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化物語(下) (講談社BOX)
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西尾 維新, VOFAN
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青春を、おかしくするのはつきものだ!阿良々木暦が直面する、完全無欠の委員長・羽川翼が魅せられた「怪異」とは―!?台湾から現れた新人イラストレーター、“光の魔術師”ことVOFANとのコンビもますます好調。西尾維新が全力で放つ、これぞ現代の怪異!怪異!怪異。
Categories:
Volume:
2
Year:
2006
Publisher:
講談社
Language:
japanese
Pages:
401
ISBN 10:
4062836076
ISBN 13:
9784062836074
Series:
〈物語〉シリーズ
File:
EPUB, 645 KB
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化物語(下) 西尾維新 目 次 化物語(下) 化バケモノ物ガタリ語 下 BOOK&BOX DESIGN VEIA 第四話 なでこスネイク 第五話 つばさキャット 第四話 なでこスネイク 001 第五話 つばさキャット 001 あ と が き 西尾維新〈にしお・いしん〉 化バケモノ物ガタリ語 下 西尾維新NISIOISIN 阿良々木あららぎ暦こよみが直面する、完全無欠の委員長・羽川はねかわ翼つばさが魅せられた「怪異」とは──!? 台湾から現れた新人イラストレーター、〝光の魔術師〟ことVOFANとのコンビもますます好調! 西尾維新が全力で放つ、これぞ現代の怪異! 怪異! 怪異! 青春を、おかしくするのはつきものだ! BOOK&BOX DESIGN VEIA FONT DIRECTION SHINICHIKONNO (TOPPAN PRINTING CO.,LTD) ILLUSTRTION VOFAN 本文使用書体:FOT-筑紫明朝ProL 第四話 なでこスネイク 第五話 つばさキャット 第四話 なでこスネイク 001 千石せんごく撫子なでこは妹の同級生だった。僕には二人の妹がいて、千石撫子はその内、下の方の妹の友達だった。今現在の酷ひどい有様と違って、小学生の頃の僕は、それなりに普通に友達のいる子供だったのだが、それでもなんと言えばいいのだろう、みんなと遊ぶのは好きだが誰かと遊ぶのは好きではないという感じで、休み時間にクラスの連中と遊ぶことはあっても、放課後にクラスの連中と遊ぶことは、滅多になかった。嫌な子供だ。語るにつけ思い出すにつけ、嫌な子供だった。語りたくも思い出したくもない。まあ、三つ子の魂たましい百までというか、その逆と言うか、ただ単に、昔から僕はそういう奴だったと言うだけの話だ。そんなわけで、放課後は、特に習い事をしていたわけでもないのに、さっさと家に帰ることを常とする僕だったが、その帰った家に遊びに来ていたのが、千石撫子だったのである。今でこそ二人べったり、いつもいつでもいついつでもそばにいる、兄としては心配以上に気持ちの悪くなってしまうくらい仲のいい二人の妹ではあるが、小学生の頃は別々に行動することも多く、上の妹はもっぱらアウトドア派、下の妹はインドア派で、三日に一日は、下の妹は家に学校の友達を連れてきていた。千石撫子が特に妹と仲良しだったというわけではなく、たくさんいた妹の友達の中の一人だった感じなのだろう。『なのだろう』と、ここで語尾がいささか不確かになってしまうのは、正直言って僕がその頃のことをよく憶えていないからなのだが、そうは言っても、いざ思い出してみれば妹が家に連れてきた友達の中では、まだ千石撫子は印象に残っている方だ。それは何故なら、放課後、友達と遊ぶこともなく家に帰っていた僕は、妹の遊びに付き合わされることが多々あって(当時、二人の妹と僕は同室だった。僕が両親から自分ひとりの部屋が与えられたのは中学生になってからだ)、それは大抵の場合、人数合わせ、ボードゲームなどをするときの賑にぎやかしということだったのだけれど、妹が千石撫子と遊ぶとき、僕にお呼びがかかる率が異様に高かったからである。要は、友達が多い妹が(これは今も変わらず、妹二人に共通して言えることなのだが、あの二人は人の中心に立つのが非常にうまい。兄としては非常に羨うらやましい限りである)、家に連れてくる同級生としては、千石撫子は珍しく、一人で行動するタイプの少女だったということだ。はっきり言って妹の友達なんて誰でも同じに見えてしまうので、必然、一人で、誰ともまぎれずにいた彼女の名前くらいは、僕の記憶にも残っていたというわけなのである。 だが、名前くらいだ。 やはりよく憶えていない。 だからこれも語尾が曖昧あいまいになってしまって申し訳ない限りなのだが、千石撫子は、内気で、言葉少なで、俯うつむいていることが多い子供──だったと思う。思うのだが、まあ、しかし、わからない。ひょっとしたらそれは、妹の他の友達の特徴だったかもしれない。あるいは当時の僕の友達の特徴だったかもしれない。そもそも、小学生の頃の僕は、妹が家に友達を連れてくることを非常に迷惑に、鬱陶うっとうしく思っていたのだ。ましてそれにつき合わされていた相手の、印象がよいわけがないのである。今にして思えば、友達の兄貴と遊ばねばならなかった、妹の友達たちの方がいい迷惑だったのではないかと思うが、いずれにせよあくまでも昔の話で、あくまでも小学生の感性だと、そう理解して欲しい。実際、僕が中学生になってからは、下の妹も、家; に友達を連れてくることは少なくなり、あったとしても、僕を遊びに誘うことはなくなった。部屋が別になったからというのもあるだろうが、もっと別の理由もあるだろう。そんなものだ。大体、妹は二人とも、中学は私立に行ったから、人間関係のほとんどは、彼女達の小学校卒業時にリセットされたはずである。千石撫子が妹の同級生だったのは小学生の頃の話で、今はもう、そうではない。別々の学校だ。だから僕が千石撫子に最後に会ったのは、どんな贔屓ひいき目に見積もっても二年以上前、そして恐らくは六年以上前──ということになる。 六年。 人間が変わってしまうには十分な時間だ。 少なくとも、僕は自分のことを、すっかり変わってしまったと認識している。昔からそういう奴だったと言っても、やはり今と昔とでは違うのだ。小学校の卒業アルバムなど、今の僕は痛々しくて、とても見ていられない。小学生の感性がどうのこうのとつまらないことも言ったが、しかし、考えてみれば、僕は今の自分があの頃の自分よりも優れ、勝っているとはとても思えない。思い出は美化されるものだとは言っても、そう、痛々しくてとても見ていられないのは小学生の頃の僕ではなくて、小学生の頃の僕から見る、今の僕ではないのだろうか。いや、恥ずかしい限りだが、たとえば今このとき、小学生の頃の自分と道でばったり出会っても、お互いに自分の正面に立っているそれが自分自身だと、気付くことはないだろう。 それが悪いことなのかどうか分からない。 過去の自分に今の自分を誇れないこと。 しかしそんなことだってある。 誰だってそうかもしれない。 だから僕は、千石撫子と再会したとき、最初、それが誰なのか、わからなかった──彼女のことを思い出すまでに、少し時間が掛かってしまった。もしも僕がすぐに、そうでなくとももっと早く、彼女のことに気付いていれば──蛇に絡からまれた彼女に気付いていれば、この物語はひょっとするとあんな結末には辿たどり着かなかったのではないかと思うと、非常にやるせないのだが、そんな後悔は彼女に対しても怪異に対しても、きっと何の意味もない。今回の話をいきなり結末から言ってしまえば、どうやら千石撫子は、僕にとって、うろ覚えだった妹の友達から、決して忘れることのできないたった一人になってしまったと、そういうことらしい。 002 「阿良々木あららぎ先輩、待たせてしまって申し訳ない」 六月十一日、日曜日。 さすが体育会系というべきなのかどうなのか、午前十時五十五分、待ち合わせ時間のきっちり五分前に、待ち合わせ場所の、僕らの通う直江津なおえつ高校正門前に、僕の一つ下の後輩、元バスケットボール部のエース、神原かんばる駿河するがは勢いよく駆けてきて、勢い余ってジャンプ一番、僕の頭の上を軽く跳び越してから、着地し、振り向いて、右手を胸の前に、爽さわやかな笑顔と共にそう言った。……僕も、高校三年生としては、そりゃそんなに背の高い方ではないと自覚しているのだけれど、自分よりもちっちゃい女の子に正面飛びで跳び越えられるような身長ではないはずだと思っていたのだが、その認識はどうやらここで改めなければならないようだった。 「いや、僕も今来たとこだよ。別に待ってない」 「なんと……私の精神に余計な負荷ふかをかけまいと、そんなみえみえの気遣いをされるとは、やはり阿良々木先輩は、気立てのよい方だな。生まれ持った度量が違う。三歩下がって見上げない限り、私ごときには阿良々木先輩のその全貌ぜんぼうがつかめそうもない。会って数秒でこうも私の心を打つとは、阿良々木先輩の器の大きさには本当に驚かされるばかりだ。一生分の尊敬を、私は阿良々木先輩のためだけに、どうやら費ついやさねばならないようだな。なんてことだろう、全く、お恨うらみ申し上げるぞ」 「………………」 相変わらずだな、こいつは。 そしてみえみえの気遣いって言うな。 さりげない優しさには気付かない振り、だろ。 「今来たとこだってのは本当だよ。それに、たとえそうじゃなかったとしても、お前もまた待ち合わせの時間よりも先に来たんだから、僕に謝あやまる必要なんかない」 「いや、それは聞けんな。阿良々木先輩がなんと言おうと、阿良々木先輩より先にこの場にいられなかったというだけで、私が謝る理由としては十分だ。目上の人物の時間を無駄にするというのは、許されない罪悪だと私は思っている」 「別に目上じゃないだろ」 「年上の先輩なのだから目上であっている」 「あってるけどさ……」 それは、単に歳の問題だけなんだよなあ。 あるいは身長とか(物理的に目上)。 でもそれも軽く飛び越えられるくらいのものだし。 神原駿河──直江津高校二年生。 つい先月まで、バスケットボール部のエースとして、学校一の有名人、学校一のスターとして名を馳はせていた人物である。私立進学校の弱小運動部を入部一年目で全国区にまで導みちびいたとあっては、本人の否応いやおうにかかわらず、そうならざるを得ないだろう。中途半端な落ちこぼれ三年生であるこの僕など、本来ならば口も利きけない、どころか、それこそまさに影も踏めないような存在だったはずの、恐るべき下級生だ。ついこの間、左腕に怪我をしたという理由で、キャプテンの座を後輩に譲ゆずり、バスケットボール部を早期引退──そのニュースがどれだけ衝撃的に学校中に響ひびいたか、それは記憶に新しい。古びることさえ、ないだろう。 神原の左腕には。 今も、包帯がぐるぐるに巻かれている。 「そう」 と、神原は静かに言う。 「私はこの通り、引退した身だ。バスケットボールしか取とり柄えのなかった私が、学校に対して貢献できることなど何もない。だから阿良々木先輩も、私をそのように扱ってもらいたい」 「扱うってな……お前ってなんか、何事に対しても自信ありげな癖くせに、微妙に自己評価低いところがあるよな。そういうこと言うもんじゃないよ。お前がバスケットボール部に対してやってきたことは、ちょっと早めに引退したくらいで、ぱっと消えてなくなることでもないだろうに」 早期引退したことを気に病んでいる──というわけでもないのだろうが、まあ実際、あんなことがあって、そのままの自分でいうという方が、無茶な話か。けれど、僕としては、やっぱり神原には、そんな、自分を卑下ひげするようなことを、言って欲しくはなかった。 「ありがとう、阿良々木先輩。心遣い、痛み入るばかりだ。その気持ちだけは受け取っておく」 「言葉もきちんと受け取れ。じゃあ、まあ、行くか」 「うん」 言って、神原は素早く僕の左側に回り込み、実にナチュラルな動きで、僕の空いていた左手に、自分の右手を繋つないだ。『手を繋いだ』というよりは、『指を絡めた』という感じだった。五指がそれぞれに、もつれあっている。そしてそのまま、僕の腕に自分の身体をぎゅっと、まるで抱きつくかのように、隙間なく密着させてくる。身長差の問題で、丁度僕の肘ひじ辺りに神原の胸が来て、神経が集中したその敏感な部位に、マッシュポテトのような感触が伝わってくる。 「いや、阿良々木先輩。それを言うならマシュマロのような感覚だろう」 「え!? 僕、今の馬鹿みたいなモノローグ、声に出していたのか!?」 「ああ、そうじゃないそうじゃない。安心してくれ、テレパシーで伝わってきただけだ」 「そっちの方がより問題じゃねえか! この辺りのご近所さん、全員に聞かれているってことになるぞ!」 「ふふふ。まあ見せつけてやればいいではないか。私も最早もはや、スキャンダルを気にする身ではなくなったわけだしな」 「にこにこ笑顔で僕と付き合っている奴っぽいこと言ってんじゃねえよこの後輩! 僕が付き合っている相手はお前じゃなくて、お前の尊敬する先輩だろうが!」 戦場せんじょうヶ原はらひたぎ。 僕のクラスメイト。 にして、僕の彼女。 にして──神原駿河の、慕したう先輩である。 学校一の有名人、学校一のスターと、今も昔も何の取り柄もない平凡な学生との間を繋いだのは、彼女、戦場ヶ原の存在である。神原と戦場ヶ原は中学生の頃から先輩後輩の間柄で、まあ途中、色々あり、色々あって、色々あったのだけれど、今現在も、神原戦場ヶ原のヴァルハラコンビとして、仲良くやっている。神原は『尊敬する先輩の付き合っている相手』として、僕を一時期、ストーキングしていたことがあるのだ。 「大体、お前は元々、スキャンダルなんて気にしてなかっただろうが。ええい、離れろ」 「嫌だ。デートのときは手を繋ぐものだと、ものの本には書いてあったぞ」 「デート!? 一回でも言ったか、そんなこと!?」 「む?」 神原はとても意外そうに首を傾かしげる。 「そう言えば、言ってなかったかな。阿良々木先輩から誘いがあったというだけで舞い上がってしまい、よく話を聞いていなかったのだが」 「ああ……ずっと生返事だったもんな、お前……」 「しかし、阿良々木先輩。それはさすがにどうかと思うぞ。私もそれなりに性に開放的な方ではあるし、できる限り阿良々木先輩の意に添いたいと考えるが、デートも抜きでいきなり行為に及ぼうというのは感心できない。阿良々木先輩の将来が心配だ」 「行為には及ばないし心配にも及ばねえよ! 高校二年生が性に開放的とか言ってんじゃねえ!」 「まあしかし、ことここに至れば仕方あるまい。気は進まないが、乗り乗りかかった船だ」 「ノリノリなんじゃねえかよ!」 ふと、神原の格好を見る。 ジーンズにTシャツ、長袖のアウター。高級そうなスニーカー。日差しが強くなってきたということもあってか、頭には野球帽をかぶっていて、それがこのスポーツ少女にはやけに似合うが、しかしそれはまあいいとして。 「長袖長ズボンで来いって言ったのは、一応、守ってるみたいだが……」 しかし。 そのジーンズはお洒落しゃれにもあちこちが破れているものだったし、Tシャツは丈が短くて、神原のくびれたウエストが惜しげなく晒さらされていた。過激というか、なんというか……無論むろん、日曜日にどんな格好をしようとも、それは個人個人の自由なのだけれど……。 「……本当に何も聞いていなかったんだな、お前」 「何がだ」 「僕ら、これから山に行くんだけど」 「山? 山で行為に及ぶのか」 「及ばない」 「ふむ、なかなか野性的で悪くないな。阿良々木先輩もなかなかどうして男らしい。私も乱暴にされるのは嫌いじゃないぞ」 「及ばねえっつってんだろ! 聞けよ!」 長袖長ズボンで来いというのは、山中で、虫やら蛇やらに対する用心だって、ちゃんと説明したはずなんだけどな……。それなのに、そんな隙間だらけの服じゃ、あまり意味がないような……。 「まあよい。阿良々木先輩が行く場所であれば、私はどこにでもついていくだけだ。阿良々木先輩についてくるなと言われようともな。たとえ火の中水の中、木の中だって金の中だって土の中だって、お構いなしだ」 「金の中っていうのは、あんまり苦しくなさそうだけどな……」 むしろ楽しそうだ。 しかし、昨日、神原の家に電話を掛けた段階でも、生返事というか、むしろそんなことばかり言って(『行き先など聞くまでもない。阿良々木先輩の向かう方向が、私にとっていつでも指針だ』とか)、僕の話を一向に聞こうとしなかったし……こいつの思い込みの激しさは、一種、感心さえしてしまうとこうがある。羽川はねかわとは違う種類の、思い込みの激しさだ。視界が狭いというか、真っ直ぐにしかものが見れないのかもしれない。 「とにかく、デートじゃないから」 「そうか、デートではないのか……私はてっきりそうだと思って、気合を入れてきたのだが」 「気合?」 「うん。何と言っても生まれて初めての、異性とのデートだからな」 「そうか、初めてのデートのつもりだったのか」 『異性との』はスルー。 突っ込みにくいから。 「どのくらい気合を入れてきたかと言えば、これまでの人生十七年間、主義として決して持たないと堅く誓っていた携帯けいたい電話を、今日のために購入したほどだ」 「…………」 ……重っ! 「万一、阿良々木先輩とはぐれてしまい、連絡が取れなくなっては最悪だからな。公衆電話の数もすっかり減ってしまったこの世の中、携帯電話はデートに必携のツールだろう」 「ま、まあ……そうだな。は、はは、この辺りは田舎いなかだから、公衆電話も結構、生き残ってるけどさ……」 「更に言うと、四時起きでお弁当を作ってきた。阿良々木先輩の分と私の分、両方だ。待ち合わせが十一時だから、阿良々木先輩とお昼をご一緒することになるだろうと踏んだのだ」 言って神原は、包帯の左腕で持っていた、風呂敷ふろしき包みを僕に示す。……うん、最初から気付いてはいたんだけれど、その縦に長い直方体の形は、明らかに重箱かなんかなんだよな……。 更に重っ……。 重箱だけに、重ねて重っ……! 昼時になることくらいは僕もわかっていたから、用事を済ませたら、先輩としてファーストフードくらいご馳走ちそうしてやろうかと思っていたのだが、この後輩はそんな生易しい次元では物事を考えていなかった。 手作り弁当と来たか……。 予想外の攻めだ。 「敬愛する阿良々木先輩とデートということだったから、楽しみで楽しみで、あまり眠れなかった上に早く眼が覚めてしまったからな、いい手遊てすさびになったものだが」 「はあ……手遊びねえ。でも、それ、全部弁当なのか? 結構な量だな……言っとくけど、僕、そんなに食べられないぞ」 「基本的には半分ずつだが、何、阿良々木先輩が食べられない分は私が食べればいい話だ。私は食べ物を粗末そまつにする行為が嫌いだからな、その辺りはちゃんと計算して作ってある」 「ふうん……」 僕は丸出しの、神原のへその辺りを見る。 体脂肪率たいしぼうりつ十パーあるかないか、くらいか? 蝉贏少女すがるおとめって感じ。 するががすがる。 なんか回文っぽいな……。 なってないけど。 「お前って、神原、ひょっとして、いくら食べても太らないってタイプ?」 「うーん。というか、むしろ必死になって食べないとガンガン痩やせていくタイプだな」 「そんなタイプがあるのか!?」 それって女子の間じゃ相当羨ましがられるだろう……というより、男子の僕でも羨ましいぞ、そんな体質! 「一体どうすればそんな体質になれるんだ?」 「簡単だ。まず毎朝十キロダッシュを2セット」 「わかったもういい」 そうだった。 こいつは基本的な運動量が違うのだ。 どうやら神原駿河、バスケットボール部引退後も、自主トレは欠かしていないということらしい。立派なものだ。まあ、左腕の怪我なんて言ったところで、その真実は全く違うところにあるのだから、それは当然、そうだろうが。 「はあ」 そこで神原は、大仰おおぎょうにため息をついた。 「でも、それもこれも、全部無駄むだだったのだな……なんだ、デートではなかったのか。とても楽しみにしていたのに。一人ではしゃいでしまって、まるで馬鹿みたいだ。赤っ恥とはこのことだ。身に余る夢を見てしまった。高貴な阿良々木先輩が愚おろかなる私ごときとデートしてくれるはずがないことくらい、考えたらわかりそうなものなのに、思い上がりも甚はなはだしい……。私の勝手な勘違いで迷惑をかけてしまって、申し訳なかった。じゃあ、携帯電話と重箱は、荷物になるから、その辺に捨てていこう。阿良々木先輩、ちょっと待っててくれ、すぐにジャージに着替えてくるから」 「デートでした!」 僕の負け。 弱っ……。 「今日はお前とデートでした! 神原! 今思い出した、ああ、僕もまた、とてもとても楽しみにしていたんだ! やったあ、憧れの神原さんとデートだ! ほら、な! だから携帯と重箱はそのまま持っていろ! 着替えて来なくてもいい!」 「本当か?」 ぱあっと表情を輝かせる神原。 やべえ、超可愛い。 「嬉しいぞ。阿良々木先輩はとても優しいな」 「ああ……この優しさがいつか身を滅ぼす気がしてしょうがないけどな……」 …………。 彼女である戦場ヶ原よりも先に、その後輩の神原とデートをすることになってしまった……。あのツンデレ女にしては珍しいことに、戦場ヶ原は神原には異様に甘いから、これが浮気扱いされるということはないだろうが、これは意志薄弱の謗そしりをまぬがれないよなあ……。 ちなみに、そんな話をしている間も、手は繋ぎっぱなし、指は絡まりっぱなしである。さりげなく振りほどこうと試みたのだが、スクラムのようにがっちり組みあっていて、びくともしない。なんだか知恵の輪みたいというか、関節技でも極きめられている気分だ。 蛇に絡まれてる感じ。 「けど、神原。一応、そのアウターの前は閉じとけ。山に入るのにへそ出しっぱなしってのはいかさままずいだろ。クラッシュジーンズは──まあ、気をつけりゃ大丈夫なレベルか」 「ふむ。では仰おおせの通りに」 言われるがままに、上着のボタンを閉じる神原だった。くびれたウエストが見えなくなる。ちょっとばかり残念な気がしなくもないが、そういった邪よこしまな感情は彼女の後輩に対して向けるべきものではないはずだ。 「じゃあ、行こうか」 「阿良々木先輩、そう言えば今日は徒歩なのか?」 「ああ。向かう場所が山だからな。どこに駐輪場があるかもわからねえし。一台しかない自転車を盗とられちゃ敵かなわない」 外出用のマウンテンバイクは、木こっ端微塵ぱみじんにされてしまったからな……誰かさんの『左腕』によって。まあ、嫌みったらしくなってはいけないから、いちいちそんなことは言わないけれど。 「それに、そんな遠出ってわけでもないしな。ほら、神原、もうこっからでも見えるだろ? あの山だよ──」 と言いながら、僕はふと、思い出す。先月、神原と会話をするようになって間もない頃、神原は戦場ヶ原を慕したうあまり、その彼氏と身体が接触することを嫌い、僕の自転車の後部座席に乗ることを辞じして、自転車の横を伴走するという常識的観念からすればびっくりするような選択をしたことがあった。……そんな彼女は、今、僕と手を繋いで、指を絡めて、胸をぐいぐい押し付けてきている……。 「ふふふ」 神原は無邪気むじゃきににこにことはにかんで、スキップするような足取りだった。 「阿良々木先輩、阿良々木先輩、阿良々木先輩、阿良々木先輩、阿良々木先輩~~~」 「………………」 なつかれちゃったなあ、おい! 鼻歌交まじりだよ! 「ところで、お前さ……神原。前から言おうと思ってたんだけど、その、阿良々木先輩っての、やめないか?」 「え?」 想定外のことを言われた感じに、きょとんとする神原。 「どうしてだ? 阿良々木先輩は阿良々木先輩だろう。阿良々木先輩を阿良々木先輩以外の呼称で呼ぶなど、考えられない」 「いや、それ以外にも色々あるだろ」 「気仙沼けせんぬま先輩とかか?」 「名前の方を変えるな」 そっちじゃねえ。 誰だよ、気仙沼。 「僕が言ってるのは『先輩』って呼称の方だ。なんだか畏かしこまってる感じじゃん」 「そう言ってくれるな。事実、畏まっているのだ」 「うーん。そりゃ、まあ、確かに僕はお前の先輩だけどさ。でも、なんだか生真面目過ぎるっていうかさ。『阿良々木先輩』って、フルネームよりも長くなっちゃってるし」 僕のフルネームは阿良々木暦。 あららぎこよみ。 七文字。 『阿良々木先輩』は八文字だ。 「ふうむ。となると、『阿良々木さん』とでもすればよいのか?」 「まあ、そうなるのかな? でも、一個くらいの年齢差なんだから、そんな改あらたまらなくてもいいと思うんだよ。いちいち堅苦しいだろ? つーか、僕、『さん付け』ってなんか落ち着かないんだよな。僕をそんな風に呼ぶ小学生がいるけど、あいつは言葉遣いそのものが馬鹿丁寧だからな」 性格は最悪だが。 ああ、そういや最近見てないな、八九寺はちくじの奴。 …………。 ちょっと寂しい。 「戦場ヶ原のことで色々あったけどさ、僕としてはお前とはもうちょっと対等な関係でいたいと思ってんだよ、神原」 「なるほど。嬉しいお言葉だ」 「まあ、学校一のスターのお前相手じゃ、僕の方で釣り合いが取れないかもしれないけど」 「馬鹿な、そんなことなどありえない。阿良々木先輩とこうしていられる幸福を、私は何よりかけがえのないものだと考えている。戦場ヶ原先輩と和解できたことと同じくらい、阿良々木先輩と知り合えてよかったと考えている。私が阿良々木先輩に対し不満に思っていることがあるとすれば、それはどうして私ともっと早く出会ってくれなかったのかということだけだ」 「……そっか」 本当に自己評価の低い奴だ。 ま、先月聞いた話を思えば、わからなくもない。 こいつにも、色々あるのだ。 「では、阿良々木先輩、察するに、私は阿良々木先輩のことを、もう少し親しげな風な呼び方をしてもいいということなのかな?」 「ああ。何とでも呼んでくれ」 「では、暦」 「………………」 …………。 僕のことをそう呼ぶのは両親だけだ……! 「暦も私のことは、駿河と呼んでくれていいぞ」 「だからなんでお前はそんなに僕と付き合っている奴っぽいんだよ! そんな重要イベントをどうして彼女の後輩と迎えてるんだ、この僕は! 戦場ヶ原だって僕のことはまだ『阿良々木くん』って呼んでんだぜ!? どんな一足飛ばしだよ!」 「暦は突っ込みが激しいな。今のはわざと、つまりボケに決まっているではないか、暦」 「それにしては呼称が直ってねえぞ駿河!」 「『駆け抜ける迅雷じんらいの騎士きし』暦」 「お祖父じいちゃんにつけてもらった僕の名前に勝手なキャッチコピーを冠するな! 駆け抜けもしねえし迅雷でもねえし騎士でもねえよ! そもそもそれじゃフルネームの三倍くらい長くなってんじゃねえか! 当初の目的を見失うな!」 「『今世紀最後の英雄』暦」 「今世紀最後!? 結論はやっ!」 「まあ、そうでなくとも、私は年上の先輩を呼び捨てにすることなど、とてもできない。だから『暦』は却下きゃっかだ。当然、『阿良々木』も却下」 神原は言う。 「というわけで、キャッチコピーならぬニックネームというのはどうだろう」 「ニックネームか……」 神原のセンスは、どっかずれているからな……。 ずれているというか、外れているというか。 想像するに、恐らくはロクなニックネームをつけられそうもないのだが、でもまあ、そうは言ってもものは試しである。僕は神原に、 「じゃあとりあえず、何か考えてみてくれよ」と言った。 「うん」 神原は少し目を閉じ、思案しあんする素振りを見せる。そして数秒、ぱっと顔をあげ、 「思いついたぞ」 と言った。 「おお。早いな。言ってみろ」 「ラギ」 「予想に反して格好いい! 無駄に!」 そして格好良過ぎて名前負けで、なんだか嫌がらせを受けているみたいだ……。ちょっとトンガリ過ぎというか、日本の高校三年生につけるようなニックネームじゃないよな……。 「『あららぎ』の下の方を取って、ラギなのだ」 「そりゃわかるけどさ……ニックネームなんだから、もうちょっと愛嬌あいきょうがある方がいいんじゃないのか?」 「それもそうだ。となると、『あららぎこよみ』の真ん中の方を取って……」 「取って?」 「らぎ子」 「それは明らかに嫌がらせだな!」 「そう言ったものじゃないぞ、らぎ子ちゃん」 「お前はもう帰れ! お前に用なんかねえよ!」 「らぎ子ちゃんが私を苛いじめる……ふふふ、だが苛められるのは嫌いじゃない」 「くっ! マゾ相手に罵倒ばとうは通じない! ひょっとしてこいつは最強か!?」 楽しい会話だった。 ちょっと楽し過ぎるくらい。 何をしている最中なのか忘れそうだ。 「こういうこと言っちゃ不謹慎ふきんしんなんだろうけどさ……神原。さっきお前が言った台詞せりふじゃないけれど、僕、戦場ヶ原と付き合う前にお前と出会ってたら、案外お前と付き合っていたんじゃないかと思うよ……」 「うん。実は私も、そう思っていた。戦場ヶ原先輩に惹ひかれる前に阿良々木先輩と出会っていたら、とな。異性に対してこんな気持ちになることは、私にしてはとても珍しい」 「はあ……」 まあ、戦場ヶ原がいなければ僕は神原と知り合うことはなかったし、それは神原の方にしても同じなので、ありえない仮定なのだけれど。 「どうだ、阿良々木先輩。いっそのこと、あの邪魔な女を二人で殺して埋めてしまおうか」 「怖いこと言ってんじゃねえよ!」 これだけ言葉を交わしているのにお前のキャラがいつまでたってもつかみきれねえよ! 計はかり知れねえ! どれだけ深い奴なんだ、神原駿河! 「戦場ヶ原はお前にとって尊敬している先輩なんだろうが……ったく、意外と腹黒い奴なんだな、お前は」 「あまり褒ほめるな。照れてしまう」 「褒めてねえ」 「阿良々木先輩には何を言われても嬉しいのだ」 「このマゾ女……」 「マゾ女。いいな。もっと言ってくれ」 「…………」 中学時代の戦場ヶ原を信奉しんぽうしていた彼女が、現在の戦場ヶ原の本性に触れ、うまくやっていけるものなのかどうか僕は密ひそかに心配していたのだが、その特殊な感性がある限り、いらぬ心配は無用のようだった。 ともあれ、神原駿河。 彼女は、実は百合ゆりである。 ここまでのやり取りでわかる通り、先輩として慕っているだけではなく、戦場ヶ原ひたぎのことを、心の底から愛している。言ってしまえば、そう、神原と僕とは恋敵の関係にあるのだった──それなのにこうして、僕と腕を組んで歩いているというのだから、わからない。まあ大方、先月末のことで、僕に対して負い目があるというか、僕に対して恩義を感じてしまっているというか、そんなところなんだろうけれど……。 後輩になつかれるのは、先輩としては気分悪くはないが、でも、それが誤解の産物だというのは、少し居心地いごこちが悪い。 忍野おしのの言葉を借りれば──戦場ヶ原同様。 神原もまた、一人で勝手に助かっただけなのに── 「………………」 まあ、しかし、そうだな。 恩義や誤解云々はともかく、神原の中で過度によくなってしまっている僕のイメージを、ある程度調整しておく必要はあるかもしれない。イメージを崩しておくというのか……、あんまりいい印象持たれ過ぎていると、いざなにかあったとき、必要以上に失望させちゃうことになるし。 というわけで、阿良々木暦イメージ悪化計画。 その一。 金にだらしのない男。 「神原、財布を忘れてしまった。すぐに返すから、お金を貸してくれないか」 「わかった。三万円くらいでいいか?」 お金持ちでした! うーん、時間にだらしのない男……は、待ち合わせに僕が先んじて来ていた以上説得力がないだろうから……。 阿良々木暦イメージ悪化計画その二。 やたらとエロい男。 「神原、僕は今、女性の下着に興味があるんだ」 「ほう、奇遇だな、私もだ。女性の下着は芸術品だと、私は思っている。なんだ、話が合うではないか、阿良々木先輩」 話が合っちゃった! そうだよ、僕がエロさで神原に敵うわけがないじゃないか……いや待て! 普通のエロでは無理でも、それが特殊なエロならば僕にも勝機があるはず……! 「特に興味があるのは小学生の下着なんだ!」 「益々ますます話が合うな! さすがは阿良々木先輩! 世間の荒波何するものぞ、素晴らしい生き様だ!」 「評価が上がっちゃったー!」 なんでだよ。 えーっと、じゃあ、阿良々木暦イメージ悪化計画その三(もう既に面白くなってきたので当初の目的は見失っている僕)。 誇大妄想的な夢を語る男。 「神原、僕は将来ビッグになる男だぜ!」 「言われなくとも知っている。というより、既に阿良々木先輩は途方もなくビッグではないか。それ以上大きくなられては、そばでお仕えするのも一苦労だな」 「くっ……!」 いや、この程度は予想範囲内! 更に続けるぜ! 「僕はミュージシャンになる!」 「そうか。ならば私は楽器になろう」 「意味はわからねえけどなんだか格好いい!」 僕の中での神原の評価が上がった。 だから、なんでだよ。 「阿良々木先輩、さっきから何を言っているのだ? わざわざそんな風に言い聞かせてくれずとも、私は阿良々木先輩のことを既にこれ以上なく敬愛しているぞ?」 「ああ、どうやらお前には何を言っても無駄なようだな……」 僕に何を言われても嬉しいのと同様、僕がどんな人間であってもとにかく敬愛するつもりらしい。 「しかしわからない。どうしてお前はそこまで僕のことを過大評価するんだ」 「何を言うかと思えば」 と、神原は笑う。 「これまで私は、愚問とは『グッドモーニング』の略かと思っていたが、どうやらそういう質問のことを言うらしいな」 「………………」 一瞬格好いい台詞かとおもったが、よく聞いてみるとその台詞はただの馬鹿だな。 「私はこの生涯を、阿良々木先輩に捧げると誓ったのだ。戦場ヶ原先輩との仲を取り持ってくれたからというのではない。阿良々木先輩がそうするに値あたいする人だと思うから、そう誓ったのだ」 「誓った、か……」 「ああ。常に人々を照らし、恵みを与え続けるあの太陽に誓おうと思ったが、そう思ったのが夜だったので、とりあえずその辺の街灯に誓っておいた」 「適当極まりねえ!」 「街灯だって人々を照らし、恵みを与え続けているではないか。街灯がなかったら大変だぞ?」 「そりゃそうだけど……」 せめて月に誓えよ。 曇っていたのか? 「まあ、生涯を阿良々木先輩に捧げるなどとだいそれたこと、私には約不足かもしれんがな」 「その言葉の誤用は今となっては指摘する方が照れてしまう類のものなんだが、しかし漢字まで間違っているというケースは珍しいな……」 うーん。 阿良々木暦イメージ悪化計画、頓挫とんざ! 「……ふむ」 阿良々木暦。 神原駿河。 そう言えば、この二人には、戦場ヶ原のことを外したところで、共通項がある。 それは二人とも、人間ではないということだ。 いや、そうは言っても、勿論もちろん、ほとんどの部位は、人間である。ただ── 阿良々木暦は血液が。 神原駿河は左腕が。 それぞれ、人間ではない。 僕の血液は少なからず鬼のそれだし──神原の左腕はまるごと、猿のそれである。僕が襟足を伸ばして、首筋にある吸血鬼の牙きばの痕跡を隠しているのと同様に、神原は猿の左腕を、包帯によって隠しているというわけだ。輝かしいエースだった神原が、部活を早期引退しなくてはならなかった真の理由はそれである。当然だ、猿の腕のままで、バスケットボールなど、できるわけもない。 僕も神原も、怪異に関わってしまった者なのだ。 ……怪異というなら、僕の彼女にして神原の先輩、戦場ヶ原ひたぎもまた、同じように怪異に関わっている。 僕は鬼。 神原は猿。 戦場ヶ原は、蟹かにだった。 だが、戦場ヶ原と、僕と神原との違いは決定的だ──戦場ヶ原は二年以上の間、怪異と対立し続けて、ついに、その怪異を祓はらい、人間に還った。僕と神原は、怪異を祓いこそしたものの──人間でない部分が、体内に残ってしまっている。言うなら僕らの場合、僕達自身が怪異みたいなものなのだ──怪異にかかわって、怪異になってしまったようなものなのだ。 それは。 あまりにどうしようもない、共通項だ。 「ん? どうした? 阿良々木先輩」 「え……いや、別に」 「そんな暗い顔をしていては、折角せっかくのデートが台無しだぞ」 「デートって……いや、もういいけど」 「ところで、阿良々木先輩。さっきは聞きそびれてしまったのだが、山に行って、それからどうするのだろう。行為に及ぶ以外に、山でやることなどあるのか?」 「それを本気で言っているんだとしたら、お前はワンダーフォーゲル部にだけは入っちゃいけない奴だな……つーか、お前、山にあんまり馴染なじみとかないのか?」 「中学生の頃、クロスカントリーもどきということで、山中ダッシュを部活のトレーニングに盛り込んだことはあったな。捻挫ねんざする者が出てしまい、中止に追い込まれたが」 「はあん」 お前にとっちゃ山もトレーニングの舞台か。 まあ、こいつをバスケットボール部のエースにせしめたのは、技術云々というよりも、僕の背丈を軽く飛び越せてしまうような、その圧倒的な脚力だからな。 「そういう阿良々木先輩は、どうなのだろう、山に馴染みがある人なのか?」 「いや、特にそういうわけでは……」 「しかし男子は子供の頃、カブトムシやらクワガタやら、取りに行くものだろう」 「クワガタねえ」 「うむ。黒いタイヤだ」 「タイヤは普通黒いだろう……」 しかもそんなものが山で採れるか。 それはもう、ただの不法投棄だ。 「まあ、いずれにせよ、デートで行くような場所じゃないのかもな──季節も季節だし。昨日も、一通り説明したつもりだったんだけど、ほら、忍野からの仕事だよ」 「忍野? ああ、忍野さんか」 そう聞くと、神原が複雑な顔をした。この後輩にしては珍しい反応だが、まあ、さもありなんという感じだ。 忍野メメ。 僕にせよ神原にせよ戦場ヶ原にせよ──全員、その男に助けられた。いや、助けられたなんて言い方を、やっぱり忍野は許さないだろう。一人で勝手に助かったと、それはあくまでも、そう言うしかないのだ。 怪異の専門家にして根無し草の放浪者。 趣味の悪いアロハに軽薄な性格。 大人として尊敬のできる相手では決してないが、それにしても、僕らがあいつに世話になったことは、揺るぎのない事実である。 「ああ。あの山の中に、今はもう使われていない小さな神社があるそうなんだけど、そこの本殿に、お札ふだを一枚、貼ってきてくれ──っていう、そういう仕事」 「……なんだそれは」 不思議そうに聞き返してくる神原。 「お札というのも不可解だが、しかし、そんなの、忍野さんが自分でやればいいのではないのか? あの人は基本的に暇なのだろう?」 「僕もそう思うけど、まあ、『仕事』だよ。僕はあいつに世話になったとき、洒落にならないような多額の借金をしちまってるからな。……お前だってそうなんだぜ? 神原」 「え?」 「お前のときはなんだか有耶無耶うやむやになっちゃってるけど、あいつはあれでもれっきとした専門家なんだから。ロハで力を貸してくれるほど甘くはないさ。世話になった分は、働いて返さなきゃ」 「ああ、それで──」 神原は得心いった風に頷うなずく。 僕はそんな神原の言葉を「そう」と、継いだ。 「だから、僕はお前を呼び出したってわけ。昨日、忍しのぶに血ィ飲ませに行ったとき、忍野に頼まれてな。お前も一緒に連れて行くよう、忍野から言われたんだ」 「そう言えば、忍野さんは執拗しつようなほど、『力を貸す』というような言い方をしていたな……ふむ。なるほど、借りたものは返さなければならないというわけか」 「そういうこと」 「わかった。そういうことならば是非もない」 神原はぎゅうっと、より強く、僕の腕に抱きついてきた。その行為の意味は複雑そうで推し量ることができないが、どうやら、何かを決意したらしい。まあ、そういう意味では、貸し借りとかに関しては、神原駿河、とても義理堅そうな性格をしているようだしな。 「しかし、あの山なら何度か近くを通ったことがあるが、神社があるとは知らなかった」 「僕も知らなかったよ……もう使われていないとは言え、そこにあることくらいは知っててもよさそうなものなのに。なんであいつ、地元の人間が知らないようなスポットを知ってんだろうな。今あいつが住み着いてる、学習塾跡にしたってそうなんだけど」 怪異と言うより、案外、廃墟に詳しい奴なのかもしれない。しかしまあ、公衆電話のこともそうだけれど、そんな神社やら学習塾やらの廃墟が、変な奴らのたまり場になったりしないところが、果てしなく田舎町だよなあと、僕は思う。……学習塾の方に関しては、忍野と忍が住み着いちゃってる段階で、変な奴らのたまり場になっていると言えなくはないのだが……。 「しかし──そういう言なら、戦場ヶ原先輩もまた、今日は一緒に来なければならなかったのではないのか? 阿良々木先輩。戦場ヶ原先輩も確か、忍野さんの世話に──」 「戦場ヶ原はその辺如才ないからな、もう借金は返済済みだよ。あのとき、お前の目の前で、僕、忍野に十万円渡してたろ? あれだ」 「ああ、そう言われてみれば、そんなことを言っていたような気もするな。なるほど、あれはそういう意味だったのか……ふうむ。さすがは戦場ヶ原先輩だ」 「あいつは義理堅いとか言うより、他人に借りを作ることをよしとはしないって感じだけどな。自分一人で生きてるような奴だから」 「阿良々木先輩、今日のことについて、戦場ヶ原先輩は何か言っていたのか?」 「んー? いや、別に。気をつけてねの一言もなかった」 本当になかった。 名目上、戦場ヶ原の後輩を連れ出す形になるから、一応、神原を誘う前に戦場ヶ原に話は通しておいたのだが、あの女、実にそっけないものだった。そんな些細ささいなことで私の気を煩わずらわせないでと言った感じだった。お前がそんなんだから、僕はお前とデートするよりも先にお前の後輩とデートする羽目になってんじゃねえのかよと、思わず自分の意志の弱さを棚に上げた恨み言を言いたくなってしまう。 「神原、お前には何か言ってたか?」 「んー。目一杯可愛がってもらってきなさいと言われた」 「………………」 本当に神原に甘いんだな、あいつ。 ツンデレとか言って、なんで彼氏にデレないで後輩にデレてんだよ。 「こうも言われた。『阿良々木くんから粗相を受けたら、隠し立てすることなく私に逐一ちくいち報告なさい。あの男に、山に埋められるか海に沈められるか、嫌いな方を選ばせてあげる』」 「嫌いな方を選ばせるんだ!」 容赦ようしゃねえ。 まあ──しかし。 それは、そうは言っても、戦場ヶ原ひたぎにとっては、決して悪い傾向ではないはずだ。高校入学前に怪異とかかわり、全てを捨て、全てを諦めたかに見えた戦場ヶ原にとって──それは原状回復なのだから。自分一人で生きているような奴が──他人と触れ合うことを覚えるのが、悪いことであるはずがない。 僕としても望むところだ。 人間の彼女は──それでいい。 「ああ、そうだ、神原。戦場ヶ原の話で思い出したけど、あいつ、もうすぐ誕生日だろ」 「うん。七月七日だ」 「……やっぱ当然のように押さえてるんだな」 「愛する人のことだからな」 「で、それにあたって、お願いがあるんだけど」 「何でも言ってくれ。もとよりこの身体は阿良々木先輩のものだ。いちいち断りなど入れず、思うがままに使ってくれればそれでよい」 「いや、そんな大袈裟おおげさなもんじゃなくってさ、まあほら、アニバーサリーってことで、あいつの誕生日を祝ってやろうと思うんだが。でも、僕は長らくそういうイベントからは離れていたからな、どうにも勝手がわからない。そこで神原、お前に協力してもらおうと思って」 「なるほど。脱げばいいのか?」 「そういうイベントじゃねえことくらいは僕にも分かるよ! 僕の彼女の大事な誕生日をどんな日にするつもりなんだお前は!」 「む。勇み足だったか」 「どんなに時機を見てもその足を踏み出す機会はねえよ、一生引っ込めてろ。だからまあ、色々、セッティングとか、プランニングとか、そういうのを手伝ってくれれば嬉しいと思ってさ。ブランクがあるとは言え、戦場ヶ原のことについてはお前の方が詳しいだろ、それだけだ」 「ふうむ。しかしどうだろう、阿良々木先輩、付き合って最初の誕生日なのだから、そこはそれ、ムードを作って二人きりで過ごすべきなのではないのか? 私の手助けなど、この場合は余計なだけだと思うが」 「余計なだけ?」 「うん。小さな親切大きなお世話というか、ただの迷惑だな」 「あー。僕としてもそれは考えたんだけどさ、まあでも、最初の一回は、賑やかな方がいいと思ってさ。忍野やら忍やら、あと知り合いの小学生やらも、呼べるものなら呼んでやって、軽く誕生日パーティーでも開いてやりたいなって──」 このアイディアの問題点は、戦場ヶ原が忍野や忍や八九寺のことを嫌いだというところなのだが、そこは力業で何とかするしかない。嫌いでも嫌だといえない状況を作り出すことに腐心する必要があるだろう。 「まあ──阿良々木先輩がいいなら、それでいいが」 「なんだよ、歯切れ悪いな」 「いや、言わせてもらえるなら、阿良々木先輩のそのご意志気遣いは立派だと思うのだが、戦場ヶ原先輩としては、阿良々木先輩と二人で過ごしたいんじゃないかと思うのでな」 「そんな殊勝しゅしょうな女か? あいつが」 未だデートもしてくれないんだぞ。 結構露骨ろこつに誘ってるのに。 神原のことだったり、その後の実力テストだったりで、それどころじゃなかったっていうのもあるんだけれど。 身持ち堅いんだよなあ、あいつ。 「ていうか、お前、結構普通に、僕と戦場ヶ原のこととか、考えてくれるんだな。戦場ヶ原のことに関しちゃ、僕とお前って、恋敵なのに」 「いや、それは確かにそうなのだが……しかし、今現在の私は、阿良々木先輩と付き合っている戦場ヶ原先輩が好きだという感じだからな……、そして戦場ヶ原先輩の恋人である阿良々木先輩のことも同じくらい好きなのだ」 「…………」 今、何気に告られなかったか? やばい、ちょっとどきどきしてきた。 腕を通して心臓の鼓動が伝わりそう。 なんて簡単なんだ、僕は。 「……お前、戦場ヶ原の影響、ちょっと強過ぎだぞ。太陽に誓ったのか街灯に誓ったのか知らないけれど、戦場ヶ原の彼氏だからってだけで、僕のことをそんな好意的に見る必要なんかないんだ。戦場ヶ原が好きな奴のことを、お前も同じように好きになる必要なんか──」 「違う。そういうことではない」 やけにはっきり言う神原。 その剣幕に少し気圧けおされる。 相手が先輩であろうと目上であろうと言うべきことははっきり言う。 「じゃあ、お前、ひょっとして、やっぱ先月のこと、引き摺ずってんのか? 僕はあんなの全然気にしないって……ほら、よく言うじゃんか、罪を憎んで尻を隠さず──」 「そういうことでも──ない」 神原は言った。 僕の言い間違いをさらっと無視して。 「阿良々木先輩のそういった水で割ったような性格には、私は随分救われているが、しかし、そういうことでも、ないのだ」 「水で割ったような性格って……」 薄そうな奴だなあ。 しかし、間違ってない気もする。 簡単だし。 「いいか、阿良々木先輩。よく聞くのだ。私は阿良々木先輩をストーキングしていたのだぞ」 「…………」 堂々と言うな。 諭さとすみたいにそんなこと言うな。 「だから──阿良々木先輩がどういう人間なのか、私はよく知っているつもりだ。そうするに値する人だと、私は本当に思っているのだ。戦場ヶ原先輩の彼氏でなくとも、先月のことがなくっても、どんな形で出会っていても──私は阿良々木先輩を、尊敬に値する人物だと看做していたはずだぞ。それは私の脚にかけて、保証する」 「……そっか」 まあ、だから。 神原と僕が、こんな形以外で出会う可能性を探ること自体、馬鹿馬鹿しい、ありえない仮定なんだけれど……。 それでも。 「脚にかけられちゃ──しょうがないな」 「そう……私は阿良々木先輩のことを、たとえ忍野さんに頼まれた仕事だと称して私を人気のない山中に連れ込み、無理矢理に欲望のたけをぶつけられたとしても、それを笑顔で許せるくらい、尊敬している」 「そんな尊敬はいらねえ!」 そして『称して』って何だ! 全然信用してないってことじゃねえか! 「え……? あれ、ひょっとして阿良々木先輩、本気で何の行為にも及ばないつもりなのか?」 「何だそのさも意外そうな反応!」 「それとも、さては阿良々木先輩は女性の方から誘わせるつもりなのか? ははーん、そして戦場ヶ原先輩に対しては『誘われたのだから浮気ではない』と言い張るつもりなのか」 「わかった、さては神原、お前はあれだ、そうやって僕と戦場ヶ原との関係を破局に追い込もうと企たくらんでいるんだな! 身体を張った妨害作戦なんだな!」 「バレたか」 「てへって感じに舌出してんじゃねえ! えらく愛らしいじゃねえか馬鹿野郎!」 本当に腹黒い奴だ。 いや、まあ、冗談なんだろうけど。 ……冗談なんだよな? 「しかし、誕生日と言えば、阿良々木先輩。この前、戦場ヶ原先輩が蟹に取り憑つかれていたという話を聞いたときは、私は少しばかり暗示的だと思ったものだぞ」 「まあ、取り憑かれていたっていう言い方ちょっと違うかもしれないんだけど……うん? 暗示的? 蟹のどこが暗示的なんだ? 誕生日なんか関係ないだろ」 「ほら、だって、戦場ヶ原先輩、かに座だろう?」 「え?」 七月七日。 だよな。 「何言ってんだ。七月七日生まれはふたご座だろ」 「え? いや……その、違うと思うけれど」 「あれ? じゃあ、僕の思い違いか? 七月七日って聞いたとき、すぐに、ああじゃあこいつ、ふたご座なんだって思ったんだけど……」 こんな奴が双子で性格もそっくりだったら嫌だなあと思ったから、よく憶えている。 「まあ、僕も星座の細かい日付まで、憶えているわけじゃ……いや、でも、かに座って、確か、七月二十三日からじゃなかったけな」 「あ」 神原が何かに気付いたようだった。 「……阿良々木先輩。ここで一つクイズだ」 「なんだよ」 「十二月一日生まれの人間は、何座だ?」 「はあ?」 なんだそれ。 クイズじゃないじゃん。 「それくらいわかるよ。へびつかい座だろ?」 「ふはっ!」 神原駿河が爆笑した。 「は……はははは、あはは!」 膝ひざが震えるくらい、立ってくれないくらいにツボに嵌はまったらしく、僕の腕に、最早すがりついてくるかのような有様だった。胸を肘に押し当ててくる形から、胸の谷間に僕の二の腕を挟み込むような形になったが、そんな降ってわいたような幸せを享受きょうじゅするためには、神原の不愉快な笑い声が非常に邪魔だった。 「な、何がおかしいんだ……僕はそこまで取り返しのつかない失敗をしたのか」 「へ、へびつかい座……ふ、ふははは、今時、へびつかい座……あはは、じゅ、十三星座で、十三星座で考えてる……」 「……………」 ああ。 そういうことね。 そうか、わかった、十二星座では、七月七日はかに座なんだな……。 「あー、笑った笑った。五年分くらい笑った」 神原はようやく、顔を起こした。涙目である。気持ちはわからないでもないが、いくらなんでも笑い過ぎだ。 「さ、じゃあ行くぞ、らぎ子ちゃん」 「扱いがあからさまに雑になってる! 先輩に対する尊敬がどっか遠くに行っちまった! こうなると割と傷つく!」 「あ、ああ。間違えた。阿良々木先輩」 「あんだけ笑かしてやったんだ、フォロー入れろよ」 「フォローと言われても……あそこまで堂々と言われてはフォローのしようがないぞ。そもそも、どうして十三星座なのだ」 「そんなこと訊かれても……だいぶん前に十二星座から十三星座に移行したんじゃなかったのか?」 「移行したが普及しなくて廃すたれたのだ。阿良々木先輩ともあろうお人が、どうしてそんなことを知らない」 「うーん……。その頃から星座占いに興味がなくなったから、かな……」 そうか……。 普及しなかったのか……。 「怪異と一緒だな。どんな恐ろしい魑魅ちみ魍魎もうりょうでも、人口に膾炙かいしゃしなけりゃ、それは最初からいなかったことになるわけだ」 「いや、そんな深い話ではないと思うが……」 「へびつかい座って、そもそも何なんだろうな」 「夏の星座で、α星はラス・アルハゲだ。あらゆる恒星中最大の固有運動を持つバーナード星を、その星座の中に持つことで有名だな」 「いや、星自体じゃなくて……へびつかい座って、どういう由来なんだろうなって話。笛吹いて蛇を操ってる奴の星座なのかな?」 「確かあれは、ギリシャ神話の、アスクレピウスという医聖の姿を表わしたものだったと思うぞ。そのアスクレピウスが蛇を握っているから、へびつかい座だ」 「へえ」 頷く僕。 全く知らなかった。 「しかし、神原、星自体の知識にしろ星座の由来にしろ、そんなこと、よく知ってるな。ひょっとしてお前、星とか詳しいのか?」 「らしくないか?」 「まあ、正直」 「ふむ。確かに詳しいというほどではないが、夜空を眺ながめるのは好きだな。簡易的なものでよければ、天体望遠鏡も持っている。年に二度は、他県の天文台で開かれている、天体観測のイベントに参加するぞ」 「へえ。プラネタリウムじゃねえんだな。知識よりは実践じっせんって感じか」 「プラネタリウムも好きだが、あの施設には流れ星がないだろう? 恒星や星座もいいのだが、私ははかない流れ星が好きなのだ」 「なるほど。ロマンチックだ」 「うん。地球もその内流れ星になればよいと思う」 「そのとき僕ら人類は無事で済むのか!?」 とんでもねえこと考えてやがる。 ロマンスからは程遠い。 それではパニックムービーだ。 「……とかなんとか言ってる間に、目的地に到着したぞ。忍野の言うことにゃ、その辺から階段があるらしいんだが──ああ、あったあった。……まあ、ただの獣道に見えなくもないけれど──」 道路沿いにある山。 山の名前は知らない。 忍野も知らないとのことだった。 山の間を縫ぬうように道路が作られていると見るべきなのだろうが、歩道の脇から、山の頂上へ向かって、階段──少なくとも昔は階段があったらしい痕跡が見て取れる。いや、今も一応、階段は階段だ。だけど、さっきの神原の話じゃないが、我が校の運動部の連中がこの辺りまでジョギングに来ているという話は聞いたことがあるが、しかし、この階段を昇って山中に入っているということは、なさそうである。草木がぼうぼうで、あらかじめ言われていなければ、これが階段であるとは、とても気付けそうもない。かつて階段であったとも、やはり思わないだろう。 獣道。 ん、いや──よく見れば、草が踏み潰されているような跡がある。足跡だ。なるほど、この階段、全く誰も使っていないというわけではないのか。だけど、だとしたらこれは、どんな人間の足跡なのだろう? 確か忍野は、その神社には近付いてもいないと言っていたから、この足跡は忍野のものじゃないはずだ。神社は既に廃れてしまっていると言っていたから、そこの関係者ということでもないだろう……。 変な奴らのたまり場になっている。 ことはないはずだけど。 「…………」 僕の左腕に付着している神原を見る。 こいつはこの通り、やけにガードの甘い、その癖可愛らしい女の子だからな……大丈夫だろうか。変な奴らと言うのが、文字通り変な奴らだった場合……僕一人にできることには限界がある。鬼の血が体内に残っているとは言っても、その血は僕の場合、基本的には新陳代謝しんちんたいしゃや回復力の方面にしか働かないのだ。 「ばるかん後輩」 「なんだ、らぎ子ちゃん」 「その左腕──どんな調子だ?」 「うん? どういう意味だ?」 「いや、何か変わったことはないかと思って」 「特にない」 特にない──か。 まあ、何気に重そうなその風呂敷包み、ちっとも持ち替えることなく、左手で持ち続けているし……。 じゃあ、心配いらないのかな……元々の基礎体力に加えて、猿の左腕のパワーがプラスされている、それが今の神原のデフォルトの状態であるのだとすれば……。 「ああ。左腕一本で阿良々木先輩をベッドに押し倒せるくらい、力は有り余っているぞ」 「押し倒す場所がベッドである必要をいまいち感じないんだが」 「じゃあ、阿良々木先輩を左手一本でお姫様だっこできるくらい、だ」 「片手でやったらお姫様だっこじゃなくて、むしろ町娘を攫さらう山賊さんぞくっぽいぞ……いや、それならまあいいや」 「ふふふ」 すると、なんだかいやらしい感じに神原は笑う。 なんだか嬉しそうだ。 「阿良々木先輩は本当に優しいなあ……こんな私のことを本当に心配してくれている。ああもう、阿良々木先輩には心身の全てを委ゆだねても安心していられるなあ……」 「頬を赤らめて感慨深そうに言うな。お前はサトリの妖怪かよ。焚たき火びを起こすぞこの野郎。人の心をぽんぽんぽんぽん、気軽に読みやがって」 「これでもバスケットボール部の元エースだ。目を見れば、相手の考えていることくらい、大体わかるのだ。まして尊敬している阿良々木先輩のお考えだぞ? 忠実なる徒たる私にしてみれば、手玉に取るようにわかる」 「手玉に取ってどうする、実は悪女なのかよお前は。ふうん……目を見ればねえ。本当かよ。それこそテレパシーみたいだな……。じゃあ神原、今、僕の考えてることを当ててみろ」 「こんなところだろう。『この女、頼んだらブラジャー外してくれねえかなあ』」 「お前は僕のことをどんな目で見てんだよ!」 「外そうか?」 「う、く……いらねえよ!」 不覚にも数瞬迷ってしまった。 神原は「そうか」と軽く頷いて、変わらず腕に抱きついているだけだった。……僕の数瞬の迷いを突っ込んでこずにあっさりスルーするあたりが、男の下心に寛容かんような包容力溢あふれる母性をアピールしているようで、素直にムカつく……。 そもそもお前が振ってきた話じゃねえか。 なんで姉さん女房気取りだよ。 「行くぞ……ああもう、山に登る前から疲れてきた」 「うむ」 「一応、足の方、気をつけとけよ。虫刺されの方はともかくとして、この山、やたら蛇が出るらしいから」 「蛇か」 くすっと、神原が笑った。 さっきのへびつかい座の話を思い出したのかもしれない。 構わず、僕は話を続ける。 「まあ、無毒の奴ばっかりらしいけどな。けど、蛇の牙は長いからな、こんなところで咬かみ傷もらってもつまらんだろ」 「……阿良々木先輩は首筋だったな」 「ああ。蛇じゃなくて鬼だけど」 山中の階段を昇りながら、そんな話をする。さっきまでと座標がそこまで極端に変わったわけでもないのに、山に入るや否いなや、湿度が一気に上昇したらしく、酷く蒸し暑い。忍野の話だと、この階段が直接、その神社に繋がっているはずなのだが、神社のその高度までは聞いていない。さすがに頂上ってことはないと思うが……まあ、それでもいいだろう。どうせ、そんな高い山でもない。 「私の左腕は」 神原は言った。 「忍野さんの話では、二十歳までに、治るそうだ」 「へえ? そうなのか?」 「うん。まあ、このまま何もしなければ──だが」 「そりゃよかったな。二十歳過ぎりゃ、またバスットボールができるってことじゃないか」 「そうだな。勿論、身体がなまっては望みも潰ついえる、そのための自主トレはかかせないが」 と、神原。 そして続ける。 「阿良々木先輩は──どうなのだ?」 「え? 僕?」 「阿良々木先輩は──一生、吸血鬼なのか?」 「……僕は」 一生。 一生──吸血鬼。 人間もどき。 人間以外。 「それでもいいと、思ってるよ。大体──神原の左腕とは違って、今でもそれほど、不自由はないしな。太陽も十字架も大蒜にんにくも、全然、平気だし。はは──怪我してもすぐ治っちゃうから、むしろ得なくらいなんじゃないのか?」 「私は強がりが聞きたいのではない。阿良々木先輩。忍野さんから聞いた話では──忍というあの少女を助けるために、阿良々木先輩は吸血鬼に甘んじているとのことだったが」 忍。 それが、僕を襲った吸血鬼の、今の名前。 金髪の吸血鬼。 彼女は今──忍野と共に、学習塾跡の廃墟にいる。 「…………」 あの野郎、それにしても、口が軽いな。 まさか戦場ヶ原には話してないだろうな……恐らく、相手が『左腕』の神原だからこそ、参考にすべき先例として、あえてその話をしたって感じなのだろうから、大丈夫だろうけれど……。 「そんなことはないよ。これは、ただの後遺症だ。忍のことは──まあ、責任だ。助けるなんて、そんなだいそれたもんじゃない。これでも、折り合いをつけて、ちゃんとやってるさ。大丈夫だ。……僕はバスケットボール部の元エースとかじゃねえから目を見てもわからないけど、神原、僕のことを心配してくれてんだろ?」 「……まあ」 「大丈夫だ。心配には及ばないよ──勿論、行為にも及ばない」 最後は茶化ちゃかすようにそう言って、僕はこの話を打ち切った。神原はまだ何か言いたそうだったが、それは言うべきことではないと思ったのだろう、そのまま、黙った。言うべきことははっきり言うが──言いたいだけのことは、律する。全く、僕の左腕に巻きつかせておくには惜おしい女だ。 「あ」 「お」 と、会話が途切れた、その丁度いいタイミングで、階段の上から、人が降りてきた。小走りで危なっかしく、この頼りない階段を駆け下りてくる。 中学生くらいの女の子だった。 長袖長ズボンの完全防備。 腰にウエストポーチをつけていて。 頭には帽子を深くかぶっている。 それゆえ、前が見えているのかいないのか非常に不確かで、しかも、見えていたとしても足元だけを見て駆け下りてきている感じだったので、下手をすれば僕達と正面衝突していただろう。たまたま会話が途切れたタイミングだったのが本当によかった、僕と神原は、彼女に、通常よりも早いタイミングに気付き、それぞれ、階段の脇に寄って避けることができた。 すれ違う瞬間。 彼女は僕らを見て──そこで初めて僕らに気付いたようで、ぎょっとした顔をして、したかと思うと、それから更にペースを上げて、階段を降りていった。あっと言う間に、その背中が見えなくなってしまう。道路に出るまでに絶対に二回は転ぶと思わせるほどの、それはペースアップだった。 「………………?」 んん? なんか、今の子……。 見たことがあるような、ないような。 「どうした? 阿良々木先輩」 「ん、いや……」 「それにしても、こんな山道で人間とすれ違うとは、意外だったな。阿良々木先輩の手前口には出せなかったが、私はてっきりこの階段、死道だと思っていたぞ。それに、随分と可愛い女の子だった。もう使われていない神社と言っていたが、案外、使っている人はまだ使っているのではないのか?」 「しかし、あんな女の子がか?」 「信仰に年齢は関係あるまい」 「そりゃそうだけどさ」 「恋愛に年齢が関係ないように」 「それは付け加える必要のない台詞だな」 言いながら、どこで見たことがあるのか、思い出そうとしたが、しかし、とうとう、思い出すことはできなかった。いや、そもそも、あんな女の子のことは知らないのかもしれない、ただのデジャヴなのかもしれないと、僕はここでは結論づけて、 「ま、登ろうぜ」 と神原に言った。 「上から人が来たってことは、とりあえず上に何かがあるってのは確かってことだ。ひょっとしたら忍野が僕に嫌がらせをしているんじゃないかという可能性をずっと考えていたが、とりあえずその線は消えたってことだ」 「うむ。阿良々木先輩が私を騙だましているという線もこれで薄くなった」 「その線は本当にあった上、消えないんだな……」 「笑顔で許すぞ」 「黙れ欲求不満」 「過あやまちで構わない。うるさい女になるつもりはない」 「既に相当うるせえよ」 「そうか。それならばどうだ、阿良々木先輩。いっそのこと阿良々木先輩が私の欲求不満を解消してくれたら、結構静かになると思うぞ。さかりのついた動物を鎮しずめる、一番手っ取り早い手段は、それだろう」 「自分で自分のことをさかりのついた動物扱いする奴を、僕は初めて見たよ……」 「恥ずかしいのは最初だけだ、阿良々木先輩。むしろこういうことはさっさと済ませてしまった方が後腐れがなくていい」 「先に行くぞ」 「なるほど、放置プレイか」 「先に帰れ!」 「阿良々木先輩はどうも私の誘いに冷たいな。女の子が積極的なのは好みではないのか? となると、どうやら阿良々木先輩には、多少嫌がっているような振る舞いを見せた方がよいようだな」 「勝手にしろ」 「想像するがいい。今私は、嫌々阿良々木先輩と手を繋いでいる……弱味を握られ、暴力で脅おどされ、命令されて無理矢理手を握らされている……そこで私がおどおどした口調で一言、『こ、これでいいんですか……』」 「う……そう考えるとそそるものが──あるか!」 ない。 皆無かいむである。 「ふうむ。阿良々木先輩は身持ちが堅い。冷たいというよりはつれない感じだ。こうもぞんざいに扱われると、自分の女としての魅力に自信がなくなってくる。阿良々木先輩は私のことなんてどうでもいいのだろうか」 「いや、お前のことをどうでもいいなんて思ってないよ。ただ、僕には戦場ヶ原という彼女がいるんだから、つれない態度を取らない方が問題だろう」 「しかし見たところ阿良々木先輩と戦場ヶ原先輩はプラトニックな関係のようだ。ならばもてあました性欲をぶつける場所が必要だと思うのだ」 「必要ねえよ! そんな場所に志願するな!」 「精神面は戦場ヶ原先輩がケアし、肉体面は私がサポートする。見よ、これこそ見事な黄金のトライアングルだ」 「違う、お前こそよく見ろ、それこそ見事なドロドロの三角関係だ! 僕は絶対に嫌だよ、そんな気まずいオレンジロード!」 「と言いつつ、阿良々木先輩は私の胸から目が離せないようだった。なんだかんだ言っても男の本能には逆らえないようである」 「なんでお前がモノローグを語る!?」 「今回は番外編だから私が語り部なのだ」 「何言ってんだお前!?」 ていうか。 何のどんな番外編でも、お前が語り部になることはないと思う。 十八禁に指定されちゃうもん。 「むう。なかなかうまくいかないものだ、私の肉体をもってすれば阿良々木先輩くらい軽く虜とりこにできると思っていたのに」 「そんなことを思っていたのか!?」 プラトニックな関係ねえ……。 デートもしてくれない冷淡な彼女が、ものは言いようだな。でも、そういうのってやっぱり見てわかるものなんだ。漫画とか読んでて、成立したはずのカップルが、いつまでも引っ付いたり離れたりを繰り返しているのを見て、もういいからさっさと行き着くとこまで行っちゃえよと茶々を入れていたものだけど、うん、あれはリアリティだったんだと、彼女ができて初めてわかった。 無理無理。 行き着くとこまでなんかそうそう行けないって。 「身持ちが堅いって言うなら、あいつこそ、なんだかんだで身持ち堅いんだよなあ」 「そういうのもいいではないか、阿良々木先輩。戦場ヶ原先輩の過去を思えばそれもまたわかる話ではあるし、照れ照れの初々ういういしい彼女なのだと思えば、それもまた萌もえポイントだ」 「照れ照れねえ……萌えポイントだと意識してしまった段階で、それは萌えではなく売りになってしまうと、僕は思うんだよ」 「売っているなら買って悪い道理はあるまい」 「そりゃそうだ」 階段を昇る。 入り口のところで気付いた、草を踏み潰した足跡は、あの子のものだったのだろうか、などと考えながら、神社についたのは、五分後だった……それもまた、階段同様、事前に神社だと聞いていなければ神社だとは思えないような、荒れ果てた様相を呈ていしていた。変な奴らが溜たまってたらどうしようという心配は全くもって無意味だった。田舎だろうがどこだろうが、こんな場所には一秒だっていたくないというのが、正常であろうと変であろうと共通した、人間の考え方だろう。かろうじて、鳥居があるから神社跡だとわかるだけで、建物の方は、どれが神殿なのだか判然としない。位置関係から判断するしかなさそうだ。 さっきの女の子も、ここにきたのだろうか。 しかし、何のために? 明らかにこの神社に、神様はいない。 神様だって逃げ出すはずだ。 忍野風に言うなら、神様はどこにでもいる──んだろうけれど、それでも、ここにだけはいないような気がした。まあいいか……とりあえず、仕事を済ませるとしよう。お札を貼れば、それだけでいいんだから、これまでに忍野から頼まれた仕事と比すれば、楽勝の部類である。僕はポケットから、忍野に渡されたお札を取り出した。 と、そのとき。 「ううん」 神原がすっと──僕の腕から、離れた。 ずっとあった好ましい感触が、肘から消える。 「どうした? 神原」 「……少し、疲れたというか」 「疲れた?」 何が? あの程度の階段で、か? そりゃ、確かに結構な段数ではあったけれど、体育会系の神原があれでへたれるとは思えないのだけれど。実際、僕ですら、多少息が上がっている程度なのに。 しかし、どうやら神原は本当に疲れているらしく、心なし顔色も悪い。こんなコンディションの神原を見るのは僕は初めてだった。 「ふうん……じゃあ、どっかその辺で休むか? えっと……そうは言っても、座れそうな場所は……石の上くらいしかねえよな……。けど、神社の石って下手に座ったりすると罰ばちが当たりそうな気がするし……」 この神社に罰を与える神様がいるかどうかは別として──それでも、なんだかよくない気はする。これまで経験上、心理がそう働く時点で、それはやめておいた方がいいことだろう。 しかし、ではどうしようか。 悩んでいると、神原の方から、 「それより阿良々木先輩、食事にしないか?」 と、提案してきた。 「食事?」 「うん。後輩の身から食事を申し出るなど、作法に反した不躾ぶしつけなお願いかもしれないが、私は、気分が悪いのは、大抵、おなか一杯ご飯を食べれば治るのだ」 「………………」 漫画のキャラみたいな奴だな。 体調の悪いときまで、面白い後輩だ。 「けど、お札貼るときまでは何も食うなって言われてんだよな……身を清めるとかなんとかでよ。いいや、じゃあ、神原、お前どっか、その重箱広げられそうな場所、探してくれよ。寂さびれた神社でお昼ご飯っていうのもぞっとしないけど、それもまた風情ふぜいってもんだ。その間に僕は、ちゃっちゃとこのお札、貼ってくるから」 「うむ。そうだな、そうしよう。申し訳ないが、仕事の方は阿良々木先輩に任まかせることにする」 「じゃ」 そう言って、僕は神原に背を向け、草を踏み分けるようにして建物の方に向かう。忍野には本殿に貼るよう言われているけれど、本殿のどこに貼ればいいのかまではちょっとわからない感じだな……中に貼ればいいのか、それとも戸に貼ればいいのか。それがわからないのは、はっきり言って忍野の指示が足りない所為せいだったが、何、あいつの指示が足りないのはいつものことである。自分で考えろということなのかもしれない。 とりあえず、一通り建物を見ながら、僕は再度、さっきすれ違った女の子のことを考える。なんだろう、やけに気になる……いや、気になるというよりは。 見覚えがあるとか。 会ったことがあるとか。 それ以前の問題として──感じるものがあった。 それが何かまでは──わからないが。 「でも、会った気がするのも、また確かなんだよな……どこで会ったんだっけ。中学生と知り合う機会なんて、そうそう……」 妹ならまだしも……。 妹? 「ん……なんだろう」 結局、僕は本殿とあたりをつけた建物の戸に、お札を貼った。というより、その戸を開けてしまえば建物自体が崩れてしまいそうな予感がしたので、それ以外に選択肢はなかったと言っていい。 そっと建物を離れ、僕は鳥居のところに戻る。神原はまだ戻ってきていなかった。携帯電話を取り出す……が、まだ神原から、電話番号を教えてもらっていないことに気付く。そう言えば神原にも、僕の番号を教えていない。 携帯電話、意味ないじゃん。 「おーい、神原──!」 というわけで、大声で呼ぶ感じになった。 が、返事がない。 「神原!」 一層大きな声で呼んでみたが──同じだった。 途端、不安になる。 ここらにいるのなら、今の声が聞こえないわけがない。戦場ヶ原ならともかく、神原に限って、僕を置いて勝手に帰ってしまうなんてことはありえないだろう。こんな廃墟で人を見失うということが意味するのは── 「神原!」 わけもわからないまま、僕は駆け出した。 気分が悪いと言っていた。まさか、食事の場所を探している内に、どこかで倒れてしまったとか……、そういうことなのだろうか? 最悪のケースが、僕の脳裏のうりをよぎる。その場合、僕はどう対処すればいいのか──どうするべきなのか。何かあったら、戦場ヶ原にもあわせる顔がない。 しかし、幸いなことに、その最悪のケースは、最悪の形では、訪れなかった。そう広くない境内けいだいを走り回っている内に、僕は神原の後ろ姿を、見つけることができたのだ。 重箱を脇に置いて。 呆ほうけているように──佇たたずんでいる。 「神原!」 声をかけ、肩に手を置く。 「ひゃうんっ!」 びくっと──震えて、神原は振り向いた。 「あ、ああ……なんだ、阿良々木先輩か」 「おいおい、なんだとはご挨拶あいさつだな」 「あ……申し訳ない。私としたことが、大恩ある阿良々木先輩に対して、考えられない物言いだった。つい、気が動転してしまって……阿良々木先輩が急に私の肉を触るから」 「肉っていうな」 肩だ。 「失言の償つぐないは身体でさせてもらう。ひょっとしたら抵抗する素振りを見せるかもしれないが、それは場を盛り上げるための演技だから」 「そういう軽口が言えるってことは、どうやら精神状態は正常なようだな、安心したぜ神原。ああ、僕は軽口だってわかってるぞ。はいこの話は終わり。全く、随分可愛い悲鳴をあげるじゃねえか」 顔色は──悪いままだ。 むしろ、より悪くなった感じである。 意外な悲鳴を茶化していられる雰囲気でもない。 「なんだよ、大丈夫か? そんな気分が悪いんだったら──そうだ、さっきの本殿の縁側とか、軽く掃除すれば、横になれそうだったぞ。おぶってってやるから、そうしろよ。衛生面に不安があるなら、そうだな、僕の上着を敷けばいいから──」 「いや……阿良々木先輩。そうじゃなくて」 神原は──正面を指さした。 「あれを、見てくれ」 「え?」 僕は言われた通り、神原の指さす方向を見た。 境内から少し外れた山林。 その中の、一本の太い木。 その木の根元に──切り刻まれた蛇がいた。 ぐねぐねと長い、にょろりとしたその身体の節々を──刃物で五等分されて殺された、一匹の蛇の死体があった。 五等分。 殺されている。 しかし、その頭部はまだ生きているかのように。 舌をちろちろと震わせ、口を大きく開けて。 苦しそうに、うめいている。 ように──見える。 「………………っ」 そんな光景に、絶句する中── 僕は唐突とうとつに、あの子の名前を、思い出した。 すれ違った女の子。 そうだ。 彼女の名前は──千石撫子だ。 003 「これと──これかな。あ、その本はあんまりためにならないかも。書いてくださっている先生には申し訳ないんだけれども、結局、暗記を勧すすめているだけになってるから。効率を求めるなら、そっちの本の方がいいと思う」 羽川翼つばさは──そう言って、次々と、本棚から参考書を引き出し、僕に手渡して行く。一冊、二冊、三冊、四冊、これで五冊。 直江津高校からそう遠くない大型書店──である。 六月十二日、月曜日。 その放課後。 いよいよ今週末の金曜土曜にと迫せまった文化祭の打ち合わせと準備を終えた、クラス委員長の羽川と、副委員長の僕は、その帰り道、一緒に本屋さんに寄った。というか、僕が羽川に頼んで、一緒に来てもらった格好だ。 三つ編み、眼鏡。 委員長の中の委員長。 究極の優等生、羽川翼。 「悪い、羽川……そろそろ予算枠を超えそうだ」 「へ? 予算枠って?」 「一万円。家に帰れば、もうちょっとあるんだけど、財布の中には、それだけだ」 「あー。参考書って割と高いからね。内容を鑑かんがみれば、しょうがないことではあるけれど。じゃ、参考書の良し悪しの他に、費用対効果も考えようか。この本は返却して、こっちを、と」 羽川翼── 彼女もまた、怪異にかかわった者である。しかし彼女の場合は、僕や神原、あるいは戦場ヶ原とはまた別枠で数えるべきかもしれない──何故なら、彼女は怪異とかかわった、その記憶自体を、喪失そうしつしてしまっているからだ。僕の春休みの地獄に匹敵ひってきする、ゴールデンウィークの悪夢を、まるっきり、忘れてしまっているのだ。 けれど僕は憶えている。 僕は鬼。 神原は猿。 戦場ヶ原は蟹。 そして羽川は──猫。 「でも」 羽川は唐突に言った。 「私は、少し、嬉しいな」 「……何が?」 「阿良々木くんが、参考書選びを手伝って欲しいとかさ、そんなこと、言い出すなんて。阿良々木くんが真面目に勉強する気になったんだとすれば、私の努力も無駄じゃなかったんだなあって」 「………………」 いや。 お前の努力はあんまり関係ないんだが。 こいつ、僕のことを不良と勘違いしていて、更生させるために無理矢理僕を副委員長にしたところがあるからな……。 的外れというか、ほとんど暴走だ。 「うーん、真面目に勉強とか、そういうんじゃなくってな……僕もそろそろ進路のことを視野に入れようかと思って」 「進路?」 「というか、進学と言うか……この間、戦場ヶ原とそんな話をしてさ。それから、あいつの志望校を聞いたんだが……」 「ああ。戦場ヶ原さんは確か、地元の国立でしょ? 推薦すいせんで行くはずよね」 「……お前は何でも知ってるな」 「何でもは知らないわよ。知ってることだけ」 いつも通りのやり取り。 というか、戦場ヶ原のことに関しては、羽川は僕よりも先んじて、ずっと気に掛けていたのだから、委員長として、それくらいは知っていても当然なのかもしれない。そう言えば、戦場ヶ原の方も、珍しく、羽川のような度を過ぎたお節介のことを、そこまで過度に嫌ってはいないようだ。多分羽川なら、現在計画中の、戦場ヶ原の誕生日パーティーに招待しても、それほど激しい怒りを買うことはないはずである。 しかし、誕生日パーティーを開くことによって、怒られることを考慮こうりょしなければならない恋人って……。 「何? それじゃ、阿良々木くん、ひょっとして、戦場ヶ原さんと同じ大学を目指すってこと?」 「まだあいつには言うなよ。変な期待させたくねえし」 照れ隠し──というわけでもないが、なんとなく、手元の参考書の一冊を、ぱらぱらとめくる素振りをする僕。 「というか、ものすごく冷たいことを言われそうだ」 「冷たいことなんて……彼氏彼女なんでしょ?」 「まあ、そうなんだが。でもあいつの場合、親しき仲にも冷気ありって感じなんだよな……」 「んん? ああ、なるほど。親しき仲にも礼儀ありの礼儀と、冷たい空気の冷気を掛けた駄洒落だじゃれなのね? あはは、阿良々木くん、面白い」 「わかりやすく説明するな!」 あと駄洒落って言うな。 口に出して面白いとか言うな。 「あはは、阿良々木くん、きっと『冷たいことを言われそうだ』って言った段階から、もうその表現を考えてたんでしょ? そう言えば私が『彼氏彼女なんでしょ?』って返すことは読めるもんね。もう、いちいち緻密ちみつなんだから」 「話の組み立てを解体しないでくれ!」 なんかもう丸裸だ。 僕は話を戻す。 「別に具体的な目標がどうこうってわけでもないんだが、この間の実力テスト、僕、思ったよりも点、取れてな。赤点じゃなきゃいいくらいにしか考えてなかったのに……そりゃ、お前や戦場ヶ原に較くらべりゃ全然なんだけど、まあ、久々に真面目に勉強したから、それなりに」 「戦場ヶ原さんにマンツーマンで勉強見てもらったんだっけ?」 「そう」 ちなみに、その戦場ヶ原は、僕のような落ちこぼれの勉強を見ながら、学年七位の総合得点を、飄々ひょうひょうと獲得していた。見事というか天晴あっぱれというか、あそこまでいけば、最早感心するしかない。 もう一つちなみに、総合得点一位は羽川翼だ。 言うまでもなく。 全教科一位を達成している。 ほとんど満点だったような。 さておいて、僕は数学以外は順位が貼り出されるような得点ではなかったが、それでも、これまでの実力試験から見れば飛躍的に、その得点は伸びていた。 それは、ちょっと、夢を見てしまうほどに。 今が六月。 これから半年、みっちりと勉強すれば── とか、そんな風に思わせるくらいには。 「なんか、戦場ヶ原に勉強見てもらってさ、久し振りに、勉強の仕方がわかったっていうか……中学生のときの感覚を思い出したよ。僕、入学したての一年生の頃に、そういうの、どっかで諦めちまってたからな」 「ふうん……いいことだと思うよ。彼女と同じ大学に行きたいからなんて、ちょっと動機が不純な気もするけど、学問の扉とびらは常に開いているからね。うん、そういうことなら、私も全面的に協力させてもらうわ」 「………………」 戦場ヶ原の教育も怖いけど、お前の教育も怖いんだよな……。 言わないけど。 それに、どう考えても、僕の大学合格に、羽川翼の協力は不可欠だろう。 「そんなわけで、うまく目処めどがつくようだったら、夏休みから予備校に通おうかと思ってるんだが、どっかいいところ知ってるか?」 「うーん。それはわからない。私、塾とか通ったことないし」 「そうなのか……」 この天才肌め。 「でも、友達に聞いておいてあげるわ」 「基本的に面倒見いいよな、お前は。助かるよ。まあ、現実問題、今年の合格は危ういかもしれないが、一年の浪人を見込んで勉強すれば、いけるんじゃないかと思う」 「やる前からそんな志こころざしの低いことでどうするの。どうせなら、一発合格を狙いなさい。……で、戦場ヶ原さんにはいつ言うつもりなの?」 「だから、ある程度、目処がついたら、かな……あいつの協力もまた、不可欠だろうし。戦場ヶ原の受ける国立大学って、試験にも色んな方式を採用してるらしいからな、とにかく数学を重視した受験方式を選んで……」 「なるほどね」 ぽん、と一冊、参考書を、更に僕に手渡す羽川。 「はい。これでぴったり、一万円」 「……え、嘘。値段をうまく丁度に揃そろえたの? お前、そんな器用なことできるの?」 「ただの足し算でしょ、こんなの」 「………………」 確かに、ただの足し算といえばただの足し算だけど……基本四桁で、暗算で、話しながらだぞ……。僕、自分で数学が得意なつもりでいたんだけど……算数のレベルから、もう羽川の相手にはなってないということか。 ちょっとやる気なくすというか、凹へこむな……。 思い切り出鼻をくじかれた感じだ。 これから半年、僕は戦場ヶ原ひたぎと羽川翼に対する計り知れない劣等れっとう感と共に頑張らなくちゃならないわけか……。 まあ。 頑張るしかないのだが。 「ところで、阿良々木くん」 「なんだよ、改まって」 「さっき聞いた話の続きなんだけど。そのすさんだ神社跡で、五等分にされた蛇の死体を見つけて──それから、どうしたの?」 「え……ああ、その話か」 放課後、文化祭の準備をしていたときに、そんな話をしたのだった。単に忍野の近況を伝えるだけのつもりだったのだが、やはり昨日の今日だ、印象に残っていたその話をしてしまった。小動物が無残むざんに殺されていたなんて、聞いててあまり気持ちのいい話ではないだろうから、すぐに打ち切ったのだが、どうやら羽川は羽川で、その話を気にしていたらしい。 「別に。一応、その蛇は、神原と二人で、穴掘って埋めてやったんだけど……けど、それからさ、その辺を散策してたら、蛇の死体だらけで」 「死体──だらけ?」 「うん。ばらばらに刻きざまれた死体だらけ」 五、六匹はいた。 途中から数えるのをやめた。 埋めるのも──諦めた。 神原が本気で気持ち悪そうにしていたからだ。 「結局、すぐに山を降りてさ……それから、近くの公園で、神原が作ってきたというお弁当を頂いた。やけにおいしくてびっくりしたんだが、聞いてみれば、お祖母ばあちゃんに手伝ってもらったんだってさ。というか、むしろ逆で、お祖母ちゃんが作っているのを、神原が手伝ったみたいだな。『お前は何をしたんだ?』と訊いてみれば、『包丁を準備した』とか『お湯を沸わかした』とか『鍋が吹き零こぼれないように見ていた。まあ吹き零れてしまったが』とか、そんな感じでさ。まあ、あそこまで運動能力が高くて、その上料理も得意ってんじゃ、ちょっと欲張り過ぎだよな」 「それはそうかもしれないね。でも、本当に惜しいよね、神原さん。腕の怪我さえなければ、今頃は大会の真っ最中なのに」 「…………」 おっと。 そのあたりのことは、伏ふせてるんだっけ。 危うく、口が滑すべるところだった。 神原駿河引退の真相を知っているのは、直江津高校内においては、僕と戦場ヶ原だけだ。それ以上増えることはないし、それでいいと思う。 笑えるのは、お弁当を食べたら、本当に神原の気分が復調したことだった。あのスポーツ少女、エネルギーの吸収効率が尋常じんじょうでなくいいらしい。 「まあ……大変だったね、阿良々木くん」 「ああ。蛇をあんな風に殺すなんて、どっか儀式めいててさ、考えさせられたぜ。ぞっとするっつーか、ぞっとしないっつーか。場所が神社跡っていうのも、なんかな。あ、ひょっとして羽川、あそこに神社があったの、知ってた?」 「うん」 あっさり頷く。 当然のように。 「北白蛇きたしらへび神社よね」 「……蛇、か。てことは」 「そ、蛇神信仰って感じなのかな。私もそこまで詳しいわけじゃないんだけれど。地元だからたまたま知ってるってだけで」 「そういうのは普通、地元だからこそ知らないことだと思うけどな……十分詳しいと思うし。でも、そうか……蛇神信仰をしてた場所で、蛇殺しか……やっぱ、儀式めいてるな。一応、忍野に報告しておいた方が……いいのかな」 怪異。 思い過ごしだといいけれど。 でも──千石のこともある。 千石撫子。 「………………」 ……しかし、この話の流れはまずいな。 羽川は、怪異とかかわった記憶をなくしている。忍野に世話になったことくらいは覚えているが、自分が猫に魅みせられ、何がどうなったのか──それを、忘れてしまっている。だからというわけでもないのだが、僕としては、そんな羽川に、あまり怪異にかかわって欲しくない。戦場ヶ原のことも神原のことも、あるいは八九寺のことだって、羽川は知らなくていい──これまでも、これからも。 そう思う。 こいつは、いい奴なのだから。 「でもね、阿良々木くん」 とはいえ、この場合、そんな心配は杞憂だった。 「私が言っているのは、そういうことじゃなくて。神原さんのこと、大変だったねって」 「…………」 むしろ。 僕は僕の心配をした方がよさそうだった。 「か・ん・ば・る・さ・ん・の・こ・と。大変だったねって、言ってるんだよ」 一言一句、区切って言われた。 にっこり笑っている。 その笑顔が、逆に怖い……。 「あ、ああ……そうだな、突然体調崩すからさ、なんだったのかと思ったけど……でも、大事なくてよかったよ」 「そういうことじゃ、なく」 真面目な口調で、羽川。 いや、ほとんどの場合、こいつの口調は真面目なのだが、今回は特に真面目だ。 「阿良々木くん、彼女の後輩と仲良し過ぎるのって、問題ない? そりゃ、戦場ヶ原さんと神原さんの仲を取り持ったのは阿良々木くんなんだから、ある程度仲良しなのは、いいと思うんだけど。腕を組むのはまずいでしょ」 「しょうがねえだろ。人懐なつっこい奴なんだよ」 「そんな言葉が言い訳になると思う?」 「それは……」 ならないよなあ。 どう考えても。 「まあ、阿良々木くんにとっては、後輩って初めてだろうから、わからなくもないけどね。中学生のときも帰宅部だったんでしょ? 可愛い後輩って、嬉しいもんね。それとも、単純に神原さんのおっぱいの感覚が気持ちよかったのかな? 阿良々木くん、いやらしい」 「ぐっ……」 微妙に反論できない。 違うのだが、違うと言っても、如何いかんせん嘘くさい。 「神原さんも、部活を引退することになっていくらか不安定なんだと思うけど、それは阿良々木くんが、びしっとこう、けじめをつけるべきところなんじゃない?」 「うーん」 「折角阿良々木くんが取り持ったヴァルハラコンビが、阿良々木くんが原因で再解散しちゃってもつまらないでしょ?」 「まあ、そりゃそうだ」 意志薄弱というか。 弱くて薄いんだよな、僕が。 「まあ、そういう意味じゃ、神原さんも男慣れしてなさそうだもんね。変な言い方になっちゃうけど、ずっとスター扱いだったから、むしろ逆に、そういう機会はなかったのかも」 「だろうな」 百合だし。 戦場ヶ原ラブだし。 それも秘密。 「阿良々木くんも、そういうコミュニケーションは苦手そうだもんね。でも、苦手だからって許されることと許されないことがあるよ」 「でもな──。僕、戦場ヶ原から、神原の面倒をちゃんと見るように、言われてるんだよな。『私の後輩に無礼があったら承知しないわよ』とか、なんとか。どんな力関係なんだよ、みたいな。三角関係だとしたらとんでもねえ二等辺三角形だぜ。神原の方も、僕の世話になるよう、戦場ヶ原から言われてるみたいだし」 そうだ。 この場合、わからないのは戦場ヶ原の心理だ。 あいつは一体、何を考えているんだろう? 「それは、そうね。こんな感じなんじゃない?」 言って。 羽川は、そっと、その両手を僕の頭に伸ばしてきた。それぞれの手で、左右から僕の頭を触り、固定する。僕は両手に参考書の山を抱えるようにしているので、その手を振り払うことができない。 「え? え、何?」 「はい、どうぞ」 羽川は両手で僕の頭の角度を調節し、僕を見上げるようにした自分の顔と、ぴったり正面に、向かい合うようにする。眼が合う。と思ったが、羽川は目を閉じていた。眼鏡の奥の眼は閉じられて、睫毛まつげが震えているようだった。同じように閉じられている唇くちびるが、自然、僕に何か言いたげで── 「え? え? え?」 な、何、このシチュエーション? というか、この流れはなんだ? いや、羽川は、委員長で、僕にとっては忍野と同じくらい、いや、間違いなくそれ以上に恩人であって──で、でもなんか、しなきゃいけないのか? どうぞとか言ってるし……。 ちょっと眼鏡が邪魔っけだけど……、いや。 むしろこの状況で、何もしない方が……! 「……って感じかな」 そこで、ぱっと。 羽川は、手を離した。 悪戯いたずらっぽく、笑顔を浮かべている。 「あと一秒って感じだった? 阿良々木くん」 「い、いや……何言ってんだよ」 我ながら、声が明らかに裏返っている。 何言ってんだよは自分だった。 「だから。阿良々木くん、弱くて薄いのよね」 「………………」 他人から言われると響ひびくな、その言葉。 しかも言い返せない。 あと一秒だったとは思わないが、心に迷いが生じてしまったことは否定しようのない事実だ。 「阿良々木くんって誰にでも優しいじゃない? そういうのって、戦場ヶ原さんから見たら、結構不安だと思うのよね。戦場ヶ原さんには阿良々木くんだけだけど──極論すれば、阿良々木くんは、誰でもいいって感じなんだもん」 「……不安って」 そんな情緒じょうちょ溢れる奴かな、あいつ。 でもまあ、あいつのそういう部分を解消したくて、僕は、戦場ヶ原と神原の間を取り持ったというところは、確かにある。とすると、戦場ヶ原の方も、僕のそういうところを解消したくて──か? いや、それだとわけがわからない。理由になっているとはとても言えない。 「状況に流され易いし、人を傷つけたくない。まあ、優しいっていうのは、普通、いいことなんだけど、それが相手のためにならないこともあるしね。戦場ヶ原さんとしては、あんまり、阿良々木くんに、神原さんと仲良くして欲しくないんじゃないかな? けど、仲良くしないでなんて言えないし、むしろ逆のことを言っちゃう──違うか。仲良くしてもいいんだけど、むしろ仲良くして欲しいんだけど、けじめはちゃんとつけて欲しいというか……戦場ヶ原さんと神原さんとを較くらべた上で、ちゃんと自分を選び取って欲しいって感じなのかな」 「なんだそりゃ。わけわかんねえぞ」 「戦場ヶ原さんもジレンマじゃないのかな? 阿良々木くんは大事な彼氏だし、神原さんは大事な後輩だし」 「ううん」 その上、神原は百合だしな。 それを戦場ヶ原は、もう知っているし。 そう考えれば、とても複雑な人間関係だ。 「まあ、戦場ヶ原さん、ツンデレだから」 会話を締しめるような調子で、羽川は言った。 「その行動原理は、一辺倒で理解しようとしちゃいけないと思うよ。常に裏を読まなくちゃ。阿良々木くんも戦場ヶ原さんが大事なら、ちょっとした誘惑で揺らいじゃ駄目だと思うな。誰にでも優しいって、やっぱりちょっと無責任だからね」 「ああ……身に染しみてわかったよ」 あの実践演習は効きいた。 自分の薄弱さを思い知った気がする。 ……でも、会話の締めが『ツンデレだから』でいいのだろうかとは思ってしまう……っていうか、羽川翼、ツンデレって言葉の意味、ちゃんとわかるんだ……。 つくづく、何でも知ってる奴だ。 いい加減、羽川には、戦場ヶ原が教室で被かぶっている猫の仮面の下が、見えてきているということなのかもしれない。 まあ、猫は羽川の方が専門だしな。 「そう言えば、羽川はどこに進学するんだ? やっぱ東京か? それとも、全国模試で一位を取れるくらいの奴は、海外の大学とか行くのか?」 「え? 私、進学しないよ?」 「……は?」 なんだその爆弾発言。 素すでびっくりした。 「進学……しないの?」 「うん」 「お金の問題か? でも、お前なら、それこそ推薦くらい……」 ドラフト一位の取り合いだろうに。 給料をもらいながら大学に通ってもおかしくない。 「そういうんじゃなくって。別に私、大学で勉強することとか、ないし。……そうだね、阿良々木くんにはもう言っておいてもいいかな。私、卒業したら、ちょっと旅に出るの」 「た、旅?」 「二年くらいかけて、世界中を見てこようかなって。今見ておかないとなくなっちゃいそうな世界遺産って、いっぱいあるし。私、知識ばっかりに依よってるところがあるからね、色んな経験積んだ方がいいと思ってさ。もしも大学に行くのなら、それから行っても遅くはないしね」 「…………」 思いつきで夢見がちなことを言い出した。 のでは、ないんだよな……。 受験戦争からの現実逃避をしなければならないような成績では、羽川はない。明日入試だと言われても十分に対応できるくらいの実力を、平然と備そなえている。今この瞬間に試験開始といわれたって、それがどこの大学であれ、楽々と悠々と合格できるはずだ。そんな羽川のことだから、多分、その旅のプランというのも、もう相当に、変更が不可能なほどに、練り込まれていることだろう……。 「学校の先生とかには、まだ秘密にしておいてね。言ったら、きっとびっくりしちゃうんじゃないかと思うから」 「ああ……だろうな」 「タイミングを見て、切り出すつもり」 「そうか……どんなタイミングで切り出しても、びっくりするどころの騒ぎじゃ済まないと思うが……」 間違いなく、上を下への大騒ぎだろう。 進学校のトップが、自分の進路にそんな選択をしたなんて前例が残れば、学校の伝統にかかわりかねない。将来を嘱望しょくぼうされているにも程がある羽川のことなのだ。無論、そんなこと、本人だって十分過ぎるほどわかっているだろうけれど……。 「お願いね。その代わり、私も、今回のところは、神原さんとのことは、戦場ヶ原さんには秘密にしておいてあげるから」 「別に僕は後ろ暗いところがあるわけじゃないんだけどな……」 「私も後ろ暗いわけじゃないよ。でもさ」 「うん。まあ、わかるよ」 ふうむ。 ひょっとして、忍野の──影響なのだろうか。 あの根無し草のことを、羽川は、至極しごく真面目に尊敬しているところがある。少なくともその影響力は、無視できないだろう。もしもそうなのだとすれば、忍野の罪は重いような気がする……あいつ、本当に迷惑な野郎だ。 そうか……そうなのか。僕はてっきり、羽川は、高校を卒業したあとも、何かの委員長であり続けるのだろうと、それが神に選ばれた委員長の宿命だと思っていたのだが、一人旅に出てしまうのでは、委員長も何もあったものではない。 なんだか、ため息をつきたい気分だった。 うまくいかないもんだな。 落ちこぼれの僕が今更大学を目指す決意をし。 優等生の羽川翼は、自らアウトサイダーを志こころざす。 神原駿河はバスケットボール部を早期引退。 八九寺真宵まよいだって、もう元には戻れない。 戻れるのは── 戦場ヶ原ひたぎだけなのだ。 「……、痛っ」 と。 そこで唐突に、羽川は右手を、今度は自分の頭部に添えた。 支えるように。 「? どうした?」 「いや、ちょっと──頭痛が」 「頭痛?」 昨日、神原が神社でいきなり体調を崩くずしたことを思い出し、僕はやにわ、焦燥しょうそうにかられる。が、羽川はすぐに顔を起こして、「ああ、大丈夫大丈夫」と言った。 「ちょっと前から、たまにあるんだ。急に頭が痛むの」 「おいおい……大丈夫じゃねえだろ、それ」 「うーん。でも、すぐ治っちゃうし。原因はわからないんだけど……最近、文化祭の準備にかまけて、勉強サボってるからかな」 「お前は勉強をサボると頭が痛くなるのか?」 どんな体質だ。 孫悟空そんごくうのリングでもつけられてるのか。 真面目が堂に入っている。 骨髄こつずいに入っているのかもしれない。 「何なら家まで送ろうか?」 「いや、いい。家は──」 「ああ……そうだったな」 失態。 余計なことを言った。 「でも、ちょっとごめん。先に帰るね。阿良々木くんは、もう少し、参考書、選んどきなよ。私のお勧めはその辺だけど、結局はそういうのって、個々人の好みがあるからさ」 「ああ。じゃあ──」 「うん」 そう言って。 羽川は、逃げるように、本屋さんから出て行った。 それでも、その辺までは見送って行くべきだったのかもしれないが──あれはあれで結構意固地いこじというか、他人に弱いところを見せるのをよしとはしないところがあるからな。本人が大丈夫と言っている内は、あまり構うべきではないだろう。 けれど。 頭痛、か……。 ちょっと気になるな。 羽川の場合、頭痛というのは……。 「………………」 羽川は──戦場ヶ原の蟹のことも八九寺の蝸牛かたつむりのことも神原の猿のことも、そして自分の猫のことも、今となっては知らないけれど── でも、僕の鬼のことは、知っている。 だからどうというわけでもない。 けれど、僕にとって羽川が恩人であるという事実は、揺らぎようもない。それは単純に、怪異のことだけではなく──あいつの言葉で、いちいち僕がどれだけ救われていることか。 今日だってそうだ。 だから、なんとかあいつの力になりたいと、僕は願っているのだけれど……。 はあ。 構いたいなあ。 「……一応、他のコーナーも見ておくか」 羽川の忠告に従って、僕は参考書のチェックを続けたが、やはり慣れないことは慣れないこと、どの参考書も同じようにしか見えず、とりあえずは羽川に言われたものだけを買うことにし(結局、最終的には六冊になった。一応僕も時間をかけてゆっくりと計算してみたが、本当にぴったり一万円だった。すげえ)、僕は参考書コーナーを離れる。予算きっちりなのでこれ以上何を買うこともできないが、まあ、本は眺めるだけなら無料なのがいいところだ。多量の参考書を抱えたまま漫画の新刊をチェックするというのも馬鹿みたいだが、しかし、参考書を抱えているとそれだけで頭がよくなった気がするので、そういう時間を過ごすのも悪くない……というか、この考え方が既に馬鹿な気もする……。 「……ん?」 とりあえず、移動しかけて──僕はそこで硬直してしまった。ありえないものを目にして、思わず、硬直してしまった。危うく、抱えていた参考書を取り落としてしまうところだった。 いや。 ありえないというほどじゃない。 同じ町内に住んでいる人間同士が、その町で一番大きな本屋で遭遇そうぐうする可能性は、決して低くはないだろう──少なくとも、一見ではそこに道があることもわからないような、寂れた神社に続く階段で、たまたますれ違う可能性よりは、ずっと高いはずである。 それだって、確率としてはゼロじゃない。 だから──それが二日連続で起こっても。 不思議じゃ、ない。 「……千石」 参考書コーナーのすぐそばの、呪術じゅじゅつ・オカルトコーナーで、分厚い本を立ち読みしていたのは、千石撫子──妹の昔の友達、千石撫子だった。 一心不乱に本を読んでいるようで──向こうは僕には気付いていない。さすがに正面には回れないので、僕の方からも、横顔が窺うかがえる程度なのだが……それでも、面影が窺える。小学生の頃、僕の家に遊びに来ていた……というか、遊びに連れて来られていた、千石だ。千石撫子と、変わった名前だったから、フルネームで憶えている。特に『撫子』だ。お前その漢字は『なでしこ』だろう、なんで一文字足りないんだと、小学生ながらに疑問を感じていたものだったが……。 下の妹と同じということは。 今──中学二年生か。 私服だからわからないが、恐らくは公立の、僕が卒業した中学校に通っているのだと思う。僕の妹達のように、この地方で私立の中学校を選択する子供はほとんどいない。 「………………」 僕は千石を思い出したけれど。 あの子は、僕のことを、覚えているのだろうか? 昨日すれ違ったとき、彼女は驚いたような顔をしたけれど──あれは単に、あんな山の中に、自分以外にも下から登ってくる者がいたことに驚いただけなのかもしれない。友達の兄貴なんて、普通、記憶には残らないだろうし……だとすれば、ここで声を掛けるのも変な話だ。 しかし。 蛇。 そう、蛇、だ── している内に、千石は、読んでいた本を本棚に戻し、その場から動き始めた。僕は見つからないように、咄嗟とっさに身を隠す。別に隠れる理由もないのだが、ここで反射的に隠れてしまったことにより、声を掛けるタイミングは完全に逸いっしてしまったことになる。本棚を壁に、迂回うかいするように僕は歩いて、千石の姿が見えなくなったのを確認し、先程まで彼女がいた場所へと移動した。 何の本を読んでいたのか、気になったのだ。 僕はそのタイトルを確認する。 「ちょっと……これは」 その本は──一万二千円の、ハードカバーだった。 中学二年生に買える本ではない。高校三年の僕だって、今の手持ちじゃ無理だ。参考書が買えなくなってしまう。 だから、立ち読みで済ませていたのだろう。 だが──そんなことより。 問題は、そのタイトルだった。 僕はその奥まったコーナーから出、店内に千石の姿を探したが、既に彼女は見当たらなかった。別のコーナーの奥の方に入っていったのかもしれないが、もう店から出ていったと見る方が正しそうだ。それに、彼女のあの私服……。 長袖、長ズボン。 深い帽子に、ウエストポーチ。 僕の勘かんに間違いがなければ……というパターンだ。 「くそっ……しょうがないな」 とりあえず、参考書を買うためにレジへと向かう。レジには結構買い物客が並んでいたが、根気よく待った。慌てて急せいてもろくなことにならない。まずは冷静になるべきだ。どうするべきか考えながら、トレイに一万円札を置く。レジの店員さんが、会計がぴったり一万円になったことに驚いているようだったが、それは僕の功績ではないので、どうでもよかった。 ううん。 昔の知り合いとは言え……二人じゃきついか。 一人でできることには限界がある。 となると、ここは行きがかり上……あいつに協力を仰あおぐしかなさそうだった。こういう案件には、あいつ、ことのほか強そうだし。……さっき羽川に釘を刺されたばかりではあるけれど、この場合は仕方がない。 手提げ袋に入れてもらった参考書を左手に、僕は店を出てから携帯電話を取り出し、昨日、あれから教えてもらった携帯電話の電話番号へと、発信した。一昨日おととい、あいつの自宅に電話したときもそうだったのだが、初めての番号に電話をかけるというのは、やはり緊張する。 呼び出し音が五回くらい。 「神原駿河だ」 繋がったと思ったら、いきなりフルネームで名乗られた。なんだか珍しいケースだったので、ちょっと驚いた。 「神原駿河。得意技は二段ジャンプだ」 「嘘をつけ。あれは人間業わざじゃない」 「ん。その声と突っ込みは阿良々木先輩だな」 「……いや、そうだけどさ」 声と突っ込みで判断って。 昨日、こっちも番号教えたじゃん。お前、僕の電話番号をアドレス帳に登録してないのか? それは寂しい……ああ、いや、まだ携帯電話という機器を使いこなせていないだけか……機械、苦手そうだもんなあ。 「神原、暇だったら、ちょっと手伝って欲しいことがあるんだけど……今、何してた?」 「ふふ」 なんだか不敵に笑う神原。 「暇であろうとなかろうと、阿良々木先輩に望まれたとあっては、たとえそこがどこであっても私は出向く所存だぞ。理由など聞くまでもない、場所さえ教えてもらえれば私はすぐさまそこへ行く」 「いや、そういうのはいいからさ……別に暇じゃないんだったら、無理してくれなくってもいいんだよ。昨日も昨日で引っ張り出したばっかりで、こっちもかなり心苦しいんだしさ。神原、今どこで何してたんだ?」 「えっと……何をしていたかと言えば……」 「なんだよ、煮えないな。本当に暇じゃないのか? だったら──」 「いや、その……うん」 意を決したように神原は言った。 「やはり阿良々木先輩に隠し事はできないな。私は今、自宅の自室で、いやらしい本を読んでいやらしい妄想にふけっていた」 「………………」 しつこく聞くんじゃなかった。 僕がセクハラ野郎みたいになってしまった。 「ああ、でもこれだけは誤解しないでくれ、阿良々木先輩。いやらしい本と言っても、全部ボーイズラブだ」 「頼むからそれだけは誤解させておいてくれ!」 「今日は新刊の発売日だったものでな、試験中だったから買えなかったものも含め、二十冊ほど購入したのだ」 「はあ……いわゆる大人買いって奴な」 「ちっちっち。この場合は乙女おとめ買いと言って欲しい」 「うるせえよ!」 ということは、神原もこの放課後、この本屋さんに来ていたのかな……この辺りでボーイズラブまで常置してある規模の本屋さんと言えばここくらいだろうし、かもしれないな。しかし、だとすると、本当に狭い町内だ……これがギャルゲーだったらフラグ立ちまくりだよ。 「つまり、要は暇なんだな」 「まあ、そう言われても仕方がないな。阿良々木先輩と忍野さんとの絡みを考えることを、忙しいとは言えない」 「それがお前のいやらしい妄想なのか!?」 「で、私はどこへ行けばよいのだ?」 「話を逸そらすな、いや、話を戻すな! 神原、教えろ、どっちが攻めでどっちが受けなんだ!? 僕が受けだったら許さないからな!」 馬鹿な会話だった。 神原とはいつもこんな調子だ。 「やれやれ……。僕はたまにはお前と知的な会話を交わしたいよ……お前、確か、結構、頭いいはずだろ?」 「うん。私は成積はいい方だぞ」 「その漢字だと、成績は悪そうだけど……」 ともかく、と僕は言う。 こんな馬鹿な会話を交わしている間にも、千石はどんどん、この書店の位置から離れていくのだ。……まあ、どんなに離れていったところで──その目的地は、わかっているのだが。 私服姿の千石撫子。 垢抜あかぬけないセンスではあったが、そんなことより。 長袖長ズボン──だった。 これから、山に入るかのごとく。 「昨日行った神社。そこの階段に入る前の歩道で、待ち合わせだ。えっと、位置的には──お前の方が近いだろうけど、僕は自転車だから、多分先について待っている」 「困るなあ、阿良々木先輩。この私が二日連続で阿良々木先輩を待たせるとでも思っているのか? だとすれば私の信用も地に落ちたものだな。私にも意地がある、そこまで言われては黙っていられない、この機会に汚名を晴らし、名誉めいよは回復させてもらう。絶対に私の方が先に着く」 「変な意地を張られても、僕が困るんだが……まあ、なるたけ急いでくれ。ああ、長袖長ズボン、忘れずにな」 僕は学校帰りで、制服のまま、衣ころも替えがあったばかりでカッターシャツが半袖だけど、これはもう致し方ない。下半身はスラックスなのだから、よしとするしかないだろう。大体、僕の場合、多少虫に刺されようが蛇に咬まれようが、大事ないからな──いわゆる、吸血鬼の後遺症。 「わかった。阿良々木先輩の仰せの通りに」 「じゃ、よろしく」 そう言って僕は電話を切り、本屋さんの裏手、駐輪場に行って、自転車の錠じょうを外す。千石が店を出てから十分以上経過している……あいつの交通手段は知らないが、昨日は、階段の入り口辺りにそれらしき自転車が停められていなかったことからして、徒歩だったようだ……まあ、いずれにせよ、あの神社が目的地なのだとすれば、距離的にはもう追いつけまい。 そう言えば、神原の奴、本当に、呼び出された理由を聞かなかったな……。 恐ろしい忠誠心だ。 勿論、神原にとっては、戦場ヶ原の方が命令系統としては上位なのだろうが、あんなステータスの高い人間がこうも甲斐甲斐かいがいしく自分に尽くしてくれるというのは、正直、嬉しいというよりはちょっと怖いよな……。 でも、イメージを崩すのは無理みたいだし、こうなるとあいつの前では理想の先輩を演じたくなるというか、その過大な期待を裏切りたくないと思ってしまう。 まあ──悪いことではないのだろうが。 「戦場ヶ原は、どうだったんだろうな」 中学時代──それこそ、ヴァルハラコンビは蜜月みつげつだったはずだけど、その頃の二人は、一体どんな感じだったのだろう。 そんなことを思っている内に、目的地に到着した。 名も知らぬ山の、神社への入り口。 さすがに自転車、速い。 と思ったのだが、神原はもうそこにいた。 「………………」 こいつの足には車輪でもついているのか? 俊足駿足にも程がある……ちょっとした原チャリくらいだったら、この後輩は余裕で追い抜き、ぶっちぎれるような気がする。恐らく、人類がみんなこいつと同じスピードで走れるのなら、自動車は発明されなかったのではないだろうか。どうだろう、電話からすぐに準備したとして……しかし、ちゃんと言われた通りに、長袖長ズボン(しかも昨日から学習しての、破やぶれていないズボンに、へそのみえないシャツだ)に着替えてるし……。 「いやいや阿良々木先輩、着替えにそんなに手間はかからなかったのだ。私は夏場、家ではいつも下着姿だからな」 「神原……、純粋にお前のことが心配だから言うんだが、僕の煩悩ぼんのうをこれ以上刺激したら、いい加減お前の貞操の保証はできないぞ……?」 「覚悟はできている」 「こっちにゃ覚悟がねえんだよ!」 「私は阿良々木先輩の理性を信じているのだ」 「僕はそこまで自分を信用できない!」 「なんだ、それは意外だな、阿良々木先輩にとって部屋着が下着姿というのは、そこまでの萌え要素なのか?」 「たとえお前が猫耳メイドだったとしても、僕はお前に萌えることはないな!」 「なるほど。ということは、裏を返せば阿良々木先輩は、私でさえなければ猫耳メイドに萌えるということだな」 「しまった、引っ掛け問題だったのかっ!」 とりあえず、自転車を停める僕。 まあ、違法駐車には罪悪感があるが、少しの間だけだから勘弁かんべんしてもらおう。撤去てっきょされてしまえば、もうそのときはそのときと諦めるしかない。背に腹は代えられない、だ。 「けど、それを差し引いてもお前、本当に足速いよな……普通に頑張ってりゃ、オリンピックとか出られるんじゃねえの?」 「オリンピックは足が速いだけでは出られないからな……それに、そもそも私は陸上競技は、向いていない」 「そうだっけか」 戦場ヶ原は中学時代、陸上部だった。バスケットボール部のエースが健脚けんきゃくだと聞いて、戦場ヶ原の方から神原に会いに行ったのが、二人の馴なれ初そめ──だとか。 「しかし、僕に言わせりゃ、お前の足の速さは人類の枠に収まらないと思うんだよな」 「ふむ。人類の枠に収まらないとなると……なんだろう、私は両生類なのだろうか?」 「両生類に足の速い印象なんかねえよ!」 「まあ、ないな」 「ていうか、神原、自分を両生類にたとえてお前に何か得があるのか?」 「損得の問題ではない。阿良々木先輩がそう呼んでくださるのなら、私は喜んで両生類を名乗ろう」 「いや、喜んでって……」 「阿良々木先輩、さあ、早く、私のことを『この卑いやしいペットが!』と呼んでくれ」 「同じくらい大事な突っ込みどころが二つあって長台詞になるから、最後まで噛まずに突っ込むことが難しそうなので普通なら普通にスルーするところだけど、しかし神原、僕はお前のことが大好きだからちゃんと突っ込んでやる! 第一に僕は両生類をペットに飼ったりしないし、第二にそれはもう違う種類の喜びだ!」 ちなみに僕がイメージしたのはチーターとかだ。 まあ、それにもペットのイメージはないが。 あーもう、大好きだって僕からも告っちゃったよ。 やりい、両思いだ。 「そんなつれないことを言わず、阿良々木先輩、お願いだ。『この卑しいペットが!』と言ってくれ。試しに一回だけでいいんだ。そうすればきっとわかってくれるはずなんだ」 「なんでそんな必死よ!?」 「ううむ……、どうして誰もわかってくれないんだろう……戦場ヶ原先輩にも嫌だと言われてしまったし……」 「さすがのあいつでも嫌なんだ!」 ていうか。 そりゃまあ嫌だろ。 言うだけならまだしも、それで喜ぶんだもん。 「で、阿良々木先輩。私は何をすればいい?」 「ああ、そうだったな。楽しい雑談に興きょうじている場合じゃなかった」 「脱げばいいのか?」 「だからなんでお前はそんな脱ぎたがりなんだよ!」 「無論、脱がせてくれても構わないが」 「受動態か能動態かの話をしてんじゃねえ! お前は僕の中学一年生の頃の妄想が具現化した姿なのか!?」 「私は明るいエロを追求する者だ」 「お前の主義主張なんかどうでもいいよ……」 「ではこう言い換えよう。私は明るいエロスを追求する妖精だ」 「なんてことだ! エロをエロス、者を妖精と言い換えただけで、なんだか崇高すうこうなことを言われているような気が……してこない!」 男相手でもセクハラは成立するということを、この女に教えてやるにはどうすればいいのだろう。ちょっとした課題だった。 「では、何をすればいい。遠慮せずにはっきり言ってくれ。私は無骨ぶこつな人間だからな、腹芸が通じないのだ。遠回しに言われても、まろどっこしい……まろどっこ……まろどっこ……」 「まどろっこしいなあ、おい!」 「申し訳ない。しろどもろどになってしまった」 「確かにしどろもどろだが!」 「で、なんだ」 「いや──だから、多分、この上に」 僕は階段を指さす。 「僕の昔の知り合いがいるんだが」 「うん?」 「昨日、この階段を昇る途中ですれ違った女の子、憶えてるか?」 「うん。ちっちゃくて可愛らしい女の子だった」 「その憶え方はどうかと思うが……」 「阿良々木先輩風に言うなら、腰の形がプリティーな女の子だった」 「僕がプリティーなんて言葉を使うか!」 まあいいか。 百合だし。 憶えてないよりは、話の通りがいい。 「あいつ、どっかで見たことあると思ってたんだけどさ……実は後から思い出したんだよ。それでも昨日は確信を持ててなかったんだけど、今日、さっき本屋で見かけて、はっきりした。下の妹の旧友みたいなんだ」 「なんと」 その言葉に、面食らった素振そぶりの神原。 「それは、偶然だな……驚いた」 「ああ。僕もびっくりしたよ」 「ああ。こんなに驚いたのは、今朝起きたら目覚まし時計が止まっていたとき以来だ」 「えらく最近だな! しかも大したことねえよ、その驚き! 普通過ぎるだろ!」 「ふむ。では、訂正しよう。えーっと、こんなに驚いたのは、カンブリア大爆発以来だ」 「今度は昔過ぎるし、そこまですごくはねえよ! 小さな町で旧知の人間と再会した程度の偶然に対して、地球史上もっとも偉大な事件を引き合いに出すな! よく考えてみたらあんまり驚くようなことじゃなかったみたいな気分になっちゃったじゃないか!」 「阿良々木先輩の要求はどうにも高いな。で──その子が、今日もここの神社に来ていると?」 「そういうことだ。多分な」 その反応から見る限り、神速の神原も、さすがに千石より先にここに到着していたわけではないようだった。まあ──千石が本屋を出てからここに来たはずだというのは、ある程度の確信があるとは言え究極的には僕の勝手な予測だし、いなければいないで、それが一番いいのだが。 だが──本屋さんで、千石が読んでいた本。 それが問題だった。 「読んでいた本……?」 「うん。まあ、それは後で話すよ。ともかく、お前に頼みって言うのは──その、昔の知り合いとは言え、声、掛けづらくてな。つーか、向こうは僕のことなんか覚えてないだろうから、変なナンパみたいになっちまいそうだし──思春期入りたての女の子の防衛本能って、割と怖いし」 「経験がありそうな物言いだな」 「まあ、なくはない」 誰にでも優しいと、色んな人からあちこちで言われる僕ではあるが、無論、その代償だいしょうとして、痛い目を見ることだってあるというわけだ。まあ、別にそれで損をしたとは思ってないけれど、それで助けられるはずの相手を助けられなくなっても、あんまり面白くない。 「そこへ行くと、神原、お前は年下の女の子に強そうだからな。何せ学校一のスターなんだから」 「今はもう違うし、昔も別にそうだったとは思わないが、なるほど。阿良々木先輩の言いたいことはわかった。阿良々木先輩の慧眼けいがんには恐れ入る、確かに私は、年下の女の子には強いぞ」 「だろうな。お前を呼んで正解だったよ」 それこそ羽川じゃないが、面倒見よさそうだし。 中学高校と、連続でキャプテンを務めていた女だ。 そういうところは、今の戦場ヶ原とは真逆だな……いや、中学時代の戦場ヶ原を継いでいる、と言うべきなのかもしれない。 「具体的に言うと、年下の女の子ならば、誰であれ十秒以内に口説くどける自信がある」 「お前を呼んだのは人生最大の間違いだった!」 そこまでの強さはいらねえ! 少女の人生を狂わせる気はねえんだよ! 「まさかバスケットボール部って、お前にとってただのハーレムだったんじゃないだろうな……」 「そこまでは言わない」 「どこまで言うつもりだよ!」 「『ただの』が抜ける」 「大して変わらねえ!」 「ん? 下の妹の昔の友達、か……ということは、阿良々木先輩には妹がいるということだな……しかも、最低二人以上」 「…………っ!」 まずい! 百合の娘に僕の妹の情報が伝わった! 「ふふふ……そうか、阿良々木先輩の妹か……ふ、ふふ、ふふふ。どうなのだろう、阿良々木先輩に似ているのかなあ──」 「変なこと考えんなよ、お前……って、おいなんだ、その見たこともねえ嫌な笑顔! それが滅私奉公めっしぼうこうが売りのお前がその対象である僕に向けて浮かべる笑顔か!」 ちなみに。 割と似ている、二人とも。 「いやだなあ、勿論、阿良々木先輩の妹に手を出したりはしないぞ。たとえ誰の妹であろうとも、年下の女の子の一人や二人、口説くことなど私にとっては呼吸するよりも容易たやすいが、阿良々木先輩が私に親しく接してくれている限りは、そんなことをする理由がない」 「てめえ、暗に脅しを……っ」 「脅し? おやおや、これは人聞きの悪いことを言われてしまったな。敬愛する阿良々木先輩からそんなショックなことを言われてしまっては、気の弱い私は動転してしまって、何をするか自分でもわからないぞ。なあ阿良々木先輩、阿良々木先輩はもっと他に、私に対して言うべき台詞というものがあるのではないかな?」 「く、くお……」 受けている……。 この後輩は確実に、『今』の戦場ヶ原からの影響を受け始めている……! まさしく悪影響だった。 「はあ、走ってきたから少し胸が凝こった。誰か揉もんでくれる人はいないだろうか」 「その取引で僕がどんな損をするんだっ!?」 「冗談はともかく」 神原は真剣な口調になって、言った。 「阿良々木先輩がそういう以上、勿論手伝うにやぶさかではないが──阿良々木先輩は、当然、昨日のあれを、含んでいるのだろう?」 「まあ──そうだ」 「じゃあ──そういうことなんだな」 「……うん」 「やれやれ」 神原は、仕方なさそうに、肩を竦すくめた。包帯の左腕で頭をかきかけ──やめて、右手で、その動作をする。 「阿良々木先輩は誰にでも優しい──という戦場ヶ原先輩の言葉は、どうやら本当らしいな。まあ、それ自体は私もストーキングの最中に、散々思い知ったことではあるのだが──こうして目の当たりにすると、印象が違う」 「神原……」 「恩を感じるのがむなしくなる──と戦場ヶ原先輩は言っていた」 「…………」 「いいのだ。独り言だ。いや、失言だった。では行こう、阿良々木先輩。早くしないと、彼女が用事を済ませてしまうかもしれない」 用事。 廃れた神社に、用事。 「ああ……そうだな」 僕らは、昨日も昇ったその階段に、並んで一歩を踏み出した。 今日は──神原は、手を繋いでは来なかった。 「なあ、神原」 「なんだ」 「お前、進路とか、考えてる?」 「進路……左腕がこうなる前は、スポーツ推薦で大学に行こうと思っていたのだが、それは今となってはもう無理だからな。真っ当に受験で、進学するつもりだ」 「そうか」 左腕が治るにしても、それは二十歳までに、という話だ。現在十七歳の神原にとって、その三年は、あまりに長く、あまりに重いものだろう。 「具体的にどこの大学と決めているわけではないのだが、バスケットボールが強い大学がいいな──となると、やっぱり体育大学か」 「戦場ヶ原と同じ大学とか、考えないのか?」 「なんだ。阿良々木先輩はそうなのか?」 「実はな」 戦場ヶ原には秘密にしとけよ、と僕。 うん、と神原は頷いた。 素直な分には可愛い後輩だった。悔しいが、ここのところは、確かに羽川の言う通りだった……可愛い後輩は、それだけで嬉しい。 「お前の学力なら、戦場ヶ原の後を追うことも可能──なんだろ?」 「それはどうだろう。私は努力型だからな、今の偏差値を維持するので精一杯というところはあるのだ」 「そうだったな。でも──」 「それに」 神原は続けて言った。 「戦場ヶ原先輩の足跡を追い回してばかりいても、仕方あるまい」 「…………」 それは──どういう心境の変化なのだろう。 神原らしからぬ発言……いや、これに関しては、僕の見込みが甘かった、神原のことを見損みそこなっていたということなのだろうか。でも、先月、会ったばかりの頃の神原は、そのもの、戦場ヶ原ひたぎの足跡を追いかけることだけに専念する女だったはずなのに── 何か、変わったのだろうか。 怪異を通して。 怪異──それは、悪いばかりではない。 そもそも、いい悪いの問題ではないのだ。 「まあ、そうは言っても、どんな進路を選ぶにせよ、戦場ヶ原先輩や阿良々木先輩とは、卒業後も関係を続けたいものだな。できればお二人とは、こう、三人で集合して、記念写真を撮るような最終回を迎えたいものだ」 「最終回って……」 「あるいは、夕暮れの空を見上げて、そこに映るお二人の姿を眺めるような最終回……」 「僕と戦場ヶ原、死んでるじゃん!」 嫌な最終回だった。 というか、ただの嫌な話だ。 「僕のクラスに、羽川って奴がいるんだけど」 「ふむ」 「知ってるか?」 「いや──存じ上げていない」 「まあ、学年が違うしな……けど、三年じゃ有名な奴なんだぜ。何せ、成績、学年トップだからな。一年生のときから一度もその席を譲ったことがない、絵に描いたような優等生だ。キャラ的にはもうギャグだろ、そんな奴。この間教えてもらったんだが、トップと言うなら、学校どころか、全国模試でもトップを取ったことがあるらしい。確か、お前と戦場ヶ原と、同じ中学出身のはずだぜ」 「そうなのか。すごい人がいるものだな……」 「でも、そのすごい人は、大学にはいかないそうだ」 「……そうなのか」 「色々見たいものがあるからって、旅に出るんだとさ。別に、それがどうってわけじゃないんだけど、なんか、色々考えさせられちゃって……ああ、これも一応、秘密な。学校に知れたら大変なことになるから」 「心得た……しかし、確かに考えさせられる話ではあるな。直江津高校は、その性格上、進学以外にほとんど選択肢はないと言ってもいいのに──あっさりと、道なき道を選ぶとは」 「あっさりと──かどうかは知らないけどな。でも、迷いはないみたいだった」 一度通って、知っている道だったからだろう。昨日よりも早く、僕と神原は、階段を昇りきり、神社へと辿り着いた。 当たり前だが、昨日のまま、荒れ果てた神社だ。 遠目に──本殿に貼られたお札が見える。土曜日に忍に血を飲ませたところだから、視力が上昇しているので、朱筆で書かれたお札の文字まで、はっきりと見える。 あれだけが、昨日との違いだ。 「………………」 ふと見れば──神原の顔色が、悪い。さっきまでそうでもなかったのに──普通に会話していたのに、明らかに疲れているようだ。 それも、昨日と同じ。 いや、昨日よりも──酷い。 これは──階段を昇った所為じゃない。 体調を崩したのでもない。 境内に人った途端──鳥居をくぐった途端、だ。 「……おい、神原」 「大丈夫だ。それより──急ごう」 神原は、しかし、気丈に、そんな風に、歩みを止めずに前に進むよう、僕を促うながした。明らかに無理しているのが見て取れる。何か言おうとしたが、結局、僕は神原のその言葉に従う。素早く用事を済ませる方が、この場合は先決だろう。 この神社には。 何かがある。 神原の身体に異変を来たすような何かが。 元々は──忍野の仕事だった。 楽な仕事など──忍野の頼みに、あるわけがない。 「……千石っ!」 僕は、境内の隅の方に、長袖長ズボン、深い帽子にウエストポーチの、大きな石の前でかがみこんでいる彼女の姿を見つけるや否や──思わず、そう、大声で呼びかけてしまった。これでは神原に、わざわざ来てもらった意味がない。 しかし、怒鳴らずにはいられなかった。 千石の左手には、頭を摘つままれた蛇。 千石の右手には、彫刻刀。 石に押しつけられるようにして── 蛇は、まだ生きている。 けれど──今にも殺されそうだった。 「やめろ、千石っ!」 「あ……」 千石は──僕を見た。 目深まぶかにかぶった帽子の庇ひさしを、彫刻刀の先であげて。 千石撫子は──ゆっくりと、僕を見た。 「暦お兄ちゃん……」 お前は。 お前はまだ、僕のことを、そんな風に呼んでくれるのか── とか。 正義の道を歩みながらたった一つの判断ミスから果てない外道げどうへと身を落とし、聞くも涙、語るも涙の艱難辛苦かんなんしんくを経験した末に闇の組織の幹部となり、言うに耐えず見るに耐えない悪行を繰り返していた最中に、かつて正義だった頃の同志が現れ、その同志から昔の名前を呼ばれたダークヒーローのように、僕はそう思った。 004 「蛇切縄じゃぎりなわ」 忍野は──しばらく思案した末、やけに重苦しい口調で、なんだかとても嫌そうに、そう切り出した。軽い、ともすれば皮肉げとも取れる言葉遣いで話すことの多い忍野からすれば、それはあまりない口調ではあった。 「それなら蛇切縄でまず間違いないだろう、阿良々木くん。断言できる、それ以外にはない。蛇切じゃきり、蛇縄じゃなわ、蛇きり縄、へびきり縄、へびなわ、そのものそのまんま、くちなわって言われることもあるけれど」 「くちなわ──つまり、蛇か」 「そう」 忍野は繰り返す。 「蛇だよ」 蛇。 爬虫綱有鱗目蛇亜目はちゅうこうゆうりんもくへびあもくの爬虫類の総称。 円筒形の細長い身体と身体を覆う鱗うろこが特徴。 脊椎骨せきついこつが数百あり、身体を自由にうねらせる。 鬼、猫、蟹、蝸牛、猿ときて──次は蛇か。 鬼は例外として──蛇と言うのは、中でもあんまり印象がよくないな。いかにも不吉ふきつの象徴という感じがある。おどろおどろしさが、猫や蟹や蝸牛や猿の、比ではない。 はっはー、と忍野は、そこでそれまでの重い口調を半ば強引に切り替えるように、いつものように、エセ爽やかに笑ってみせた。 「いや──その印象は間違ってないよ、阿良々木くん。蛇は昔から、そういうものとして看做されることが多い。蛇関係の怪異はやたらと多いしねえ。まあ、あいつら肉食だし、『寸にして人を呑のむ』とか言われるしね。その上、致死性の毒持ちがいるから……、仕方のないことではあるんだろうけど。毒蛇、日本じゃ、マムシとかヤマカガシとかハブとかね。もっとも、逆向きに、蛇を聖なるものと看做す、蛇神信仰ってのも少なからずあるわけで──それは世界中のほとんどの地域で共通している。聖と邪を併せ持つ象徴──それが蛇さ」 「あの神社も──蛇神信仰だったんだよな」 「うん? あれ、秘密にしておいたのにどうして知ってるんだい? ああ、なるほど、委員長ちゃんに聞いたのか」 「……よくわかったな」 「阿良々木くんの周りでそれを知ってそうなのは、委員長ちゃんくらいだからね──はっはー、こんなことならお札の仕事も委員長ちゃんに頼んだ方がよかったかな? 阿良々木くんは歩けば厄介やっかいごとを引っ張ってくるんだもんなあ。そこへいくと委員長ちゃんはしっかりしてそうだ」 「あいつは──もう、支払い終えてるだろ」 「だっけね」 忍野はとぼけるように言う。 相変わらずの反応だ。 「そうは言っても、僕なんかにゃ、蛇っつったら邪悪なイメージしかないけどな。蛇神信仰と言われてもいまいちぴんと来ない。邪悪じゃないイメージは、せいぜいツチノコくらいだ」 「ツチノコか。懐かしいなあ。懸賞金けんしょうきん欲しさに、僕、頑張ってあいつを探したことがあるんだよ。見つからなかったけどね」 「それって専門家としてどうなんだろうな……。しかも見つからなかったんだ……。あと、そうだ、あれは怪異じゃないのかな? ウロボロスって奴。自分の尻尾しっぽ食って、輪になってる……」 「ああ、あれね。自分の尻尾ってわけじゃないけど、それを言うなら阿良々木くん、蛇を食べる蛇ってのもいるんだよ? キングコブラだったかな。蛇が蛇を呑む図って、写真で見ると、かなり壮絶そうぜつなんだよね」 「ふうん……まあ、僕に言わせれば、蛇ってのは理屈じゃなく、生理的に怖い動物だよ。見ただけで、まず身がすくんじまう」 「まあ、あんな形の陸上生物は珍しいからねえ。魚が陸で泳いでるようなもんだ、特殊といえば特殊だし、異様な目で見られてしまうのは仕方がないだろうな。海鼠なまこを初めて食べた人間は偉えらい──なんて、そんな感じだね。はっはー。その上、蛇って、異常に生命力が強いんだよ。なかなか死なない。殺しても殺しても──ね。蛇の生殺しなんて言葉があるけど、あれは逆説的に、蛇の持つヒットポイントの高さを表わしているよね。あの大きさの生命としては、明らかにカウンターストップしているだろうな。ただ、蛇が人間にとって害獣ってわけでもないぜ。マムシ酒とかハブ酒とか、阿良々木くんも聞いたことはあるだろう」 「飲んだことはねえよ」 「じゃあ、食べたことは? 僕は沖縄で、ハブ酒と一緒に海蛇料理を食べたことがあるぜ。蛇は長寿の食材なんだよね」 「蛇を食べるなんて、あんまり考えられないな……確かに、海鼠ほどじゃねえけどさ」 「了見が狭せまいねえ。というか、根性がないな。蛇くらいで音を上げるなんてさ。大陸の方じゃわんわんを食べる地域だってあるんだぜ?」 「その食文化自体を否定するつもりは毛頭ないが、食材として扱うときにわんわんって言うな!」 相変わらずのやり取り。 なのだが。 しかし──それでも、忍野のその表情は、どことなく暗い──ような気がする。それは、僕の気のせいかもしれないけれど。 学習塾跡の廃ビル。 その四階。 僕は火のついていない煙草をくわえた変人、もとい恩人、軽薄なアロハ野郎こと、忍野メメと──向かい合っていた。 一人、である。 神原駿河と千石撫子には、待機してもらっている。どこで待機してもらっているかと言えば──阿良々木家の、僕の部屋でだ。中学入学と同時に与えられた、僕の部屋。両親はともかくとして、二人の妹は勝手に部屋に這入はいってくることがあるが、鍵をかけていれば、数時間程度なら、大丈夫なはずだ。……本当は、ああいう性格で、しかも百合でもある神原駿河を、千石や妹達と同じ屋根の下に、監視なしで放置することについて、若干じゃっかんの危機感を覚えないでもないのだが、そこはそれ、僕は後輩を信じることにする。 それに。 なにより僕には、神原や千石を──ここに連れてきたくない理由があった。ここに連れてきて、忍野に会わせたくない理由が── あれから。 僕と神原は千石を連れて──僕の家に向かった。自転車の後部座席に、千石を乗せて。神原は、まるで平然と、伴走だった。案の定というか、山を降りれば、神原の体調は元に戻ったのだった。昨日の、昼ご飯を食べたら体調が治った云々は、どうやら僕の誤解だったらしい。 幸い、家は無人だった。 妹達は二人とも、お出かけらしい(帰宅した形跡はあった)。あの二人の眼を欺あざむくのが家に這入るに当たって一番の厄介ごとだったにもかかわらず全くの無為無策むいむさく、行き当たりばったりの帰宅だったので、素直に助かったという感じである。特に下の妹の方……小学生の頃の友達を憶えているかどうかはともかくとして、少なくとも見れば確実に思い出すだろう。自分の昔の友達を、自分の兄が連れて帰ってきたりしたら、一体何があったのかと思うはずだ。 そのまま、僕の部屋に這入る。 「暦お兄ちゃん……」 千石が、消え入るような声で言った。 俯いたまま、聞こえるか聞こえないかの声だ。 「部屋……変わったんだね」 「ああ。一人部屋になった。妹達は二人とも、前と同じ部屋だよ。……しばらくしたら帰ってくると思うけれど、会っていくか?」 ううん、と力なく首を振る千石。 声も小さいし──リアクションも小さい。 心なし、体つきも小さく見える。 六年分、ちゃんと成長しているはずなのに──昔、一緒に遊んでいた頃より、ずっと小さくなっているようにも見える。それはあくまでも相対的な話で、僕もまた、六年分成長しているからなのかもしれないが── なんとなく──沈黙してしまう。 すると、 「ふむ。ここが阿良々木先輩の部屋か」 と、そんな、なんとなく気まずく沈しずみそうだった空気を打ち破るかのように、神原がその張りのある声で、部屋をぐるりと見渡した。 「思ったよりも整頓せいとんされているのだな」 「まあ、お前の部屋に較べればな……」 「ふふふ。男の子の部屋に這入るのは初めてだ」 「あ……」 言われて、気付いた。 そう言えば、僕の方も、家族以外の女が部屋に這入るのは、これが初めてだった。戦場ヶ原も、まだ家に来たことはないのだ。女の子を部屋に招くと言うのは年頃の男の子としてはとりあえずどぎまぎする通過儀礼なのだろうが、しかし彼女よりも先に、彼女の後輩が部屋に這入ってしまった……いいんだろうか。デートに続いてまたしてもという感じだが……いいか、まあ、妹の昔の友達も、一緒なわけだし──非常事態だし。 あの神社で、千石が言ったのだ。 小さな声で。 『理由を言うから──どこか、人目につかない屋内に連れて行って欲しい』、と。 理由。 何の理由? 蛇を──殺した理由。 切り刻んだ、理由。 まず最初に思い浮かんだのは神原の家だったが、神原がそれを言い出す前に、その案は僕が心の中で勝手に却下した。何故なら、先述の通り、神原の部屋は、無法地帯、いやさ戦闘地域と言っていいほどの散らかり具合だからである。あんな部屋を、純真無垢むくな中学生に見せるわけにはいかない。となると、必然的に、僕の家を選択するしかなかった。全く知らない場所では千石も不安だろうし、そこへ行くと僕の家なら、彼女も昔、何度となく遊びに来た場所である。 「さて、それではエロ本でも探すか」 「それは男友達が男友達の部屋に遊びに来たときに発生するイベントだろうが! いいからお前はその辺に座ってろ!」 「しかし阿良々木先輩の好みを把握はあくしておくことは、私にとって無益だとは思わない」 「僕にとっては無益どころか有害だ!」 「そう、つまり有害図書を……」 「お前が生きた有害図書だ! そこに座るか窓から飛び降りるか、二つに一つだ神原!」 「なんてな、勿論冗談だ、阿良々木先輩。阿良々木先輩の好みなど、以前阿良々木先輩をストーキングしていた際に、きちんと洗ってある。ここ最近、阿良々木先輩がどんなエロ本を購入したかは、完全につかんでいるのだ」 「何ぃ!? そんなまさか! あのとき店内には誰もいなかったはずだ! 僕はちゃんと確認したぞ!」 「なかなかマニアックな好みをお持ちで」 「選択肢は一つだ、窓から飛び降りろ!」 「それはあんなプレイを迫られれば、大抵の女の子は窓から飛び降りてでも逃げるだろう。ふふ、しかし無論、私ならば余裕でこなせるような、造作ぞうさもないプレイだがな」 「誇ほこらしげだー!」 見れば。 千石が、くすくすと、声を潜ませて、笑っていた。 僕と神原とのやり取りが、受けたらしい。 ううん、気恥ずかしい。 ここまでの道中でもそうだったのだが、昔の知り合いというのは、どういう距離感で話していいのかわからないところがある。 それに──千石は、とにかく、物静かだ。 無口で、恥ずかしそうに、あまり喋らない。 ここのところ、忍に忍野に羽川に戦場ヶ原に八九寺に神原と、その傾向はどうあれ(忍→高慢横柄おうへい、忍野→軽薄皮肉、羽川→説教指導、戦場ヶ原→暴言毒舌、八九寺→慇懃無礼いんぎんぶれい、神原→甘言褒舌かんげんほうぜつ)、とにかく立て板に水の雄弁ゆうべん多弁な奴とばっかり知り合っていたから、この無口なキャラクターは、新鮮だった。まあ、子供の姿になった後の忍は、無口なんだけど……。 千石のこのもの静かさは、子供の頃と変わらないのだろうか。確かに、よく俯いている子だったような気がするが──正直、そんな細かいところまで、はっきりとは憶えていない。 思い出せない。 内気で、言葉少なで、俯いて── だが。 向こうの方は、僕を憶えていたようだ。 暦お兄ちゃん。 そうだ、千石撫子は昔──僕のことを、そんな風に、呼んでいたのだった。僕は彼女をなんと呼んでいたか──それは、忘れてしまったけれど。考えてみるに、なでこちゃんか、それともなでしこちゃんか。いずれにしても、もうそんな風に呼ぶことは、できない。 千石は千石──だ。 「暦お兄ちゃん……それに、神原さん」 やがて、千石は言った。 あくまでも物静かに。 「少し……後ろを向いていてもらえますか」 「…………」 黙って、言われた通りにする。 千石に背を向け、壁に向かう。 まあ、掛け合いの都合で窓から飛び降りろとか言ったものの、やっぱり神原に来てもらってよかったと、僕は胸を撫で下ろしていた。実際、神社で彼女に声をかけてから、硬直してしまった千石を相手にどうしていいかわからなかった僕の横合いから、彼女の心を巧たくみに開いたのは、ほとんど神原だったと言っていい。神原駿河の手柄だ。さすが、年下の女の子なら十秒以内に口説けると公言するだけのことはあった。はっきり言って、あの状況、暦お兄ちゃんだけでは、どうにもならなかっただろう。あたふた戸惑とまどうだけが関の山だった。振り返ってみれば、硬直どころか──千石は、僕に声をかけられ、もうこの世のおしまいだという風に、がっくり肩を落として、放心してしまっていたのだ。あそこから引き戻すのは、ぼくの器量ではおおよそ不可能だっただろう。 「阿良々木先輩」 と、僕と同じように壁を向いていた神原が、潜めた声で、僕に向かって話しかけてきた。声を潜めているのは千石に聞こえないようにという配慮だろうから、僕も同じくらいのトーンで、 「なんだ」 と応じる。 「阿良々木先輩にとってはあまり歓迎できることではないかもしれないが、ここから私は、少しテンションを上げていこうと思う」 「あん? なんだそりゃ」 「阿良々木先輩もお気付きだとは思うが──あの子、千石ちゃんは、かなり──精神的に不安定になっているようだ。年上年下かかわらず、私はこれまで、ああいう子をたくさん見てきた。あれは、重度だ。ちょっとしたショックで、いつ自傷に走ってもおかしくない」 「自傷……」 彫刻刀。 取り上げるのを──忘れていた。 彼女のウエストポーチに、入っている。三角刀から切り出し刀まで、ワンセット五本、全部揃って──だ。 大袈裟なことを言っているとは思わない。 実際。 神原の対応が遅ければ、僕が千石に声をかけたあの時点で──そうなっていても、ちっともおかしくなかったと、そう思う。 それくらいは、僕にもわかる。 「阿良々木先輩は心優しい人だから、落ち込んでいる人間を前にはしゃぐなんて真似はとてもできないかもしれないが、相手と一緒になって落ち込んであげることは、この場合は逆効果だ。マクスウェルの悪魔の話ではないが、こちらができるだけ明るく振舞って、千石ちゃんの気持ちを引き上げてやる必要がある」 「……ふうん」 なるほど、さっきのエロ本関連の話も、その流れの一環いっかんだったのか。うむ、どうやら僕は神原を過小評価していたようだ。あの場におけるあの発言は、ただの空気の読めない奴なのかと疑ったが、それは僕の短絡たんらく的な判断だったらしい。神原駿河、思いの外色々と考えている奴だ。 「わかった。そういうことなら、存分にやってくれ。僕も付き合おう」 「うん。テンションが上がり過ぎて阿良々木先輩に襲い掛かってしまう可能性もあるが、それもご寛恕かんじょ願いたい」 「ご寛恕できるか! どんな方向にテンション上げてんだよ、お前は!」 小声で怒鳴るという荒業を成し遂げた僕だった。 「駄目だ、僕のテンションが下がってきた……ちょっとしたショックで、いつ自傷に走ってもおかしくない」 「そう捨すて鉢ばちになるな、阿良々木先輩。よく言うだろう。冬が来たら氷河期が来て、夜が来ると暗黒の世紀が来る」 「よく言わねえよ! どういう意味の慣用句だよ、それは!」 「どんな苦境に思えても、結局は今が一番マシなときという意味だ」 「ポジテイヴなようでいて最悪に後ろ向きだな!」 「洪水にならない雨はない」 「あるよ! 洪水にならない雨だってあるよ!」 「ふふふ。ほら、阿良々木先輩、前向きになった」 「はっ! 嵌はめられたかっ!」 ふと、後ろから忍び笑いが聞こえた。 声を立てないよう、必死で我慢している感じ。 千石だ。 どうやら、微妙に聞こえているらしい。 そこまで神原の計算通りなら── 本当に大したものだが。 「もういいです。こっちを向いてください」 と、千石は言った。 僕達が振り向くと、そこには全裸になった千石撫子が──ベッドの上で、恥ずかしそうに俯いて、直立していた。 いや──全裸ではない。 帽子は勿論、靴下まで脱いでいるが、下半身にはブルマーを穿いている。それ以外は──一糸いっしも纏まとっていない。その両手のひらで、控えめな胸を隠すようにはしているが。 「……って、ブルマー?」 あれ? 千石は、予想通り僕が卒業したのと同じ中学に通っているとのことだったが、あの学校、僕が入学した段階で、既にブルマーは廃止され、短パンが導入されていたはずなのだけれど。 「ああ。阿良々木先輩、あれは『たまたま』私が持っていたものを貸したのだ」 「ほう。神原後輩、お前は『たまたま』ブルマーを所持していることがあるのか」 「レディとして当然の嗜たしなみだ」 「いや、変態も同然の企たくらみだ」 「こんなこともあろうかと準備しておいたのだ」 「どんなことがあると思ってたんだ。お前、本当は、僕にどういう用で呼び出されたつもりだったんだ? 僕は僕の信頼度を疑うよ。というか、そもそもブルマーなんてどうやって手に入れたんだ。昔の漫画風に言うなら、ブルマーってのは、『馬鹿なっ! あいつらはもう絶滅した種族だっ!』て感じの物品だろうが」 「うん。そこはそれ、こう見えて私は先見の明があるからな。いずれ滅ほろびるであろう文化であることを見越して、事前に百五十着ほど、保護しておいたのだ」 「それは保護じゃなくて乱獲らんかくじゃねえのか?」 お前が滅ぼしたんじゃねえのかよ。 ブルマー。 「………………」 ほぼ全裸の女子中学生をベッドの上にあげて直立させ、それを肴さかなにブルマーについての議論を行なう高校三年生男子と高校二年生女子。見ようによっては、かなり深刻な苛めのシーンとも見て取れた。 帽子で隠れていた千石の前髪は思いのほか長く、目元を覆うようになっている。いや、恥じらいから、わざとそうしているのかもしれない。キューティクルの光る、艶のある黒髪。脱いだ服は布団の下に隠したらしい。神原の指示通りにブルマーを穿いていることといい、ブラジャーまで外していることといい、どうやらこの旧知の少女、肌を見られるよりも下着を見られる方が恥ずかしいと判断したようだ。ブルマー一丁のその姿は、どう考えても、明らかに本人が考えている以上に扇情せんじょう的になってしまっていると思うのだが、女子中学生の感覚はわからない……。 が。 残念ながら──というのだろうか。 これは、そんな色気とは無縁の状況だった。 「なんだ……それ」 遅ればせながら、僕は、千石撫子のその肌に──驚きの声を漏らした。 その肌に──鱗の痕が刻まれていた。 両足の爪先から、鎖骨の辺りに至るまで。 ぴっちりと──くっきりと、鱗の痕跡が。 一瞬、身体に直接鱗が生えているのかと思ったが、よく見れば、そうではない。鱗を、版画のように押し付けられて──皮膚に型になって残っているという感じだ。 「緊縛きんばくの痕に似ているな」 神原が言った。 確かに、ところどころ内出血すらしているらしい、その痛々しい痕跡は、縄で縛られた痕であるかのようだった──どうして神原駿河が緊縛痕について詳しいのかは、触れるとややこしそうなので、ここでは触れない。 いや──緊縛痕というか……。 実際、爪先から、脚を辿って胴体へ── 何かが巻きついているかのようだった。 見えない何かが。 全身に隈くまなく、鱗の痕。 巻きついて。 巻き──憑いているかのようだった。 鱗の痕跡がないのは、精々両腕と、首から上の部位だけだ。ブルマーに隠された腰部下腹部も、わざわざ見せてもらうまでもないだろう。 鱗。 鱗といえば──魚か? いや、この場合、魚じゃなくて、爬虫類──蛇。 蛇……くちなわ、だ。 「暦お兄ちゃん」 千石は言った。 相変わらずの、消え入るような声で。 がたがたと震える、その声で。 「暦お兄ちゃんはもう大人だから……、撫子の裸を見て、いやらしい気持ちになったりは、しないんだよね?」 「え? あ、ああ。そんなの当たり前じゃないか。なあ神原」 「うん? えっと……そう……なのかな?」 「話を合わせろよ! いつもの忠誠心はどうした!」 「強しいて言うなら、千石ちゃん、大人だからこそ、少女の裸にいやらしい気持ちになることもあるという側面は、後学のために知っておいた方がよいかもしれないぞ」 「裏切られた! 今まで仲良くやってきたのに!」 「しかしどうだろう、阿良々木先輩、この場合、少女の裸に全く興味がないという方が、男性として気持ち悪いというか、女の子に対しては失礼な気がするのだが」 割合に真面目な話のようだった。 まあ、言われてみればその通りだ。 色気とは無縁の状況とは言え、それに全身という全身に蛇の鱗が刻まれているとは言え、だからと言って、女の子の裸に何も感じないというのも不躾な話だ。戦場ヶ原も、そういうときは感想くらい言うのが礼儀だと言っていたような気がする。 僕は千石に向き直った。 そしてできる限り真面目な口調で、彼女に言う。 「訂正しよう。千石の裸に、少しはいやらしい気持ちになったりはする」 「……う」 千石は、声を押し殺すように、肩を揺らし。 「う、うううう……ううう」 涙をぼろぼろと流し──泣き始めてしまった。 「こら神原! お前の言う通りにしたら女子中学生を泣かしらまったじゃねえかよ! 女子中学生だぞ! なんてことだ、僕はもう終わりだ! どうしてくれる!」 「あんなストレートに言うと誰が思う……」 神原は僕に対し、かなりな呆れ顔を浮かべていた。 計画的に僕を陥おとしいれたわけではないらしい。 「撫子」 千石は、ぺたりと、ベッドの上にしゃがみ込んで──がくりと俯いて、呟つぶやくように、聞こえるか聞こえないかというくらいの声で── しかし、それでも。 はっきりと、言った。 「撫子、こんな身体──嫌だ」 「……千石」 「嫌だよ……助けてよ、暦お兄ちゃん」 涙混じりの声で──そう言った。 005 そして── それから、一時間後。 僕は、忍野と忍が住処すみかとしている、学習塾跡の廃ビルを、土曜日に訪れたときから一日しか間を空けずに、訪れたと言うわけだ。 「遅かったね。待ちかねたよ」 と、忍野は見透かしたような言葉で、僕を迎えた。 忍野メメ。 怪異関係のエキスパート。 専門家、オーソリティ。 春休み、時代遅れにも吸血鬼に襲われ、吸血鬼になってしまった僕を、その夜の帳とばりから引き上げてくれた──僕の恩人。 年齢不詳ふしょうの、アロハ服のおっさん。 定住地を持たない、旅から旅への駄目だめ大人。 猫に魅せられた羽川翼も。 蟹に行き遭った戦場ヶ原ひたぎも。 蝸牛に迷った八九寺真宵も。 猿に願った神原駿河も。 みんな、忍野から──力添えをもらった。 その恩は、返しても返しきれないだろうが、しかし──はっきり言って、恩人でもなければ、あんまり親交を深めたいタイプの人間では、忍野は、ない。ありえない。 性格は悪い。間違っても、善意の人間ではない。気まぐれの権化ごんげのような男である。春休みからの長い付き合いになるが、未だにそのパーソナリティには、理解不能なエリアが多い。 かつてはここで勉学に励んでいた子供達が使用していたであろう机を、ビニール紐ひもで縛り合わせて作った簡易ベッドの上に胡坐あぐらをかいて、僕の話をそこまで聞き終えたところで、忍野は、重苦しい声で、嫌そうに── 「蛇切縄」 と言ったのだった。 「蛇切縄か……聞いたことのない怪異だな」 「割と有名だよ。蛇神遣いの一種かな」 「蛇神遣い? 蛇遣いじゃなくて?」 「蛇遣いは、ギリシャ神話だろ。蛇神遣いは日本だよ。蛇神憑きとか……まあ、その辺は阿良々木くんに言っても仕方のないことか。でも、蛇切縄か……うーん。阿良々木くんの、後輩……ってことになるのかな? その子」 「歳が離れ過ぎていて、あんまり後輩って感じじゃあないな。だから、妹の友達──だよ」 「ふんふん。妹的存在か」 「僕の知り合いを勝手なポジションに配置するな」 「暦お兄ちゃん、だもんね」 「………………」 余計なことまで話してしまった。 僕って正直者だよな。 嘘がつけないっていうか……。 いや、隠しごとが下手なだけか。 「その暦お兄ちゃんも、今となってはらぎ子ちゃんか……光陰矢のごとし、時の流れを感じるねえ」 「らぎ子ちゃんなんて呼ばれてねえよ! それは神原の言った冗談だ!」 「けど、割と嵌ってる気がするんだけれど」 「ほっとけ!」 「そうだね、ツンデレちゃんはツンデレちゃん、委員長ちゃんは委員長ちゃんなのに、阿良々木くんのことだけは阿良々木くんと呼ぶことに、僕は軽い差別を感じていたところだったんだ。これからは平等に、阿良々木くんのことはらぎ子ちゃんと呼ぶことにしよう」 「お願いだからやめてくれ!」 「でも、なんだか定着しそうな気はするよね」 そんなやり取りがあったところで、忍野は、「それはともかく」と言う。 「そんなことはあったけれど、仕事は滞とどこおりなく済ませることができたってわけだ。お疲れさま、阿良々木くん」 「ああ……まあな」 まさか忍野からねぎらわれることがあるとは思わなかったので、面食らってしまい、なんだか変な応対になってしまった。 「あれは、とてもじゃないけど、僕にはできないことだったからね。あのお嬢じょうちゃんにもお礼を言っておいてよ。えーっと、あの──」 そこで、考えるようにする忍野。 あのお嬢ちゃんというのは、当然、神原のことだろうが……ああそうか、神原の呼称を、迷っているのか。そう言えば、神原の呼び方が、まだ決まっていなかった。羽川が委員長ちゃんで、戦場ヶ原がツンデレちゃんで、八九寺が迷子ちゃんだから……神原は、そうだな、さしずめ、スポーツ少女ちゃんってところかな? 「あの、えろっ子ちゃん」 「…………」 どうやら神原は忍野から、スポーツキャラよりもエロキャラとして認識されているようだった。 いや、わからなくもないけれど。 僕も的を射ているとは思うけれど。 「せめて百合っ子ちゃんくらいで止めておいてやってくれないか……あいつもあれでも、女の子なんだ……」 「うん? そうかい? じゃあ、百合っ子ちゃんでもいいけれど。とにかく──これで、彼女と僕も、貸し借りなしだ。そう伝えておいて頂戴ちょうだい」 「貸し借り──なしか」 「うん」 「忍野。一個、確認しておきたいことがあるんだけど──いいか?」 「なんだい?」 「あの神社の境内に入った途端、神原の体調が、どっと急激に崩れていたみたいなんだけど……あれって、何かあるのか?」 神原のいないシチュエーションで、忍野にこれを確認したかったから、僕は神原に、家で待機してもらっているのだ。 んー、と忍野は流し目になる。 「阿良々木くんは──どうだった?」 「え?」 「体調。気分が悪くなったり、しなかった?」 「いや──僕は別に」 「そっか。まあ、前日に忍ちゃんに血をあげたところだからね──そんなものなのかもしれないな。運がよかったってところだね」 「運って……」 「さっき言ったろ? とてもじゃないけど、僕にはできないことだった──ってね。あの神社はね、この町の中心だったんだ」 「町の中心? そうか? 位置的にはむしろ──」 「位置的な話じゃなくてさ。まあ、とっくの昔に滅んだ神社だし、みんな忘れちゃってるような場所だから、本来、なんでもないはずだったんだけどさ──忍ちゃん」 「忍がどうした?」 「忍ちゃんが、ふらふらとこの町に来たじゃない──貴族の血統の、伝説の吸血鬼。怪異の王、吸血鬼。その影響で活性化しちゃったって感じなのかな。よくないものが──あの場に、集まり始めていた」 「あの場って──あの神社にか」 神様だっていそうもない──あの神社に。 よくないもの。 「うん。丁度、エアポケットというか、吹き溜まりになったみたいでさ──あるんだよ、そういう、中心って表現すべき場所が。忍ちゃんのことが終わってからも、この町に僕がとどまり続けていたのは、その吹き溜まりを探すためでもあったんだよね──無論、怪異の蒐集というのが、第一目標だったけどさ。はっはー、まあ、そのお陰で、委員長ちゃんやツンデレちゃんなんかとも知り合えたから、なかなか楽しかったね」 「よくないものって──具体的には、何なんだ?」 「色々、さ。一言じゃ言えない……というか、今の段階では名前もないような、そんなもの達だ。怪異と言えるような段階でもないな」 変な奴らの溜まり場。 に──なっては、いたわけだ。 ただし、それらは──人間ではなかった。 文字通りの、変な奴ら──だ。 「神原の気分が悪くなったのは──その影響なのか?」 「そうだよ。あの百合っ子ちゃんの左腕は、今も猿のままだからね──よくないものの影響を、強く受けやすいのさ。阿良々木くんもまたそうなんだけど、でも、お嬢ちゃんの猿と、阿良々木くんの忍ちゃんじゃ、怪異としてのランキングに圧倒的な格差があるからね。お嬢ちゃんがそういう事象に対する抵抗力を失っている状態なのに対し、阿良々木くんは、よくないものに対するそれなりの耐性があったってことだな」 「……忍野、お前にはわかってたのか? 神原が──ああなるってこと」 「そう怖い目で見るなよ。阿良々木くんはいつも元気いいなあ、何かいいことでもあったのかい? 百合っ子ちゃんに具体的な何かがあったわけじゃないだろうに。それに──貸し借りだ。少しは苦しい思いをしないと、割に合わない。特に、あの百合っ子ちゃんの場合はね。そうだろう?」 「…………」 そう──なのかもしれない。 そこまでシビアに考えることは、僕にはできないというだけで……、あれは、神原にとっては、あるいはしかるべき痛苦なのかもしれない。少なくとも、神原本人は、それを知ったところで、忍野に文句を言ったりはしないだろう。そういう奴だ。 「まあ、これで後は、あの百合っ子ちゃん次第だね。あの左腕がどうなるのかは、彼女自身の問題だ。二十歳まで、何事もなく過ごせれば──彼女は怪異から解放される」 「そうなれば──いいな」 「ふん。阿良々木くんはいい人だね。相変わらず──」 「なんだよそれ。なんだか、含むところのありそうな物言いだな」 「別に。羨ましくは──妬ねたましくはないのかと思ってさ。同じ人間以外から、さっさと人間に戻っちゃう、百合っ子ちゃんのことが、さ」 「……別に。僕は、もう、自分の身体のことに関しちゃ、納得いってんだからよ。整理整頓、終わってんだから──そんな、引っ掻かき回すようなことを言うなよ、忍野。神原にも余計なことを言うのはやめてくれ。あいつの負い目になりたくない」 「そうだね、悪かった。お札は本殿の戸に貼ったんだっけ? 仕事としちゃあちょっと横着おうちゃくだけど、まあいいや。それでよくないものは、ある程度、分散されるだろう」 「ある程度って……」 「素人しろうとが貼ったお札程度で状況はそう劇的に変わったりはしないよ。大体、劇的に変わっちゃまずいしね。あくまで自然の流れを、ちょっとゆがめる程度にしておかないと──別の場所で何が起こるかわからない。その意味じゃ、戸に貼るっていう横着な選択肢は、悪くない選択だったと思う」 「……なんで、お前にはできないことだったんだ? 怪異だろうがそれ以前のよくないものだろうが──それはお前の専門だろうに。それとも、神原の貸し借りをなくすために、仕事を無理矢理捻出ねんしゅつしたって形なのか?」 「それがないとは言わないけど、でも、僕には難しいことだったのは本当だよ。ほら、僕って見ての通り、細っちょろい肉体してるからさ。山登りをする体力なんてないのさ」 「旅から旅への放浪者の台詞じゃねえな」 「はっはー。見え透いてるかい? まあ、そうだね、今のは冗談だ。体力的な問題じゃない──もっとメンタルな話でね、阿良々木くんと百合っ子ちゃんが怪異であるがゆえに──だったように、僕は専門家であるがゆえに──よくないものを、変に刺激しちゃうのさ。向こうから襲い掛かってきたら、僕としては対応せざるを得ないし、そうすると、あんな吹き溜まりに絶好の真空地帯が生じちゃう。次に何が流れ込んでくるかわからないぜ──最悪の場合、忍ちゃんの再来だ」 「よくわからないけど……自然界のバランスを人間の都合で左右しちゃいけないって感じか? そのために、強過ぎる忍野よりも、僕や神原くらいが行った方が、連中にとって防衛意識が働きにくかった、とか……」 「ま、その理解でいいよ」 軽く言う忍野だった。 本当はもう少し複雑な事情なのだろうが──あるいは全然違う事情なのだろうが──この話をこれ以上突っ込んで聞いても、仕方がなさそうだ。 神原が、忍野に対し、これで貸し借りなくなった。 それだけはっきりしていればいい。 「百合っ子ちゃんだけじゃないよ」 忍野は飄々とした風に言った。 「阿良々木くんの貸し借りも、これで帳消しだ」 「……え?」 僕は、忍野からの思わぬその言葉に、驚きを隠すことができなかった。 「僕の借りって……確か、五百万円」 「金額にすればね。今回の働きは、それくらいのことはあったよ。何せ、妖怪大戦争を未然に防いだようなもんなんだから」 「そ、そんな大ごとだったのか……」 教えておいて欲しかったな、それは。 しかし、考えてみれば、あれほどの大事だった神原の貸し借りが、一気にチャラになるほどの働きだったのだ──僕の分も、相応に、そして相当に差し引かれるだろうというのは、予想できてもよさそうなものだった。自分を勘定かんじょうに入れないというのは、言葉の上ではなるほど美しいのかもしれないが、実際にはこんな風に、ただの間抜けって感じなんだな……。 「帳消しというか、僕としては阿良々木くんにはちょっとお釣りをあげたいくらいだよ。まあいいや。その子──その妹的存在のお嬢ちゃんについての話をしようか。聞いている限り、結構切羽せっぱ詰まっているみたいだし」 「そうなのか?」 「無事なのは、両腕と、首から上だけなんだろ? そりゃまずいよ。蛇切縄が顔まで来たら、それはもうそれまでだ。阿良々木くん。蛇切縄は、人を殺す怪異なんだ。それをよく、わかっておいてくれ。今回のケースは──割かし、マジだぜ」 「………………」 そうだろうとは──思っていた。あの鱗の痕から、そんな禍々まがまがしい気配は、感じていた。が、専門家の忍野の口から改めてそれを聞くと、重みがまるで違う。 死ぬ怪異じゃない。 殺す怪異──だ。 「蛇毒は人を殺す──というけどね。神経毒、出血毒、溶血毒、なんでもござれだ。ちゃんと血清けっせいを持って対処しないと、こっちだって巻き込まれちゃう。蛇は──難しいんだよ」 まあ、食材としては、存外、毒のある方がうまいというけどね──と、忍野。 「忍野……蛇切縄って、どんな怪異なんだ?」 「その前に、阿良々木くんが本屋さんで見たっていう、そのお嬢ちゃんが立ち読みしていた本のタイトルを教えてよ。あとでって言って、阿良々木くん、結局百合っ子ちゃんにまだ教えてあげてないでしょ? 何を読んでいたのさ、その子。それを見て、阿良々木くんは、その子に何かがあるって確信したようだけれど」 「ああ……いや、まあ、そのまんまなんだけどさ。『蛇の呪のろい全集』って、一万二千円のハードカバーだよ」 「……タイトルからすると、最近の本だね。戦前とか江戸とかって感じじゃない」 「まあな。表紙も真新しかったし」 ただし、そのタイトルは──前日に見た、五等分にぶつ切りにされた蛇の死体を連想させるには、十分だった。そもそもそれ以前に、日曜日に蛇の死体を見た段階で、直前に階段ですれ違った千石に、ある程度の疑いは向けていたのだが……その疑いが確信に変わったのは、その本のタイトルを見た瞬間だった。 長袖、長ズボン。 ただし、千石のあの長ズボンは──山の中に這入るからというよりは、脚にくっきり刻まれた、蛇の鱗の痕を見られないようにするためだったのかもしれない。 いや、確実にそうだろう。 こんな身体。 こんな身体、嫌だ──と。 神原には、きっと、千石の気持ちがよくわかるだろう。あいつの左腕の包帯もまた、猿の腕を隠すために巻いているのだ。咬まれた跡を隠すための僕の襟足などとは、考えてみればレベルが違う。そう言えば、神原も、包帯の下の左腕を僕に見せるとき、人に見られたくないからと僕を自分の家に招いたのだった。 そういう意味では、似た境遇の二人。 あの二人。 今、どんな話を──しているだろう。 …………。 口説いてないだろうな、あの百合っ子。 信用してるぞ……信用してるからな……。 「その本がどういう本なのか、僕は寡聞かぶんにして知らないけど……でもまあ、きっとその本に、蛇切縄のことは載っているんだろうね。蛇神遣いと言えば、『蛇の呪い』としちゃ、代表例みたいなもんだし──」 「蛇神遣いってのは、犬神遣いみたいなもんなのか?」 「まあ、そうだ。自然発生的な怪異じゃなくて──明白な、あるいは明確な、人の悪意によって遣わされた怪異ってわけさ。……まあ、悪意とは限らないけどさ。でも、蛇切縄を遣わすとなったら、こりゃ、悪意としか思えない」 「ああ……僕も、それは聞いたよ」 「うん? そうなの?」 「まあ、そうなんだ」 千石は、名前は明かさなかった。 あいつの引っ込み思案な態度は