、彼女は友達一人作れず、誰とも接触することもできず、あたかも牢獄に閉じ込められているかのような拷問ごうもんの如ごとき高校生活を送っていたのだが──しかし、幸いなことに、その問題は、この間の月曜日辺りに、一応の解決を見た。その解決には僕も立ち会うこととなった──戦場ヶ原とは、一年生のときも二年生のときも、そして三年生の今現在でも、同じクラスで机を並べる間柄だったが、まともに話をしたのは、そのときが最初だった。そこで初めて、無口で成績のいい、あえかな風の病弱な生徒という程度の認識しかなかった彼女と、縁が生じたと言える。 問題の解決。 解決。 とはいえ、数年に亘わたってその問題と付き合ってきた戦場ヶ原にしてみれば、勿論それはそんな簡単な話ではなく──簡単な話であるわけがなく、その後、昨日、土曜日までの間、彼女は学校を休んでいた。その問題についての、調査というか精密検査というかで、病院に通い詰めだったそうだ。 そして昨日。 そういったあれこれから──彼女は解放された。 らしい。 とうとう。 逆に言えば、やっと。 裏を返せば、ついに。 「まあ、そうは言っても、問題の根源まで回復するわけじゃないのだから、私としては、素直に喜べるかどうかと言われれば、微妙なところなのだけれどね」 「問題の根源──か」 そういう問題だったのだ。 けれど、世にある問題と呼ばれる類たぐいの現象は、大抵の場合、そういうものだろう──全てはあらかじめ終了していて、それにどんな解釈を付け加えるかというのが、問題と呼ばれるものの、正体なのだから。 戦場ヶ原の場合もそうだし。 僕の場合もそうなのだ。 「いいのよ。私が悩めばいいことなのだから」 「ふうん。ま、そうだな」 そうなのだった。 お互いに、そう。 「そうよ。全くそう。それに、悩めるだけの知性がある分、私は幸せなのだから」 「……どこかに悩めるだけの知性がない分、不幸せな奴がいるみたいな言い方をするんだな」 「阿良々木くんは馬鹿ばかだわ」 「直接言いやがった!」 しかも文脈を完全に無視してやがる。 お前それ、僕を馬鹿って言いたいだけじゃん……。 ほぼ一週間ぶりだけど、変わらないなあ、こいつ。 ちょっとは丸くなったかと思ったけれど。 「でも、よかったわ」 戦場ヶ原は薄い笑みをたたえて、言った。 「今日は単なる慣らしのつもりだったけれど、この服、できれば一番最初に、阿良々木くんに見て欲しかったから」 「……ふうん?」 「問題が解決したことによって、ファッションを自由に選べるようになったから、ね。これからは色んな服が、どんな服でも、制限なく着られるようになったのよ」 「ああ……そうだっけ」 自由に服が選べない。 それも、戦場ヶ原が抱えていた問題の一つ。 お洒落をしたい年頃だというのに、だ。 「一番最初に僕に見せたかったっていうのは、まあ、なんっつーか、冥利みょうりに尽きるというか、光栄な話だね」 「見せたかった、じゃないわ、阿良々木くん。見て欲しかったのよ。それとこれとじゃ、ニュアンスが全然違うじゃない」 「へえ……」 というか、月曜日、『大人しめの服』の他に、もっとすごい格好も見せてもらっているのだが……。けれど、しかし、やけに胸が強調されたその服は、確かに、かなり、僕の眼をきつく惹ひきつけるだけの魅力を備えていた。いいセンスをしていると言うか、まるで強力な磁力のようで、捕らえられたような気分だった。病弱という触れ込みだった彼女だが、そんな言葉とはまるで対極的な、前向きなベクトルを、感じなくもない。髪をあげているせいで、上半身のラインがよくわかる。特に胸の辺りが──いや、さっきから胸って言ってばっかりだ、僕……。そんな露出は多くない……というより、五月半ばというこの時期を考えたら、長袖ながそでにストッキングを穿いている彼女の露出は、むしろ少ないくらいなのに、とにかく、エキゾチックだ。なんだろう、一体どういうことだろう。ひょっとして、月曜日における戦場ヶ原ひたぎとの一件、それに、ゴールデンウィークにおける委員長、羽川翼との一件を経験することによって、僕は、裸はだかや下着姿よりも、女性の着衣の方によりエロチシズムを感じる能力を身につけてしまったのだろうか……。 嫌だ……。 高校生の段階で、そんな能力は必要ない……。 ていうか冷静になってみれば、クラスメイトの女の子のことをそういう眼で見るのは単純に失礼だと思う。激しく自分に恥じ入る感じだった。 「ところで、阿良々木くん。こんなところで、一体全体、何をしているの? 私が休んでいる間に学校を退学にでもなってしまったのかしら。家族にはそんなこと話せないから、学校に通っている振りをして、公園で時間を潰しているとか……だとすれば、私の恐れていた事態がついに、といった感じだわ」 「リストラされたお父さんじゃねえか、それ……」 それに今日は日曜日だ。 母の日だっての。 そう言いそうになって、すんでのところで、思いとどまる。戦場ヶ原は、事情あって、父子家庭なのだった。母親については、ちょっとしたややこしい事情を抱えている。そういうことに対してあまり気を遣い過ぎるのもかえってよくないのだろうが、かといって、無闇むやみに振っていい話でもないだろう。母の日という言葉は、一応、戦場ヶ原に対しては、禁句にしておこう。 僕だって── 進んで話したいわけじゃないし。 「別に。暇ひま潰し」 「何をしているのと訊かれて暇潰しと答える男は甲斐性かいしょうなしという噂を聞いたことがあるわ。まあ、阿良々木くんには関係のない話であって欲しいけれど」 「……ちょっとした、ツーリングだよ」 自転車でだけどな、と付け加えた。 それを聞いて、戦場ヶ原は「ふうん」と頷き、公園の入り口の方を、一回、振り向いた。その方向には、そう、駐輪場がある。 「じゃあ、あの自転車、阿良々木くんのだったのね」 「ん? ああ」 「フレームは酸化鉄でコーティングしているのじゃないかってくらいに錆さびていたし、チェーンも切れて外れていて、サドルと前輪が無くなっていたけれど、そう、あんなになっても自転車って動くものなのね」 「それじゃねえ!」 それは放置自転車だ。 「そういうのが二台あった他に、もう一台、格好いい奴があっただろ! 赤い奴! それが僕のだ!」 「ん……ああ。あのマウンテンバイク」 「そうそう」 「MTB」 「まあ……そうだ」 「MIB」 「それは違う」 「ふうん。あれ、阿良々木くんのだったんだ。でも、そうなるとおかしいわね。前に、私が後ろに乗っけてもらった自転車とは随分造形が違うみたいだけれど」 「あれは通学用。プライベートでママチャリなんて乗れるわけねーだろ」 「なるほどね。阿良々木くん、高校生だもんね」 ふむふむと、頷く戦場ヶ原。 お前も高校生なのだが。 「高校生、マウンテンバイク」 「含むところのありそうな物言いだな……」 「高校生、マウンテンバイク。中学生、バタフライナイフ。小学生、スカートめくり」 「その悪意のある羅列はどういう意味だ!」 「助詞も形容詞もないのだから、悪意があるかどうかなんてわからないでしょう。勝手な推測で女の子に向かって大声を出さないでよ、阿良々木くん。恫喝どうかつだって暴力の一つなのよ?」 それなら毒舌だって暴力の一つだろう。 なんて言っても、仕方ないのだろうけれど……。 「じゃあ、助詞と形容詞を足してみろよ」 「高校生『の』マウンテンバイク『は』、中学生『の』バタフライナイフ『や』、小学生『の』スカートめくり『より』、『有り得ない』」 「フォローする気がないのかよ!」 「やあねえ阿良々木くん。そうじゃなくて、ここでの突っ込みは『有り得ない』は形容詞じゃなくて動詞プラス打消しの助動詞だ、でしょう」 「そんなもん咄嗟に言われてわかるか!」 さすがは学年トップクラスの成績保持者。 いや、わからないのは僕だけなのかな……。 国語は苦手だ。 「お前な、僕はいいよ。僕はそこまでマウンテンバイクが好きってわけでもないし、それに、僕はもう今更だから、お前の暴言については、ある程度我慢がきくからさ。我慢っていうか、融通ゆうずうっていうかがな。でも、マウンテンバイクに乗ってる高校生なんて、世界中、五万といるぞ? お前はそいつらを、全員まとめて敵に回すのか?」 「とても最高ね、マウンテンバイク。高校生ならば誰もが憧れる逸品だわ」 一瞬で手のひらを返す戦場ヶ原ひたぎ。 意外と保身的な奴だった。 「その最高さ加減が阿良々木くんにあまりにも似合わないものだから、ついつい、心にもないことを言ってしまったわ」 「責任転嫁てんかまでしやがった……」 「細かいことをごちゃごちゃとうるさいわね。そんなに殺されたいのなら、いつでも半殺しにしてあげるわよ」 「残酷な仕打ちだ!」 「阿良々木くん、この辺、よく来るの?」 「平気で話題を戻すよな、お前は。いや、多分、初めてだと思う。適当に自転車走らせていたら、ちょっと公園があったんで、なんとなく、休んでいただけだよ」 正直言って、もっと遠くまで──いっそ沖縄おきなわとかくらいまで来たつもりでいたけれど、こんな風にたまたま戦場ヶ原に出会ってしまったということは、当たり前だけれど、自転車くらいじゃ、住んでいる町からは出られもしないということだろう。それは正に、牧場のごとく。 あーあ。 免許でも取ろうかなあ。 でもやっぱ、卒業してからだよなあ。 「戦場ヶ原は? 慣らしって言ってたけれど、なんだ、じゃあ、リハビリの散歩ってわけか?」 「慣らしというのは服の慣らしよ。阿良々木くんは男の子だからそういうの、しないのかしら? 靴の慣らしくらいはするでしょう。まあ、平たく言えば散歩というわけね」 「ふうん」 「この辺りは、昔、私の縄張なわばりだったのよ」 「………………」 縄張りって……。 「ああ、そういや、お前、二年生のときに、引っ越ししているんだったっけ。何、それまで、この辺りに住んでいたってこと?」 「まあ、そういうこと」 そういうことらしかった。 なるほど──ということは、単に散歩とか、服の慣らしとか言うよりも、本質的には、自身の問題が解決したゆえに、昔を懐なつかしんで──ということもあるのだろう。なかなか人間らしい行動を取るじゃないか、こいつも。 「久し振りだけど、この辺りは──」 「どうした。全然、変わらないってか?」 「いえ、逆。すっかり変わっちゃった」 すぐに答えた。 既にある程度、散策は終わっているらしい。 「別に、そんなことでセンチメンタルな気持ちになったりはしないけれど──でも、自分が昔住んでいた場所が、変わっていくというのは、どことなく、モチベーションが削そがれる感じがするわね」 「仕方ないことじゃないのか?」 僕は生まれたときからずっと同じ場所で育っているので、戦場ヶ原が言うような感覚は、正直、全くわからないけれど。田舎と呼べるような場所も、僕にはないし── 「そうね。仕方のないことだわ」 戦場ヶ原は、意外なことに、ここではろくな反論もせずに、そう言った。この女が何か意見めいたことを言われて反論しないなんて、珍しい。あるいは、僕とこの話題を続けても、何ら得るところはないと思ったのかもしれない。 「ね。阿良々木くん。そういうことなら、隣、構わないかしら?」 「隣?」 「あなたとお話がしたいわ」 「…………」 こういう物言いは、本当に直截ちょくせつ的なんだよな。 言いたいことややりたいことは簡単明瞭めいりょう。 まっすぐ、ど真ん中。 「いいよ。四人掛けのベンチを一人で占領していることに、若干の心苦しさを感じていたところだったんだ」 「そう。では遠慮なく」 戦場ヶ原はそう言って、僕の隣に座った。 肩が触れ合うくらいの隣に座った。 「……………………」 え……なんでこいつ、こんな四人掛けのベンチで、まるで二人掛けみたいな位置に座るんだ……? 近過ぎませんか、戦場ヶ原さん。ぎりぎりの位置で、まあかろうじて身体同士は触れ合ってはいないものの、ちょっとでも身じろぎすればというものすごく絶妙なバランスで、クラスメイト同士としては、いや友達同士としても、ちょっとこれはちょっとという感じだ。かといって、これでこっちが距離を取るように移動したら、まるで僕が戦場ヶ原を避けているみたいな印象になりかねない。たとえそんなつもりはなくとも、仮にそんな風に思われたら、戦場ヶ原からどんな迫害を受けることになるのかと思うと、そう安易に、僕としては動くわけにはいかなかった。結果──固まる。 「この間のこと」 そんな状況、位置関係で。 戦場ヶ原は平然とした風に言った。 「改めて、お礼を言わせてもらおうと思って」 「……ああ。いや、お礼だなんて、そんなの、別にいいよ。考えてみたら、僕、何の役にも立ってないしな」 「そうね。ゴミの役にも立たなかったわ」 「…………」 意味は同じだけれど、より酷い表現だった。 というか酷い女だ。 「だったら、礼は忍野に言っとけよ。それだけでいいと思うぜ」 「忍野さんのことは、また別の話だわ。それに、忍野さんには、規定の料金を支払うことになっているしね。十万円だったかしら」 「ああ。バイトするんだっけ?」 「ええ。とはいえ私の性格は労働には不向きなので、今はまだ、それについての対策を講じている段階だけれどね」 「自覚があるのは自覚がないのよりはいいことだ」 「なんとか踏み倒せないものかしら……」 「そんな対策を講じていたのか」 「冗談よ。お金のことはちゃんとするわ。まあ、だから、忍野さんのことは、また別──ということ。それで、私は、阿良々木くんには、忍野さんとは違う意味で、お礼を言いたいの」 「だったら、今聞かせてもらったってことで、もういいよ。いくら礼の言葉でも、あんまり何度も言うと、中身がなくなってくもんだからさ」 「中身なんか最初からないわ」 「ないのかよ!」 「冗談です。中身はありました」 「冗談ばっかりだな、お前」 こちらとしては呆れるばかりだった。 こほん、と咳せきをしてみせる戦場ヶ原。 「ごめんなさいね。私って、なんだか、阿良々木くんから何かを言われると、ついつい、それを否定したり、それに逆らいたくなったりしちゃうのよ」 「…………」 謝りながらそんなことを言われても……。 あなたとは気が合いませんねって言われた気分だ。 「きっと、これは、あれよね。好きな子を苛いじめたいって思う、ちっちゃな子供みたいな心境なのでしょうね」 「いや、弱い者を甚振いたぶりたいって思う、おっきな大人みたいな心境だと思うぞ……」 ん? 今僕、戦場ヶ原に好きな子って言われた? あ、いや、言葉の綾あやか。 自分に笑顔を見せてくれる女の子が全員自分に惚ほれていると思う中学生みたいな気分になっても大した意味はなさそうなので(スマイルはゼロ円)、僕は、話題を戻す。 「ま、でも実際、そんな恩に感じられるほどのことはしたとも思ってないし、忍野風に言うなら、『戦場ヶ原が一人で助かるだけ』なんだから、僕に対して、恩を感じるとか、そういうのは、やめにしとこうぜってこと。これから仲良くやっていきにくくなるだろ」 「仲良く、ね」 戦場ヶ原は、口調を全く変えずに言う。 「私──阿良々木くん。私は、阿良々木くんのこと、親しく思ってもいいのかしら?」 「そりゃ勿論」 お互い、抱えている問題を、披瀝ひれきし合った仲だ。他人とか、あるいはただのクラスメイトとかで済ます段階では、もう、ないと思う。 「そう……そうね、お互い、弱みを握り合った仲だものね」 「え……? 僕達、そんな緊迫した関係なのか?」 ギスギスしてそう……。 「弱みとかそういうことじゃなくて、当たり前に親しく思ってくれりゃいいんだよ……そういうことじゃないわけだろ? そうしたら、僕も、同じようにする