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猫物語 白
猫物語 白
西尾維新
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“何でもは知らないけれど、阿良々木くんのことは知っていた。”完全無欠の委員長、羽川翼は二学期の初日、一頭の虎に睨まれた―。それは空しい独白で、届く宛のない告白...「物語」シリーズは今、予測不能の新章に突入する。
Categories:
Volume:
7
Year:
2010
Publisher:
講談社
Language:
japanese
Pages:
291
ISBN 10:
4062837587
ISBN 13:
9784062837583
Series:
〈物語〉シリーズ
File:
EPUB, 1.42 MB
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猫物語ネコモノガタリ(白) 西尾維新 目 次 猫物語(白) 第懇話 つばさタイガー 001 あ と が き 初出 本作品は、書き下ろしです。 第懇話 つばさタイガー 001 羽川翼はねかわつばさという私の物語を、しかし私は語ることができない。というのも、私にとって私とは、どこまでが私なのかをまずもって定義できないからだ。ふと伸ばした足の爪先までが自分であるとはとても思えないと記した文豪がいたはずだが、私だったら足を伸ばすまでもない、心そのものが、自分のものであるかどうかが疑わしい。 私は私なのか? 私とは何なのか? 私とは誰なのか? 誰とは──私で。 何が──私なのか。 たとえばこんな風に益体やくたいもないことをつらつら考えている思考は、果たして私と言えるだろうか? 言えるのかもしれない、言うだけなら。だけれどこれはただの思いであり、考えであり、ひょっとすると記憶かもしれないけれど、言うならば知識の積み重ねでしかない。経験こそが私と言うなら、ならば私とまったく同じ経験をした人間は、ひょっとすると私だと言ってしまってよいのだろうか。 私以外に私がいても、それは私で。 だったら私らしくない私は、私ではなくなってしまうのか──どう考え、どう思う? そもそも羽川翼という名前が既すでに不安定だ。 私は幾度いくどか苗字みょうじが変わっている。 だから名前にアイデンティティを求められないのである、少しも、まったく。名前なんてただの記号だという発想を、かなり根深い意味で私は理解してしまっている、言うならば体感レベルで。 怪異と向き合うにあたっては、対象の名称を把握することが何より大事──少なくとも第一歩ではあるそうなのだが、ならばこれまで私が私と向き合って来られなかった大きな理由は、私が自分の名前を自分のものとして認識していなかったからなのかもしれない。 ならば私はまず自分の名前を知るべきだ。 羽川翼を自分として知るべきだ。 それでこそ、初めて私は私を定義できるだろう。 もっとも、阿良々木あららぎくんはこんなことでいちいち悩んだり立ち止まったりしないんだろうなと思うと、私は自分がしているのであろう足踏みの滑稽こっけいさがおかしくなってしまう。吸血鬼になろうと、人間でなくなってしまおうと、様々な怪異にあちらの世界へ引ひき摺ずり込まれかけようと、それでもずっと阿良々木暦こよみであり続けられる彼の、確固とした自分、確固とした己おのれ自身のことを思うと、私は恥ずかしい。 彼に自覚はないのかもしれない。 周りから見れば明らかで、それはもう火を見るよりも明らかで、どんなときでもどんな場所でも彼は彼であり続けているのだけれど、案外自覚はないのかもしれない。 自覚するまでもなく。 自信を持って、阿良々木暦は阿良々木暦で。 彼はいつも、彼自身の物語を語ることができるのだろう。 だから私は彼が好きなのだ。 羽川翼は阿良々木暦が好きなのだ。 結局、私が語れる私とは、その辺りからスタートするしかなさそうだ。私の中で確実な部分は、おかしなことにそこしかない。たとえば図書館の机で、ひとり勉強しているときに、不意に思いついて、ノートの隅すみに『阿良々木翼』なんて名前を書いてにやけてしまうときのように。 私の物語は、それで十分。 サー・アーサー・コナン・ドイルの生み出した名探偵、シャーロック・ホームズの60編の冒険譚ぼうけんたんの中にたった二編だけ、助手のワトソン博士ではなく、シャーロック・ホームズその人が語り部べとなる短編小説が存在する。シャーロキアンの間では偽書ぎしょ扱いされたりもする問題作だが、その内の一編、『白面の騎士』の冒頭でホームズ氏はこんなことを言っている。 The ideas of my friend Watson, though limited, are exceedingly pertinacious. For a long time he has worried me to write an experience of my own. Perhaps I have rather invited this persecution, since I have often had occasion to point out to him how superficial are his own accounts and to accuse him of pandering to popular taste instead of confining himself rigidly to fact and figures. 'Try it y; ourself, Holmes!' he has retorted, and I am compelled to admit that, having taken may pen in my hand, I do begin to realize that the matter must be presented in such a way as may interest the reader. ご多分に漏もれず私はシャーロック・ホームズの超人さ加減に魅せられて、わくわくしながら彼の活躍を読んでいたものだから、突然語られた彼のこの『本音ほんね』に、面食めんくらってしまったものだ。 有体ありていに言えばがっかりした。 散々さんざん超人っぷりを披露ひろうしてきた彼が、どうして今更いまさらそんな人間っぽいことを言い出すのかと、裏切られたような気分になったのだ。 だけど今ならわかる。ワトソン博士の語る『超人』としての自分と、本人としての自分、そのギャップに耐えられなくなった彼の人間らしさが。 言い訳をしたくなった彼の気持ちが。 結局、名探偵は助手から、『だったら自分で書いてみろ』と言い返されてしまい、それで発表されたのがその二編ということなのだが──まあ、私にとってこの物語は、そういう物語であるということを最初に述べておこう。 阿良々木くんが大袈裟おおげさに、さながら歴史上の聖人や聖母のように語る私が、ただのひとりの人間であることを知ってもらうための物語だ。 私が猫であり、虎とらであることを。 そして人であることを知ってもらうための、軒並のきなみがっかりしてもらうための、裏切りの物語。 阿良々木くんのように上手じょうずにお話しできるとは思わないけれど、まずは行き当たりばったり、頑張ってみようと思う。きっと誰だれしも、そんな風に自身の人生を語るのだろうから。 さあ。 悪夢から目覚めるときがやってきた。 002 時に聞いた話だと、阿良々木くんは妹の火憐かれんちゃんと月火つきひちゃんに毎朝甲斐甲斐かいがいしく起こしてもらっているらしい。平日だろうと休日だろうと祝日だろうとお構いなしに、引っ切りなしに起こしてくれるとか。阿良々木くんはそれを大層迷惑たいそうめいわくがっているようだけれど、しかし私から見れば、それは『仲のいい兄妹きょうだい』という風でしかない。 と言うか、普通に羨うらやましい限りだ。 実に実に。 一体この世の中に、毎朝毎朝起こしてもらえるほどに慕したわれているお兄ちゃんがどれくらいいるというのだろう──もっとも、この場合私が羨んでいるのは阿良々木くん本人ではなく、阿良々木くんの寝顔を毎日見られる、火憐ちゃんと月火ちゃんのほうなのかもしれない。 いやもう、羨ましい限り。 実に実に。 で、そんな私こと羽川翼がどんな風に目覚めるのかと言えば、阿良々木くんが毎朝妹達に起こされるように、私は毎朝ルンバに起こされている。 ルンバというのはもちろん羽川家が飼っている猫の名前とか、羽川ルンバ的な奇抜きばつな名前の妹とかではなく、奇をてらわずにまんまアイロボットの自動掃除機そうじきであり、つまり型番で言えばルンバ577である。 毎朝六時にタイマーで自動的に作動するようセットされている、かの高機能な掃除機に頭をこつんと小突こづかれて、私は目を覚ますのだ。 爽やかに。 とは言えルンバは他の掃除機の例に漏れず結構な音を出しつつ清掃を行うので、廊下ろうかを這はって私に近付いて来る時点で、本当は私は眠りから醒さめてはいる──なのに頭を小突かれるまで起き上がることなく、目を閉じたままその『こつん』を待っているのは、ひょっとしたら『誰かに起こされる感覚』に、『起こされ感覚』に私が憧あこがれているからなのかもしれない。 詩的に言えば、眠り姫のように。 いや、相手が掃除機では、どう言ったところで詩的にはならないだろうけれど。 眠り姫って、我ながら。 ルンバのほうにしてみても、廊下を掃除している道中に寝ているヤツがいるのだから、いい迷惑でしかないだろう。 そう、私は廊下で寝ている。 一軒家いっけんやの二階、その廊下に布団ふとんを敷しいて寝ている。 私はそれを普通、極ごく当たり前のことだと思っていたのだけれど、どうやらそんなことはないらしい。なので、そうとは知らずにそれを話して友達をひとり失って以来、私はこのことをあまり大っぴらに話さないようにしている。 だからと言って、今更取り立てて自分の寝床ねどこが欲しいとは思わないけれど。 当たり前になっている。 当たり前を変化させたくない。 別に自分の部屋が欲しいなんて子供っぽいことは一度も思ったこともないし、そうそう、この子なら大丈夫だろうと、仲良くなってからクラスメイトの戦場せんじょうヶ原はらさんにはこのことを話したのだけれど、すると彼女は、 「なんだ、そんなこと」 と言った。 「私の家にはそもそも廊下がないわよ」 親子でワンルームのアパートに住んでいるという戦場ヶ原さんから見れば、贅沢ぜいたくな悩なやみなのかもしれない、そもそも悩んでないし。 いや。 違ちがうのかな。 推察するに私はこの家を、『自分の居場所』にしたくないのかもしれない。動物がするマーキングの逆みたいなもので──家から距離きょりを取っておきたいのかもしれない。 自分の痕跡こんせきを少しでも。 この家に残したくない。 そういうことなのかもしれない。 ……何故自分の心を推して察せねばならないのか、『かもしれない』としか言えないのかは、置いておいて。 「まあ、私がどういうつもりにしたって、あと数ヶ月先にはどうでもよくなってしまうことなんだから、あまり深く考えないようにしないと」 独り言を言いながら、私は布団を畳たたむ。 寝起きはいいはうだ。 というより私には『寝ぼける』という感覚が、よくわからない。 意識のオンオフが、多分必要以上にはっきりしている。 眠ければ寝ればいいのに。 そう思ってしまう。 「この辺の感覚が、私はきっと人とずれているんだろうな。阿良々木くんにもよく言われるし。『お前ができて当たり前だと思っていることは僕にとってはただの奇跡きせきなんだ』とか──でも奇跡は言い過ぎだよね」 独り言を続ける私。 外ではそんなことはないのだけれど、家の中だとどうしても独り言が多くなる。そうしていないと、言葉を忘れてしまいそうだからだ。 どうかとは思う。 そんな独り言の中で阿良々木くんのことを思い出して、自然とにやけてしまう自分のことも、同じようにどうかとは思う。 納戸なんどに布団をしまい、洗面所に行って顔を洗う。 それからコンタクトレンズを嵌はめた。 眼鏡めがねをかけていた頃ころは、眼球に直接レンズを貼り付けるなんて、怖こわくて怖くて考えたくもなかったけれど、そしてやっぱり最初の頃は、怖くて怖くて、目を閉じてレンズを入れていたくらいだけれど(これは比喩ひゆです)、こうして慣れてみれば何と言うこともなかった。 何事も慣れ。 むしろ鼻や耳に負担がいかない分、眼鏡よりも楽なくらいだ。 ただ、来年から先のことを思えば、コンタクトレンズにしても眼鏡にしても、何らかの不自由を伴ともないそうではあるので、いっそのこと、在学中に勇気を出してレーシック手術を受けてみようかとも考えている今日この頃である。 身なりを整ととのえ、ダイニングに向かう私。 そこでは、私の父親と呼ばれるべき人と、私の母親と呼ばれるべき人が、いつも通り同じテーブルで別々に朝食を食べていた。 彼らは部屋に入ってきた私を見もしない。 私も彼らを見もしない。 視界に入っただけでは見えたことにはならない、心の目はいくらでも逸らせる。心の目で見ることは難しくとも心の目で見ないことは易しい。 テレビでニュースキャスターさんが、今日のトップニュースを告げる声だけが、ダイニングには響ひびいていた。 どうしてなのだろう。 同じ部屋にいるふたりよりも、遠く離はなれたテレビ局にいるであろうニュースキャスターさんのほうが、近しく感じられてしまうのは。 本当にどうしてなのだろう。 なんなら彼女に「おはようございます」と挨拶あいさつしたくなるくらいだ。 そう言えば何年、この家の中で「おはよう」という言葉を、私は口にしていないだろう。試こころみに記憶きおくを探ってみたけれど、これがとんと思い当たらなかった。ルンバにおはようと言った憶おぼえは五回あったが(先述の通り、寝ぼけて言ったわけではなく、素すで言った。あの自動掃除機は、動きに妙みょうな生き物臭くささがあるのだ)、しかし、私の父親と呼ばれるべき人と、私の母親と呼ばれるべき人に言った憶えとなると、本当に一度もない。 ただの一度もだ。 へえ。 これは驚おどろく。 以前阿良々木くんに、『両親に対して、私のほうからはちゃんと歩み寄っていたつもりだ』みたいなことを言ったけれど、どうやらあれは真実とは違う言葉だったらしい。まあ、私の言うことが嘘うそばっかりなのは、今に始まったことではない。 私は嘘でできている。 真実からは程遠い存在──それが私、羽川翼だ。 苗字からしてインチキだしね。 音を立てないようにドアを閉めて、私はテーブルには向かわず、まずキッチンに向かう。朝食を作るためだけれど、少しでも、あの人達の座るテーブルに近付く時間を遅くしようという気持ちがないわけではない。 無駄むだな抵抗ていこう、というか、空しい抵抗だけれど。 その程度のレジスタンスは許されよう。 クーデターというほどではない。 私の家、とは、心の中ではあまり言いたくない羽川家のキッチンには、調理器具がとにかく多い。まな板は三枚あり、包丁も三本ある。ミルクパンもフライパンも、三個ずつ。とにかく何でも三つある。それが何を意味するかと言えば、そう、この家に住んでいる三人が、それぞれ別の調理器具を使用しているということなのである。 これも話して、友達を失ったエピソード。 お風呂ふろのお湯は一人入るごとに流して新しく張り直すとか、洗濯も個別に行うとか、その手のエピソードは枚挙まいきょに遑いとまがないのだけれど、しかし不思議なものだ。 私のほうはそれをまったく不自然だとは思っていないし、それで何人友達を失ってしまっても──だったら羽川家も他の家と同じようにするべきだとは、ちっとも思えないのだから。 家を出る時間が大体同じなので、朝食を食べる時間は『たまたま』揃そろってしまうけれど、それは食堂で相席になるのと似たようなもので、会話もないし.誰かが、ついでだから他の二人の分の朝食も作ってしまう、というようなこともない。 自分用の調理器具を選び、家事開始。 というほど凝こった朝食を作るつもりもない。 一人分炊たいたご飯をよそい、味噌汁みそしると卵焼き、お魚、それからサラダを用意して(食べ過ぎと言われることもあるけれど、私は朝食はがっつり食べるタイプだ)、三回にわけてテーブルに運ぶ。最後にもう一回、お茶を淹いれて往復おうふく。誰かが手伝ってくれれば四往復半もしなくていいのだけれど、もちろん、手伝ってくれるような人間はこの家にはいない。ルンバもそこまで手伝ってはくれない。 阿良々木くんが手伝ってくれたらいいのにな、なんて思いながらテーブルにつく私。 「いただきます」 手を合わせてそう言って、私は箸はしを取る。 他の二人がそう言っているのは聞いたことがないけれど、『おはよう』や『おやすみ』を言ったことはなくとも、私は『いただきます』と『ごちそうさま』は欠かしたことがない。 特に春休み以来は、一度も欠かしたことがない。 だってそれは私の血肉になってくれる、食材となる前は生き物だった、動物や植物に対する言葉なのだから。 こんな私のために殺された生命。 ありがたくいただきます。 003 私はご飯を食べ終わって、パジャマから制服に着替えて、それからすぐに家を出た。阿良々木くんは家を出るまでに八十ページくらいかかるらしいけれど、私はこんなものだ。これは明確に、なかなか部屋から出してくれない家族がいるか、いないかの違いだろう。 そんなわけで今日から新学期である。 そのことにほっとする。 心底救われた気持ちになる。 新学期はいつだって私の命の恩人だ。 休みの日は散歩の日──とは言っても、ふらふら出歩くにも限界がある。非行少女もいいところだ。夏休みから始まった、阿良々木くんの大学合格に向けた家庭教師というのは、阿良々木くんの学力向上のためというのは別の側面として、私が家に戻らなくてもいい口実、でもあったのだろう。 だから学校というのは──ほっとする。 胸を撫で下ろす。 まあ、散歩であろうと、家庭教師であろうと。 学校であろうと。 どの道最後には家に戻らなくてはならず、それほど憂鬱ゆううつなことはないのだけれど──そう。 私にとってそれはあくまで『戻る』であり、決して『帰る』ではない。 チルチルとミチルは、最後に幸せの青い鳥が自分の家にいたことに気付くわけだけれど、だったら自分の家を持たない者は、どこに幸せの青い鳥を求めればよいのだろう。 それとも求めるものが違うのだろうか。 求めるべきは青い鳥ではなく。 白い猫──だとか。 大体、多少ネガティブなことを言わせてもらえば、たとえ幸せの青い鳥が自分の家にいたとしても、同じように不幸の猛獣だって潜んでいないとは限らない。 そんなことを考えながら歩ほを進めていると、おやおや、私の行く手に、ツインテールの少女が現れたではないか。 「これはこれは。羽川さんではありませんか」 少女──八九寺真宵はちくじまよいちゃんは、そんな風に振ふり向いて、とてとてと私のほうに愛くるしく駆かけ寄ってきた。その一挙一動が可愛すぎる。その可愛さが阿良々木くんを狂くるわせてしまうことを、彼女はどこまで自覚しているのだろうか。 「今日から学校のようですね、羽川さん」 「うん。そうなんだ」 「学業に勤いそしむというのも並々ならぬ重労働ですよねえ。かく言うわたしも小学生の身ではありますが数々の艱難辛苦かんなんしんくを乗り込えつつの日々に身をやつしております。夏休みも大量の宿題にこの身を圧おし潰つぶされそうになりながらの、戦いの記録だったと言ってよいでしょう」 「へえ……」 この子やっぱり阿良々木くん以外の人間と喋しゃべるときは全然噛かまないなあ、とか、そんなことを思いながら、私は応対する。 「真宵ちゃんは何してるの?」 「阿良々木さんを探しています」 そう言った。 これはこれは。 こっちがこれはこれは、だ。 阿良々木くんが真宵ちゃんを探して徘徊はいかいするというのならわかるけれど、真宵ちゃんが阿良々木くんを探しているとは、これは本当に珍めずらしい。 いや、そう言えば前にも似たようなことはあったかな? あのときは確か、忍しのぶちゃんが行方不明になっていたんだったか──だとするとひょっとして、またぞろ、そんなことが起こったのだろうか。 表情からそんな私の杞憂きゆうを見抜みぬいたようで、真宵ちゃんは、「いえいえ」と言う。 「別に何か大仰おおぎょうなことがあったというわけではないのです。ただ、ちょっと阿良々木さんの家に忘れ物をしてしまったので、それを返してもらおうと思いまして」 「忘れ物?」 「ほら」 と、真宵ちゃんは私に背中を向ける。 別に何もない、可愛らしい背中だと思ったけれど、よく考えてみれば何もないことがそもそもおかしい。真宵ちゃんは、いつでもどこでも、大きなリュックサックを背負っているというのがチャームポイントなのだ。 そのリュックがない。 これはどうしたことだろう。 「ていうか、何? 今真宵ちゃん、なんて言った? 阿良々木くんの家に忘れ物?」 「はあ。昨日、彼に連行されまして」 真宵ちゃんは私に背を向けたままで、困ったように言う。 「その際にわたし、迂閲うかつにもリュックを忘れてしまったのです」 「連行……?」 「無理矢理連行されました」 「……いや、犯罪性が増したけど」 あと一回訊きき直したら連行が暴行になるかもしれなかったので、私はあえて追及しない。とにかく、真宵ちゃんは阿良々木くんの家に、リュックサックを忘れてきたらしい。 それはまた大胆な忘れ物だ。 「でも、だったら、阿良々木くんの家に行けばいいじゃない」 座標が全然違う。 どうしてこんなところに。 「もちろんあのかたの家には最初に行きました。でも、既に出られたあとのようで、自転車がありませんでした」 「へえ……? でも、阿良々木くんがこんな早くに学校に行くかな」 私は一分一秒でも早く家を出たいのでなるべく早めに登校することにしているけれど、阿良々木くんの場合、たとえそうしたくとも、なかなか妹達が外に出してくれない、言ってしまえば常日頃から軽く軟禁なんきん状態にあるはずだから、もしも早朝に家を出たというなら、学校に向かう前によっぽど重要な理由があるからか── 「あるいは、重要な理由はあり終わっていて、阿良々木くんは昨日の夜からずっと帰っていないのか、かもね」 早めに出たのではなく。 未いまだ帰っていないのか。 「ああ、その発想はありませんでした。さすが羽川さん、名推理めいすいりですね、確かにその可能性はあります。わたしが阿良々木さんの家からなんとか逃にげ出した後、あるいは何かのっぴきならない事件があったのかもしれません」 「そうだね」 なんとか逃げ出した、という、既にのっぴきならない物騒ぶっそうなフレーズはスルーしておこう。追及すると、なんだかもう色んな残念な事実が表沙汰おもてざたになってしまいそうな気がする。 「まあどちらにしろ、こんな時間に直接学校に行ったとも思えませんので、こうして適当に阿良々木さんを探す健気けなげなわたしというわけです」 「真宵ちゃん、人探しには向いてないよね」 あてずっぽう過ぎる。 そんな探し方でどうやって阿良々木くんを見つけるつもりなのか。手探りどころか、何の手掛てがかりもなく。 「いえいえ。だからこそ、こうして羽川さんとお会いできたのですから、わたしの探索たんさく能力も捨てたものではありませんよ」 「前向きだね……」 「ま、わたしと会えてしまったことが、羽川さんにとって幸運なのかどうかはわかりませんが?」 「? なんで? この界隈かいわいでは、真宵ちゃんは会えたらその日必ずいいことがあるという、ラッキーアイテムとして伝えられてるんだよ」 「変な伝承でんしょうを作らないでください……」 もちろん出典は阿良々木くんだ。 彼はこの手のデマを語らせたら右に出る者はいない。 なかなか素質のある怪談の語り手である。 「じゃあ、学校で阿良々木くんに会ったら、真宵ちゃんが探していたって伝えとくね」 「よろしくお願いします」 真宵ちゃんはそう言ってぺこりと丁寧ていねいに頭を下げ、愛くるしくとてとてと、歩いていた方向へと戻っていった。 当たり前だけれど阿良々木くんとそうしているようには、私と長話をしてくれない。真宵ちゃんみたいな可愛い子と同じ視点でお喋りできる阿良々木くんは羨ましいし、阿良々木くんといつまででもお話できる真宵ちゃんのことも、やっぱり羨ましいと思う。 阿良々木くんはそれを当たり前のことだと思っている節ふしがあるけれど。 私に言わせればそっちのほうがよっぽど奇跡だ。 羨ましい。 「ではでは! 近いうちにまたお会いしましょう羽川さん!」 と、離れたところでもう一度振り返ってくれ、真宵ちゃんはそんな風に手を振る。 私も同じように手を振り返す。 「うん! またねー」 「これから起こるわたしと阿良々木さんとのエピソードは次回作で!」 「露骨ろこつに伏線ふくせんを張らないで」 伏線と言うか、もう番宣だ。 私は阿良々木くんが真宵ちゃんにしているように、最後くらいは突っ込んだのだった。 004 怪異に遭あえば怪異に引かれる──と言う。 らしい。 それは引かれるなのか、惹ひかれるなのか、曳ひかれるなのか、あるいは轢ひかれるなのか、深く考えれば考えるほどそれぞれが密接にかかわりあって、混沌こんとんとしてわからなくなっていくけれど──忍野おしのさん曰いわく、一度でも怪異に『遭遇そうぐう』してしまった者は、その後の人生において、怪異に遭いやすくなってしまうそうだ。 そこに理屈りくつはない、とあの人は言っていたけれど、私はそこに理屈をつけられるように思う。それも、不可思議でも何でもない、実際的な理屈が。 何にでも理屈をつけてしまう私の悪い癖、悪どい癖かもしれないけれど。 要はそれは、記憶と認識の問題だ。 誰だって、『ある言葉』を新しく知った途端とたん、やたらとその言葉を目にする機会が増えたという経験をしたことはあるだろう。 たとえば『にこごり』という言葉を覚えたら、新聞や小説を読んでいる最中、もしくはテレビや映画を見ている最中、『にこごり』がやけに耳につくようになったとか。 言葉でなくとも、音楽や名前でも、同じ現象は起こる。 知れば知る。 知るほど知る。 知識はイコールで認識であり、記憶であり。 知ってることだけである。 つまり『それ』を認識する回路が頭の中にできてしまったから、日々流れ込んでくる膨大ぼうだいな情報の中、今までスルーしていた『それ』をすくい上げられるようになった、ということだ。 怪異はどこにでもある。 怪異はそこにしかない。 それに気付くか気付かないか、だけの話。 だからこそ一回目が重要。 最初の一回が、最重要なのだ。 阿良々木くんなら鬼おに。 戦場ヶ原さんなら蟹かに。 真宵ちゃんなら蝸牛かたつむり。 千石せんごくちゃんなら蛇へび。 神原かんばるさんなら猿さる。 火憐ちゃんなら蜂はち。 そして私なら──猫。 ……で、どうしていきなりこんな話をしているのかと言えば、それは今、私の目の前にいるからである。 何がって。 怪異が──である。 「うわ……」 普通怪異に遭えば、人は思うはずだ。 この世にお化けなんているはずがない、この世に妖怪なんているはずがない、今自分が見ているものは怪異なんかじゃない──と。 思うはずだ。 しかし今、私はまったく正反対のことを思い切り思っていた。 目の前の『それ』が、怪異であってくれと、本気で願っていた。 だって──虎。 虎である。 私のすぐ目の前を、悠然ゆうぜんと虎が歩んでいたのだ。 黄色と黒の縞々しましま。 絵に描いたような虎。 真宵ちゃんを見送って、すぐだった──曲がり角を折れたら、その先に虎がいたのだった。いや、こんな風に文章に起こしてみても、リアリティゼロ、全然現実味を帯おびてこない。 帯びてこないのだから現実ではないのだろう。 怪異なのだろう。 と言うより、是ぜが非ひであっても怪異であってくれないと困る──その虎と私との距離は、五メートルもない。手を伸ばせばその縞々に触れられそうでもある。もしもこの虎が怪異でなく現実の虎、そう、仮に動物園から逃げ出してきた虎だったりしたら、間違いなく私の命はない。 逃げようもない距離である。 食される。 いただきますされる。 命のバトンを渡してしまう。 ところで高度に発達した科学は魔法まほうと区別がつかないというけれど、怪異も行き過ぎれば現実と区別がつかない。 この独特の獣臭けものしゅう、重厚なまでの存在感、どれを取ってもすさまじく、現実味はなくとも現実的ではあったけれど、リアリティはなくともリアルのかたまりのようでもあったけれど、大丈夫、親愛なるあのニュースキャスターさんは、動物園から脱走した虎の話なんてまったくしていなかったはず。 『……■■』 虎が──唸うなった。 漫画まんがに出てくる猛獣もうじゅうのように、わざとらしく『がおー』と吠えてくれたりはしない。 そして足を止め、虎は私を睨にらみつけた。 しまった。 目が合ってしまった。 この虎が現実であろうと怪異であろうと──目が合うのはまずい。 現実の虎ならもちろん、それだけで十分に襲おそわれる理由になるし──怪異の虎なら、私が向こうを認識するのと同じくらい、いやそれ以上に、向こうが私を認識することはまずいのだ。 私は即座そくざに目を逸らす。 虎を視界から外はずす。 虎がそれをきっかけに動くということはなかったけれど、しかし、とは言え私もまた、その場から動くことはできなかった──結果として相手が動物だとしても怪異だとしても、中途半端ちゅうとはんぱな対応を取ってしまったことになる。 逃げるなら逃げればよかったのに──どうして私は、ここから逃げない。 逃げれば助かるのに。 なぜ逃げない。 私は。 「…………」 どのくらいそうしていただろう。 こういうとき、何時間もそうしているかのようだったとか、あるいは逆に、あっという間のようだったとか、そういう表現が使われることがあるけれど、正直、そんなことを考える余裕よゆうもなかった。 私の心は思いのほか狭量きょうりょうで。 ここにいることもここにいないこともできなくて、これじゃあ私自身が怪異のようで──そして遂ついに。 『ふむ。白い』 と。 虎が喋った。 怪異確定。 『白くて──白々しらじらしい』 言って(当然、語尾ごびに『がおー』と付けることもなかった)──あっさりと虎は止めていた四本の足をゆらりと、のっそりと動かして、私の横を通り過ぎて行った。 虎という生き物を間近で見たことがない私には、これまで五メートル先にいた対象との遠近感がまったくつかめなかったけれど、すぐ隣となりを通られるとき、その胴体どうたいが私の頭部よりも高い位置にあることを見せつけられ、改めてそれが、現実ではありえない巨大さだと思い知った。 振り向くべきではなかっただろう。 通り過ぎてくれるなら、そのまま通り過ぎてもらうべきだ──向こうが目を逸らしてくれたのだから、尚更こちらから目で追うべきではない。 けれど私は。 白い。 白くて──白々しい。 私は、その虎が、私に言った言葉に捕とらわれてしまい──何も考えず、警戒けいかいさえなく。 振り向いてしまった。 なんとも愚おろかしい。 ゴールデンウィークを含ふくむ、一学期の教訓がほとんど生きていない。これでは阿良々木くんのことを何も言えない。 いや、私の場合。 阿良々木くんよりはるかに酷い。 「……あ」 でも、幸い。 と言うべきなのか、どうなのか。 いや、もちろん、明らかに言うべきではないのだろうけれど。 振り向いたところには、何もいなかった──虎はおろか、猫一匹いなかった。 ただの道である。 いつも通りの通学路だ。 「……参ったな」 と言ったのは、虎が消えていなくなったからではなく、左手首の時計を見たからだ。 八時半。 私はどうやら、生まれて初めて、遅刻ちこくというものをしてしまうことになるらしい。 005 「戦場ヶ原さん、聞いて聞いて。私、今日学校に来る途中に、虎さんと出会っちゃった」 「あらそう。ところで羽川さん、私はその話を詳くわしく聞く義務があるのかしら? 聞いて聞いてというのは、前置きじゃなくてマジなお願い?」 始業式が終わって、三々五々、皆が教室に帰っていく中、私は同じクラスの戦場ヶ原さんのところに駆け寄った。 そして今朝けさの話をする。 すると戦場ヶ原さんは、ちょっと嫌いやそうな顔をして、露骨ろこつに嫌そうな反応を返してくれたわけだ。もっとも闇雲やみくもに拒絶するようなことはなく、 「何?」 と先を促うながしてくれる。 彼女は夏休みの間に、腰こしまで伸のばしていた髪かみをばっさりと切っていて、その後すぐに父方の実家に帰ってしまっていたので、阿良々木くんにとってはともかく、私にとっては髪の短い戦場ヶ原さんというのは目新しい。 元々整った顔立ちをしているので、長くても短くても、どんな髪型でもあつらえたように似合う感じだが、一学期の彼女にあった『深窓しんそうの令嬢れいじょう』という雰囲気ふんいきは、そのトリミングによって完全に消えてしまっている。 それはクラスメイトの間で密かに物議ぶつぎを醸かもしていたが(私が髪を切ったときより、それは醸していたかもしれない)、私に言わせれば女子高生にとって『深窓の令嬢』という言葉は悪口に限りなく近いので、いいことだと思うのだ。 「虎って言った? 羽川さん。猫じゃなくて」 「うん。猫じゃなくて虎」 「虎縞の猫じゃなくて?」 「うん。虎縞の虎」 「虎縞の縞馬しまうまじゃなくて?」 「それは普通の縞馬だと思うけれど、うん、違う」 「練馬ねりま区を縞馬区に改称したら住民票を移す人が増えると思わない?」 「思わない」 ふむ、と戦場ヶ原さんは領うなずいて、 「こっち」 と私の手を引く。 物陰ものかけに連れて行かれた。 ホームルームまではちょっと時間があるので、列から離れようということらしい──確かに教室で人目もはばからずにするような話ではない。 体育館の裏。 という言葉を使うと、なんだかちょっと怖い雰囲気があるけれど、去年の女子バスケットボール部の活躍かつやく以来、体育館付近の管理は非常に行き届いているので、むしろ健康的に開けた場所である。 天気もいいし、女子が恋バナに花を咲さかせるのには相応ふさわしい環境かんきょうだけれど、私達はそこで怪談に花を咲かせるわけだ。 花を枯らす、と言うべきかもしれない。 「虎を見たって……それは羽川さん、大変な事実じゃないの?」 「そう思うんだけど。あ、でも違うの、現実の虎さんじゃなくって、多分怪異だと思うの。喋ってたから」 「そんなの一緒でしょう。何も変わらないわ。現実の虎だって、日本人にしてみれば怪異みたいなものなんだから」 「ああ」 それはそうだ。 相変わらず戦場ヶ原さんは、ものの見方が大胆である。 リアリスティックな大胆さ。 「パンダが妖怪って言われたら、私は信じるわ」 「うーん、それはどうだろう」 「キリンなんて、完全に轆轤首ろくろくびじゃない」 「戦場ヶ原さんにとって、動物園ってお化け屋敷なんだね」 かもしれないわ、と頷く戦場ヶ原さん。 素直だ。 「しかし羽川さん、予想外のものに遭ったわね、あなた──というかさすがと言わせてもらいましょう。虎って。虎って。虎って! なんだかもう、スタイリッシュ過ぎるじゃない。蟹。蝸牛。猿。火憐さんは、確か蜂だっけ? そういう並びで来たところに、虎って。みんながそれぞれ突出とっしゅつしないように気を遣つかって並んでゴールする徒競走のように、仲良くフラットにこれまでやってきたところに、空気を読まないにも程があるわ。下手へたすれば阿良々木くんの鬼よりも格好いいじゃない」 「そういうものの見方も、戦場ヶ原さん独自のものだよね……」 「何かされたの?」 「いえ、何もされてない──とは思うんだけれど。ただ、こういうのって、自分じゃわかりにくいものだから。だから訊いてみたかったの。今の私、どこかおかしいところ、ない?」 「ふうむ。確かに欠席ならともかく、遅刻というのは羽川さんらしくなかったわね。でも、そういうことじゃないのよね?」 「うん」 「失礼」 言って、戦場ヶ原さんは私に顔を寄せてきて、じろじろと私の肌はだを見る。舐なめるように見る。肌というか、眼球とか、鼻とか、眉まゆとか、唇くちびるとか、そういう部位部位を検分するように。 顔が終わると再び手を取られ、爪つめや、あるいは手の甲に浮き出る血管などをためつすがめつ。 「……何をしているの? 戦場ヶ原さん」 「異常がないか確かめているのよ」 「本当?」 「少なくとも最初はそうだったわ」 「じゃあ今は何をしているの?」 「目の保養をしているのよ」 振り切った。 全力で。 戦場ヶ原さんは「あっ……」と、とても残念そうな顔で、私を見るのだった──いや、まあ、冗談じょうだんで言っているのだとは思うけれど。 意外と冗談好きの戦場ヶ原さんである。 ……冗談であって欲しい。 最近阿良々木くんからついに教えてもらった、神原さんの嗜好しこうとかを思い出すと、より一層いっそう。 「で、どう?」 「大丈夫。あと十年は戦える肌よ」 「そういうことじゃなく」 「見た感じ、何かってことはないわね──虎耳が生はえているわけでもないし」 「虎耳って」 猫耳が生えた経験を持つ私にしてみれば、軽口かるくちでは済まない話だけれど、それだけにリアリティのある例たとえだったので、あえて大袈裟に笑いつつも、さりげなく頭部を確認する私だった。 大丈夫。 生えてない。 「ただ、怪異に遭遇して、即座に異常が起こると決まっているわけではないから──タイムラグのことを考えると、まだ安心はできないわね」 「だよね」 「明日の朝起きたら、羽川さんが虫になっているという可能性も決してないわけではないわ」 「それは飛躍ひやくしすぎだと思うけれど」 せめて虎をからめよう。 カフカ好きはわかるから。 「でも、そういうことなら私よりも阿良々木くんに相談したほうがいいと思うわよ。私は確かに、蟹の怪異に出会ったことはあるけれど──それで散々苦しんできたけれど、だけれど、それに対応する方法やそれに関する知識を、他人よりも持っているわけではないのだから」 「ん。んん。そうなんだけど」 その通り。 怪異に遭ったからと言って、それは経験を積んだことにはならない。 むしろ積めば積むほどノンキャリアだ。 こんなこと、戦場ヶ原さんに相談しても、戦場ヶ原さんは困るだけなのだ。ひょっとすると、傷口を扶えぐる結果にさえなりかねないくらいである。 「でも阿良々木くん、今日はお休みみたいだし」 「え?」 きょとんと首を傾かしげる戦場ヶ原さん。 「始業式の列の中にいなかったっけ、彼──いないことに気付かれないとは、いることに気付かれない以上の存在感のなさね」 うふふ、と笑う彼女。 ぞくっとする。 たまに滲にじむ、阿良々木くんが言うところの『毒舌時代』の彼女の残滓ざんしである。 もっとも夏休みの間にその辺りの毒はすっかり抜けて、今の言い草にしても、明らかに冗談とわかるそれだったけれど。 人間は変われる。 彼女はそんな実例と言ってよかった。 「まあ、出席日数のほうは、もうあまり考えなくてよくなったと言うけれど、私の愛いとしのダーリンはどうしたのかしら」 「ダーリン言うな」 変わり過ぎだ。 さすがにキャラが繋つながらない。 「そう言えば今朝、虎さんと出会う前に真宵ちゃんにも会ったんだけど、あの子の話から推測すると、やっぱり何かしているっぽい──わ」 「何か、ね」 やれやれと言うように、首を振る戦場ヶ原さん。 ややオーバーなリアクションだけれど、それでもまあ的確な、呆あきれの表現である。 「例によって例の如ごとく、かしら」 「かもね。目の前のことしか見えない男だから」 「電話してみた? それか、メールとか」 「うーん、憚はばかられて」 確実に活動中である彼を、煩わずらわせたくないという気持ちが強い。学校に来て、阿良々木くんがいたならば、そりゃあいの一番に相談していただろうけれど、電話をかけたり、メールを作成してまで、と思ってしまう。 遠慮と言うより、これはむしろ彼の身を案じてという感じだ。 「そう」 と頷く戦場ヶ原さん。 「羽川さん。あなたはもう少し図々しくなっていいと思うけれど」 「図々しく?」 「図太ずぶとく、かしら。あの男はあなたから頼たよられることを、どんな状況でも迷惑だなんて思わないわよ。それくらいわかってるでしょう?」 「うーん、どうかな」 戦場ヶ原さんの言葉に、私は戸惑とまどってしまう。 「あんまり、わかってないかも」 「それとも私に対する気遣きづかい?」 「まさか。それはない」 「ならいいんだけれど」 ふう、と、戦場ヶ原さんは、今度はため息をつく。 深いため息を。 「まあ、まだ何かが起きると決まったわけではないし、あまり神経質になるのもよくないわよね──それで気に病やんでも、元も子もないし。病んでれても、元も子もないし。でも、羽川さんじゃなくて、他の誰かがその虎に襲われるという可能性もないじゃない以上、やっぱり阿良々木くんに相談するしかないとは思わない? 私だけでなくあなたも、虎であろうと獅し子しであろうと、怪異本体と戦える力があるわけじゃないんだから。あなたもまた、私同様知識はあっても経験はない、耳年増みみどしまなんでしょう?」 「そうだけど……」 その言い方だと別の意味を帯びてきそうな。 わざとかどうか、微妙びみょうなラインだ。 阿良々木くんならそこを見極めて、見事に突っ込んでみせるのだろうけれど。 私にそのスキルはない。 「怪異と戦えるのは吸血鬼きゅうけつきを影かげに飼っている阿良々木くんくらいのもの──まあ、神原はその気になればって感じなんだけれど、あの子に無理はさせるべきではないし」 「うん」 その辺はおぼろげに聞いている。 左腕の包帯ほうたい──だろう。 それについては遠慮とかではなく、もっと実際的な問題として──危うい。怪異のことは解決したとは言っても、神原さんは常に爆弾ばくだんを抱えて生きているようなものなのだから。 あるいは彼女自身が爆弾とでも言おうか。 ……まあ、それを言い出してしまえば、阿良々木くんだって同じなのか。だから私は、彼に電話をかけられないのだろうか。 とも思うけれど。 そんな理由じゃないことは──わかっている。 結局、戦場ヶ原さんの言う通りで。 私は阿良々木くんに対して、図々しくなれないのである。 その理由は、きっと呆れ返るほどに明確で── 「羽川さん、阿良々木くんに『助けて』って言ったこと、ある?」 「え?」 唐突とうとつな問いに、我に返る私。 驚いてしまった。 「何? 『助けて』? ……どうだろ。日常会話の中で、あまり言いそうな言葉じゃないけど……多分、ないんじゃないかな」 「そう。私もないわ」 戦場ヶ原さんはそう言って天を仰あおぐ。 「だって彼は、そう言う前に、私達を助けてくれちゃうものね──人は一人で勝手に助かるだけ、とか、聞いた風なことを言いながら」 聞いた風なこと、というか、それは本当に、聞いたことである。忍野さんが、散々繰り返して言っていた台詞せりふ。 「蟹のことだけじゃなく、そうね、神原とのことだったり、貝木かいきとのことだったり、他の色んなことでも、彼は私を、陰に陽に助けてくれたわ。でも、何も言わなくても助けてくれるからって、何も言わなくてもいいということにはならないと思うのよ」 「? どういうこと?」 「いえ、だから、ひょっとしたら羽川さん、自分からは何も言わないうちに阿良々木くんが助けてくれるのを期待しているんじゃないかって思って」 「……ああ」 うーん。 そんな風に見えるだろうか。 しかしそう言われてしまえば、全面的な否定はできないというのも悲しい事実ではあった。 自分からは歩み寄らず。 相手から歩み寄ってくれるのを待っている? そんな自分が──しかし、いないとは言えない。 私の中には黒い私がいて。 それは中にいるだけ、誰よりも私に近い。 「素直に頼ってあげていいと思うわよ。彼はいつだってそれを望んでいる。昔、ゴールデンウィークにあなたにそれができていたら」 と。 言いかけて──戦場ヶ原さんは、途中で言うのをやめた。 途中でも、言い過ぎだと感じたのかもしれない。 けれど謝るでもなく、彼女は気まずそうにするだけだった──まあ、謝られても困る。 そんな筋合いはない。 「そろそろ教室に戻ろっか?」 私は言った。 別段、気まずそうな彼女への助け舟というわけでもない。時計の針を見れば、本当にもう、戻らなければならない時間だったのだ。階段は駆け上らねばならないくらいである。 「そうね」 頷く戦場ヶ原さん。 「無理強じいはしないけれど、何かあったとき、一人でなんとかしようと思っちゃ駄目だめよ。あなたはいまだにその傾向が強いから──阿良々木くんに迷惑をかけるのが嫌なら、何にもできないけれど、私を巻き込んで頂戴ちょうだい。そうね、一緒に死んであげることくらいはできるわ」 とんでもないことをさらっと言って、戦場ヶ原さんは校舎のほうへと歩み出す。更生こうせいしたと言っても、その辺りの、なんと言うのだろう、強烈きょうれつな強さは健在という感じだった。 ま。 ありていに言えば、戦場ヶ原さんは更生したというより、可愛くなったというだけのことなんだけどね。 阿良々木くんの前では、特に。 阿良々木くんは、自分の前にいる戦場ヶ原さんしか知らないから、それに気付くのにはもう少し時間がかかるかもしれないけれど。 教えてやるもんか。 とか。 そして私達は揃って、教室に戻った──下手をすればもうホームルームが始まっているかもしれないと危うんでいたけれど、それはなかった。 いや。 担任の保科ほしな先生は、既に教室にいらしていたのだ。 だから本来、ホームルームは始まっているべきだった──だけど、保科先生を含むクラスのみんなが、全員グラウンド側の窓に張り付くようにしていて、誰も座っていなかったのだから、これはホームルームも何もあったものではない。 どうしたのだろう。 何か見えるのだろうか。 「あ」 と、私の隣で戦場ヶ原さんが呟つぶやく。 彼女は私よりも随分すいぶん背が高いので、先に『それ』に気がついたのだった──厳密に言えば、みんなが何かを見ているらしいと知った時点で、彼女は靴くつを脱ぬいで、その辺の椅子いすの上に立っていた。 この辺り、見た目とは裏腹に意外と活発な彼女である。 私はそんな度胸どきょうはなかったので、普通に寄っていって、皆の隙間すきまを縫ぬうようにして、窓の外を眺ながめてみる。 みんなが何を見ているのか、すぐにわかった。 「……火事だ」 私は思わず、呆然ぼうぜんとなって。 家の外では──滅多めったに言わないはずの独り言を、言ってしまった。 遠く離れた、ここからでは豆粒まめつぶのようにしか見えない位置で、しかしここまで音が届かんばかりの勢いで、轟々ごうごうと燃え盛る火を見て。 言ってしまった。 「私の家が火事だ」 あの家を、私の家と──言ってしまった。 006 知らなかったことがふたつある。 日々勉学に勤しんでいる教室の窓から、私が暮らしているあの家が見えるということを、まず私は知らなかった。別に今までだって、窓際に立ち、外を眺める機会はあったのに。 どうして気付かなかったのか。 どうして見えなかったのか。 もちろん見えてはいたのだろう、けれど、意識に認識されなかった──要は『怪異に遭えば怪異に引かれる』のとは逆の理屈で。 私は意識からあの家を押しのけていたのだと思う。 で、もうひとつ知らなかったことは、あの家が燃えるということが、思いのほかショックだったということである──私は唖然あぜんとしてしまった。 頭の中が真っ白になるくらいの。 酷ひどい衝撃を受けた。 阿良々木くんはその辺を誤解しているようだけれど、私はそんな出来た人間ではない──人並みに破壊衝動はかいしょうどうは持っている。ゴールデンウィークの悪夢を経験してさえ、彼は私の人間性に過剰かじょうな信頼をおいてくれているが──否、それは案外、見て見ぬ振りをしてくれているだけなのかもしれないが──私ははっきりと、『あんな家、なくなってしまえばいいのに』と願ったことが、幾度かある。 だけどまさか本当になくなるとは思わなかったし。 なくなった際、ここまでの喪失そうしつ感があるとは思わなかった。 愛着があったわけではない。 それに自分の家だと思っていたつもりもない──うっかりそう言ってしまったけれど、あんなのは気の迷いだと思う。 ただ、気が迷う程度には、思い入れがあったことも、揺ゆるぎなく事実なのだろう。 それがいいことなのか? 迷いはあった。 そう、それは事実だ。 それとも悪いことなのか? どちらとも取れそうだけれど、しかしどちらだったところで、今更手遅れだ。 なくなってしまったのだから。 私が十五年過ごしたあの家は。 永遠に失われてしまったのだから。 遅刻した身であることも構わずに保科先生に早退を申し出て、当たり前だけれど即座に許可されて、神原さんじゃないけれど走って家に戻ってみると、現場は消防車やら見物人達に囲まれていたものの、既に鎮火ちんかした後だった。 鎮火して。 何もなくなっていた。 隣家に延焼えんしょうこそしなかったものの、柱一本残らない全焼という奴である。 これは火災保険を受け取るに際して非常に有利であり、この件における救いのひとつと言えるかもしれない。 いやらしい話ではあるけれど、一番大事なことだ。 ああ、違う違う。 一番大事なことは、もちろん人命で──これについては、しかし何の心配もいらなかった。私は学校に出ているし、私の両親と呼ばれるべき『残りの二人』も、午前中に家に戻るなんて可能性はほとんどない。 三人が三人とも。 ここを家だなんて思っちやいないんだから。 場所であって、家でない。 でもルンバは燃えちゃったんだろうな、と、私は、毎朝甲斐甲斐しく私を起こしてくれていたかの自動掃除機を悼いたんだ。 家よりも悼んだ。 さて、ルンバのほかにも色々燃えてしまったけれど、と言うかすべて燃えてしまったけれど、まあ、私はあくまで一介いっかいの高校生の身であり、元々大したものは持っておらず、そのことで困るということはない。 強いて言うなら、衣類が全部燃えてしまったのが困るかな。 いや、それは私の父親と呼ばれるべき人と、私の母親と呼ばれるべき人も同じかもしれない──あの二人にしたって、大事なものを家には置いてなかったのではないだろうか。 大切なものは職場に置いていたのでは。 そう思う。 あの家は。 大切なものを置きたい場所ではなかった。 汚れる気がして。 まあ、いずれにしても、私は知らないことだらけだということだ──家が燃えて初めて気付くことも、たくさんある。 私はその人に直接会ったことはないけれど、つまりこういうのが、例の詐欺師さぎしさん、貝木泥舟でいしゅうさんの言うところの得るべき教訓、というところなのだろうか? わからないけれど。 知らないけれど。 で、知ってる知らないはともかくとして──これで私が路頭に迷う羽目に陥おちいってしまったのは確かだった。 好きでもなんでもない、休みの日には用がなくても居辛いづらくて出掛けてしまうような場所ではあったけれど、それでも、寝起きができる場所があるというのがどれほどありがたいことだったのか──ともあれ、この件で羽川家は、久し振りの、家族の対話を持つことになった。 対話? いや、ああいうのを普通のご家庭では、対話とは言わないだろうことは、さすがの私にでも想像がつくけれど。 あんなの、家族会議でも何でもない。 意見の交換こうかんであり。 交流ではない。 家が焼けてしまえば、当然の流れで、色々と煩雑はんざつな手続きが生じることになるが──今のところ火災の原因さえ、まったく不明のままだ。放火の疑いさえあるというのだから恐おそろしい──、それは長期的な問題であり、また子供である私にできることはなく、この日話し合われたのはさしあたって当面の問題、つまり『今晩どこで寝るか』である。 羽川家には近場に頼れる親戚しんせきなどおらず、だからもちろんそこに議論の余地などあるはずもなく、最寄りのホテルを取る運びになったのだが──それこそが羽川家にとっては問題だ。 一番の問題だ、唯一と言ってもいい。 私達は随分長い間、同じ部屋で寝ていない。 廊下で寝ている私はもちろんのこと、夫婦である彼らも、寝室が別になっている。ホテルとなれば、それなりに値も張るわけで、二部屋も三部屋も借りるわけにも行かず── 「私は大丈夫だよ。しばらく友達の家に泊とめてもらうから」 議論が深みに嵌る前に、私は言った。 そう宣言した。 「お父さんとお母さんは、折角せっかくの機会なんだから、夫婦水入らずで過ごしなよ」 これが建前たてまえではなく本音であるというのが、私の恐ろしい、人間らしからぬところだというのは、もうわかっている──こういうところが私のよくないところなのだと、ゴールデンウィークに思い知っている。 この二人と同じ部屋で寝起きしたくない。 そういう自分の気持ちだってはっきりとあるはずなのに、それがはるか後回しになっている自分──それがどれだけ不自然なことなのか。 わかっている。 こんな火事を、折角の機会だと思えてしまう私は、あまり人間の領域にはいない。 阿良々木くんや忍野さんがそう教えてくれた。 教訓。 もっとも、そんな教訓を生かすことなく、私は今に至ってしまっているわけだけれど──でもどうしても、あの二人が、あるべき形に戻ってくれればと思ってしまうのだ。 思えてしまうのだ。 私が成人したらすぐに離婚りこんするつもりだというあの二人の、これが最後のチャンスになってくれればいいと。 そう思う。 全焼した家を建て直すのに諸々もろもろ含めて数ヶ月かかるとして、どこかに借家を借りるまでの数週間、十五年ぶりの二人の時間を持てば──何かがどうにかなるかもしれない。 そう思うし。 そう思えてしまうし。 そう思いたい。 二人はあっさり承諾しょうだくした。 友達の家を泊まり歩くつもりだという私を引きとめもしなかった。むしろ私が自分からそう言い出したことを、明らかに喜んでいた。 まあ、それはそうだろう。 三人きりよりは二人きりのほうがよっぽどましで、厄介払やっかいばらいができたという意味では、この火事は彼らにとっても、そこそこありがたいものだったのかもしれない。 彼らがそうして喜んでくれたことを。 嬉うれしく思ってしまう私というのも、いい加減狂っていた。 007 ただ困ったことになった。 いや、困ったことには最初からなっているけれど、私が今もっとも困っているのは、私には、しばらく泊めてもらえるような友達なんていないということである。 友達はいる。 私の性格にやや難があるので、そりゃあ決して多いとは言えないけれど、それなりに、平均的な学生として相応しい友人関係を、学校生活では築きすいてきているつもりだ。 そう言えば阿良々木くんは友達の少なさを自虐じぎゃくというより、もう自慢のように語ることが多いけれど、あれについてだけは、彼は偽いつわりを述べていないということをここに証言しておこう。 大袈裟でなく彼には友達がいない。 というより、あえて友達を作らないように、長い間振る舞っていた──いわく、友達を作ると人間強度が下がるから、とか。 彼は本気で思い、本気で言っていた。 その主義自体はもう放棄してしまったそうだけれど、しかしまだまだ絶賛リハビリ中で、私は彼がクラスで、男子と話しているところを見たことがない。 というか、私と戦場ヶ原さん以外と喋っているところを見たことがない。 戦場ヶ原さんが昔『深窓の令嬢』と呼ばれていたのと同じように、彼は今をもって『不動の寡黙かもく』と呼ばれていることを、知っているのだろうか。 まあそんな阿良々木くんに比べれば、私にも友達はいる。 仲良くしてもらっている。 だけどよくよく考えてみれば、私は友達の家に泊まったことがない。 いわゆる『お泊まり』的な経験が皆無かいむなのである──うーん。 改めて考えてみると、どうしてだろう。 家で過ごすのをあんなに厭いとうていた私だけれど、だからと言って、本格的に『家出』的な行為をしたこともない── そりゃあお前が優等生だからだろ、と、阿良々木くんなら言いそうだけれど、そして実際そうなのだろうけれど、しかしこれについては、むしろ戦場ヶ原さんの意見が正しいのかもしれない。 つまり、 「『助けて』って言ったことある?」 である。 阿良々木くんに限らない。 多分私は、自分以外の誰かに助けを求めることができないのだ──決定的なところを人に委ゆだねたくないと思っている。 キャスティングボードを手放したくないと思っている。 自分の人生を自分で定義したいと思っている。 だから──猫になった。 怪異になった。 私になった。 「まあ、大丈夫か。幸いなことに、アテはあるし」 自分を奮い立たせるために、これは独り言というほどのこともなく言って、私は歩き出す。手荷物は学校に持っていった鞄かばんひとつ──新学期初日の始業式だったので、鞄の中身は筆記具やらノートやら程度で、中に大したものは入っていないけれど、今やこれが私の唯一の持ち物である。 鞄ひとつが全財産だなんて、初登場時のアン・シャーリーみたい、なんて、この状況を楽しむ不謹慎ふきんしんな気持ちもなかったわけではないので、私もやはり、そこまで真面目まじめ一辺倒いっぺんとうというわけではないようだ──そして行くアテとはもちろん。 例の学習塾跡の廃墟はいきょである。 叡考塾えいこうじゅくと、営業中はそう呼ばれていたらしい。 忍野さんと忍ちゃんが、およそ三ヶ月の間住んでいた場所──春休みの間は、阿良々木くんもそこで暮らしていたというのだから、見た目はどれだけ廃墟であろうと、人一人が寝泊りできる程度の設備はあるはずだ。 そういう読み。 少なくとも床と屋根があるだけでありがたい。 徒歩で行くには遠い場所だったけれど、今後のことを思うとお金は節約したかったので、バスは使わなかった。 音は忍野さんが結界を張っていたので、なかなか思うようには辿り着けない仕組みになっていたけれど、今はもうその結界は取り外されている。 ルート通りに歩けば。 普通に辿りつける。 当然のことながら電気は通っていないので、明るい内に寝床作りは済ませないといけない。 確か忍野さんや阿良々木くんは、机や椅子を組み合わせてベッドを作っていたんだっけ? ならば私もそれに倣ならおう。 フェンスを潜くぐり抜け、廃墟に入り、とりあえず私は階段を上って四階に向かう──四階である理由は、忍野さんは四階で生活していることが多かったと阿良々木くんから前に聞いたからだ。 つまり前住人の生活パターンからして、四階は他の階より暮らしやすいのではないのかと想像したわけだが──これが思い切り肩透かたすかしだった。 肩透かしというか、空振りかな。 四階の、最初に入った教室は、天井てんじょうに穴が空いていた。 次に入った教室は、床が抜けていた。 床も屋根もなかった…… そして残る一つの教室は何があったのか、まるで獣でも暴れたかのような散らかり具合だった──なんというか、まるで阿良々木くんと真宵ちゃんが暴れ放題に暴れたみたいな感じだった。 早まったかな、と私は軽く後悔こうかいする。 ここまで荒廃してはなかったはずだけど……。 実は友達の家を泊まり歩くと宣言したときには、既にこの廃墟のことは頭の片隅にあったのだけれど、なんだろう、思いのほかここは苛酷かこくな環境なのかもしれない。 無理矢理笑みを浮かべ、がんばってテンションを上げながら、私は三階に降りた──三階で最初に入った教室は、天井と床が抜けていた。 どうやら天井の穴のほうは、さっき見た四階の、床の抜けた教室と繋がっているようだ──本当に何があったのだ。穴の緑ふちの色合いからすると、ごく最近あった破壊のようだけれど……。 もしもこれが自然に抜けた崩落ほうらくなんだとすれば、耐震たいしん構造にかなりの不安がある。 どきどきしながら次なる捜索そうさくにチャレンジしてみると、ようやく、天井も床も壁かべも、まともな形を保っている教室に行き当たった。 とは言えほっとするにはまだ早く、私は早速さっそく、ベッド作りに精を出す。なんだかボーイスカウトのキャンプみたい、と思ったものの、もちろん私はボーイスカウトに参加したことはない。 知ってることは知ってることでしかなく。 経験ではない。 それも戦場ヶ原さんの言う通りだ。 私は知識を積み重ね、その傍かたわらで無意味を積み重ねているようなものなのだ。 実際、あり合わせの机を縛しばり合わせてベッドを作るというのは、それだけのことなのに、簡単なことではなかった。縛り合わせる紐ひもがまずない。私は一旦いったん廃墟を出て、近くの商店に買い物に行くことになってしまった。 「よし、できた。忍野さんが作ったベッドは、もう一つ机を使っていたけれど、私は忍野さんほど背が高くないからこのサイズで十分だね」 とは言え、ものを作るというのは楽しい。 完成したベッドはなかなかの作品のように思われた──うずうずして、我慢がまんできずに制服のまま、そこに横たわってみる私。 「うわ」 駄目だこれは。 期待値が高かった分、精神に負うダメージは極大だった。 本当に駄目だ。 本気で凹んだ。 これ、床に寝ているのと何ら変わらない。 ごつごつする。 比較実験は大事だと思い、実際に私は、続けて床に寝転んでみたものの、やはり大した差があるとは思えなかった。 いやむしろ、つなぎ目がある分、机のベッドのほうが寝づらいぐらいである。 恐るべし、忍野さん。 彼はきっと針のムシロでも寝られる。 阿良々木くんや忍ちゃんはどうしていたんだっげ、と思ってみるも、そう言えば忍ちゃんは元々吸血鬼だし、阿良々木くんだってここで暮らしていた頃は吸血鬼化していたのだから、参考になるわけもなかった。 狭い棺桶かんおけの中で心地よく眠る吸血鬼の睡眠すいみん感覚なんて、見当もつかない。 「布団だ。布団がいる……」 私は言って、再度廃墟の外に出る。 財布は持って出ていて、中にはキャッシュカードも入っていた──だから買い物ができないわけではない。 どうせ入用なものは、ビニール紐以外にも、元々色々あったのだから、それは大した手間とは思わない──ただ、バス代まで始末しまつしなくちゃならない今の私が、あったかい羽毛布団なんて買えるはずもない、なんとか代理の品を用意しなくては。 そう言えば新聞紙や雑誌や段ボールは、暖を取るのにとてもリーズナブルだと何かの本で読んだことがある。段ボールならデパートで、ただで入手できるはずだ。 買わなければならないあれこれの量を思うと、帰りはバスを使わざるを得ないだろうけれど、そこは潔いさぎよく諦あきらめよう。必要なところまで始末するのはよくないことだ。 貧ひんすれど鈍どんせず。 美しい言葉だ。 だが、だからこそ、行きは徒歩。 ゆっくり歩いた。 踏ふみしめるように一歩ずつ。 保存のきく食べ物、それから水、この辺りは絶対的に必要。敷布団は段ボールとして、掛け布団には雑誌ではなく新聞を採用することにした。雑誌ではどうしてもページを引き千切るという作業が不可欠になり、それが私にはできそうもない。たとえ雑誌であろうと、読み物を破るというのはどうも抵抗がある。その点、新聞ならばあらかじめばらけているし。 そして服。 制服のまま寝るわけにはいかない──阿良々木くんはどうも、私は一着も私服を持っていないのではないかと思い始めているようだけれど、もちろんそんなことはない。 あの人たちは私に両親らしいことを何ひとつしてくれたわけではないけれど、だからと言って育児放棄ほうきをしていたわけではない。 最低限のことはしてくれた。 まるで義務でも果たすかのように。 だから服くらいは買ってくれていたのだ──私がそれを、あんまり着たくなかったというだけで。 まあ、それもこれも、全部燃えてしまったわけだけれど。 燃えたらすべてがおじゃんだ。 リセットされた気分にもなる。 そうだ──それこそ不謹慎だけれど、どこか清々すがすがしい気分を抱いている自分も、否めないのだ。 もっともその清々しさこそまやかしだが。 リセットなんて──行われていない。 今の状況こそ、一時避難ひなんに過ぎない。 なくなったからといって、なかったことにはならないのだ。 デパート内の量販りょうはん店を巡めぐってみるも、服というものは意外と値が張るようだ。電車に乗らなくてはならないけれど、ユニクロに行こうか……なんて思い始めていると、ふと、隣の百円ショップが目に入った。 そう言えば、とそちらに寄ってみると、目論見もくろみはあたって、やっぱりあった。パジャマ(風のスエット)はさすがに百円とはいかなかったけれど、下着が百円で売っていたのはありがたい。 私は迷いなく購入し、買い物は終了した。 しかし百円ショップで買った下着は、さすがに阿良々木くんには見せられないなあと、そんな馬鹿なことを考えながら、予定通り帰りはバスに乗って、学習塾跡にまで戻った。 忍野さんからはこういった生活臭は一切しなかったけれど、彼は吸血鬼ならぬ人間なので、やはりこういった苦労と戦う三ヶ月だったのだろうなあと、変な感心をしてしまう私だった。 三階の教室で、ベッドの補強を開始する。段ボールをカッターで切って、ガムテープで机に二重に巻きつける。『でも、いくら工作しても段ボールは段ボールだろう』と思われるかもしれないが、これが圧倒的に、寝心地が違った。念のためにもう一枚段ボールを巻いて、布団は完成とした。 ここまでの工程で結構疲れてしまったので、食事にする。 保存食ばかりなので、調理の必要はない。 もちろん、 「いただきます」 の言葉は忘れない。 保存食でも、元を元まで辿れば、何らかの命が犠牲ぎせいになっている。 はずなのだから、いただきます、だ。 いや、たとえ生き物でなくっても、私の血となり骨となってくれるのだから、ありがたくいただきますである。 命は、尊い。 生きてなくとも。 ただし、さすがにいつまでもこれでは味気ないので、その内コンロや鍋なべなども買ってくるべきかもしれない。あの二人が借家を見つけるまでの仮の住まいとは言え、彼らも忙しい身だから、ひょっとするとかなりの長期、私はここで生活することになるかもしれないのだし。 「トイレやシャワーは学校の設備を利用すればいいし……携帯電話けいたいでんわの充電じゅうでんも、いざとなれば学校でなんとかなるよね。勉強は、図書室や図書館でできるでしょう。あと困ることと言えば……」 問題になりそうなことを取り上げて、いちいち検証していく作業を続ける私──どの問題も、すぐに対応策が見つかる。 これからの暮らしを憂うれえていて対策を練っているというよりも、そうすることで、あんな家は燃えてしまっても自分は何も困らないということを、頑張って確認しているかのようだった。 そうやって、自分の中で辻褄つじつまを合わせているかのようで。 矛盾を解決しているようで。 実に私らしいと思う。 「ごちそうさまでした」 季節としてはまだ夏真っ盛りで日が落ちるのは遅いはずなのだけれど、それでも気がつけば真っ暗になっていたので、私は百円ショップで購入した寝巻ねまきに着替えて、下着も換えて、作ったばかりのベッドで眠りについた。 寝心地がいい、とまではさすがに言えないんだけれど。 それでも不思議と、家の廊下よりは、安らかに眠れた気がする。 009 ん? 章数がひとつ飛んでないかな? 気のせいかな? まあいいや。 もしもルンバがあったらさぞかし掃除のし甲斐がありそうな廃墟だけれど、残念ながら彼は家と一緒に燃えてしまったので、私も朝の目覚めに、もう彼の力を借りることはできない。 しかしそうは言っても、きっといつも通り、いつもの時間に目覚めることはできるだろうと、私は高たかをくくっていた。 人間には体内時計というものがある。 バイオリズムという身体に沁みついたリズムは、そうそう崩れはしない。 まして私は寝ぼけるということを知らない人間なのだから──と、そんな風に思っていたのだが、現実は違った。 寝過ごしたのではない。 むしろ予定していた時刻よりも先に、私は目覚めることになった──しかもただ目覚めたということではなく、起こされたのだ。 ルンバ亡き今、私を起こすヒトなんていないはずなのに── 「羽川さん!」 と。 引っ張り起こされた。 寝ぼけるというのは、こんな具合に、信じられない光景が視界に飛び込んでくることを言うのだろうか──なんて、認識に理解が追いついてくるのを待ちながら、暢気のんきに思った。 私の胸倉をつかみ、目の前にいる戦場ヶ原さんを見て。 暢気に思った。 「大丈夫!? 生きてる!?」 「あ、あれ? あれ? おはよう?」 わけがわからないままに、目覚めの挨拶を──実に久し振りに──する私。 戸惑いもする。 だって、あのクールな戦場ヶ原さんが顔を真っ赤にして、もうぼろぼろ涙をこぼしながら、真まっ直すぐに私を見ているのだから。 「大丈夫!?」 と、繰り返して訊いてくる戦場ヶ原さん。 私は一体、彼女が何を心配しているのかもわからないままに、 「う、うん」 と頷く。 その気迫に圧倒されながら。 「…………っ」 それを受けて、戦場ヶ原さんは、やっと私の胸倉から手を離して、ぐっと唇を噛み、号泣ごうきゅうしそうになるのをこらえるようにして、それから、 「馬鹿ばかっ!」 と私に平手打ちを放った。 引っ張り起こされ。 引っぱたかれた。 避けようと思えば避けられたのかもしれないけれど、そのあまりの剣幕けんまくに、私はただただ叩たたかれるままに、叩かれた。 いや、やっぱり避けられなかったのだろう。 頬ほおが、じんと熱くなる。 「馬鹿っ! 馬鹿っ! 馬鹿っ!」 一回では終わらず、続けざまに私を叩く戦場ヶ原さん──途中からは平手打ちの体勢は崩れて、もう駄だ々だを捏こねる子供のように、私の胸をぽかぽかと殴なぐるのだった。 全然痛くない。 だけどすごく痛かった。 「お……女の子がっ! ひとりで! こ、こんなところで寝泊りして……っ! なにかあったら、どうするのっ!」 「……ごめんなさい」 謝った。 いや、謝らされたと言うべきだろうか──だって私は、自分がしたこと、つまりこのちょっとしたボーイスカウト活動について、まだちょっと面白いことをしたくらいの感覚で、反省するようなことだと、全然思っていなかったからだ。 でも、だとしても。 戦場ヶ原さんに、あの戦場ヶ原さんに、とんでもなく心配をかけてしまったことだけは間違いがないようで── 不謹慎にも、それが少し嬉しくもあった。 嬉しかった。 「駄目よ。許さない。絶対に許さないんだから」 戦場ヶ原さんはそう言って、しなだれかかるように、しがみつくように、すがりつくように、私に抱きついてくる。 もう離してくれそうにない。 「許さない。謝っても絶対に許さない」 「うん……わかった。わかったから。ごめんなさい。ごめんなさい」 それでも私は謝罪の言葉を繰り返して口にする。 私の方からも戦場ヶ原さんを抱きしめて。 彼女に謝り続けた。 結局、戦場ヶ原さんが泣き止むまでに三十分くらいかかって、それでいつも通りの、私の起床時間となったのだった。 010 「昨晩から何度も電話をかけていたのよ」 そして戦場ヶ原さんは、しれっといつものクールビューティーに戻って、そんなことを言う。この切り替えの早さは驚嘆に値する。とは言え目の周りが真っ赤なままなのは真っ赤なままなので、さすがにいまいち締しまらない。 対する私は、やはり寝床の問題だろうか、どうやら寝癖ねぐせが酷いことになっているらしく(スーパー羽川人と言われた)、締まらなさで言うなら戦場ヶ原さんとそんなに変わらないだろう。 ただ、さっきまでの大泣きがまるで嘘泣きだったかのごとく、ごく普通に振る舞う戦場ヶ原さんはやっぱりすごいと思ったし。 素直に可愛らしいと思った。 自分の寝癖なんて気にならなくなるくらい。 「家が火事になる気分なんて、どういうものかさっぱり想像できなかったから……こういうときは誰とも話したくないかもしれないと思って、電話は控えようとも考えたんだけど、やっぱり心配で──『えい、電話しちゃえ』って思い切って、でも、全然繋がらなくって」 「ああ。ごめん。電源を切ってたんだ」 私は言った。 「これからのサバイバル生活を思うと、ちょっとでも節約したほうがいいと思って」 携帯電話を目覚まし時計代わりに使わなかったのも、体内時計に対する信頼というのもあったけれど、そういう実際的な理由ももちろんあった。 学校のコンセントだって、絶対に使わせてもらえるとは思えないし(先生に理由を説明すれば貸してくれるとは思うけれど、しかし基本的に学校内での携帯電話の使用は禁止だ)。 「まったく、真面目なんだから……その辺のコンセントとか、勝手に借りちゃいなさいよ」 「それ、盗電になっちゃうし」 「お陰で私は町中を駆け回ることになったのよ。色んな人に話を聞いて、どうやら羽川さんは友達の家に泊まっているらしいという情報を入手して──でも、クラスの誰かが羽川さんを泊めたって話は聞かなかったし」 「ど、どれだけの人に話を聞いたの?」 「連絡網を回したわ」 「…………」 人見知りを通り越して人間不信の極致だったあの戦場ヶ原さんが、成長したものだ。 しかし、その成長のために私の行方不明がクラス中に伝わってしまった……。 何と言うことだ。 「というか、ごめんなさい。羽川さんのご両親にも会っちゃった」 「え」 びっくりする。 つまり、あの人達の宿泊するホテルを訪ねたということなのだろうか。 まあ根気があれば伝手つてを辿って調べられるのか……別に隠れ住んでいるわけじゃないんだし、郵便物のこととかあるし。 と言うか、戦場ヶ原さんは、きっとてっきり、そのホテルに私も──私がいると思って、訪ねたんだろうな。 「そっか。戦場ヶ原さん、お父さんと……お母さんに、会ったんだ」 「ああいう人達を、お父さんとかお母さんとか呼ぶことはないんじゃない?」 しれっと、戦場ヶ原さんは言った。 よりしれっと。 不快そうである。 昔は、表情からでは考えていることがまったくわからない彼女だったけれど、近頃は感情が顔に出るようになった。 喜びも悲しみも。 怒りも。 ……どうやらそれなりの応対を受けたらしい。 あの人達も、もう少し外面を飾かざってくれればいいのに──ゴールデンウィークには忍野さんにも酷い対応をしたようだし──と思うが、それはこの場面でろくな言葉も出てこない私が言えることではないのか。 フォローできないんだから。 「どうやら色々あるみたいね。詮索せんさくするつもりはないけれど」 阿良々木くんと違って、私の家庭の事情、羽川家の不和と歪ゆがみをほとんど知らない彼女は、しかし深入りするつもりもないようで、さらっと話を元の筋へと戻す。 さすがの手際てぎわだ。 憧れすら憶える。 「それから闇雲に探し回って、ようやく今朝になってここに思い当たったのよ。いえ、最初から思い当たってはいたんだけれど、まさか年頃の女の子がこんな廃墟で夜を過ごすなんて考えたくはなかったから……まさかと思って、まさかまさかと思って、探索を最後に回したの」 「ん。んん? じゃあ戦場ヶ原さん、ひょっとして、徹夜てつや?」 「ひょっとしなくとも戦場ヶ原さんは徹夜よ。貫つらぬく徹夜、略して貫徹」 だからテンション上がり過ぎて羽川さんを見つけたときは泣いちゃったわ、と言う戦場ヶ原さん。 可愛らしい言い訳だった。 ちなみに完全徹夜で完徹が正しい。 「……年頃の女の子が、夜の町を徘徊するのも、相当デンジャラスだと思うけど」 「それを言われたら返す言葉がないわ」 私もあまり後先あとさき考えるタイプじゃないからね、と戦場ヶ原さんは言った。 見ればジーンズにTシャツという、非常にラフなスタイルの彼女である。汗もびっしょりかいていて、さっきまで、徘徊というより、それこそ神原さんばりに走り回ってくれていたのだろうと、そういうことが伝わってくる。 「ありがと」 私は短く、できるだけさりげなくお礼を言って、それからベッドから降りた。 身体は痛くない。 阿良々木くんにいくら言われたところで、私は自分が優秀な人間だなんて思えないけれど、でもどうやら、ベッド作りの才能はあったようだ。 将来はベッド作りの職人になろうかしら、なんて思う。 ドイツに修業に行けばよいのだろうか。 「いいのよ。私が勝手にやったことだし──その様子を見ると、空回りの出過ぎた真似だったみたいだしね」 「そんなことないよ。言われて、自分がどれくらい危険なことをしていたか、今になってようやくわかった。火は人を狂わせるっていうけれど、私も火事で、変なテンションになってたみたい」 「そうかしらね。むしろそうだったらいいんだけれど──羽川さんは素のテンションでも、とんでもなく危なっかしい行動を取ったりするじゃない」 「そうかな?」 「阿良々木くんを誘惑したり」 「ぬ」 ぬ、である。 反論が難しい。 誘惑などしていないのに反論が難しい。 彼をああしてしまったのは私であるという説は、意外と世間で根強いのだった。 「本当、クールだったわよね……私とかかわった頃の阿良々木くん。今はもうまるっきり見る影もないけど」 「私のせい……かなあ」 「まあ、虎のこともあったしね──過剰に心配してしまったのは、どの道確かだわ。私としたことが取り乱してしまってごめんなさい。さ、それじゃあ行きましょうか」 「行きましょうかって、どこに? 学校?」 「私の家よ」 戦場ヶ原さんは当然のように言った。 「あらかじめ宣言しておくけれど、もしも抵抗するようだったら、口の中にホッチキスを突っ込んで、首筋に一撃食らわしてでも連れて行くわよ、羽川さん」 「…………」 かつて阿良々木くんに対して本当にそうしたことがあるという彼女の言葉に、まさか逆らえるわけがなかった。 011 本人から聞いていたとは言え、戦場ヶ原さんの住んでいるアパート、民倉荘たみくらそうは、戦前から建っているのではと思わせられるすさまじい外装だった。まさしく古色蒼然こしょくそうぜんという感じ。 しかし、以前阿良々木くんが、耐震構造という面においては廃墟よりも危ういなんて、酷いことを言っていたけれど(彼なりに戦場ヶ原さんを心配しての言葉だったのだとは思う)、外付けの階段を上ってみると、案外そんなことはなく、しっかりした作りだった。 その辺は最近のインスタントな建物より、昔の建物のはうが頑丈ということなのかもしれない。 それに安全性は桁違けたちがいである。 なんと部屋に鍵かぎがついているのだ! ……いざこうして家というものに来てみると、あの廃墟がいかに危険だったかということを思い知る私だった。 デンジャラス。 「お父さんが今日仕事で帰ってこないから、今日は泊まっていきなさい、羽川さん」 「え……いいの?」 「実は今日ね、親、帰ってこないんだ」 「なぜラブコメ風に言い直す」 戦場ヶ原さんのジョークのセンスは、更生前も更生後も微妙なのだ。 二〇一号室。 靴を脱いで、中にお邪魔じゃまする。 廊下がないというのは本当だった。 六畳一間ろくじょうひとまのすっきりした部屋である──家具が本棚ほんだなと衣装箪笥いしょうだんすくらいしかない。部屋の広さにあわせてあまりものを増やさないようにしているというのもあるのだろうけれど、まあ戦場ヶ原さんは元々ものをあまり持たない主義のようだし。お父さんもきっと同じなのだろう。 「これでも昔は豪邸ごうていに住んでいたんだけどね──その頃の私だったら、ぽーんと一部屋貸してあげれたのだけれど、今はこれが精一杯せいいっぱい」 「ルパン風に言わないで」 「ルパンの一番くじで、ルパンカー欲しさにあちこちのコンビニで合計九万円使った私のことをどう思う?」 「運が悪過ぎると思う」 私は腰こしを降ろした。 ぐるりと部屋を見渡して。 「なんだか、落ち着くな」 「そう? 阿良々木くんはいつも居心地悪そうにしているけれど」 「女の子の家にきて落ち着き払ってる男子なんていないでしょ──でも、なんかいい、ここ」 考えをまとめないまま、私は思ったままのことを言う。 「自分の家みたい」 「ふうん?」 よくわからないというような顔をする、戦場ヶ原さん。 よくわからないのだろう。 そりゃそうだ、私にもわからない。 言ってしまっただけだ。 独り言のように。 そもそも自分の家とはなんだろう──焼けてしまった羽川家は、確かに私が十五年間暮らしていた家で、定義上はもちろんのこと、理詰めで議論をすれば、私にとって『自分の家』であり、焼けるその姿を見たときに私が口にしてしまったように、『私の家』なのだろう。 だけど。 どうしてあの廊下よりも、この民倉荘の二〇一号室のほうが落ち着くのか。 心が安らぐのか。 「少なくとも私には自分の家っていう気はしないけれどねえ。ここに引っ越してきて、まだそんなに経ってないし」 戦場ヶ原さんは言う。 「まあ、前の家は前の家で、なくなっちゃったわけだけれど」 「…………」 そうだった。 戦場ヶ原さんが以前住んでいた家──豪邸と言って本当に差し支つかえのない、界隈かいわいでも有名だったあの家は、今はもう、更地さらちになっているのである。 いや、更地どころか。 道──だったか。 どうなのだろう。 私は家が焼けていく現場を、遠くからとは言え、はっきり見たのだけれど──知らないうちに、かつての自分の家がなくなっていたというのは、どんな気分なのだろう。 わからない。 それも、わからない。 わからないから──私は考えるのをやめた。 そう。 もう気にしない。 安らぎなど、気にしない。 「羽川さん、今日は学校を休みなさい」 戦場ヶ原さんは汗びっしょりになったTシャツを脱ぎつつ、そんなことを言う。 いやもう、女子同士とは言え、非常に脱ぎっぷりのいい彼女だ。 憧れさえ感じる。 「私も休むから」 「え?」 「眠いのよ。さすがに」 戦場ヶ原さんの目は、よく見たらぼんやりとしていた。 「今なら布団に抱かれてもいいわ」 「…………」 すごい表現だ。 「元陸上部とは言えブランクが長過ぎるから、足腰もがったがただし。羽川さんだって、ベッドの出来はいいようだったけれど、あんな場所で安眠できたはずもないでしょう?」 「え。そりゃ、まあそうかもしれないけれど」 「寝癖も酷いし」 「寝癖のことは言わないで」 私は慌あわてて、戦場ヶ原さんに向かう。 「でも、二学期もまだ二日目だっていうのに、学校を休むわけには」 「家が火事になった子が、次の日普通に明るく元気に学校に来るほうが異常に決まっているじゃない。そういうところが世間ずれしてないって言うのよ、あなたは」 戦場ヶ原さんはジーンズも脱ぎ、下着姿になったところで私のほうを向いて、厳しくそう言った。 頑がんとして譲らない構えだ。 下着姿なのに勇ましいことこの上ない。 色気の欠片もこの上ない。 「大体、あなた進学するつもりはないんでしょう? だったらもう、出席日数とか内申書とか、そんなに気にすることないじゃない」 「まあ、そうなんだけど……」 だけとルールは。 ルールは守りたい。 ルールなのだから。 「いいから休みなさい。どうしても学校に行くというのなら、私を倒していくことね」 言って戦場ヶ原さんは中国拳法けんぽうの構えを取った。 無駄に完璧かんぺさな蟷螂拳とうろうけんである。 「しゃきーん」 「自分で効果音を言わないで……わかったわかった。今日は戦場ヶ原さんの言う通りにするよ。ゆっくり休みたいのも、正直、本当だしね。そうやって強制してくれると、嬉しいわ」 「だといいけど」 こういうお節介ってあんまり私向きじゃないし──と、照れくさそうに言う戦場ヶ原さんだったが、どうだろう、私は実に戦場ヶ原さんらしいお節介だと思うけれど。 「あ、でもでも、戦場ヶ原さんは学校休んでも大丈夫なの?」 「私? まあ、私は推薦すいせんで大学に行くつもりだから、出席日数はともかく、内申書のほうは──うーん、そうね」 一瞬悩むような素振そぶりをして、すぐに戦場ヶ原さんは携帯電話を取り出した。どこに電話をするつもりなのかと思ったら、戦場ヶ原さんは鼻をつまみ、しわがれた声を作って、 「ごほっ、ごほっ、あ、保科先生ですか? 戦場ヶ原……ごほっ、戦場ヶ原です。と、どうやら季節はずれのインフルエンザにかかってしまったらしくって……最新型かもしれません。ごほ、はい、熱? 熱ですか? ええ、基本的に四十二度あります。さっき私の熱でエアコンが壊れました。今年の猛暑は私が原因と見て間違いないでしょう。汗で泳げます。全身が破裂するほど痛くって……クラス全員に伝染うつると思いますけれど、学校に行っても大丈夫でしょうか? 駄目? ああそうですか、わかりました、残念です。先生の授業を本当に受けたかったのに。ではではー」 と言って、電話を切った。 そしてけろっとした顔で、 「これでよし」 と言った。 よしくない。全然。 「インフルエンザって……なんでわざわざつかなくてもいい嘘を。普通に風邪でいいじゃない」 「大きな嘘のほうがバレにくいのよ。大丈夫。長年懇意こんいにしている主治医さんがいるから、カルテを偽造ぎぞうしてもらうわ」 「してくれるはずないでしょ」 どんなドクターが、医師生命をかけてまで、女子高生のサボタージュに協力してくれるというのだろう。 戦場ヶ原さんは嘘をつくのがうまい癖に嘘をつくのが下手だった。 「て言うか、そろそろ服を着てくれないかしら、戦場ヶ原さん。下着のままでずっといられると、さすがに気まずいんだけど」 「え? でも私、これからシャワーを浴びるつもりだし」 「あ、そうか」 「羽川さんも浴びるでしょ?」 「あ、うん。お借りするね」 言われてみれば、身体全体が埃ほこりっぽい。 寝ている間にも随分汗をかいたようで、百円ショップで買った下着が、結構大変なことになっている模様だし。 そもそもサイズが微妙に合っていない。 「もちろん、戦場ヶ原さん、お先にどうぞ」 「何を水臭いことを言っているの。一緒に浴びましょうよ」 促したら、誘われた。 しかもすごくいい笑顔で。 阿良々木くんでも見たことはないであろうという、おひさまのような笑顔だった。 「女同士なのだから、恥ずかしがることはないでしょう」 「いやちょっと待って。いやいやすごく待って。なんだか不穏ふおんな空気を感じるわ」 「やあね、私に下心なんてないわよ。それとも羽川さん、友達が信じられないの?」 「この場面でその言葉を言う友達は、ちょっと信じられないかも……」 「誤解しないで。私は神原とは違うのよ」 戦場ヶ原さんは真顔まがおになって言う。 「私は羽川さんの裸ほだかを見たいだけで、それ以上のことをするつもりはないわ」 「…………」 戦場ヶ原さんに新しいキャラがつきつつあった。 神原さんの嗜好のことについては先だって私も聞いているけれど、どうなんだろう、中学時代のヴァルハラコンビの関係性は、彼女からの一方的なものでは、案外なかったのかもしれない。 「お願いします、羽川さん。私と一緒にシャワーを浴びてください!」 手を合わせて懇顕こんがんしてきた。 戦場ヶ原さんの新しいキャラが斬新ざんしん過ぎる。 誰もついてこれないのではなかろうか。 「私と羽川さんが手を組めば、千石ちゃんを倒せるはずなのよ!」 「あなた、その子のこと、まだ知らない設定でしょう……?」 メタ発言登場だ。 注意しなければ。 戦場ヶ原さんと同じくらい注意しなければ。 「……まあいいか。確かに女子同士で、そんな抵抗があるわけでもないし」 「あら。乗ってくるとは意外」 素に戻る戦場ヶ原さん。 本当に、どこまでが本気なのだろう。 不明すぎる。 「誘っておいてなんだけれど、羽川さんって、たとえ友達相手でも、そういう一線みたいなところは絶対に越えない人だと思ってたわ」 「あはは。一線って、何? 部屋に誰も入れない人とか、学校の外では誰とも遊ばない人とか、そんな感じ?」 「そう」 「否定はしないけどね」 私にはそういうところがある。 自分から相手には、ずかずか踏み入るくせに、相手から踏み入られることを嫌う、とでも言うのだろうか──阿良々木くんとの関係が、まさしくそうだったように思う。 だからあんな結果になったんだ。 「でも、泣きながら私を叩いてくれた子を相手に距離をとっても、今更格好つかないでしょ」 「む」 と、戦場ヶ原さんは赤面した。 唇を尖とがらせて、まるで拗すねているかのようだ。 無表情で通っていた頃の戦場ヶ原さんも素敵だったけれど、表情豊かな戦場ヶ原さんのほうが、とっても素敵だった。 むしろこちらからお願いして、シャワーを一緒に浴びたいくらいである──というのは、さすがに言い過ぎかな? 「あ」 そのタイミングで、手にしたままだった戦場ヶ原さんの携帯電話に着信があった。保科先生が、さすがに不自然さに気付いて折り返してきたのかと思ったけれど、そうではなかったらしい。 そもそもその着信はメールだったのだから。 「誰から?」 「阿良々木くんから。ふむふむ。この内容なら、多分、羽川さんの携帯にも同じメールが届いていると思うわよ」 「え?」 「確認してみたら? コンセントはそこのを使ってもいいから。大丈夫、電気代を請求したりしないわ」 「その台詞を加えることで逆にケチっぽくなってるけど……」 言われて、私は携帯電話を鞄から取り出し、電源を入れる。そして自然に着信するのを待たず、新着メール確認の操作をした。 新着メール──九百五十七件。 「あ、最初のほうの奴は、私が心配して送ったメールだから気にしないで」 「一晩で九百五十六件も送ったの!?」 受信フォルダにあったメールの大半が、押し出されるようにメモリから消えてしまった。 これは私が悪いのだろうか。 さすがに謝罪を要求するべきじゃないのかな? 思いつつ、取り急ぎ最新の一件を確認する──確かに差出人は阿良々木くんだった。 『しばらく帰らない。しんぱいすれな』 件名もなく、署名もない──端的たんてきというにもあまりに無装飾な、そんな文面だった。それでいて、『しんぱい』の漢字変換の手間さえ惜しんだ、『するな』とさえまともに打鍵だけんできなかったような、その訂正する暇ひまさえなかったような、そんな緊急下きんさゅうかで打たれたそれであることを思わせる、切迫せっぱくしたメールだった。 「予想通りとは言え、また何かやっているようね、阿良々木くん──しかも今回は、かなり深刻と見える」 同じ文面が届いているらしい戦場ヶ原さんが、ため息混じりにそう言う。 呆れてさえいるようだ。 「私はそのときのことをよく知らないけれど、文面から判断する限り、これは春休みか、それ以上って感じかしら」 「やっぱり、そう思う?」 「ええ。でもまあ、わざわざこんなメールを送ってくるようになった分だけ、成長は見えるかしら……昔は目の前のことしか、本当に見えない男だったからね」 「そうだね」 真宵ちゃん絡がらみ──だろうか。 いや、真宵ちゃんは阿良々木くんに忘れ物のリュックサックを返してもらおうとしていただけで、それで阿良々木くんを探していただけなんだから、阿良々木くんが今かかわっていることとは無関係かもしれないけれど──何故なぜだか、そんな気がした。 確信的に。 「駄目ね。電話をかけてみたけれど繋がらないわ」 いつの間にかそんなことをしていたらしい戦場ヶ原さんが(行動に迷いが無さ過ぎる)、さして落胆した風もなく、ぱたんと閉じた携帯電話を充電スタンドに置く。 「まあ、あっちは男の子なんだし、そう心配しなくてもいいか……いいでしょう。帰ってきたら、羽川さんと一緒にシャワーを浴びたという自慢じまん話を聞かせてやるわ」 「嫌がらせになってないと思うよ」 「羽川さんの身体のラインはこんな感じで、ここがこうなってて、とか」 「身振り手振りをやめて」 いやらしいと言うか、なまめかしい。 「でも、これでこっちの虎には、こっちで対応するしかなくなった感じね」 「虎?」 私が通学路で見た──虎。 巨大な虎。 喋る虎。 そう言えば、その件があったからこそ、戦場ヶ原さんは過剰に私のことを心配したのだと言っていたっけ── 「でも、虎って──」 「ん? ひょっとしたら私は、その虎が火事の原因なんじゃと思ったりしたんだけれど……違うの? 火事の原因は、はっきりしてる?」 「いえ、それはまだわからなくて──」 放火かもしれない──とか。 消防隊員の人が、そう言っていたくらいで── 虎──虎が原因── 「──わからないわ」 「そう。じゃあ、それも私の先走りかもね。元陸上部だけに」 「その程度の『だけに』をキメ顔で言わないで」 「さ、羽川さん。そろそろ、阿良々木くんの分までシャワーを浴びましょう」 「彼の分まで浴びる必要はないと思うけど」 「阿良々木くんの分まで、羽川さんの裸体らたいを私が見るわ」 「それはせめて戦場ヶ原さんの分だけにして」 「そう」 あっさり納得する戦場ヶ原さん。 まあ、ここで抵抗されても困る。 「そうね、大体よく考えてみれば阿良々木くんはね、今となっては女子の裸体とか下着とかじゃあ、興奮こうふんしなくなってるしね」 「そうなの?」 「ええ。彼はここ数ヶ月の様々な経験で、もうステージが上がってるから。今はもう、女子がスカートを穿はいているだけでエロいって言ってるわ」 「女子的には身を守る方法のない視点だね」 「布が風で揺れるのがたまらないって」 「めくれなくてもいいんだ……」 ステージが高い。 というか…… うん……。 「じゃ、仲艮くお胸の洗いっことかしましょうね」 「背中の流しっことかじゃないの?」 「ねえ、羽川さん」 これ以上引き伸ばしていると会話がやばいと思って、そそくさと制服を脱ぎ始めた私に、戦場ヶ原さんは唐突に訊いてきた。 笑顔とも真顔ともつかない表情で。 「阿良々木くんのこと、今でも好き?」 「うん。今でも好きだよ」 私はすぐに答えた。 012 いいタイミングなのでここで少し阿良々木くんの話をしようと思う。 阿良々木暦くんの話。 戦場ヶ原さんの彼氏で私の友達、阿良々木暦くんの話だ。 実は私は阿良々木くんのことを、春休み以前から知っていた──何でもは知らないけれど、阿良々木くんのことは知っていた。 どうやら彼にその自覚はないようだけれど、阿良々木くんは、直江津なおえつ高校において結構な有名人なのだ。 目立っていた、というか。 有休に言って、悪目立ちしていた。 彼は私を有名人扱いしたがるけれど、どっこい阿良々木くんにしたって、それとどっこいどっこいという感じなのだ。 怖がられているというのが正しいけれど。 そう、彼は恐れられている。 私が優等生扱いされるのを嫌っていたように、彼は不良扱いされることを嫌うけれど、しかしまあ、好き勝手に学校をサボって、授業も試験もいい加減に受けている、いや受けてさえいない生徒がいたら、そりゃあそんな風に思うのは決して私だけではないだろう。 仲良くなってから詳しく訊いてみたら、というかさりげなく探りを入れてみたら、学校をサボって、授業や試験をおざなりにして阿良々木くんが何をしていたのかと言えば、どうも、春休みやらゴールデンウィークやらと、似たり寄ったりのことをしていたようだ。 何のことはない、彼は春休みに吸血鬼になり、怪異とかかわった所為せいで人生が一変したわけではなく、根っこのところから、そもそもが阿良々木暦だったということなのだ。 阿良々木くんがさんざ顔を渋しぶくして苦言を呈ていしている、火憐ちゃんや月火ちゃんのファイヤーシスターズの活動だって、それと同じように何のことはない、阿良々木くんの中学時代の焼き直しに過ぎないのだった。 否、彼女たちから話を聞いてみれば、阿良々木くんの中学時代のほうがよっぽど際どい。法律ぎりぎりの課外活動、否、それどころか法律を向こうに回して戦っていたと言っても、さほど過言ではなさそうである。よくもまあ、生きて高校生になれたものだと、呆れを通り越して感心してしまう。 もっとも、中学時代の阿良々木くんと、高校時代の阿良々木くんとでは、やっていることは同じでも、そのモチベーションには大きな差異があったことは、どうやら事実のようだ。 何があったのか、その点については春休み以上に頑なに語りたがらないし、また、私を含めた、今、彼の周囲にいる友人の誰も知らないけれど、阿良々木くんは高校一年生の頃に、何らかの精神的な転機があったらしい。 彼曰く、『落ちこぼれる』原因とでも言うのか。 ……わざと大袈裟に言ったけれど、単に勉強についていけなくなった、というだけのことなのかもしれない。何か大きな事件がないと、人の精神に変化があってはならないという法もないし。 それに変わろうが変わるまいが阿良々木くんは阿良々木くんなわけで。 出会った頃はクールだった阿良々木くんが今となっては変わり果てたと言っても、それでも彼は彼であり。 いかに変わろうと、彼は阿良々木暦。 だからこれは、単純に、阿良々木くんは中学生の頃は、もっとテンションの高い、アッパーな熱血的コンディションの持ち主だったというだけの思い出話である──彼自身ももう忘れている、思い出話。その意味では、高校生になって多少は落ち着いたという、普通の出来事なのかもしれない。 普通で。 ありふれた。 彼の出来事。 あるいは、と思う。 春休みも。ゴールデンウィークも。 戦場ヶ原さんのことも、八九寺ちゃんのことも、神原さんのことも、千石ちゃんのことも、火憐ちゃんのことも、彼にとっては、中学時代に経験したあれこれほどのことはなかったかもしれないと、あるいはそんな風に思う。 そして今日も今日とて何やら動いているようで。 私はそんな彼を、いつからか好きになってしまったのだ──それがいつからなのかは、もう少し後で話そう。 014 ……? 章ナンバーが、またひとつ飛んでいる? どういうことだ? まさか13という数字は縁起えんぎが悪いから飛ばしたというわけでもあるまい。昔阿良々木くんが、『13』を飛ばすのはなんとなく必然性があってわかるけれど、『死』に通じるから『4』を飛ばそうと最初に発想した奴は、そんなごろ合わせを普及ふきゅうさせるなんて一体どれだけの発言力を持ってたんだと首を傾げていたことがあったが(彼らしい視点だ)、しかし必然性があるからと言って『13』を飛ばさなければならないわけではないだろう。 ??? いや、特に不都合があるわけでもないので、このまま進めてしまうけれど──昼過ぎになって、私は目覚めた。 誰に起こされるともなく。 戦場ヶ原さんの言う通り、あの廃墟という環境では、どうやら安眠はできていなかったらしく、ぐっすりと深く眠れ、とこか身体の芯しんあたりにまとわりついていた倦怠けんたい感のようなものがぬるっと気持ちよく取れていた。 まあ、起きたら目の前に戦場ヶ原さんの寝顔があるという状況には、ちょっとばかりびっくりしてしまったけれど。 いや、ちょっとじゃない、かなり本気でビビった。 眼福がんぷくとしか言いようがない。 恐ろしく端正たんせいな顔立ちである──目を閉じている美人というのは、なんだろう、目を開けているときとはまるで違う味わいがある。 特に、戦場ヶ原さんの寝顔は、まるで作り物のように出来過ぎで、見るからになめらかなその様子は陶磁器とうじきのようでさえあり、しかし作り物ではありえないなまめかしさも確かにあって、不覚にもどきどきしてしまった。 どきどきどきどき。 身体の疲つかれは取れたけれど、寝起きでここまで急激に血圧が上がってしまえば、寝ぼけるも何もあったものではない。 阿良々木くんはこの寝顔をいつも独り占じめにしているんだろうなあ。 なんて、ちょっぴりアダルトなことを考えたりして、一人勝手に赤面した。 馬鹿みたい。 と言うか馬鹿まるだし。 ……いや、違うか。 さすがの阿良々木くんでも、今はまだ、この寝顔を独り占めはできないんだ──戦場ヶ原さんは、お父さんとふたりで暮らしているんだから。 娘の寝顔を誰よりも見てきたのは。 誰よりも見守ってきたのは。 父親であるはずなのだ。 「……あら」 と。 唐突に戦場ヶ原さんが目を開く。 それは『起きた』と言うより『生き返った』という風な感じだった。 あるいは『スイッチが入った』とか。 起動した、とか。 どうやら戦場ヶ原さんも、あまり『寝ぼける』というタイプではないらしい──低血圧っぽい彼女だけれど。 まあ寝起きと低血圧の間には、実は因果関係はないらしいしね。 どちらかと言えば関係あるのは低血糖? 「おはよう、羽川さん」 「おはよう、戦場ヶ原さん」 「と言っても、もうそんな時間じゃないでしょうけれど」 「そうだね。そんな時間じゃないね」 「今何時?」 「えっと」 首の方向を変えて、改めて衣装箪笥の上にある置き時計を確認する。 「一時半」 「午前? 午後?」 「午後に決まってるじゃない」 どれだけ寝ていたつもりなのだ。 以下回想──あれから。 あれから、本当に戦場ヶ原さんと私は、一緒にシャワーを浴びたのだった──誰かと一緒にシャワーを浴びるという体験は私にとって初めてだったので、色々と恥ずかしい不手際ふてぎわがあったことはここに報告しておこう。 よって主導権は完全に戦場ヶ原さんに握にぎられ、実際、あちこち洗われてしまった。実に慣れた手つきであり、明らかに経験者の手隙だった。 この子、女子同士でいちゃつくことに慣れている! そう思わされた。 しかし、そこまでされては私も黙だまっていられなかったので、あちこち洗い返してあげた。 それほど広くないシャワールームの中で、正に裸の付き合いという感じで、どう言えばいいのかわからないけれど、結構一線を越えた気がする。 一線を画する私が一線を越えた。 転機といえば転機。 少なくとも、戦場ヶ原さん相手に変な遠慮をする意味はなくなったかな、という気がした。本音を言えば、こうして戦場ヶ原さんは強引に連れてきてくれたけれど、他人の家に泊まるということに対して、まだ私は抵抗があったのだけれど。 一日だけお世話になろうと、そんな風に素直に思えたのだから。 そんな気がした。 素直に、思う。 そう言えば、たったそれだけのことを、私は随分長い間、してこなかった。 素直ってなんだろう。 思うってなんだろう。 深く考え出すと、とりとめがなくなってしまうけれど。 考えてみれば戦場ヶ原さんも、心に強固な壁を作っていたタイプの人間だ。 間違っても『深窓の令嬢』と呼ばれていた頃の彼女なら、私を家に泊めてくれたり、一緒にシャワーを浴びたりなんてしなかっただろうし、それ以前に、一晩中私を探して、町中を駆け回ったりなんてしなかっただろう。 彼女がこの数ヶ月で乗り越えてきた色んなものの重さを思うと。 同じように色んな経験をしながらも、結局のところ何一つ乗り越えていない自分が情けなくもなってしまう。 そうだ。 私は何一つ──乗り越えていない。 ゴールデンウィークの騒動を経ても、文化祭前日のあの日を経ても。 成長してない。 変わっていない。 だから戦場ヶ原さんがとても羨ましくて──そしてとても好きで、嫌いになれないんだと思った。 素直に思ったのだった。 それから、三十分くらいシャワールームでじゃれあって(止める人がいなかったのだ)、さっぱりした気持ちで脱衣所に出た。 互いに身体を拭ふきあって、下着を身につける。 「さすがに私の下着を身につけるというのは抵抗があるでしょうけれど、羽川さん、パジャマくらいは借りて頂戴よ」 と、戦場ヶ原さんは言った。 「あの、恐らくは何らかのディスカウントショップで買ったであろう、卒塔婆そとばが卒倒しそうなデザインのスエットは、なんだったら私がゴミに出しておくから」 「え? あれ、駄目?」 「酷い」 濡ぬれた髪を鬱陶うっとうしそうにしながら、戦場ヶ原さんは首を振る。 端的なコメントである。 「あの服は人が着ることを想定して作られていない……マネキン専用よ。あるいはハンガーの機能を確認するためのモックとでも言いましょうか」 「…………」 そこまで言うか。 廃墟には鏡なんてなかったので、それを着ている自分という図はついぞ確認できなかったのだけれど……、戦場ヶ原さんが手作りのベッドで眠る私を起こす際に泣いていたのは、そんな服で眠る私を見てしまったからというのもあるのかもしれない。 うーん。 参ったな。 「でもいいの? 戦場ヶ原さんのパジャマ、借りちゃって」 「いいわよ。私結構、衣装持ちだから」 「じゃ、遠慮なく」 下着は、百円ショップで買ったものを新しく下ろす。 そして戦場ヶ原さんが衣装箪笥から取ってきてくれた寝巻きに袖を通した。 人の服を着るというのは不思議な感覚だった──服を着たにもかかわらず、なんとも言えない開放感がある。 何かを許してしまった気になる。 戦場ヶ原さんは背が高いので、服のサイズが私よりも大きく、必要以上にだぼっとした感じになってしまったけれど。 「なのにバストだけはキツそうっていうのがお約束通りで素敵よね」 「いや、別にキツくないけど……」 寝巻きなんだし、普通だ。 そんな約束はしていない。 戦場ヶ原さんもパジャマになるのを待ってから、ドライヤーで互いの髪を乾かした。 これはすぐに終わった──一学期は私も戦場ヶ原さんもそれなりに髪が長かったけれど、今は二人ともおかっぱみたいな長さだし。 すぐにドライだ。 そのことに、ちょっとだけ物足りない気分になったりした。 「でも羽川さん、文化祭のあとに髪を切ってから、また伸ばしてるわよね」 「ん? うん、まあ。あれからまだ美容院には行ってないかな」 「また長くするので」 「うん──どうだろ。短くして初めて気付いたけど.意外とロングのはうが、手入れの手間がかからなかったりするんだよね──そう思わない?」 「ふむ。まあ、そういうところはなきにしもあらず、かも」 「でしょ?」 「寝癖とか」 「……でしょ」 引っ張るなあ。 「だから、卒業後のことを思うと、結局伸ばしておくのがいいのかな──なんて」 「卒業後のこと、ね」 戦場ヶ原さんは含みを持たせて、私の言葉を反復した。 「正直、どうかとは思うけれど。まあ、羽川さんに大学教育が必要だとは決して思わないけれど、でも、大学って勉強だけしに行く場所じゃないんだし。私に言わせれば、世界を巡るのも、大学に行くのも、同じようなものだと思うわよ」 「…………」 それはこれまでに何度も話題に上ったことではあったけれど、こういうことをはっきり言ってくれるから、私は戦場ヶ原さんが好きなんだろうなあ、と思う。 そう、私は大学に進学しない。 出席日数も内申啓も関係ないのはそのためだ。 卒業したら、二年くらいかけて世界中を旅するつもりでいる──そのためのプランも、ほとんどできあがっている。あまり細かく予定表を作り込んでしまうとそれはそれでパック旅行みたいになってしまうので、あくまでざっくばらんとしたプランニングではあるけれど。 その『進路希望』を知っているのは、今のところ、阿良々木くんと戦場ヶ原さんだけだ。 阿良々木くんはああいう人だから、私を止めなかったけれど。 戦場ヶ原さんはこういう人だから、穏おだやかに大反対だった。 「あんな廃墟で平気で寝泊りしてしまう無用心さを思うと、反対する気持ちはより強まったわね。強固になったと言っていいわ。日本みたいに治安のいい国ばっかりじゃないのよ? 酷い目に遭ってからじゃ遅いのよ? 世界中の男子がその肌を狙っていると思いなさい」 「肌なの?」 「熱帯地方を歩み、その肌が日に焼かれてしまうことを思うと、絶望的な気持ちになるわ」 戦場ヶ原さんは本当に絶望的な顔をする。 この子は私の肌に、どこまでの思い入れがあるのだろう。 「いっそ首輪でもつけて檻おりに閉じ込めて監禁したほうがいいかしら……」 「戦場ヶ原さん戦場ヶ原さん。治安のいい国で、あなたが私を酷い目に遣わそうとしている」 「意地になってない?」 私の突っ込みを無視する戦場ヶ原さん。 そう言えば阿良々木くんも、戦場ヶ原さんにはよく突っ込みを無視されると言っていた。 天然なのかもしれない。 「阿良々木くんに対してなのか、忍野さんに対してなのか、あるいは私に対してなのか──それ以外の誰か、たとえばああいうご両親だったりに対してなのか、わからないけれど」 「…………」 ちょっと、黙ってしまった。 考えてしまったのだ。 そうかもしれない──いや。 「意地になんてなってないよ。意地で進路を決めたりしないって」 「そう。ならいいんだけれど」 「単に、私に足りないものを補いたいというだけ──今風に言うなら、そうだね。自分探しの旅って奴やつかな」 「自分探し」 「もっとも、『自分』とはゴールデンウィークに、もう遭っちゃってるけどね──だから新たな『自分作り』というのが正しいのかな」 「ふうん。まあ、あなたの固く誓ちかった決意を、私に引っ繰り返せるとは思えないけれどね。私が強固ならあなたは頑固だわ。だけど」 戦場ヶ原さんは言った。 静かに。 「行きたくなくなったらいつでもやめていいのよ。旅の途中で引き返してきたっていい。それを恥ずかしいことだなんて私達は思わないわ。そう、私達。阿良々木くんだって、本当は止めたいに決まってるのよ」 「決まってるかな」 「鉄板てっぱんよ」 断言されてしまった。 でも、どうだろうな。 私には阿良々木くんが、私のことをどう思っているかが、いまいちわからないんだけど──まあ、そんなガールズトークとも言えないガールズトークをしつつ、私達は髪を乾かし終えたのだった。 そして戦場ヶ原さんは、押入れから一組、布団を取り出す。 「もう一組、お父さんの分の布団があるんだけれど、どうかしらねえ。四十過ぎの中年のおじさんが普段使っている布団に、女子高生を寝かせるというのは抵抗があるわ。うん、これは仕方ない、羽川さん、私の布団で一緒に寝ましょう」 「…………」 結論早っ。 「大丈夫、大丈夫、大丈夫! 安心して! 絶対何もしないから! 同じ布団で寝るだけ! 指一本触ふれないから!」 信頼性を訴えかけることによって信頼を失うという、実に器用な真似をしてのける戦場ヶ原さんだった。 「羽川さんを抱き枕にしたりしません!」 「……あなたが阿良々木くんと付き合える理由がわかった気がする」 あるいは、阿良々木くんをああしてしまったのは、私ではなく戦場ヶ原さんなのではないかという疑いも、急速に頭をもたげつつあった。 そしてよく思い出してみれば、春休みの時点で阿良々木くんは割と相当だった記憶もある。 うん、だとすると私のせいじゃないや。 「いいよ、わかったわかった。言われなくとも、そんな心配してないって」 「そう? ありがとう」 なぜかお礼を言う戦場ヶ原さん。 不審度の非常に高い女子だった。 「じゃあ羽川さん、枕は私のを使って頂戴。私は、お父さんの枕を使うわ」 「? あれ。そうだ、だったら戦場ヶ原さんがお父さんの布団を使うという選択肢はないの?」 家族でも、いや家族だからこそか、年頃の娘からの父親に対する拒絶感というものは厳然とあって、お父さんと同じ布団は使いたくない──という理屈でもあるのかと思っていたけれど、枕を使うというのなら、そういうわけでもなさそうだ。 「え? だって私がお父さんの布団を使ったら、羽川さんと一緒に寝られないじゃない」 「なるほど」 非常に通った理屈だ。 くつがえし難がたい。 「それに私って実はファザコンだから、お父さんの布団で寝たりすると興奮して眠れなくなっちゃうのよねえ」 「戦場ヶ原さん、赤裸々せきらら過ぎる」 どんな家族だ。 いや──家族というものをまったく知らない私が、おいそれとしていいような突っ込みでは絶対にないけれど。 「まあ、それぞれの家にそれぞれの家族関係があるということよ──阿良々木くんのところの兄妹って、明らかに異常じゃない」 「異常だよね!」 思わず意気込んで同意。 あの兄妹関係ははっきり言って危険だ。 常に倫理と戦い続け、しかもここ最近は完全勝利を収め続けている。 戦況は極めて危うい。 「こないだ紹介されたんだけれど、火憐さんと月火さんの、お兄さんを見る目のリスペクト度と言ったら……あれに比べれば私のお父さんに対する思いなと、全然ノーマルの範囲内よ」 「ふむ」 より酷い例を出すことで己を一般化した感は否めなくもないけれど、まあ追及はよそう。 同じ家に住む、十五年間同じ家で過ごした二人と、とうとう家族になれなかった私が、追及していいことでは──やはりない。 その家さえ。 今はなくなってしまったのだから。 家がなければ──家族にはなれない。 「さ、それじゃあ寝ましょうか。羽毛布団……いえ、羽川さん」 「羽川と言おうとして羽毛布団とは、絶対に言わないよね」 共通点は最初の一文字だけで、それにしたって読み方が違う。わざととしか思えないけれど、表情豊かになったところで、戦場ヶ原さんはどこまで本気でどこまでそうじゃないのか、外側からはまったくわからず。 その時点で午前八時。 今からでもダッシュで向かえば学校に間に合わないではない時間だったけれど、私はおとなしく保科先生に欠席の旨むねを伝え。 戦場ヶ原さんと同衾どうきんしたのだった。 「おやすみなさい」 「おやすみなさい」 おやすみなさいと言ったのも。 相当久し振りで、気分的には初めてみたいなものだった。ルンバが相手では、おはようを言うことはあってもおやすみを言うことはないからね。 015 回想終了。 「午後一時半か……結構、がっつり寝た感じね。羽川さんも、今起きたところ?」 「うん。そんな感じ」 「うふ。まさか羽川さんと同じ布団で目を覚ますことがあるなんてね」 「ピロートークっぽいことを言わないで」 「私、神経質だから普段、眠りは浅いほうなんだけれど、なんだかぐっすり眠れたわ。どうかしら、これは枕がよかったのかしら」 「それはお父さんの枕っていう意味? それとも抱き枕って意味?」 どちらにしろろくなものではないけれど。 しかし、私も私で、夢も見ないほどにぐっすり眠ったわけで、やはり人のことは言えない。戦場ヶ原さんの枕がよかったのか、戦場ヶ原さんの布団がよかったのか、それとも抱き枕が……。 いやいや。 抱いてないって。 「さてと。羽川さん、おなかすかない? 朝ご飯……じゃないわね、お昼ご飯でも作ろうと思うんだけど」 「あ、いいね。ご相伴しょうばんにあずかります」 「苦手な食べ物ってある?」 「ありません」 「そ」 戦場ヶ原さんは布団から這い出て、脱衣所のほうへと向かった。顔を洗って、完全に目を覚ましてから包丁を握るつもりなのだろう。 出てきて、そのままキッチンに。 キッチンと言っても、六畳一間なので、同じ部屋みたいなものだけれど。 「るん、るん、るん」 鼻歌交じりにエプロンを身につける戦場ヶ原さん。 何故かテンション高し。 料理が好きなのだろうか。 以前阿良々木くんが、戦場ヶ原さんがなかなか手料理を作ってくれないと嘆なげいていたのを思い出したけれど、そういえば最近、その手の話を聞かない。 つまりあれから、彼は恋人の手料理を食する機会はあったということだろうか。 「ねえ、羽川さん」 「なに?」 「ここでおもむろに私が裸エプロンになったりしたら、萌える?」 「キレる」 そう、と戦場ヶ原さんは頷いて、冷蔵庫から食材を取り出しにかかる。 キレずに済んだようだった。 私はキレる方法など知らないので、これは私が助かったようなものだ。 「ところで羽川さん。もやしって、漢字で書くと『萌やし』になるのよ。それを知って以来、もやしがおいしくておいしくて仕方がなくなったわ」 「いや、私はそれで味が変わったりはしなかったけれど……」 「となると、どう?」 戦場ヶ原さんはキメ顔で振り向いた。 包丁の切っ先を私に突きつけて。 「もやしっ子って、実はすごい褒ほめ言葉なんじゃなくって!?」 「萌やしっ子……」 正直、あまり面白いともうまいとも思わなかったけれど、包丁を突きつけられていたから、なまじっかな反論はできなかった。 しかし刃物の似合う女の子だなあ。 「羽川さん、コシヒカリ派? ササニシキ派?」 「あ、もうご飯派であることは決定なんだ」 「朝ご飯、昼ご飯、夕ご飯という以上、それは当然でしょう。パンを食べるのであれば、朝ブレッド、昼ブレッド、夕ブレッドと言うべきよ」 「なんか格好いい……」 でも普通に朝食、昼食、夕食と言えばいいと思う。 どうも戦場ヶ原さんの理論には穴が多い。 「ふむ、確かに。夕ブレッドがタブレットと読めてしまうところが、この理論の穴よね」 「いや、もっと大きな穴が空いているのよ」 「で、コシヒカリもササニシキも、この家には常備されてるの?」 「まさか。謎のブランド米しかないわ」 「謎って」 「でも謎という漢字の中には、ちゃんとお米が含まれているわよね」 「だから何」 「ブランド米ならぬブレンド米かも」 「そのギャグ、十五年くらい遅いよね」 そういうことが色々問題として取り沙汰された時代もあったのだ。 別に問題がなくなったわけではなく、あまり取り沙汰されなくなっただけだけれど。 「大丈夫。お父さんが炊飯器すいはんきにはこだわりを見せているから。高いのよー、これ。このキッチンには不似合いだって思うでしょう?」 「うーん」 確かに。 言っては何だが、この部屋の家賃よりも高そうな一品だ。 羽川家にあった炊飯器は、相当な年代ものだったので、これは密かに期待できる。 「羽川さん、料理とかする人?」 「うん、する」 正直に答え過ぎると、羽川家の家庭環境は人を引かせてしまうので、どこまで内情を明らかにしたものかは迷うところだけれど、しかしこうしてお世話になってしまっている以上、ある程度は詳つまびらかにしておくべきだろうと思い、私は言う。 それに、戦場ヶ原さんは私の両親と呼ばれるべきあのふたりと会ってしまっているのだから、変に取り繕つくろっても仕方あるまい。廊下で寝ていることも前に話しているのだし── いや。 べきとか、仕方あるまいとか、そういうことじゃなくって。 普通に戦場ヶ原さんには言っておきたかった。 私のことをあんなに心配してくれた戦場ヶ原さんに、あまり隠し事をしたくなかった。 「自分が食べるものは、全部自分で作っていたわ」 「そう」 私にもそういう時期があったはあったわね、と戦場ヶ原さん。 「お母さんと不仲だったから、私」 「……離婚、したんだったよね」 「そう。以来会ってないんだけれど──今頃どこで何をしてるのかしらねえ、あの人。幸せになってくれてるといいんだけれど」 言っている割に、大して気にもしていないような口調だった──野菜を切る包丁の動きが止まりもしない。 それが自然なのか不自然なのかは、わからない。 「ま、どこの家にも色々あるわよ」 「そうだね」 ちゃんと計算して作っていたのだろう、炊飯器がお米が炊けたことを知らせる音を鳴らした辺りで、戦場ヶ原さんは鍋の火を止めて、二人分の盛り付けを始めた。 何か手伝うことはないかと訊いてみたけれど、最後までやらせて、と断られてしまった。ペースが狂うのが嫌らしい。 そして、ちゃぶ台の上にずらりと食器が並べられる──さすがに運ぶのは私も手伝ったけれど。 「いただきます」 「いただきます」 ご飯、お味噌汁、鶏肉とりにく入りの野菜炒いため。 変に気取ってないお惣菜そうざい料理が妙に嬉しかったけれど、でもその感覚は相当頑張って説明しないとわかってもらえそうにないので、あえて戦場ヶ原さんには言わなかった。 食べる。 「あ、おいし」 「あらそう?」 戦場ヶ原さんは驚いたような顔をする。 「阿良々木くんにはあまり喜んでもらえなかったから、正直、酷評こくひょうも覚悟かくごしていたのだけれど」 「酷評って……」 というか、阿良々木くんはあまり喜ばなかったんだ……。 うーん。 男子力が足りないなあ。 たとえ好みと合わなくっても、ちゃんと喜んでいる振りくらいすればいいのに。 彼らしさではあるのか。 「私はおいしいと思うけど。まあ味覚って、個人差あるからね」 「つまり私と羽川さんの好みは似通にかよっているということね。味の好みも、男の好みも」 お味噌汁を噴き出した。 我ながら大変行儀ぎょうぎが悪い。 「戦場っヶ原さん……だからあなたは、そういうことに赤裸々過ぎ……」 「いえまあ、こういう話もしていったほうがいいのかなあって思って。羽川さんと本当に打ち解けるためには」 「ひとつ間違ったら清みぞが深まりそうだけれど……」 チャレンジャーだなあ。 でもまあ、そうやって踏み入ってきてくれるのが、嬉しくもある──私のほうからは、どうしたって踏み入りがたいことではあるのだから。 「じゃあ戦場ヶ原さん、いっそ思いきって、お互いに、阿良々木くんのどこが好きかって話でもする?」 「いえ、その思い切りかたは万一この会話が外に漏れたときに、奴が調子に乗りかねないから、しないほうがいいわ」 「そうなんだ……」 彼氏に対して厳しい戦場ヶ原さんである。 褒めて伸ばす気はないらしい。 「じゃあ何の話をする?」 「そうね、阿良々木くんのどこが嫌いかという話をしましょう」 「乗った!」 その後私達は三時間にわたり、思いのたけをぶつけあった。 人の悪口で盛り上がってしまった…… 016 「もう夕食の準備をしてもいいくらいの時間になってしまったけれど、そろそろ今後の話をしましょうか、羽川さん」 宴えんもたけなわではございますが、とでも言いたげに、名残なごり惜しそうな感じで戦場ヶ原さんは話題を切った。 お互い、心なし若返ったような気がする。 つやつやしている。 なんだろう、この連帯感。 「今後の話と言うと?」 「だから羽川さんの今後よ。今晩は、私の家に泊まってもらうとして、明日からどうする? なにかアテはあるのかしら」 「アテは──」 ここで「そうだね、じゃああの学習塾跡に戻るよ」なんて、冗談にでも言ったらまた叩かれそうだ。いや、蹴けられてもおかしくない。 「──ない」 「そう」 神妙そうに頷く戦場ヶ原さん。 さっきまで、彼氏の悪行を全身全霊ぜんしんぜんれいで批判していた人と同一人物とは思えないほどの、真面目な表情である。 表情が豊かというか、これでは二面性だ。 「本音を言えば、明日以降も泊まっていって欲しいんだけど……私の管理下においておきたいんだけれど」 「管理下?」 「監視下」 「言い直しても、あんまり……」 変わってないような気がする。 まあ、要するに心配だということを言いたいのだろうから、確かに本音なのだろうけれど。 「でも、戦場ヶ原家は見ての通りの手狭てぜまさだから──さすがに羽川さんに、明日帰ってくるお父さんと、同じ部屋で寝起き、お着替えしてもらうわけにはいかないわよね」 「うん、確かにそれは」 どうかと思う。 お父さんとしても、同じ部屋で娘の同級生が寝泊りするというのは、かなりありえない迷惑だと思うし。 「もしもそれでお父さんが羽川さんのことを好きになっちゃったら大変だもの」 「そんな心配をしてるの?」 「羽川さんのことをお母さんと呼ばなくてはならない日が来るかもしれない」 「来ない来ない」 「何? 私のお父さんじゃ不足だって言うの?」 結構マジな感じで私を睨む戦場ヶ原さんだった。 なんて厄介やっかいな性格。 ファザコンというのはどうやら本当らしい。 ふむ。 その点を含めても、まあ含めなくても、さすがに明日以降も、続けてここに泊めてもらうというわけにはいかないだろう。 ならばどうしたものか。 「一日二日くらいなら、それでも無理は利きくと思うわ。着替えの間は、お父さんに部屋の外に出てもらうとか」 「よそのお父様に、まさかそんなことはさせられない……」 どんな客だ。 「ちなみに、羽川さんの読みでは、羽川家の今後ってどうなるの?」 「あの人達も」 戦場ヶ原さんの前で、もう無理に『お父さん』『お母さん』と呼ぶ必要はないと思って、私はあえて『あの人達』という表現を選ぶ。 「あの人達も、いつまでもホテル暮らしというわけにはいかないでしょうから、近く、借家を探すことになると思うわ。そちらのほうが絶対に安上がりだから。火災保険が降りるから、そのお金で家を建て直している間、借家で生活することになるでしょうね」 「家を建て直すのって、どれくらいかかるものなのかしら」 「同じ規模の家だとしたら、三千万円くらいかな」 「いやいや、お金じゃなくって、期間の話」 「ああ」 恥ずかしい勘違い。 まずお金の話をしてしまった。 「うーん。工法にもよるけれど、色々な手続きの時間も含めたら、半年ってところかな」 「半年……」 つまり、と戦場ヶ原さん。 「その頃には羽川さんは、高校も卒業し、世界に向けて旅立っているわけね」 「──そうだね」 間に合わない──のだ。 いや、何に対して間に合う、間に合わない、なのかは、この場合わからない。 私が十五年暮らした家はもう燃えてしまったのだ──建て直したところで、それはもう別の家なのだから。 全すべては失われた。 それだけのこと。 間に合うも間に合わないもない──間が悪いのだ、結局。 「まあ半年後のことはともかく、取り急ぎ借家先が決まれば、羽川さんの寝泊りできる場所は確保できるわけよね?」 「うん。廊下だけど」 「廊下? ああ、そうだっけ」 前に言ったそのことを忘れていたようで、戦場ヶ原さんはそんな反応を見せる。 しかし反応はそれだけだった。 「まあ、色々あるわよね──家には」 「そうだね。家には」 「となると」 戦場ヶ原さんはすっと手を伸ばし、携帯電話を充電スタンドから取り外し、画面にカレンダーを表示させる。 「その借家が決まるまでの間の寝泊りよね──教科書とかノートとかも燃えちゃった?」 「燃えちゃった」 頷く。 「無事なのはあの日持ち出していた、筆記具と財布くらいのものだよ。でも、教科書は、先生に言えば貸してもらえると思う」 「そう。じゃ、そっち方面の心配もさしあたってはいらない、と」 言いながら戦場ヶ原さんは、携帯電話を片手で操作している──この角度からでは見えないけれど、あの打鍵の速度から判断するに、もうカレンダー表示ではないのだろう。 メールを作っているのかな? 「羽川さん。いいアイディアがあるんだけれど、聞きたい?」 「いいアイディア?」 「秘策と言ってもいいわ。秘策士ひさくしひたぎよ。世界観を越えた夢のコラボ」 「…………」 コラボというより、どちらかというと使い回しっぽかった。 「ご両親が借家先を決めるまで、かかっても一週間というところでしょう──それくらいの間なら、まあ、なんとかできると思うの」 「ふむ」 正直な気持ちを言うと、そのアイディア、秘策とやらに、そこまで心惹かれたわけではない──私の寝泊り先など、最悪を言えば、あの二人の泊まるホテルを訪ねれば、それで済んでしまうことなのだから。 つまるところ私のわがままの問題であり、戦場ヶ原さんに心労をかけ、知恵を絞ってもらうようなことではないのだから。 だから、アイディアの内容ではなく。 それを考えてくれる戦場ヶ原さんが嬉しくって、私は、 「聞きたい。是非聞かせて」 と言ったのだった。 「さあ、どうしようかな。言おうかな、言わないでおこうかな」 「…………」 更生して、淡白たんぱくだった性格が若干じゃっかんウザくなった戦場ヶ原さんだった。 017 その後、二人で夕食を食べ(参考までに、夕食は何故かパン食。炊飯器のみでなく、ホームベーカリーまで常設されているキッチンだった。『パンをおかずにご飯をたべているのよ』だって)、またも二人でシャワーを浴び、洗いっこをして、翌日に向けて英気を養う意味も込め、この日は夜十時を回る前に、戦場ヶ原ひたぎと羽川翼は眠りについた。 そんにゃわけでこの俺おれが目覚めるわけにゃん。 俺と言うのはもちろんご存知、障さわり猫を源流とするところのニュー怪異、あの不愉快にゃアロハ野郎が名付けたところのブラック羽川だにゃん。 こっそりと、音を立てにゃいように俺は布団から抜け出て(掃除機と違って、音がしにゃいように移動するのは、猫の十八番にゃん)、そして、 「んーっ、にゃっ!」 と伸びをする。 説明するまでもにゃくもうわかったと思うが、ご主人、つまり羽川翼が寝たときに章が飛んでいるのは、こうやって俺が登場していたからにゃん。 怪異の俺にはよくわからにゃいが、ご主人の知識によると、眠りというのは身体を休める意味と共に、精神を休める意味が大きいそうにゃん──ものを滅多に考えにゃい上に精神性という言葉と無縁の俺には、やっぱりよくわからにゃいが、『考える』という行為は、生物にとっちゃーかにゃりの負担ににゃるそうにゃのにゃん。 だから人は一日の三分の一もの時間を、人生の三分の一もの時間を、睡眠活動に費やさにゃいといけにゃいわけにゃ。 誰でも眠る。 ご主人も眠る。 しかし今回のことで、いわゆる一般的にゃ『眠り』だけじゃあ、ご主人の精神にとって休息として不十分ににゃっちゃったんだよにゃあ──ご主人自身がどこまで意識しているかはわからにゃいが、いにゃ、こればっかりは馬鹿にゃ俺でもわかっていて、しかしご主人はとにかく『自分の痛み』に関して鈍感どんかん過ぎるのでまったく意識していにゃいのだが、十五年間暮らした家が全焼してしまったというのは、すさまじい衝撃を、ご主人の精神、換言かんげんするところの心に与えてしまったのにゃ。 だから俺が出てきた。 ブラック羽川、三度みたび登場にゃ。 ゴールデンウィーク、それに文化祭(って、何にゃ?)前と合わせて、これで三度目の登場とにゃるわけだにゃん。 もっとも、ゴールデンウィークに出てきた俺と、文化祭前に出てきた俺と、そして今回出てきた俺は、はっきり別物と言っちまっていいんだがにゃん──人間風に言うにゃら他人と言ってもいいにゃ。 それとも他猫とでも言うのかにゃ? もっとも、俺にとって人間が区別できにゃいように、人間からすれば、障り猫──ブラック羽川のパターン違いにゃんて、どれも似たり寄ったりの、同定する必要のにゃい個体差にゃんだろうけれどにゃあ。 要するに冠詞で言うなら、あくまでも「a」であって「the」ではにゃいということにゃん。複数形が存在しにゃいと言ったほうがわかりやすいのかにゃ? 人間は白うねりが三匹いたところで、白うねりA、白うねりB、白うねりCと区別することにゃく、単に白うねりと言うだろう。 だから俺も、ブラック羽川Cでもにゃければ、ブラック羽川スリーでもにゃい──あくまでブラック羽川にゃん。 そこんとこよろしく。 「にゃん、にゃん、にゃん」 俺は言いつつ、脱衣所に向かうにゃん。 そして鏡を見る。 真っ白に変質した髪。 頭部に生えた猫耳。 ぎょろりとした猫目。 学習塾跡の廃墟で最初に『目覚めた』ときには、そばに鏡にゃんかにゃかったし、俺もまず状況を把握するのにいっぱいいっぱいだったし(ちにゃみにスエットのセンスは、鏡を見るまでもにゃくご主人を信奉しんぽうする俺でもどうかと思う感じだったにゃん)、今朝『目覚めた』ときは、俺も結構眠かったので活動しにゃかった、何せ俺は夜行性だから太陽の出ている間は脳がうまく働かにゃいしにゃ。 つまり鏡を見るのは初めてだったにゃん。 「ふーむ。やっぱ髪が短くにゃってるから、猫耳の味わいが全然違うにゃん」 そんにゃ重要にゃことを確認しつつ、顔を洗う。 猫が顔を洗うと翌日雨ににゃると言われているそうだが、この場合は全然関係にゃいにゃ。 俺は脱衣所を出て、衣装箪笥の上に置かれていた鍵を手に取る。言うまでもにゃく、この部屋の、玄関げんかんの鍵にゃ。 阿良々木暦と呼ばれていたあのいかがわしい人間野郎は、俺のことを鍵も使えにゃい馬鹿だと思っていた節があるが、ふざけんにゃ、鍵くらいは使える。人ベースの怪異をにゃめんにゃ。 俺はこっそり動いて──戦場ヶ原ひたぎという、ご主人の友人であるらしいその女を起こさにゃいようにこっそり動いて、無音で玄関を開け、同じく無音で錠じょうを落とす。 まあ、友人つってもこいつ、ご主人の敵でもあったはずにゃんだけどにゃ。それを思うと、こうやって気を遣って出て行くのもおかしにゃ話にゃんだが、しかしまあ、その辺俺はご主人の意向いこうに従うだけにゃ。 少にゃくともご主人は。 この女を恨うらんだことは、一度もにゃいんだから。 ただの一度も。 にゃん。 靴は履かにゃかった。 あれは動きにくいにゃん。 指が使えにゃいとか、勘弁かんべんして欲しいにゃ。 「にゃん、にゃん、にゃん、にゃん」 ところで、ご主人が眠っている間に俺が活動してるんじゃ、ご主人が全然休めにゃいんじゃにゃいかと、心配する向きもあるんじゃにゃいだろうかにゃん。 心配してくれてありがとにゃん。 でも大丈夫。 全然平気にゃん。 俺は言うにゃれば、ご主人の精神にとってのバランサーだからにゃん──つまり俺が『出て』いるだけで、ご主人の精神にとってはむしろ癒いやし効果があるんだにゃん。 肉体的にゃ疲労にしても全然問題にゃいにゃん、俺は怪異であって、人間の身体を使うにしたって、人間とはまったく違う原理で肉体を動かしているんだから、ご主人の身体は、これもむしろ眠るよりも安らかにゃはずにゃん。 大体、考えてもみろよ。 いくらご主人に寝床作りの才能があったとしても、机に段ボールを巻いたものの上で寝て、節々も痛くにゃらずにぐっすり眠れるはずもにゃいだろう──あんにゃ物体はベッドというより寝癖作製機と言うべきにゃん。それに比べれば比べ物にはにゃらにゃいとは言え、自分のために泣いてくれる友達と同じ布団の中で寝れば安らかに眠れると言うのは美談だけれど、普通は憤れない枕と布団じゃあ、眠りは浅くにゃっちゃうはずだにゃん。 そうにゃらず、『すっきり』、健康優良にゃ睡眠を取れたのは、自慢じゃねーがこうして俺が出ていたからにゃのにゃん。 俺はご主人のストレスの権化ごんげであり、つまり『疲れ』の象徴しょうちょうであり、こうして俺が切り離されるだけで、ご主人本人にとってはそれが安らぎににゃるんにゃん。 全てがそうではにゃいにしろ、ご主人が『寝ぼける』という感覚をよく知らにゃいというのは、つまり俺のお陰でもあるというわけにゃん。 俺のことを悪夢にたとえた人間野郎は、それは偶然だろうが、慧眼けいがんというべきにゃん──俺はご主人にとって眠りそのものってところにゃのだから。 夢にゃん。 ま、それでもカバー仕切れにゃかったゴールデンウィークにゃんかにゃ、その辺の人間を手当たり次第にエニャジードレインしまくっていたわけだが──安心しにゃ。 今回はそんにゃ傍若ぼうじゃく無人ぶじんにゃ真似をするつもりはにゃい。 する意味もにゃいしにゃ。 大体、こうして登場している俺は、あの人間野郎風に言うにゃら怪異の後遺症こういしょうというか、残響ざんきょうみたいにゃものであり──結局はただの現象でしかにゃいのだ。 エルニーニョみたいにゃもんにゃ。エルニーニャ? 俺にできることにゃんてほとんどにゃい。 夜、悪夢を見てうにゃされにゃいように。 こうして出てきてやるくらいのことしか、できにゃいのにゃん。 そうやってご主人のメンタルケアをすることが、俺にできる精々せいぜいのこと──そんにゃのは、にゃにもできにゃいのと同じようにゃものにゃんだけど。 けどまあ、あのアロハ野郎曰く、『怪異にはそれに相応しき理由がある』ということにゃのだから──にゃにもできにゃくとも、こうして残響として、錯覚としてあるだけで、俺に意味はあるんだと思うにゃん。 まあ、できにゃいことはできにゃいんだから。 できることをするだけにゃん。 できる限りにゃ。 ……ふむ。 こうしてみると、確かに今の俺と、以前の俺とは、やっぱり別物にゃん──強引にことを進めようという気が、力ずくで物事を解決しようという気が、まったく起きにゃい。 我にゃがら、丸くにゃったもんにゃ。 まあ猫が丸くにゃるのは当たり前か。 いや、違うかにゃ。 丸くにゃったのは、ご主人か。 人間だ怪異だ言ったところで、究極的には俺とご主人は同一人物にゃのだから、ご主人が丸くにゃれば、俺も丸くにゃるのだ。 雪が降るのを待たずとも。 炬燵こたつにゃんてにゃくともにゃ。 ご主人は、戦場ヶ原ひたぎというあの女の更生について、色々思うところがあるようだけれど、それに阿良々木暦というあの人間野郎を更生させることに躍起やっきににゃっているようだけれど(更生プログラムとか揶揄やゆされてたにゃん)、でも、ご主人だって、ちょっと前に比べれば随分と更生したように俺には思える。 更生というか、構成かにゃ? 俺はご主人を、心の内側、心の内面から観察することににゃるからにゃ──その辺は、よくわかるつもりにゃのにゃ。 まあ家庭環境が家庭環境だったからにゃあ。 グレにゃいほうが不思議ってもんにゃ。 そのグレかたが、優等生方向に向いちゃったってのが、ご主人のご主人らしいところにゃんだけどにゃ──その優等生気取りも、髪を切って眼鏡を外して、やめちゃったわけだが。 それについては周囲からは色んにゃ意見があるだろうが、俺に言わせりや、やっぱりよかったとしか言えにゃいにゃん。 そこは戦場ヶ原ひたぎと同意見にゃ。 いずれ俺も完全に消えるだろう。 消えていにゃくにゃるだろう。 今は過渡期かときにゃのにゃ──ご主人が、ご主人として完成するためのにゃ。 俺にゃんつーのは、言うにゃら思春期の妄想みてーにゃもんにゃのだから。 遅くとも世界中を旅して、帰ってくる頃には。 誰もが子供の頃に空想していた架空かくうの友達のごとく、忘れ去られてしまうのだろうにゃん。 ま、寂しくにゃいと言えば嘘ににゃるけれど、最初からそれが俺の役割にゃのだから、その流れに逆らうつもりはないにゃん。 出逢いもあれば別れもある。 怪異もそれは同じだから。 俺は俺にできることをするだけ── 「にゃん、にゃん──こっちかにゃん」 階段を降りるのではなく、俺はこのアパート、艮倉荘の屋根にひょいっと登り、そこで三百六十度に目を配る。 「いや──こっちかにゃん」 で。 そんにゃ俺がどうして今、布団から外に出て、部屋の外に出たのかと言えば──エニャジードレインが目的じゃにゃいと言うのにゃら何が目的にゃのかと言えば、当然それは、夜の散歩、とかじゃにゃいにゃん。 廃墟で『出た』ときや、今朝『出た』ときも、本当はすぐにでもこうして『活動』すべきだったんだけれど、俺にも準備ってもんがあるからにゃ。 さて。 「ん。んん。いたにゃん」 ほどにゃく、俺は対象を発見し──発見した瞬間、音もにゃく、飛んだ。 猫は空を飛べるのにゃん。 いや、それは嘘だが。 しかしブラック羽川の跳躍力ちょうやくりょくは、山をも越こえるにゃん──今回は、音を立てにゃいように気をつけたので、さすがに山を越えるというわけにはいかにゃいけれど。 俺が本気で跳とんだら、足元のアパートが崩壊するしにゃ。 それでも五百メートルくらい跳ぶには、十分だったにゃん。 ここまで来れば音を消す必要もにゃい、俺はアスファルトに突き刺さらんばかりに勢いよく、どかんと着地する。 夜の、車一台通らにゃい、真っ暗にゃ道路。 そして俺の目の前には。 一匹の虎がいたにゃん。 018 『障り猫……いや、違う。障り猫ではない。かと言って他の何でもない。なんだお前は。お前はなんだ』 その虎──現実の虎ではありえない、見ていて遠近感が狂いまくる巨大にゃ虎は、俺を見て不可解そうに首を捻った。 虎が首を捻るという図というのも、にゃかにゃか珍しいにゃん。 写メしてプログにアップしたいにゃん。 「障り猫で、まああってるにゃん──正確には細部が違うけれど、根本も違うけれど、うんまあ、そんにゃに違うわけでもにゃい」 俺は友好の意をアピールするように、できる限りの笑顔でそう言ってみたが、 『そうか? 全然違うように思うがな──』 虎は目を細めて、にこりともしにゃい。 うーん。 見た目で怪異を判断するのはよくにゃいけれど、第一印象からすると、あまりいい関係は築けそうににゃいにゃ。 『──吾輩わがはいの知る障り猫という怪異は、貧弱で、いるかいないかわからないような、存在感のない怪異だ。しかしお前は──』 「まあ──そういわれると一言いちごんもにゃいにゃん」 反論のしようもにゃい。 障り猫にゃんてものはあまりにも実体がなく、怪異と言うよりは怪談と言ったほうが正確にゃくらいだからにゃ──もっとも、そうじゃにゃくっても、こいつから見れば、大抵の怪異は、いるかいにゃいかわからにゃい、存在感のにゃい怪異ってことににゃっちまうっつー気もするんだけどにゃ。 虎は、言うまでもにゃく聖獣にゃのだから。 「色々あるんだよ。俺みたいにゃ奴にも」 『そうか』 頷く虎。 興味にゃさげにゃん。 俺のことにゃんか、如何いかにもどうでもいいという感じにゃん。 『まあ、お前のことなんかどうでもいい』 実際に言いやがった。 さすがにむかつくにゃん。 『しかし、何の用かは訊かねばならんな。吾輩の行く手を遮さえぎる意味を、同種の怪異たるお前が、わからんはずもなかろうに』 「同種の怪異?」 今度は俺が首を捻る番だった。 俺とこいつとじゃあ、怪異としての出自しゅつじは全然違うはずにゃんだが──いや、そういう意味じゃあにゃいのか。 単に、動物としての同種。 猫と虎──という意味にゃんだにゃ、きっと。 納得して、俺は、 「まあ」 と言う。 「もちろんわかっているにゃ──別にお前の行く手を遮ろうというつもりは俺にはにゃい。ちっとも、これっぽっちもにゃいにゃん。俺はあんまり頭のいい奴じゃにゃいけれど、その程度の身の程は弁わさまえているつもりにゃ」 『頭がいい奴ではないのは確かだろうが──身の程を弁えているかどうかは、疑問だな』 虎は失礼にゃことを言いやがった。 しかし人型でもにゃい癖にべらべら喋る奴にゃ。 逆に不安ににゃる。 『ではお前は、どうしてそこに立っている』 「いや、単に宣言しにきただけにゃ──お前がどういうつもりでこの町に来たのか、この町にいるのか、俺はまったく興味がにゃい。好きにゃように、その本分を全まっとうすればいいと思う。お前の本分がにゃんにゃのかも、俺にとってはどうでもいいことにゃん。怪異ってのは、そういうもんにゃんだからよ。だがもしも」 俺は言う。 それは宣言と言うより。 宣戦布告と言うべきだったにゃん。 「もしもこれ以上お前が俺のご主人に害をにゃすようにゃことがあれば──俺はお前を殺す」 『……そうか』 俺の言葉を受け。 虎は──静かに、得心とくしんするように、頷いた。 噛み締めるように。 喰くらいついた肉でも──噛み締めるように。 頷いた。 『どこかで見覚えがあると思ったが……お前、あの娘か。あの娘に──取り憑ついているのか』 「取り憑いているわけじゃにゃいにゃん──真っ当にゃ障り猫にゃら、そうにゃんだろうけどにゃ。俺は本人みたいにゃもんにゃん」 ようやく俺、というかご主人のことを思い出したらしい虎に、俺は軽く説明してやる。この辺は説明してやらにゃいと、わかりようもにゃいことにゃ──あの専門家の、アロハ野郎だって、全てをわかっていたわけじゃにゃいのだ。 怪異の真実にゃんて誰にもわからにゃい。 「同化、いや、一体化と言ったほうが正しいにゃん。俺はご主人であり、ご主人は俺にゃ──主人格はもちろんご主人にゃのだが、主導権は案外俺のほうにあったりもする。俺はご主人の精神の、原理的で原始的な根幹こんかんを占める部分だからにゃ」 『ふん。どうでもいい』 また言いやがった。 別にこいつに好かれたいわけでもにゃいのだが、もうちょっと俺に興味を持てと言いたくもにゃるにゃん。 『人間に肩入れする怪異か。珍し──くもない。だが、お前のような怪異こそが一番よくわかっているだろう。怪異の特性というものは、抑えられるものではない。見たほうの問題だ』 「…………」 『お前のご主人とやらが、吾輩を見た──重要なのはそれだけだ』 言って。 虎は俺を──強く睨んだ。 瞬間、俺は跳んでいたにゃん。 やばい、と思ったのにゃ──あっさりと戦闘せんとうに入りそうにゃ気配を感じた。 こいつは恐しく暴力的で──恐しく短絡的で── だから跳んだ。 俺は跳んだ。 飛んだ。 後ろに一歩引いた、にゃんてものじゃにゃい、もっと大胆に、全力で飛んだ──それこそ飛翔ひしょうでもするように、山を越えるように。 しかし。 五分以上の滞空たいくう時間を経て、町の外れで転がるように着地した俺の正面に、果たしてどう先回りしたのか── 虎はいた。 『無駄だ』 「…………」 『全ては無駄だ。その女──あの女は吾輩を見た。それだけが肝要かんようで、それだけが重要だ。吾輩はもう──始まっている』 俺がしたのが宣戦布告にゃら。 虎は最後通牒つうちょうのように、そう言った。 019 「部屋に入る前に、足を拭いてくれる?」 アパートに戻った俺を待っていたのは、滞れタオルを準備した戦場ヶ原ひたぎだったにゃん。 気配を消し、もちろん音もしにゃいように鍵をあけたつもりだったのだが、しかしそれ以前に、この女は目を覚ましていたらしい。 「寝起きはいいはうなのよ。神経質だから。そう言わなかったっけ?」 「……俺が言われたわけじゃにゃいにゃん」 「でもあなた、羽川さんなんでしょう?」 はい、と当たり前みたいに濡れタオルを俺に差し出す戦場ヶ原ひたぎ。 俺は素直に受け取った。 言われるがままに足の裏を拭く。特に意識してはいにゃかったのだけれど、にゃるほど、タオルがすぐに真っ黒ににゃったところを見ると、随分汚れていたようにゃ。 「まあ、あなたと会ったのは初めてだけれど……、ブラック羽川さんでいいんだっけ?」 「まあ、そんにゃところにゃ」 「そう」 と、戦場ヶ原ひたぎは、今度は何も持っていにゃい空手を、俺に向けて差し出してきた。 「……? にゃんのつもりにゃ?」 「いや、初めましての握手あくしゅをしようと思って」 「お前、何も聞いてにゃいのか?」 俺は呆れた気分ににゃって、教えてやった。 「障り猫としての俺の特性は常時発動型のエニャジードレイン。触ったらそれだけで相手の精力を吸い上げてしまう──握手にゃんて、とんでもにゃいにゃん」 「エニャジードレイン。それは聞いてるけど」 戦場ヶ原ひたぎは普通に言った。 「でも一瞬いっしゅんで全てを吸い取るわけじゃないでしょう? 握手くらいできるはずよ」 「…………」 何か言おうとして──俺はやめておくことにした。 言ってどうにかにゃる相手ではにゃさそうだ。 だから無言で、俺はその手を握ってやった──一瞬だけにゃ。 「う」 と、その一瞬だけ、戦場ヶ原ひたぎは呻うめいたが──それだけだった。 膝ひざをついてもおかしくにゃい倦怠感が、今全身を襲っているはずにゃのに、苦しそうにゃ素振りさえ見せにゃい。 確かに一瞬だけにゃら、それで昏倒こんとうしてしまうほどのエニャジードレインではにゃいにしろ、普通の人間に耐えられるものではにゃい──それを含んだ上で、俺は握手してやったんだけどにゃ。 目論見は外れたというか。 それでも、これはご主人の気持ちにゃんだろうか──どこか『やっぱり』という気持ちはあるのだったにゃん。 やっぱり。 やっぱりこの女は。 「…………」 まあ。 俺は──もちろん、ご主人も。 別にこいつの苦しむ姿を見たかったわけではにゃいんだけれど。 こいつのそんにゃ無反応は、どこか俺の心を抉るものがあった。 畳み掛けるように彼女は、 「よろしくね」 むしろ笑顔で、そう言ったのだった。 「羽川さんのこと、よろしく」 020 …………。 何故だろう。 今度は一気に三章も飛んでいる。 私が寝ている間に何があったのだ……。 大丈夫だよね? 何も変なこと、起きてないよね? 「おはよう、羽川さん」 私が布団の中、身じろぎもできずにただただ混乱していると、正面の戦場ヶ原さんが、そんな風に言葉を掛けてきてくれた。 おや、と思う。 戦場ヶ原さんは、昨日とは打って変わって、なんだかぼんやりした感じの表情だったのだ──いや、ぼんやりしているとか、あるいは眠そうとか言うよりは、なんだか、普通にぐったりと疲れているかのような── しかし寝起きでいきなり疲れているというのは、どういうコンディションなのだろう? まさか障り猫にエナジードレインでもされたわけでもあるまいに。 「羽川さん、朝早いのね……まだ六時よ」 「うん──」 今日の目覚めこそ、体内時計に頼る形になった──戦場ヶ原さんの家は私の家より直江津高校に近いので、本当はもう少し寝坊してもよかったのだけれど。 まあ早起きして損をすることはない。 「でも、戦場ヶ原さんも起きてるじゃない」 「私は朝は、軽く走るから」 戦場ヶ原さんはゆらりと身体を起こしつつ、言う。 「このスタイルを維持いじするために、これでも結構苦労しているのよ……食べたものが肉になりやすい体質なの、私って」 「食べたものが肉になりやすい体質って……」 太りやすいの娩曲えんきょく的表現だろうか。 まあ、戦場ヶ原さんは体重に関して一時特殊な事情を持っていたらしいので、逆にその辺りの管理に対して、それこそ神経質なのかもしれない。 モデルでもないのだし、正直、戦場ヶ原さんはもうちょっとふっくらしたほうがチャーミングだと思うけどなあ。 腕や足がそんな細い必要があるんだろうか。 見ていて、折れそうで怖い。 「羽川さんみたいに食べたものが胸になりやすい体質が羨ましいわ……」 「食べたものが胸になりやすい体質って……」 そんな体質があるか。 いや、私だって結構色々苦労してるよ。 女子は大変なんだから。 戦場ヶ原さんは顔を洗ってから、短パンとTシャツに着替えて、ランニング前のストレッチを開始する。 うわっ……。 身体柔やわらかっ。 我が目を疑ってしまった。 戦場ヶ原さんの肉体が、まるで行き過ぎたCGのような、ぬるぬるした動作を見せたのだ。 すごい。軟体なんたい動物みたい。 「ごめん。ちょっと触っていい?」 「え? 右のおっぱいを? 左のおっぱいを?」 「いえ、背中……」 「右の肩甲骨けんこうこつを? 左の肩甲骨を?」 「そんな特殊なフェティシズムを持ち合わせてはいない……」 切り返しがうまいなあ。 これは私にはないものだ。 そう思いつつ、私は戦場ヶ原さんの後ろに回って、百八十度開脚かいきゃくした戦場ヶ原さんの背中をぐいっと押す。 ぺったり畳に引っ付いた。 抵抗及び摩擦まさつゼロ。 背中を押す必要がまったくない。 「なんでこんなに身体柔らかいの……? 関節の可動域、おかしくない? というか、関節が最初から外れているかのような……」 「うーん、ストレッチって嵌るのよね……マゾ的な意味で」 「後半付け加える必要あった?」 「この身体の中がぎしぎしと軋きしむ感覚がたまらないのよ」 「軋んでないみたいだけれど」 「今はすっかり、軋むこともなくなっちゃってつまらないわ」 つまらないんだ……。 まあ、ストレッチはやればやるほど効果が出るものだし。 陸上部時代の鍛錬たんれんの賜物たまもの──というか、名残なのかもしれない。 「羽川さんも一緒に走る?」 「いえ、じゃあ私は戦場ヶ原さんが走ってる間に、朝食を作らせてもらうわ。帰ってきたら一緒に食べましょう」 「走るのは嫌なの?」 「そういうわけじゃないけれど」 むしろ運動は好きだ。 毎日ではないが、朝のランニングをすることも、習慣としてままある。 だから単に、ランニングから帰ってきたら、やっぱりまた、戦場ヶ原さんと一緒にシャワーを浴びることになるんだろうなあと展開を予想してしまうと、そんなサービスシーンばっかり挿入そうにゅうしなくてもいいかなと思っただけだ。 別の意味でいやらしい。 「と言うより、戦場ヶ原さんも今日はやめておいたら? 疲れてるように見えるわよ」 「疲れているときこそ走りたいのよ」 「何気なにげに体育会系だね」 元陸上部。精神鍛錬もばっちりだ。 無理して引き止めるほどのこともなさそうだったので、ストレッチに協力したのちに(協力というほどのことは結局できなかったけれど)、私は彼女を見送って、キッチンに立ったのだった。 021 「むぐ」 戦場ヶ原さんはサラダのキュウリを口にするなり、何とも言えない顔をした。 人様の家の水回りをあまりいじくり回すべきではないと思ったので、私が用意した朝食は実にシンプル。 昨日の残りのバゲット、ホットミルク。生野菜のサラダと、ベーコンを下地にした目玉焼きといった感じで、ちゃぶ台に並べたときには、戦場ヶ原さんも「あらおいしそう」なんて言ってくれていたのだが。 ごくごくと牛乳を一気飲みするところまではよかったが、それからサラダを一口口にしたところで、様相が変わった。 がらっと。 「羽川さん、ちょっといいかしら」 「……なんでしょう」 「あ、いえ、待って。とりあえずこの信じられない事態に、確信を持つわ」 言って戦場ヶ原さんは更にサラダをむしゃむしゃと頬張りこむ。続いてもくもくと目玉焼き、バゲットを食べた。 その間も難しい顔つきは変わらない。 私も鈍くはないので、まあそのリアクションを見ていれば大体、今戦場ヶ原さんが思っていることはわかるのだけれど……あれ? 何か失敗したかな? 私は思って、自分の用意した食事を、おっかなびっくり食べてみるも──取り立てておかしなところはないように思う。 目玉焼きを焦がしてしまったとか、食材の中に洗剤が混ざっているとか、少なくともそういうことはなさそうだ。 では何が戦場ヶ原さんのお気に召めさないのだろう? むしろ私のほうからの怪訝けげんな視線を受け、戦場ヶ原さんは、 「ふーむ」 と、意味ありげに言う。 「あの、戦場ヶ原さん──」 「羽川さん。ドレッシングって知ってる?」 「え?」 不意を突く質問だった。 「そりゃ、もちろん知ってるけど。たまにサラダにかかっている、あれだよね」 「なるほどなるほど」 納得する風に、深く頷く戦場ヶ原さん。 「目玉焼きにソースをかける派と、醤油しょうゆをかける派、あるいはコショウをかける派の、三みつ巴どもえの争いについて、どう思う?」 「ああ、噂ではいるらしいね。目玉焼きに何かかける人って」 「うんうん」 戦場ヶ原さんは更に頷く。 好ましい実験結果が出ているといった風だ。 「バターとかジャムとかが冷蔵庫に入ってたの、気付いてた?」 「あったけど……昨日出してもらったし。あ、ごめん、ひょっとして使った?」 「ふむ」 戦場ヶ原さんは、しかしバターを取りに席を立つでもなく、バゲットをちぎり、口に運んでもくもくと咀嚼そしゃくする。 黙々。 「更にいくつか質問」 「どうぞどうぞ」 「羽川さんの食生活についてね」 「私の食生活? 私の食生活なんて、とても平凡へいぼんなものだと思うけれど」 「お寿司すしに醤油は?」 「つけない」 「てんぷらにつゆは?」 「つけない」 「ヨーグルトにグラニュー糖を?」 「入れない」 「ハンバーグやオムレツにケチャップで文字を?」 「描かない」 「お好み焼きにソースは?」 「塗ぬらない」 「おにぎりに塩は?」 「混ぜない」 「カキ氷のシロップは?」 「スイ」 「食後のコーヒー、お砂糖はおいくつ?」 「ブラックでお願いします」 はい、と戦場ヶ原さんは、質問を終えた。 なんだか心理テストでも受けていたみたいでおかしな気分だったが、しかしここに至って、彼女が何に不満を抱いていたのか、私は理解した。 「ああ、わかったわかった。ごめんなさい、戦場ヶ原さんは、サラダにはドレッシングをかける派だったんだね。だからあんな風におかしな顔をしていたんだ」 「いえ、私はドレッシングをかけない派の存在を、今まで認識していなかったのよ」 戦場ヶ原さんは言う。 「プレーンな目玉焼きというのも初めて見たし、パンがパンのままごろっと出てきたのも初めてだわ。……羽川さんって、あれ? 料理の味付けに対し拒絶的な人なの? 素材の味をそのまま堪能たんのうしたいとか?」 「ん?」 言われた言葉の意味を理解するのに、少々時間を要して、そしてその後少しばかり悩んでしまったけれど、「ああいや」と、私は答える。 「そういうわけじゃないわよ。ドレッシングがかかってても同じようにおいしいと思うし、目玉焼きにソースがかかっていても醤油がかかっていてもコショウがかかっていても同じように食べられるし、きのこの山もたけのこの里も同じくらい大好きだし」 「きのこ派とたけのこ派の話はしていない」 戦場ヶ原さんが突っ込んでくれた。 やだ嬉しい。 ボケた甲斐があった。 「でも料埋って、味がなくてもおいしいじゃない」 「決め手となる発言が登場したわ」 「え? 私はただ、味はあってもなくても一緒だって言ってるだけだよ?」 「問うに落ちず語るに落ちるとはこのことだわ」 問うにもとうに落ちてるけど、と戦場ヶ原さんは箸を置いた。 食事をやめたのではなく、しっかり全部食べている辺りが彼女らしい。 「ごちそうさまでした」 とりあえずそう言ってから、 「あなたと味の好みが似ているという話は全面的に取り消すわ」 と続けた。 取り消されてしまった。 「偏食へんしょくの逆、みたいな人なのね、羽川さん。好き嫌いがないというのとも達うわ」 「ごめん、戦場ヶ原さん。私、いまだに何を言われてるかよくわからないんだけれど」 「家庭の味、ねえ」 戦場ヶ原さんは私の質問を無視する形で、物思いにふけるようにそう言う。 「でも、そういうわけじゃなくって、羽川さんはどんな味でも受け入れてしまうってことなのかしらね……極端に言えば、食べれて栄養を取れればそれでいいって言うか。いや、栄養が取れなくとも腹にたまればいいのかしら……」 「人をそんな、戦士みたいに言わないでよ」 「味がわかる分、厄介よね。素材の味を楽しんでるってわけでもないというのなら──結局は器うつわが大きいってことになるのかしら。味付けにこだわるって、よく考えたら贅沢なことかもしれないし」 しかしあっさりと私の常識を崩してくれたわ、と戦場ヶ原さんは言って、まだ食事を終えていない私をじっと見詰めてくる。 「でもねえ……羽川さん、そういう生き方ってどうかとは思うわよ。食生活に限ったことじゃなく、あなたってこう──」 言葉を選ぶ風の戦場ヶ原さん。 珍めずらしい。 「──なんでもかんでも、受け入れちゃうじゃない」 最終的に戦場ヶ原さんが選んだのは、さっきも使ったその言葉だった。 「嫌いなものがあるっていうのは、好きなものがあるのと同じくらい大切なことじゃない──それなのに、あなたは何でもかんでも受け入れちゃうじゃない。私のこともそうなのかもしれないし、阿良々木くんのこともそうなのかもしれない、なんて思うんだけど」 「うん?」 話が変わった? 話が逸れた? 話が大きくなった? いや──違う。 話は変わっていないし、逸れてもいない。 大きさもそのまんま。 私の生活の話だ。 羽川翼のライフスタイル。 「味の好みは似通っているのではなく、私の好みを羽川さんの好みが包み込んでいるというだけのことだったのね──いえ、羽川さんのは好みとは言えないかもしれないわ。言わないほうがいいかもしれないわ。だって、なんでもどれでも好きなんじゃあ、どれもおなんじみたいなものだものね」 「…………」 「ねえ羽川さん」 戦場ヶ原さんが私の目を見詰めたままで言う。 それは少しだけ。 昔みたいな──平坦な口調だった。 「あなた本当に阿良々木くんのこと好きだったの?」 そして重ねて問う。 「今でも阿良々木くんが好きだって、もっかい言える?」 022 今日は私も戦場ヶ原さんもちゃんと授業に出席するつもりだったのだけれど、しかし登校する直前になって、戦場ヶ原さんは昨日余計な嘘をついてしまったがばかりに、つまりインフルエンザだと言ってしまったがばかりに、一週間は学校に行けないことに気付いた。 「策士策に溺おばれるとはこのことね」 と彼女は言ったけれど、どうだろう、私から見れば畳水練たたみすいれんで溺れたような滑稽こっけいさがそこにはあるように思える。 「一週間家でおとなしくしていなくっちゃいけなくなってしまったわ……どうしてこんなことに。悪いことをしていないのに自宅謹慎を喰らってしまった気分よ」 滑稽話のような展開であるとは言え、張本人である戦場ヶ原さんにとっては深刻な事態らしく、頭を抱えていたが、しかし、嘘をつくのは十分に悪いことであり、これも自業自得じごうじとくの範囲内だろう。 自縄自縛じじょうじばくにも似ている。 「お父さんに怒られる……」 「…………」 高校三年生の彼女は、父親に怒られることを恐れているようだった。 可愛いなあ。 「でも阿良々木くんもしばらく学校に来れないみたいだし、丁度いいんじゃない?」 なんて、さして慰めるつもりもなく、むしろちょっとした皮肉のつもりで言ってみたら、 「それもそうね」 とあっさり彼女は頭を抱えるのをやめた。 恐るべきバカップル。 そして私だけが、ひとりで登校する──学校についてみると、予想通りではあったけれど、私を待っていたのは質問の嵐だった。 好奇心や野次馬やじうま根性がそこに多少なりとも交じっていたのは仕方のないこととして、クラスのみんながこうして心配してくれたことは、嬉しく思えたのだった。 今日から授業が開始される。 私は『どうせ一週間使えないから』と戦場ヶ原さんから借りてきた教科書をめくりながら、今朝戦場ヶ原さんに言われた台詞を反芻はんすうする。 「私ね、羽川さんみたいな頭のいい人から見たら、世の中っていうのはとても味気がないものだと思っていたのよ──色んなことが、なんていうかわかっちゃって、わくわくしたり、どきどきしたりすることがないんじゃないかって。でも、それは半分正解であって、半分間違いだったのかもしれないわ。『味気がない』ということに対する解釈が、私と羽川さんとで同じだという保証はなかったわ。そう、前提の立て方が間違っていた」 つまらない、とか、もっと極端に、駄目だ、ということに対して、嫌悪感を覚えない人間がいるかもしれないなんて、想像もしたことがなかった──と、戦場ヶ原さんは言ったのだ。 さすがに、私は慌てて反論した。 「いや、世の中が味気ないなんて、私は思ったことはないよ。つまらないのは嫌だし、駄目なことは悪いことだと思うよ」 「そうかしら。何か言っているだけって気がするのよね、それ──思っているだけと言うか」 しかし戦場ヶ原さんは私の釈明しゃくめいを受け入れてはくれなかった。 「いえ、昔から考えてはいたのよ。阿良々木くんと羽川さんの違いって、どこにあるのかって──同じように二人とも、我が身を犠牲にして他人のために躍起になるけれど、どうも私から見れば、両者はまったく別物のように思える──似てさえいないように思える。わかりやすく言えば、阿良々木くんが偽物で、羽川さんが本物に見える。やってることは同じなのに、なんでなのかなあって──でも、この手料理を食べてわかった気がするわ」 「わかった気がするって……」 「手料理を食べて相手の人となりがわかるなんて、某ぼう料理漫画みたいだけどね」 戦場ヶ原さんは言う。 「『美味おいしんぼ』みたいだけどね」 「なぜ一度伏せたタイトルを改めて」 「危うさに対する認識が違うのよ。阿良々木くんとあなたでは。たとえば道路で、クルマに轢かれて死んでいる猫がいるとして──その猫を埋葬まいそうしてあげるという行為は、きっと正しい。羽川さんはそうするんだと思うし、阿良々木くんも、なんだかんだ言いながら、そうするかもしれない」 「…………」 「違うのは、この『なんだかんだ言う』という部分なのよね、きっと──なぜ多くの人がクルマに轢かれて死んでいる猫を無視し、まるで何も見なかったかのように通り過ぎるのかと言えば、その猫を埋葬することが『危うい』からよ。自分が『いい人』、『善人』であることを周囲に知られることは、人間社会では非常に高いリスク──つけ込まれる可能性が非常に高い」 『いいことをするのは恥ずかしい』とばかりに、子供はいつからかわざと悪ぶってみせるようになるけれど、その理由は『恥ずかし