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猫物語 黒
猫物語 黒
西尾維新
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完全無欠の委員長、羽川翼。阿良々木暦の命の恩人である彼女はゴールデンウィーク初日、一匹の猫に、魅せられた―。それは、誰かに禁じられた遊び...人が獣に至る物語。封印された“悪夢の九日間”は、今その姿をあらわにする!これぞ現代の怪異!怪異!怪異!知らぬまに、落ちているのが初恋だ。
Categories:
Volume:
6
Year:
2010
Publisher:
講談社
Language:
japanese
Pages:
305
ISBN 10:
406283748X
ISBN 13:
9784062837484
Series:
〈物語〉シリーズ
File:
EPUB, 393 KB
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猫物語ネコモノガタリ[黒] 西尾維新 目 次 猫物語[黒] あ と が き 著者紹介 第禁話 つばさファミリー 001 羽はね川かわ翼つばさと思いの限り戯たわむれた、あのゴールデンウィークのことを今更のように思い出そう。苦にがい思い出であり、渋しぶい思い出であり、しかしどこか甘酸あまずっぱい思い出なのだけれど、もしもできることなら忘れてしまいたい、たとえできなくってもなかったことにしてしまいたい、あの黄金色に輝く九日間のことを思い出そう。 羽川翼。十七歳。性別女。高校三年生。クラスの委員長。優等生。前髪まえがみを揃そろえた三みつ編あみ。眼鏡めがね。真面目まじめ、生真面目きまじめ。善良。とても頭がいい。誰にでも公平に優しい。しかしそんな風にいくらわかりやすい記号的な情報、キャラクター設定を言い並べたところで、あの例外的な彼女を表現できるだなんて、僕はまったく、毛ほども考えていない。そう、彼女には、実際に向き合った者でなければ、実際に立ち会った者でなければ理解できない、人間の扱う言語においては表現しきれない何らかの何かがあるのだ。現実問題、羽川翼という彼女について言い伝えようと思えば、そのときは神々の言語が必要とされることだろう。 あるいは悪魔あくまの言語なのか。 だからざっくばらんに言って、本当に、心の底から申し訳のない限りではあるのだけれど、たとえゴールデンウィークのことをこれから詳細しょうさいに、微びに入り細さいを穿うがって隅から隅まで漏もれなく語り尽くしたところで、あの悪夢のような九日間の真実は、あるいはあの悪夢のような九日間の真実に限りなく近いまがいものは、まったくもって誰にも伝わらないだろうと、僕は端はなから諦あきらめている。伝達を完全に放棄した僕は諦めの権化ごんげであり、諦めの化身けしんである。 大体僕は、決して誰かに想いを伝えたいわけではないのだ。 単に。 単純に──端的に。 羽川翼という僕の恩人おんじんについて、羽川翼という僕の友人について、絶え間なく独り言をぶつぶつ呟つぶやきたいだけである。 多分、意味もなく。 確実に──何もなく。 誰にとっても、僕にとってさえも、意味もなく、何もなく。 空っぽの皆無とはこのことだ。 それこそ後に出会うことになる戦せん場じょうヶ原はらひたぎや、神かん原ばる駿する河があたりからしてみれば──目的のためには猪突猛進ちょとつもうしん、何を犠牲ぎせいにすることさえ厭いとわない、場合によっては自分にとって大事な宝物を踏みにじることさえ躊躇ちゅうちょしない強さを持つ彼女達あたりからしてみれば、僕がこれから試こころみようとしている懐古かいこ主義や復古ふっこ主義は、実に軽薄けいはくなノスタルジックで、失笑に値あたいする、嘲笑ちょうしょうにも値しない、生産性に欠けた後ろ向きな行為に映るに違いない。 人間は前向きに生きていくべきで、ポジティヴじゃなくてもアクティヴに、積極的でなくても究極的に生きていくべきというのが、強くて弱い彼女達の価値観だ。 奇麗きれいでなくていい、と言う。 生いき汚ぎたなくていい、と言う。 貪欲どんよくでいい、と言う。 そんな価値観は──違う。 僕とは違う。 弱くて薄い、及びもつかない、阿あ良ら々ら木ぎ暦こよみとは違う。 気が弱くて、小心者で、左右どころか一旦いったん後ろを確認してからでないと横断歩道も渡れない、そんな人間もどきと──彼女達は違う。 そして。 そんな僕と、羽川翼は一緒なのだ。 一緒くたなのだ。 意外なことに、と言うべきか。 意中のように、と言うべきか。 飛びぬけて優秀な、ある意味人智を超越した存在であるところの彼女と自分を重ねて考えるだなんて、恐れの多さもいいところだけれど、しかし、あのゴールデンウィークを経へて僕が得た、教訓に限りなく漸近ぜんきんした概念があるとするなら、それが唯一ゆいいつのものだろう。教訓だなんて、まるであたかも詐欺師さぎしのような言い草だけれど、しかしそれが揺るぎのない事実であるのだから仕方がない。 仕方がないと──諦めよう。 僕と彼女の共通点。 阿良々木暦と羽川翼の共通項。 心の中の、同じ部分。 今ならわかる──あのゴールデンウィークから時を経て、二学期が始まろうとしている折りも折り、今なら、今更ながら、大いなる痛みを伴って理解できる。 文字通り、痛感する。 羽川翼が僕に声をかけてくれた理由が。 羽川翼が僕と出会ってくれた理由が。 羽川翼が僕を助けてくれた理由が。 でもそれはさすがに『今ならわかる』ことであり、『今更ながらわかってしまう』ことであり、つまりは今となってはどうしようもない、どうにもならな; いことでもある。取るものも取り合えず取り返しのつかない、取り戻しようもないことでしかない。 出会った直後とは言わないまでも、せめてゴールデンウィークの段階でそのあたりの周辺事情に気付いていたとするなら、ひょっとしたら何かがどうにかなっていたかもしれないのに。 弱くて薄い僕達は。 何らかの形になれたかもしれないのに。 だからこれは、やっぱり、放課後の誰もいない教室で呟かれる独り言であり、そして味気のない椅子いすに座って書き連ねられる定型的なフレームに則のっとる反省文だ。 卒業間際まぎわに金釘かなくぎの文字で机に彫られる、後悔の文言もんごんだ。 反省はしている、だけど後悔はしていない──なんて、聞こえのいい奇麗ごとは敢あえて言うまい。 反省はしているし、後悔もしている。 なかったことにしてしまいたいし、やり直せるものならやり直したい。 僕はあのゴールデンウィークが、悔くやしくて悔しくて仕方がないのだ。どうしてもっとうまくできなかったのか。どうして、どうして、どうして。不死身ふじみでなければ死んでしまいたいくらいに悔しくって、悔しさのあまり泣いてしまいそうで、今でも夢に見るくらいだ。 それは紛まごうことなき、悪夢である。 羽川翼。 異形いぎょうの羽を、持つ少女。 時期的なことを説明しておくと、それは高校二年生から高校三年生に至るまでの、春休みの二週間において、僕が地獄を経験したおよそ一ヵ月後ということになる──現代の日本において、あろうことかまさかの吸血鬼きゅうけつきに襲われたという実にロマンチックな経験をした愚かな僕は、その後遺症こういしょうに悩まされながらも、なんとか日常生活に復帰していた。僕を時代錯誤な不良だと勘違いした羽川翼の策略によって押し付けられた副委員長という職と、どう向き合うべきなのか、まだ悩んでいる最中だったのか、それとももうその頃には吹っ切ってしまっていたのかは、よく思い出せないけれど──とにかく、そんな頃。 彼女は猫に魅せられた。 猫。 食肉目ネコ科の哺乳類。 だから僕はゴールデンウィーク以来──猫が苦手になったのだ。 僕は猫が怖い。 そう──羽川翼が怖いように。 前置きが少し長くなってしまったかもしれないけれど、しかし焦あせる必要はまったくない──放課後という時間は思いのほか長いのだから。 では、僕が昨日見た夢の話を聞いて欲しい。 002 後日談というか、今回のオチ。 翌日、いつものように二人の妹、火か憐れんと月つき火ひに僕はたたき起こされることになる。平日であろうと土曜日曜祝日であろうと関係なく、だからその日がゴールデンウィークの初日、四月二十九日であろうとそうでなかろうと関係なく、彼女達はそういう仕組みのマシーンであるがごとく、僕を朝早くに起こすのだ。夜遊び夜更かしばかりのお前らだってそんな早起きすんのは簡単じゃないだろうにと言いたくなるほどの甲斐甲斐しさ、そこにあるのは兄の生活サイクルを心配してなどどいうできた心配りなどではなく、たぶん、僕の眠りを妨さまたげることで彼女達は、己おのれの力を示しているつもりなのだろう。示威行為とも言うべき、家庭内における縄張なわばり争いのようなものだ。 ところで、ではその妹達の起こし方がどういうものなのかということについては、これまであまり言及してこなかったけれど、まあそれは、言及するほどのものではなかったからだというのが理由としては大きい。 アニメ版においては、階段から突き落としたり、キャメルクラッチを食らわしたり、筋肉ドライバーを決めたりと、実にバリエーションに富んだ起こし方で僕にアプローチすることになる妹達ではあるけれど、あれはまあ、実にテレビ的な演出と言えよう。イメージを壊すようで悪いけれど、残念ながら現実にああいうことをするキュートな妹は実在しない。 まあまあ、よその家庭のことまでは知らないけれど、少なくとも僕の家においては、火憐と月火は、「いつまで寝てるの、起きてよう」と優しく声をかける程度で── 「何二度寝にどねしてんだ。死ね」 僕の枕元まくらもとにバールが振り下ろされた。 「うおおおおっ!」 飛び跳ねるようにそれをかわす僕。 いや、かわし切れずに髪の毛がひと房ふさ、持っていかれた。 そしてその髪の毛ごと、バールの先端は僕の枕を貫つらぬく。 羽毛がぶわさっと舞い散った。 天使が舞い降りたかのようなその光景に、僕は死んだんじゃないかと思ったけれど、胸のうちの心臓の、32ビートの鼓動を感じる限りにおいて、どうやら存命らしい。 見れば。 そこには鬼神のような形相ぎょうそうで、中学二年生の僕の妹、阿良々木月火が浴衣ゆかた姿で、枕どころかその下のベッドまで貫通してしまったらしいバールを引き抜こうと躍起やっきになっていた。 バールのようなもの。 ではなく、まんまバールである。 世界一バールだ。 「つ、月火!? お前何すんだ! 兄を殺す気か!?」 「二度寝するようなお兄ちゃんは死んでいいに決まっているじゃない。せっかく私と火憐ちゃんが起こしてあげたのに寝るとか意味わかんない。死ねばいいんだ死ねばいいんだ死ねばいいんだ」 「お前冒頭からキャラ設定滅茶苦茶めちゃくちゃになってんぞ!?」 前作までどうやって繋つなげるんだ、それ! 「私はどうも他のみんなに比べてキャラが立ってないということだから、試みにヤンデレになってみたんだよ」 「ヤンデレっつーか、それ、狂人だよ!」 「でもお兄ちゃん、避よけれたってことは、寝たふりだったんだね」 「いや、熟睡じゅくすいしていたが……」 どうやら人間は寝ていても、案外危機には対応できるものらしい。 進化も行き着いたと言われることもあるけれど、いやはや、まだまだ可能性のある生き物である。 「キャラ立ちを気にするって、本当、まるっきり中学二年生だな、お前は」 「中学二年生だもん」 「だっけか」 まあ僕も人のことが言える中学時代だったわけでもない。いや、経験者がゆえに、言っておかなければならないのかもしれないけれど。 「とにかく余計なことをするな。朝起こしに来る妹ってだけで十分なんだ、お前のキャラは」 「完璧モブキャラだよね、それ」 やだよ、と言う。 まあ、そんな兄ありきのキャラ設定は、誰だって嫌だろう。 「私も火憐ちゃんみたいにデーハーなキャラが欲しいなー。あれはもう、妹の最終進化形じゃない」 「いや、あれは最終進化形と言うより、『ああなっちゃおしまい』なキャラだぞ。いいか。お前にはまだ望みがあるんだ。真っ当なキャラになれるように頑張れ」 「真っ当な妹キャラを目指して」 「そうだ」 妹キャラを目指すという時点で既に相当真っ当ではないことに、気付く者はこの場にいない。 「具体的には『赤毛のアン』に登場するマリラを目指すんだ」 「マリラ!?」 「そうさのう」 僕はマシュウの口調で応える。 寝起きなのである。 「いやー、マリラはマジで理想の妹だよなー。僕はああいう妹が欲しかったよ。正にツンデレ中のツンデレだ。『あたしゃ男の子が欲しかったんだよ! 女の子が来たってちっとも労力になりゃしない!』みたいな? でもラストはアンにデレデレなのな」 「あ、原義のほうでのツンデレなんだ」 「いや、今の意味でもツンデレなんだ。デレたあとのアンへの尖とがった台詞せりふも超萌えるぜ」 「お兄ちゃん、赤毛のアンをそんな目で読んでたの」 「おう。赤毛のアンを読んだとき、僕の中でのマリラのCVは、揺るぎなく釘くぎ宮みや理り恵えさんだったぜ」 「個人名を出すな」 マリラ何歳よ、と月火は言う。 馬鹿め、何もわかっちゃいないな。 妹は五十を過ぎてからが本番だろうに。 「そう思うと、マシュウは最高に勝ち組だよな。ずっと妹と二人きりで過ごして、そんで血の繋がらない三つ編み娘を育ててるんだぜ。あいつはシンジ君を超える、根暗引きこもり男子の希望だ」 「マシュウを根暗引きこもり男子って言うな……」 「アンのためにクリスマスプレゼントを買いに行くシーンとか、読んでて泣けるっつーか、相当身につまされるぜ。ああ、こうなんだよ、余計なもん買っちゃうんだよって」 僕はしみじみと、かの名著を回想する。 「だから月火、お前もかくあれ。そうすれば僕はお前と、将来グリーンゲイブルズで一緒に住んで、老後を送ってやる」 「お兄ちゃん、それプロポーズに近いよ」 「ふっ。プロポーズじゃない。ポロネーズさ」 「求婚ダンス!?」 ああもう、これからどんな顔して赤毛のアンを読めばいいんだろうと、月火は頭を抱えた。 困った妹だぜと軽く肩を竦め、ベッドから降りて、僕は服を脱ぎ始める。 無論、これから妹に対していかがわしい行為に及ぼうと言うのではなく、単に寝巻きから部屋着へと着替えるだけのことである。 「んーっと。で、火憐ちゃんはどうした?」 「はい?」 声をかけてみると、月火は、僕の二度寝を妨げたところで、自分の役割は満遍まんべんなく果たしたとばかりに満足したのか、僕のベッドの上でだらしなく、ごろごろし始めていた。 マリラには程遠いというか、バールを引っこ抜くのは諦めたらしい。 今晩僕、どうすんだよ。 ゲームみたいに、部屋から出て戻れば直ってるのかな。 しかし月火の、浴衣がはだけるのもかまわずに右に左に転がるその姿は、さながら芋虫いもむしのようだ。 妹虫と名付けよう。 「お兄ちゃん。妹に淫靡いんびなニックネームをつけないで」 「地じの文を読むな。それより質問に答えろ。お前がいつも、一心同体的につるんでる、僕よりも身長の高いキャラ立ちのデーハーなジャージ女はどうしたって訊きいてるんだ。あのポニテ、一緒じゃないのか?」 「火憐ちゃんはジョギングだよー」 「ジョギング? ジョギングってあの走る奴か? 珍しいな。あんまそういうことする奴じゃねーだろ、あいつ」 「今日は特別なんだよ。火憐ちゃんはゴールデンウィーク開始祝いって言ってた」 「どんな祝いだ」 「聖火ランナーのイメージなんだと思う」 「そうか。今日もあいつは馬鹿なんだな」 「ゴールデンウィークと五輪が、火憐ちゃんの中でごっちゃになってるんだと思う」 「そうか。頭の一文字しかあってない言葉がごっちゃになるなんて、とてもいつも通りの馬鹿さだ」 ほのぼのする。 なるほど、それで月火は、二度目は一人で僕を起こしに来たのか。 早朝(というか一時間前)に惰眠だみんを貪むさぼる僕を起こしに来た際には二人一緒だったのだけれど、その後、彼女達をやり過ごしての二度寝を試みた僕のフェイクを見抜き、二度起こし(なんだそりゃ)に単身で再度乗り込んで来た月火だったというわけだ。 そしてバールか。 こいつは一人で行動させちゃ駄目だな。 火憐と月火のうち、凶暴なのは格闘技を生業なりわいとする火憐のほうだけれど、より危険なのは、歯止めというものを知らない月火のほうらしい。 「あー。それにしてもゴールデンウィークか。いいことなんか一個もねーなー」 「初日からいきなり後ろ向きだね、お兄ちゃん」 四月二十九日、土曜日。 みどりの日。 「まだゴールデンウィークは始まって九時間も経たってないよー」 「僕くらいの達人なら、九時間もあれば大体のことはわかる」 「お兄ちゃんは祝日だったりイベントデーだったり日曜日だったり、嫌いだもんねー。平日大好き平日人間だもんねー」 「平日人間って」 しょぼそうだな、そいつ。 何の魅力も感じない。 まあ確かに僕はしょぼいけどさ。 「別に嫌いってわけじゃねーけどさあ。なんか苦手なんだよ」 「同じじゃん」 「同じかねえ」 嫌いと苦手は違う気がするけどなあ。 同じと言われれば同じだけど。 反省はしている、でも後悔はしていないという文言に対し、反省と後悔は同じことだと突っ込まれたみたいな気分だが、しかしまあ、反論の糸口はつかめない。 「でも、ゴールデンウィークなんて、ゴールデンウィークだからって、別段、何の変かわり映ばえもしねーじゃん。朝は変わらずやってくるし、妹は変わらず起こしに来るし、爪はいつもと変わらず伸びるし、身長はいつもと変わらず伸びないし」 「まーそうだねー。学校がないだけだよねー」 「人は戦争をやめないし、裏切りと嘘は絶えることなく繰り返されるし」 「え?何で話が壮大に増大したの?」 「今日も必ず世界中のどこかで、間違いなく誰かが死んでるんだぜ?それを差し置いて何が祝日だよ!喪もに服せよ!」 「お兄ちゃん、何を誰に怒ってるの?」 休みの日は(することがないから)暇ひまで苦手だという理由で激昂げっこうする兄に対して、妹が実に引いていた。 気持ちはわかる。 だが、すさまじく興きょうが乗ってきたので、僕は続けた。僕は妹に気遣いをするタイプの兄ではないのだった。 「僕の気分はいつだって喪中だよ。年賀状なんて出したことがない」 「それは出す友達がいないからでしょ?」 「知ったような口を利きくな! お前が僕の何を知っているというんだ!」 「少なくとも、毎年届く年賀状の枚数は知っているよ」 「そうだった」 「正確には、届かない年賀状の枚数は知っているよ」 高校生になってからは、いよいよ誰からも年賀状の届かない僕である。クラス全員にくまなく年賀状を出す奴、って奴からも届かない。つまり特に気分がどうとかではなく、普通に毎年喪中だった。 「そうかー。僕が祝日が嫌いなのは、友達がいなくて遊べないからなのかー。これは新たな発見だったな」 「気付かなくていいことに気付いちゃったね、お兄ちゃん」 月火が実の兄を、深い哀あわれみを込めた目で悲しそうに見ていた。ちなみに月火(と火憐)は、年賀状を百の倍数単位で出さなければならないほどの友好ネットワークを有していて、阿良々木家の家計と郵便受けを圧迫している。 実に極端な兄妹だ。 うまく三点の重心を取れないものだろうか。 「まあ、それにしたって、祝日が平日と何ら変わりのない、変わり映えのしない日々であるという現実に変わりはないぜ。どんな夢を見ても現実は揺るぎねえのさ。僕の個人的な事情はおいておいても、変わり映えしない。いつも通りの毎日を指して、何がゴールデンウィークだよ。どう金色なんだよ。ライ麦畑でつかまえちゃうぜ──って、それはホールデンだけどな。朝は変わらずやってくるし、妹は変わらず起こしに来るし、爪はいつもと変わらず伸びるし、身長はいつもと変わらず伸びないし、人は戦争をやめないし、裏切りと嘘は絶えることなく繰り返されるし、お前のパンツはいつもと変わらず白いし」 「私のパンツに言及しないで」 月火の突っ込みは、言葉面だけならまるで妙齢の貴婦人らしい恥じらいに満ちているかのようにも受け止められかねないけれど、彼女ははだけて丸見えの浴衣の裾すそ周辺をまったく気にしていない中学二年生の思春期真まっ只中ただなかだった。 片肌脱ぎというか、ほとんど諸肌もろはだ脱ぎ。 まったくもって大胆な着崩しである。 火憐もしかりだけれど、女性幻想というものを千本ノックで打ち砕いてくれる妹だった。 「グレゴール・ザムザとか楽しかっただろうなー。朝起きたら虫になってんだぜ?どんなメタモルフォーゼだよ。同じ妹持ちとして羨うらやましい限りだ。なあ、妹虫」 「妹に淫靡なニックネームを定着させようとしないで」 「んー」 まあ。 そうは言っても、それについては虫どころか、吸血鬼にメタモルフォーゼしてしまった経験と照らし合わせれば、僕もザムザ氏を単純に羨ましがってばかりもいられないのだけれど。 そうか。 あの春休みから、もう一ヶ月か。 いろんなことがあったな──なんて、そんな最終回みたいなことを思う場面でもないけれど、しかし、ふと振り返ってみると、意外だという気持ちにとらわれもする。 春休みのあの経験は、僕にとって非常に印象的なそれであり、つまりは強烈過ぎて、だからあの二週間こそが僕の人生のクライマックスだとさえ思っていた。 人生にピークがあるなら、あの春休み。 だから意外なのだ。 その春休みが終わってからも、まだまだ人生が続いているというこの状況が。 延々と、永遠に。 続々と続く。 人生はゲームじゃないと言われ、それはリセットボタンがないかららしいけれど、どちらかと言えば、エンディングがないからこそ人生はゲーム的ではないのではなかろうか。 最近じゃあネットゲームだったりすれちがい通信だったり何だったりで、いわゆるエンディングが存在しないゲームも存在しないじゃないんだろうけれど、それはなんだろう、むしろゲームのほうが人生じみてきているのだと言えそうだ。 とにかく何があろうと、死なない限り、人生は終わらない──人生は続く。 エンディングデーマもスタッフロールもない。 高校生になろうと。 落ちこぼれようと。 友達がいなくなろうと。 吸血鬼になろうと。 人間に戻ろうと。 人生は継続する。 継続は力なり。 または継続は無力なり。 「大体ゴールデンウィークとか言ってよー。そんな映画業界の商法にまんまと乗せられちゃって、恥ずかしくないのかと僕は苦言くげんを呈ていしたいね」 「呈したいんだ」 「停止したいね」 「止まりたいの?」 「いいことなんか一個もねえよ。停止と言えば、印刷所も取次とりつぎもストップしちまうから、巻きで進行しなきゃなんないしよ」 「どうしてお兄ちゃんは出版業界の人の立ち位置で発言をしているの?」 「ゴールデンウィークの所為せいで四月に出るはずだった本が七月に出たりするんだよ!」 「具体的な例だ」 ちなみに、出版業界のみならず、ゴールデンウィークであろうとまったく休めない職種の人達も少なからずいるわけで、だから某公共放送においては、ゴールデンウィークという華々しい、絢爛豪華けんらんごうかな名称は使わず、単純に大型連休と言い換えるそうである。 いや。 どっちみち休めないんだけどね。 「商法と言えば、クリスマスとかバレンタインデーとかもそうだけどさー。ホワイトデーに至ってはわけがわからんだろ。イエス・キリストとか、聖バレンティヌス的な由来が、ちゃんとあるのかよ」 「それはなさそう」 「だったらホワイトデーじゃなくホワイトライだな!」 「ん?」 首を傾かしげられた。 勢いでいけるかと思ったが、駄目だめだったようだ。 「でもまあ、繰り返しになるけれどゴールデンってのは、やっぱどう考えても言い過ぎだよ。黄金連休って。土日の位置によってはその長さが揺らいじゃうくせに、なんでこの世でもっとも安定した物質のひとつに比喩ひゆされてるんだよ」 「うーん。そんなに具体的に批難ひなんする必要はないと思うけれど、まあ、確かに黄金は言い過ぎかも」 「さあ、君は今、何を考えているのかな……?」 「いきなり歪曲王わいきょくおうにならないで」 格好いい台詞を言いたいだけとかやめて、と妹からも窘たしなめられた。 深く反省。 「黄金連休って、休日が連続するのがそんなに嬉しいもんかね。確かに一昔前は連休って一年の中でも珍しいことだったかもしれないけど、今はハッピーマンデーとかあるんだしさ」 ちなみに、それも出版業界の人間にしてみれば、アンハッピーマンデーなのだが。土日さえなくなってしまえと思っている業界である。 「僕の休日嫌いを差し引いたところで、さすがに名前負けだろうって思うけどなあ」 「うーん。名前負けって言うよりは、イメージ戦略みたいなものだよね。楽しいっていう演出って言うかさ。ラベリング効果じゃないけれど、人はナイスなネーミングを求めているんだよ。知ってる? お兄ちゃん。グリーンランドってさ、極寒のツンドラ地帯なんだけど、それでもたくさん人に来て欲しかったから、緑がいっぱいっぽいイメージを持ってもらおうと、グリーンランドって名前をつけたんだって」 「お兄ちゃんを軽かろんじるな、それくらいのことは知っているぞ。それどころじゃない、グリーンランドの中心都市はゴッドホープと名付けられていたそうだ。神の希望だ」 「知ってる知ってる。今はヌークって言うんだよね」 兄と妹の、一見仲良しを装よそおった、しかしその実険悪な、ぴりぴりとした雑学対決が、実ににこやかに繰り広げられた。 もっともその勝負は、 「ちなみにグリーンランドってデンマーク領なんだよね」 という月火の一言が決まり手で、僕の負けに終わってしまった。 マジで。 デンマーク領なのか。 やっぱなんだかんだで頭いいんだよな、こいつ。 雑学でもなんでもない普通の知識で対抗されたら、勝ち目がない。 「うーん。みどりの日だけにグリーンランドの話になってしまった」 「お兄ちゃん。なんか勘違かんちがいしているみたいだけど、四月二十九日は、今は昭和の日って言うんだよ。みどりの日は、五月四日」 「え。国民の祝日じゃなく?」 「うん」 「時代は流れてるなー。今が西暦何年なのか、全然わかんねーや。果たしてアナログ放送はまだやっているのかどうなのか。けれど、まあ、お前の言う通り、ゴールデンウィークだったりの場合は、確かに名前負けと言うよりは、名前勝ちと言うべきなのかもしれないな。国の名前で言えば、日本にしたって『日ひの本もと』とか、たかが極東の島国を随分ずいぶんいいように言ってるし。どこもかしこも、イメージ戦略に躍起だぜ。ただ、名前勝ちにしろ名前負けにしろ、羊頭狗肉ようとうくにくであることにゃあ違いねーだろ。やっぱ普通に、某公共方法のように、大型連休って言えばいいんじゃないかって、僕なんかは思うけどな。もちろん、この九日間に限っては、月火ちゃんのパンツが目もくらむような黄金色になるっていうんだったら話は別だけど」 「そんな悪趣味あくしゅみなパンツははかない」 「白か」 「白だ」 言って自みずから浴衣の足元を大きく開き、元々見えていたそれを更さらに堂々と見せ付ける月火。 変態へんたいの所業しょぎょうだ。 まあ、見せつけられる僕にしてみれば、風呂上り、家の中を下着で歩き回る妹の下着など、今更見ても別に何一つ感じるところがないけれど。 気分としては、色見本を見ているのと何ら変わらない。 ただ、そんなノリの悪い対応では現代を生きる兄としてはいけないと思えたので、むしろ思いっきり拍手をして高らかに称たたえてみた。 「ヒュー! 妹パンツ最高ーっ!」 「ヤー! ありがとーっ!」 月火も乗ってきた。 なんだこの兄妹。 僕はさすがに結構な質量の疑問を覚えたが、しかし月火にはまったく迷いがないらしく、彼女は更に息巻いきまいた。 「やっぱパンツは白に限るよ。白くなければパンツじゃないとさえ、私は思うね」 「おお。そのテンション。来たな来たな来たな。どうやらここから、見開き二ページにわたる、お前のパンツトークが始まるらしいな」 「そう。そういうのが嫌いな人は飛ばして読んでね」 ここまでの会話も大概ロクなものじゃないので、それはもう今更に今更という気もするけれど、月火がそんな(注)を述べた。 「パンツに限った話じゃなくてさ、ブラでも何でも、下着というのは基本的に白色であるべきだと私は思うんだよ、お兄ちゃん」 「おお。本当に見開き続けるのか」 仕方ねえ、付き合ってやるか。 腹ァくくったぜ。 会話しながらだったので着替えがはかどらず、下をはいただけで、僕はまだ上半身裸のままだったが、しかし指を前後に組んで腕を上下に動かし肩を左右に捻ひねって筋肉を伸ばし、その場にどっかりと、胡坐あぐらを組んだ。 さあ、腹を割って話そう。 「しかし月火ちゃん、息巻いているところに難癖なんくせをつけるようで恐縮だが、僕はその意見には賛成できないな」 「む。なんだ、お兄ちゃんは私の敵か」 「敵と言えば敵だ。ただし、素敵すてきという名のな!」 相手が妹なので、大して格好良くも面白くもない台詞が平気で言えるのだった。起こされた直後であることを考慮し、大目に見て欲しい。 あるいは見ないで欲しい。 「つまり素で敵なんだね」 「勘違いするな。別に僕は白い下着が駄目だと言っているわけじゃあない。むしろ大いに歓迎しよう。阿良々木暦はパンツに対して広く門戸もんこを開いている。ただどうだ、それでも色にはヴァリエーションがあってしかるべきなんじゃないか? カラーであるからにはカラフルであるべきだし、カラフルであるからこそのカラー。白に限らず、誰も彼もが、同じように同じ色の下着を着用していては、世の中、あまりにも殺伐さつばつとしちゃいないかい?」 「いないかいって言われても」 「カラフルこそが世界を救うかもしれないぜ──いや、かもしれるぜ!」 「かもしれるぜって言われても」 別に私も他の色を否定しようというわけじゃないよ、と月火は言う。 どうやら彼女にも、ただの思い付きではない一家言いっかげんがあるようだ。まあ、その趣味が和装方向に偏重へんちょうしているきらいはあるけれど、彼女は基本的にお洒落しゃれさんのドレッサー、女子中学生のファッションリーダーなので、下着にこだわりを持っていても不思議ふしぎではない。 「ただ、様々な色が無数に存在する中でも、白という色はその最上級に位置づけられると思うんだよね。色のヒエラルキーがあるとすれば、間違いなくそのトップはホワイトなんだよ。ランキングという言葉は、これから先、ホワイトニングと言い換えたいくらいだよ。今週のホワイトニングトップテンだよ」 「ふうむ……まあ完全色という意味では、確かに白に匹敵ひってきするのは黒ということになるのだろうけれど、しかしまあ、全すべてを塗りつぶしてしまう闇に等しき黒色をここで優先的に考えることができないというのは、わからなくもないな」 聞きようによっては美大生同士の真面目な会話に聞こえないこともなかろうが、僕たちがしているのは、あくまで下着の色の話である。 パンツの話だよー。 「けどさー月火ちゃん、通説に対して、そろそろみんな本音ほんねを言っちゃっていいと思うんだけどさ」 「なにかな?」 「黒い下着って、別にエロくないよな」 「そうだね!」 ハイタッチ。 妹と下着の嗜好しこうで意気投合した。 「イエー!」 「キャッホー!」 趣おもむきのある文化的な会話だった。 なんなら文化遺産に登録してくれてもいい。 「名前負け、名前勝ちという話をしたけれど、そういう意味で言うなら、色に対するイメージってのも、色々あるよな」 「色々ある」 「やめろ、拾うな」 そう言えば月火は先程、様々な色、とうまく回避していた。姑息こそくな女め。 「寒色系と暖色系。鉄アレイを白く塗ったら軽そうに見えるとか、ああいう奴」 「違うよお兄ちゃん。白は真面目で純真じゅんしんで清楚せいそに見えるんだよ」 危うく逸それかけた話を、月火が軌道修正した。なかなかに目敏めざとかったけれど、しかし元々のテーマはひょっとしたら戻さなくていいような話題だというような気もする。 「ほら見て、お兄ちゃん」 言って月火はしゅるりと帯を解いて浴衣を脱いだ。パンツどころか、ブラジャーまでもが外気に晒さらされる。浴衣を脇に畳んでこちらを向けば、月火はパンツ、ブラジャーはおろか、履いているハイソックスまでもが白で統一されていた。トータルコーディネートという奴か。 そして膝立ひざだちでポージングする阿良々木月火。 「どう? 真面目で純真で清楚に見えるでしょう?」 「いや、不真面目で不純で不浄に見える……」 お前迂闊うかつにそういうポーズ取ると、そのまんまフィギュアにされるぞ。 そのポーズがねんぷちになるぞ。 背後の、バールの突き刺さった枕がいいオプションで、いかがわしさ溢あふれるグラビア写真みたいになっていた。 「それはお兄ちゃんが私という人間に対して先入観とか偏見とかを持ってるからでしょ? ほら、こうやって手で顔を隠して個性を消して匿名性とくめいせいを演出すれば!」 月火は右手の指を揃えて、自分の顔の上半分を隠した。 目線を入れた形だ。 その状態でのポージング。 「…………」 いかがわしさはより増したと言う。 やっぱり馬鹿なのかなあ、こいつ。 学校の成績はとてもよろしいはずなのだが。 オール5に限りなく近いはずなのだが。 結局学校の成績なんて知能の一つの側面でしかないということなのか。でもこんな奴の成績がいいっていうのは、クラスメイトから勉強する気を根こそぎ奪うよな。 「でも、お兄ちゃんがはいているその囚人服みたいな縞模様しまもようのトランクスにしたって、そうやって見せつけられたら、もうなんていうか、よこしまな人間だから縞模様なんだろうなって思うもん」 「誰がよこしまだ」 というか、妹の脳の病状を心配してみたものの、考えてみれば僕も現在、パンツ一丁の下着姿なのだった。 下をはいたとは言ったがズボンをはいたとは言っていない! これこそが叙述じょじゅつトリックの見本だと言わせてもらおう。 ミステリーの生き見本。 阿良々木暦である。 「お兄ちゃんも見せつけるなら、白い下着にしないと、誤解されちゃうよ?」 「白かろうが縞模様だろうが、下着を見せつけてる段階でもう誤解されるよ」 悲しい誤解というか、正しい理解だが。 「つーか、下着を見せつける機会なんかあるか」 「えー? そんなことないよ。意外と男子の下着って、目にする機会が多いよ?」 「なに?」 途端、殺気立つ僕。 中学二年生の妹の人生に、そんな機会が多々あるのだとすれば、高校三年生の兄としては動かざるを得ないのだ。 「いやいや、みだらな意味合いじゃなくってさ。何を想像してるのよ、お兄ちゃん」 月火が僕の顔をなでつつ、どうどうとなだめた。 馬をなだめるジョッキーのようだ。 「ほら、ローライズとは違うんだろうけれど、男子ってズボン腰穿きにするじゃん。そうすると、しゃがんだときとかにシャツの裾が上にあがって、見えちゃうんだよね」 「ああ」 「あと、体育の時間とか、短パンの裾から見えちゃったり」 「なんだ、そういうことか」 胸を撫で下ろす僕だった。 よかった、人殺しをせずに済んだ。 危うく月火の男友達を皆殺しにするところだったぜ。 「女子のスカートの短さを問題として取り上げる人って昔から多いけどさー、女子的にはむしろ、男子の着こなしのルーズさこそを問題としてクローズアップして欲しいと思うんだよ。体操服の短パンって、絶対ブルマよりエロいと思うもん。すね毛とかもう直視できない」 「それはなんだ、見る側のモチベーションが問題なんじゃねーか?」 まあ、男子と女子とじゃ、恥じらう部分も欲情する対象も違うわけだし。 そういう意味では、あまり真剣に語られる場がない分、男子のほうは隙だらけかもしれない。今の、この縞模様のトランクス一丁のまま町内を一周できるかどうかを問われた場合、決してできないとは言えないからな。 「それに、真面目な話に置き換えて言うなら、男子の場合、女子に欲情されたからといって、力ずくでどうこうされるってことは考えにくいし。女子の恥じらいっていうのは、ある意味、身を守るために必要不可欠な生存本能なのかもしれない」 「真面目な話はいいんだよ。下着の話を続けよう」 「…………」 僕、なんだか近い将来、お前みたいなキャラと知り合う予感がする。バスケが得意な腐女子ふじょし的なキャラ。今はその予行演習をしているような──気のせいかな。 気のせいだったらいいな。 「生存本能ねー。でもまー、そういう視点で見れば、そんじょそこらの男よりよっぽど強い火憐ちゃんなんかだと、やっぱりその辺りは無防備むぼうびだよね」 「ああ、そうだな」 「火憐ちゃん、男子のいる前で体操着に着替えたりするもん」 「あいつのクラス番号を教えろ。男子を全員虐殺してくるから」 「大丈夫大丈夫。火憐ちゃんが着替え出すと、男子のほうが目を背そむけて逃散ちょうさんしていくし」 またも僕をなだめる月火。 なでなでと。 心なし、冷や汗をかいているようだ。 「そうかい? 虐殺しなくても平気かい?」 「むしろ虐殺したら大変なことになるから……自分のお姉ちゃんのことをこんな風に言うのもアレだけど、火憐ちゃん、女子力低いしねー」 「そりゃそうだ」 武道家だからな。 妹であるということを差し引いても女を感じさせないし、また本人も、女性らしくあろうなどという旧態依然きゅうたいいぜんとした価値観には縛られていないだろう。むしろファイヤーシスターズとしての活動を見ている限りにおいて、彼女は男の中の男を目指している恐れさえあった。 「無防備なのも、そういう意味では、逆に必然なのかもな。男の中の男を目指すあのジャージ女がスカートを短くしたり、ローライズをはいたりするとこなんて、想像もつかねーもん」 「あ、でも火憐ちゃん、可愛いとこもあるんだよ。彼氏の前に出るときには、下着の線が出るのが恥ずかしいって言って、ジャージの下はノーパンだったりするもん」 「どんな痴女ちじょだよ!」 この家の子女には変態しかいねえ! 痴女の縺もつれだ。 「着物好きの私でも、さすがに日常生活において下着をつけないということはないからね。火憐ちゃんの発想にはただただ脱帽だよ」 「下着を脱いでる奴に脱帽もねえだろ。まあ、勝負下着が文字通り存在しないのはともかくとして、普段はあいつ、かなりカラフルだろ。フルカラーだろ。その辺はどうなんだ、お前とは意見の食い違うところなのか」 「食い違うところだね。むしろ火憐ちゃんは白を嫌う傾向にあるくらいだよ。だけど、根底にある思想は共通していて、火憐ちゃんは『白は真面目っぽくてやだ』って言ってるの」 「はあん」 真面目が嫌ねえ。 ま、とんがりたい年頃ってわけだ。 正義の味方を気取っていても、その辺は普通の中学三年生か。 しかし。 「やれやれ、やっぱりお前たちはまだ子供だなあ。そんなありふれた価値観に縛られているだなんて。どうしてそんなに発想が貧困なんだ。白が真面目なんて、黒がエロいと同じくらいに偏狭へんきょうな偏見だと断言しても過言ではないよ」 「何よ。白が真面目じゃないって言うの? ぶっ殺すぞ」 「何で兄に対してそんな短気なんだよ。いやだからそうじゃなくって、何色の下着を身につけていようと、結局は真面目かどうかなんてのは人間性の──」 言いかけて。 僕は、ふと、思いついた。 いや──思い至ったと言うべきか。 この一ヶ月、常に、間断かんだんなく僕を悩ませ続けてきた、とある問題について──悶々もんもんと悩み続け、すっかり埒らちが明かなくなっている難問について。 折角せっかくだから、こんな、言うなればしかるべき話題になっている今現在、月火に相談してみようかと──そう思い至ったのだ。 「ん? 何? お兄ちゃん。人間性の、何?」 「あ、いや──真面目かどうかなんてのは、人間性の滲にじみ出る一端に過ぎないってことだよ。つまり、真面目で純真で清楚な奴が身につけてれば、それが白だろうと黒だろうと、真面目で純真で清楚に見えるってことだ」 「ふむ。今の私のように!」 「違う」 むしろ真逆まぎゃくだと言ったはずである。 ワンエイティ違う。 僕の言うことなんて何も聞いていない、素晴らしき妹だった。 もっとも、そんな妹だからこそ、この場合はむしろ相談相手としては相応ふさわしいのだ──何を話したところで、どうせ明日には忘れてしまっているだろうからな。 「さて、月火ちゃん。パンツの話はここまでだ」 「え? もう終わり?」 「見開きはとっくに終わった」 というか、語り過ぎだ。 月火の(注)に従ってページを飛ばしてみれば、まだパンツについて語っていて、度肝を抜かれた人も少なからずいるに違いない。 いいじゃないか。 誰だってパンツの話は好きなはずだろ? 「しかしそもそも、年頃の女子がパンツパンツ連呼してんじゃねえよ」 「え? お兄ちゃん、今更そっち側の立場になるつもりなの?」 月火が裏切られたみたいな顔をする。 まあ、裏切りもはなはだしかった。 かけた梯子はしごを外すとは、正にこのことである。 しかしこの裏切りは、話題を繋ぐための合いの手のようなものなので、看過かんかしてもらいたいところだった。 「パンツについて語るより、恋について語ろうぜ、月火ちゃん」 「恋?」 眉根まゆねを寄せる月火。明らかに嫌そうだ。 「やだー。パンツの話を続けたいー」 ばたーん、と、後ろ向きに倒れ、ベッドの上でだだを捏こねるように、水泳でもしているかのように手足をばたつかせる月火。 畳水練たたみすいれんならぬベッド水練だ。 ……僕はともかく、乙女の月火ちゃんがあんまり誤解されても可哀想なので、お兄ちゃんからもひとつ(注)を述べさせてもらっておくと、彼女にとってここまで繰り広げているパンツトークは、下心なく、純粋にファッションとしての下着の話だということは、最後に改めて強調しておくとして。 「うるせえ。いいから恋の話をするんだ。そして暴れてないで服を着ろ」 「それはお兄ちゃんも」 「そうだな」 言われるまでもなかった。 ハウスルールにおいてはどうということもないレギュレーション内の出来事とは言え、しかし狭い部屋の中、半裸の兄と下着姿の妹が存在しているというこの図は、あまり世間様に対して顔向けできるものではない。 カーテンとか開けっ放しだし。 僕と月火は、それぞれ着衣のために立ち上がった──月火は浴衣を着直して、僕は部屋着への着替えを再開する。 服を着てしまい、裸の付き合いとはいかなくなったものの、しかし真実、腹を割って話すのはここからである。 切腹せっぷくトークだ。 僕は先程と同じ位置に座り込んだ。 雰囲気ふんいきを察したのか、月火もベッドから降りてきて、向かい合って胡坐をかく。 ……まったく関係ないけど、骨格の問題なのか、胡坐をちゃんとかける女子って、あんまりいないように思う。 その点において月火は見事なものだけれど、これは身体が柔らかいのか。火憐みたいに鍛えてないから、こいつ、肉が半分溶けてんじゃねーのかってくらいに、ぷにっぷにだもんな。 「マカロンみたいに柔らかいもんな、お前」 「お兄ちゃん、それを言うならマシュマロみたいにじゃないの?」 なんでより知名度の高いお菓子をより知名度の低いお菓子と取り違えるのよ、と月火。 百点満点の突っ込みだ。 まあ、そもそも肉の柔らかさと関節の柔らかさは、まったく違うものだけれども。 たぶん、男女差は行儀ぎょうぎの問題なのだろう。 「で、どんな恋の話をするの、お兄ちゃん」 「いや、正確には恋の話じゃなくって、恋かもしれない何かの話だ」 「んん? 恋かもしれない何か? 何言ってんだこの兄は。死なないかな」 「隙を見ては僕の死を望むな。まあ、中学生なりに彼氏がいる、恐らくは仲間内から数々の恋愛相談を受けているであろう百戦錬磨ひゃくせんれんまのお前にしか、これは訊けないことなんだが」 「火憐ちゃんには訊けないの? 火憐ちゃんも、中学生なりに彼氏がいて、仲間内から数々の恋愛相談を受けているよ。百戦錬磨だよ」 「あの馬鹿に相談することは何もない」 きっぱりと僕は言った。 我ながら迷いのない口調である。 「どうせ数々の相談を受けたところで、あのリアル百戦錬磨のジャージ女はそれをお前に振るだけだろう?」 「いや、そんなことはないよ。火憐ちゃんが乱暴ごとばかりに乗り出す戦闘員だと思ったら大間違いだよ。ちゃんと恋の相談にも打って出るよ。単に全部失敗するだけだよ」 「最悪じゃねえか」 できないことはできないと言え。 それができないからガキだってんだ。 「ちなみにお前が恋愛相談を受けた場合の成功率ってのはどれくらいなんだ?」 「もちろん百パーセントだよ」 それは彼女にとって誇らしい成果なのだろう、月火は大威張おおいばりで胸を張った。妹に威張られるというのはなかなか気分の悪いものがあったけれど、しかしまあ、確かに誇っていいだけの経歴ではある。 百パーセントって。 いやまあ、それはさすがに、大袈裟おおげさに言っているのだろうけれど。 「ううん、大袈裟じゃないよ。リアルだよ。相談さえ受ければ、どんな相手とでも私は絶対必ず恋縁こいえんを結んでみせるよ」 「…………」 それは怖いな。 逆に相談に躊躇を覚える脅威の成果だった──いやそもそも、妹に相談をしようという状況が、既すでに大きく誤っているような気がするけれど。 それも──恋愛相談。 ま。 そもそもこれが恋かどうかなんて、まだわかりゃしないのだから──リトマス試験紙に対して水溶液を垂らすくらいの気軽さで、言ってみるか。 「実は今、クラスに気になる子がいるんだ」 「桃太郎みたいな?」 「木になるじゃねえよ!」 恐らくは兄妹でなければ成立しないであろうレベルの高い、しかし内容的には非常に低レベルな掛け合いだった。 もっとも、月火としても意図的にボケたというよりは、半ば本気だったらしく、 「え? え? どういうこと?」 と、戸惑いを見せていた。 妹を戸惑わせたことについて若干じゃっかんの優越感を覚えつつ、僕はにやりと笑いながら、 「つまり、クラス替えで一緒の組になった女子に、ひょっとすると僕は好意を抱いているかもしれないんだ」 と、噛み砕いて説明した。 にやりと笑う必要がどこにあった。 「なんとまあ!」 月火が大袈裟に驚いてみせる。この辺りの演出過剰さがこいつの人望を生んでいるのかと思うと、勉強にならなくもない。 が、今はそういう状況ではなく。 つーかそんなに驚くことかよ。 「そりゃ驚くよ……驚くっていうか、轟とどろくよ! 『友達を作ると人間強度が下がるから』とか痛いことを公言していたお兄ちゃんに、好きな相手ができただなんて」 がたがたと震えつつ、口元を押さえる月火。 マジで怯おびえている。 「これは犬が喋しゃべったくらいの衝撃だよ」 「…………」 いや、犬が二本足で立った、くらいならまだしもさあ。 喋るって、もう生物学的に不可能な領域じゃねえか。 こいつは実の兄を、どのレベルで孤独癖へきのある奴だと思っていたのだろう。 まあ、さして間違いってわけでもないけどさ。 ちなみに例の発言について前提のように『痛い』と言われたことについては、さりげなく傷ついている僕である。 「どうしよう、どうしよう、赤飯を炊たかないと。えーっと、赤飯って、ご飯に唐辛子を混ぜて炊くんだよね?」 「お前は家庭科の授業で何を習ってきたんだ」 それはそれで、とてもおいしい料理が出来上がりそうだけれどな。 「それに、早とちりをするな。気になるってだけで、また『ひょっとして』『かもしれない』ってだけで、まだ確定したわけじゃないんだ」 「ぬぬ?」 「だからお前にしたくもない相談をしているんだよ。とある異性がいたとして、自分がそいつのことを好きかどうか、どうやって決めればいいんだ?」 「……えーっと、ごめん、お兄ちゃん」 月火が、不意に身体の震えを止めて、僕に対して謝ってきた。何を謝られているのかはわからなかったけれど、とりあえず妹に謝られるというのは気分がいい。 「何だっけ。もう一度言ってくれる?」 「なんだよ、聞き逃しちゃったのか? しっかりしてくれや、ファイヤーシスターズの参謀役さんぼうやくさん。勘弁してくれよ、うっかりにも程があるぜ。いいか? 今度はちゃんと聞けよ? 異性を異性として好きかどうかって、どうやって決めればいいんだ? つまり相手に対して抱く感情は、どの時点までが普通で、どの時点からが好意になるんだ?」 月火は。 黙って腕組みをした。 どうしたのだろう、噛み砕いた説明にこれ以上はないと思うのだけれど──これで駄目なら液状の離乳食りにゅうしょくを試ためしてみるしかないくらいだぞ。 「ごめん、お兄ちゃん」 再び月火が謝った。 理由がわからずとも、そして何度目であろうとも、妹に謝られるというのは気分がいい。 この話の噛み合っていない具合がまったくもって気にならないほどの爽快そうかいさである──しかし謝る側の月火としてはまったくそんなことはないらしく(まあ、月火であろうと火憐であろうと、『兄に謝るのは気分がいい』とか謎のことを言い出したら、すかさず病院に連行するが)、 「無限に近い恋愛相談を受けてきた私だけれど、残念ながらそんなレベルの相談を受けたことは、これまでにないの」 と、謝罪内容を開示した。 あれ? そうなの? だったら僕、相談のし損じゃん。 損害賠償をもらわなくちゃ。 「なんだよ、あれだけ大威張りしておきながら、月火ちゃん、お前の力はそんなものか」 立ち上がり、ボディランゲージ込みで月火を見下ろす僕(アメリカのホームドラマ的な動きだと思っていただければ)。妹を見下すというのは、妹に謝られる次くらいには気分のいい行為だった。 僕の期待を裏切ったくらいのことは、許してやろうという気になる。 「まあいいだろう。確かに、中学生相手に、少々レベルの高い相談をしてしまった僕のほうに非があるかもしれない」 「いや、そんなレベルの低い相談を受けたことがないの」 阿良々木月火は死んだ魚のような目──ではなく、死んだ魚を見るような目で、僕を見ていた。 浴びるだけで、生きているのに死にたくなってしまいたくなるような、それは視線だった。 視線というか、光線みたい。 「うん。突っ込みっていうのは基本的にお兄ちゃんがやることであって私のやることじゃないんだけれど、でもまあ、今回ばかりは私が言わせてもらいましょうか。『この気持ちが恋かどうかわからない』とか」 月火は僕を追うように立ち上がり、 「乙女かお前!」 古き良き時代の漫才師のように僕の胸元に裏うら拳を決めた。 妹に突っ込まれるのも、妹にお前呼ばわりされるのも、妹に裏拳を決められるのも、まあそこそこ気分がよかったけれど、なんだか僕の性癖が過度に過剰に変態じみてきた錯覚を覚えるので、この辺の胸の高鳴り的な感情はここから先、なるべく無視することにしよう。 皆さんにたくさん楽しんでいただくために、あえて変態ぶりっこしているんだっていう、阿良々木暦の基本的なキャラ設定を忘れないよう、気をつけなきゃ。 「乙女って……中学生女子のほうがよっぽど乙女だろうが」 「中学生女子に乙女なんかいない!」 断言された。 数々の相談を屍しかばねのように乗り越えてきた彼女の、それは純粋な感想なのかもしれないが、深く突っ込んで訊くと女性不信に陥おちいりそうなので、分を弁わきまえて遠慮しておくことにした。 「正座!」 月火は怒鳴った。 僕に対して。 何を偉そうにと逆らいたくなったが、しかし身体はその迫力に、勝手に正座してしまっていた。なんという奴隷どれい根性。 しかしなんだこいつ。 何を怒っているんだ。 何が彼女を激昂させた。何が彼女を激怒させた。 月火は座った僕を前に、しかし座ろうとはせず、腕組みをして、くいっとおとがいを上げ、僕を見下ろしていた。 「お兄ちゃん。まず最初に訊いておくけど、それ、本気で言ってるの」 「本気も本気だ。僕はこれまで本気でなかったことがない」 「口の利きかたに気をつけろ」 命令を受けた。 妹から。 「敬語を使え。あとボケるな」 「は、はい。わかりました」 従う僕。 妹の前で正座させられ見下ろされた上に命令を受け、敬語を使わされるというのも、これはこれで以下略。 無視無視。 「どういうことなのか最初から説明して頂戴ちょうだい、このお兄ちゃん野郎」 お兄ちゃん野郎って。 新しい可能性を感じる言葉だな。 シスプリで13人目の妹として登場していい。 「えーっと、その、あんまり具体的な話はできないんだけど……」 詳細まで喋ってしまうと、(僕の)プライバシーが侵害されてしまうしな。 妹に個人情報を握られたくない。 「……とにかく、色々経緯があってだな。まあとりあえず、対象を仮にHさんとしよう」 「Hさん」 なんだか具体的だね、と月火。 まあただのイニシャルである。 具体的で当たり前。 「今月の頭に同じクラスになってから、どうも僕は、気付けばそのHさんのことばかり考えているみたいなんだ。頭の中だけのことじゃない。授業中とか、ふと黒板から視線を泳がせれば、Hさんの席を見てしまっている。学校の中のことだけじゃない、登下校中も、なんとなーくHさんを探しちゃったりしてるわけだ。本屋さんとかに買い物に行っても、狭い町なんだから偶然会えたりしないかなー、とか思っちゃったりな。で、その本屋さんで買った本を読んでいても、『あ、この文章はHさん好きそう』とか思うわけだ。エッチな本とか買おうとしても、『ああ、こういう本を買っていたらHさんに嫌われる』なんて嗜好が働いて、そっと本棚に戻してしまったりもする」 「お兄ちゃん、赤裸々せきららに語り過ぎないで。兄の個人情報を握りたくない」 というか、エッチな本を買うのに躊躇した兄の話なんて聞きたくない、と月火は言った。 しまった、仮名をHさんにしてしまったから、言葉に引っ張られてしまった。 ちなみにエッチは変態の頭文字なのである。 「ていうかお兄ちゃん」 「なんだ」 「それは恋でしょ」 断言した。断定した。 真顔ではなく呆あきれ顔でそうするあたりに、逆に結構な説得力が感じられるけれど、しかしどうだろう、そんな風に決め付けられると、なんだか逆らいたくなってしまう。 結構あまのじゃくな僕。 「わかんねーぞ? それくらいは、嫌いな奴相手にも思うことだろう。それにこんな曖昧あいまいな気持ちなんて、ほっといたら慣れちゃうかもしれないじゃないか」 「うーん。そうだけどそうじゃなくって……どう言えばいいのかなあ」 月火は腕組みをしたまま、思案するように首を傾げた。 「言いたいことは色々あるんだけれど、どう言ったらいいのかがわかんないや」 「なんだよ。お前にとってはこんなこと、考えるまでもないってことなのか?」 つまり、歩き方を訊かれたムカデみたいなものなのだろうか。漢字で百足と書くことからもわかるよう、百本の足を持つかの生物が、どういう順番で足を動かしているのかを訊かれたときに、答えることができなかったという故事がある。 どころか、それまで普通に歩けていたのに、そんな質問を受けた途端、それまでどうして歩いていたのかわからなくなってしまい、歩けなくなったという。 ということは、大変だ。 僕が迂闊な質問をしてしまったばかりに、月火はこれから恋愛に興じることができなくなってしまうのかもしれない。僕と悩みを共有することになってしまうのかもしれない。 …………。 まあそれはそれで、結果オーライという気もするな。 「いや、だからそういうレベルの高い話じゃないってば、お兄ちゃん」 低レベルな話なんだよ、と月火。 「それとムカデって、足百本もないから」 「な、なにい!? なんだとお、ムカデに足が百本ないだとお!?」 それくらいのことは言われるまでもなく知っている、ありきたりな雑学に対してありえないほど大袈裟に驚くという面白リアクションを取ってはみたものの、月火のブリザードのような視線にアテられて、僕はすごすごと座り直した。 なんだこのフリーザ様。 「そう言えば、もしもフリーザとベジータがフュージョンしてれば、エリート戦士のフリーター様になってたのかな?」 「フリーザとベジータは体型が全然違うからフュージョンできないよ」 諦めずに果敢に突貫とっかんしてみたものの、妹のリアクションは思いのほか冷静で、しかも彼女はドラゴンボールを読み込んでいた。 「ムカデとかじゃなくってさあ、単に、幼稚園児に掛け算の概念を教えているような、そんな気分なんだよねえ」 「掛け算だと? 馬鹿な、そこまで簡単なことだと言うのか?」 「うん。今の月火ちゃんの姿というのは、掛け算のできないお兄ちゃんを前にして、途方にくれている妹の図だと考えてください」 「…………」 壮絶な図だな。 妹としては最悪の状況じゃねーか。 可哀想に。 「あ、でもそういうのはわからなくもねーよな。ほら、えーっと、電球とか発明した人誰だっけ。機関車トーマスじゃなくって……」 「トーマス・エジソン」 「ああ、そうそう」 「なんでエジソンよりトーマスのほうが先に出てくるんだよ、お兄ちゃん」 「ごめんごめん。あの人とは結構仲良くさせてもらっているから、ついついファーストネームで呼んじゃうんだよ」 「機関車と間違えた癖に」 「トーマスはさ」 押し通すことにする僕。 ギャグに関しては頑固である。 「小学校のとき、先生に対して『1+1はどうして2になるのか』とか、そんな物事の根本を問うような質問をしまくってたそうだぜ。掛け算どころか足し算だ。教えられたことを教えられた通りに理解することができなくって、納得できるまで質問を続けたそうだ」 「いやいや、そういう言い方をすると、まるでお兄ちゃんとエジソンの間に、まるで通じるものがあるかのようだけれど、そんなもんないから」 月火は首を振った。ぶんぶんと。 「『1+1はどうして2になるのか』なんてこまっしゃくれた質問を先生にする子供は世界中にどの時代でもたっくさんいただろうけれど、トーマス・エジソンという発明王は、たった一人だよ」 「えー?」 そんな夢も希望もないようなことを。 興ざめだぜ。 将来エジソンになれるかもしれないという、こまっしゃくれた子供達の芽めを摘つむなよ。 「でもどうせエジソンだって子供の頃『発明王に俺はなる!』って言って遊んでたんだぜ?」 「エジソンの時代でそれを言ってたんだとすれば、彼はタイムマシンを発明している」 結局、簡単なことほど説明しづらいものなんだよねえ、と月火は話を戻した。 「まあ、お兄ちゃんもお兄ちゃんなりに真剣なんだろうから、あんまり馬鹿にすることも茶化ちゃかすこともできないけどさあ、個人的な考えを言わせてもらえるならば、好きなのかどうかわからないっていう段階で、もう好きみたいなものなんじゃないのかなあって私は思うけどね」 「そうか?」 「嫌いだったらそんな疑問を、そもそも深く考えたりはしないでしょ」 「いや別に深く考えているわけじゃないんだけどさあ」 もやもやすると言うか。 悶々すると言うか。 霧きりとか霞かすみとかみたいに、そうにもすっきりしない──というだけなのだ。 ふわふわしている。 自分の心に向き合うということをずっとしてこなかった僕だから、まったくと言っていいほど、自分の感情が把握できないのである。 だけど。 そんな自分は間違いだったと──今は思う。 今なら思える。 だから今こそ──ちゃんと向き合いたいのだ。 自分の中の心とか、感情とか、そういったあれこれと、ちゃんと向き合いたいのだ。 「なんだろうなあ。大体僕、人を好きになったことってないんだよなあ」 「ないの?」 「皆無かいむと言っていいね」 僕は先ほど月火がそうしていたように、正座をしたままでではあったが、胸を張って威張った。 「僕はこれまで人を愛したことがない」 …………。 …………。 なんだろう。 言ってみて、恐ろしく空々しい気分になった。 張ってみた胸に、ぽっかりと大きな穴が空いたような気分だった。いや、それは元々開いていた奈落ならくの穴だったのかもしれない。 えー? 僕ってそんなキャラ設定なの? やばくねえ、それ? 威張っていた上半身がしおしおとしおれ、僕は猫背になった。まあ、張ってようがしおれようが、どちらにしたって、あまり正座に相応しい背骨の状態ではない。 「修学旅行の夜、枕投げを終えて就寝時刻を過ぎた後に繰り広げられるピロートーク的な恋愛トーク大会において、『いや、僕、今好きな子いないんだよ』と言っちゃう奴がいるんだとしたら、それは僕なのさ」 「お兄ちゃんに友達がいない理由はその辺にあるような気がするね」 余計なお世話だ。 今は友情の話ではなく、恋愛感情の話である。 恋ができないから友達もできない奴って、どんな新世代だよ。 「まあ、言い訳をさせてもらうとさ」 「言い訳は聞きたくない」 「聞け!」 「やだ!」 「ブラザー命令だ!」 「むっ……ブラザー命令なら仕方ない」 シスターが納得した。 どうやら言い訳を聞いてくれそうだ。 「つまり、その修学旅行の夜ってのは好例なんだけど、どうにも学校って空間には、『誰かを好きにならなきゃならない』という変な圧力があるとは思わないか?」 「む」 月火がわずかにリアクションをした。どうやら僕が言うことが、思いのほかまともなことだったので、意外だったらしい。 「僕はそれを恋愛圧力と呼んでいるんだが。お前に恋愛相談に来るという仲間内の女子達もそうなのかもしれないけれど、そういう、なんて言うんだろうな、仲良しこよしを強要するような、暴力的な空気が、そもそも僕は嫌だったんだよ」 「ちょっとあまのじゃくが過ぎるような気もするけれど、学校というグループが恋愛至上主義であるっていうのは、それはお兄ちゃんの言うとおりかもしれないね。男と女を大量に一箇所にぶち込んだら、自然とそうなるって思うよ。でも」 月火は一旦納得してみせて。 というか、納得したような振りをして。 「それってみんなが恋愛に興じる理由にはなっていても、お兄ちゃんが人を愛せないことの理由にはなってないよね」 と言った。 「だからお兄ちゃんは息苦しい思いをしてきたというだけのことであって、お兄ちゃんが人を愛せない理由にはなってないよね」 「なってないな」 「言い訳だよね」 「言い訳だな」 「謝れ」 「ごめんなさい」 謝った。 謝罪を強要された。 生まれてこのかた一度も人に頭を下げたことのないこの僕が! 「嘘を吐つくな」 「あ、はい。ごめんなさい。いつもいつも重ね重ね、月火さんにはご迷惑ばかりおかけします」 「話を戻すよ」 「どうぞどうぞ」 話を戻した。 阿良々木暦は昔から人を好きになったことがない、辺りのところまで。 しかし僕と月火の会話には、話を戻すと言う行為が非常に多い気がする。 「そうだね。言われてみれば、お兄ちゃんが女の子を家に連れてきたことなんか、昔から一度もなかったね──まあ男の子を連れてきたこともなかったけどさ」 「まあな。いや、だから僕、人を好きになるっていうのがどういうことなのか、よくわからないんだよ。まるで違う世界の言語なんだ」 「だけどそんなの、漫画とかアニメとかドラマとか見てたら、なんとなくわからない?」 「わからないわけじゃないけど、でもそういうのってファンタジーだな。ドラゴンの存在を信じろと言われているのに近いものがある。芸能人のスタイリッシュなラブストーリーを見て、『おおイケてる。自分もこうなろう』とか思えるか?」 「んんー。そりゃそうだけど」 エジソンを自分と同一視している人がそんなことを言ってもなあ、と月火は唸うなる。ドラゴンの例え話だけではどうやらどうにも説得力に欠けたようなので、僕は更に例え話を畳み掛ける。 「ハリー・ポッターを読んだからって、自分もメラゾーマを使えるって思えるか?」 「その台詞から判断する限り、お兄ちゃんはハリー・ポッターを読んでいない」 畳み掛けに失敗した。 残念、ファイヤーシスターズに炎系の魔法は通じなかった。 いや、シリーズ物って、タイミングを外すとなかなかスタートが切りづらくなっちゃうんだよな。 「あるいは逆ってこともあるのかもしれない」 「はにゃ?」 「つまり、漫画とかアニメとかドラマとかで、思いっきりスタイリッシュだったり、そうでなくてもドラマチックな恋愛をさんざ見せ付けられているじゃねーか。だから、そのレベルでないと恋愛じゃないと、僕は自然、刷り込まれているのかもしれない。派手はでさや見栄みばえを求め過ぎたせいで、ちょっとした、日常生活の中に潜ひそむ小さな恋を、僕は見逃してきたのかもしれない。言うなれば僕は情報過多な現代社会の犠牲者だよ」 「言ってることも言いたいこともわからないじゃないけど、その言いっぷりはなんだか責任転嫁せきにんてんかっぽくてむかっ腹が立つよね」 何が犠牲者だ、この偽善者め。 言って月火は片足を上げ、正座する僕の肩の上に置いた。本当は頭の上に置きたかったのだろうけれど、足がそこまで上がらなかったようだ。 僕の肩をぐりぐりと踏みにじる月火。 普段ならぶん殴るところだが、まあ状況が状況なので、おおらかにスルーしておいてやることにしよう。 おおらかになるべき箇所を間違えているような気もしないじゃないが。 「開き直っちゃ駄目だよ、お兄ちゃん。そんな情報過多の中で、みんな普通に恋愛してるんだから」 「むー。正論攻撃かよ」 「つまり、この議題のまとめとしては、お兄ちゃんは愛なき人ってことで、いいのかな?」 「いやいや、それは違う。僕は愛に満ちているよ。むしろ愛の伝道者と言っていい。直なお江え兼かね続つぐと呼ばれていることからも、それはわかるだろう?」 「お兄ちゃんがいつ直江兼続と呼ばれたのよ」 呼ばれていなかった。 一回も。 「でも愛なきお兄ちゃん」 月火は言う。 ちなみに足は僕の肩に置かれたままである。靴下が自分の顔の真横にあるというシチュエーションは、なんというか、ちょっと複雑だった。頬ずりしたくなる。 「愛なきお兄ちゃんは、別にさあ」 「おい妹。僕をアイナメみたいに言うな」 「愛なきお兄ちゃんは、別にさあ」 僕の抗議は言外に却下きゃっかされ、そして月火は探るように続ける。 十数年も同じ屋根の下で暮らしながら、こいつの突っ込んでくれる、突っ込んでくれないの判断基準がわからない。 「女子が嫌いってわけじゃないんだよね」 「ん? どういう意味だ?」 「女嫌いを気取きどっているわけじゃないよねって意味」 「ああ、そんなことはない。人間嫌いの厭世家えんせいかを気取ったことは幾度となくあるが、そんな中でも僕は、女子だけは例外だと謳うたってきた」 「人類の過半数が例外じゃん」 「本当だ」 言っておくがこのくだりは冗談である。そんなことは謳っていないし、そもそも人間嫌いの厭世家を気取ったこともない。 妹との会話というのは、どうにも真剣味や真実味に欠けてよくない。シリアスに徹することができない。 が、まあ。 だからと言って── 硬派なバンカラを気取ったこともない。 女嫌いでもないし、女子を苦手としているつもりもない──と。 思うんだけどなあ(断言するほどの自信もなし)。 「うん。まあそうだよねー。だってお兄ちゃんって、自分では誰も連れてこなかった癖に、私とか火憐ちゃんとかが家に連れてきた私達のお友達とかとは、昔はよく遊んでくれてたもんねー」 「そうだっけ」 「うん。お兄ちゃん私のお友達からモテモテだったよ」 「何? 僕がティモテだっただと?」 シャンプーのCMに出られるじゃねーか。 一攫千金いっかくせんきんだ。 「お兄ちゃんのモテ期はあれが最初で最後だったね」 「そんな時期があったっけな……まあいいや」 言われてみればその昔は、月火が大名行列のように連れて来る友達と、人生ゲームだり何だりして遊んであげていたような、そんな記憶がないでもない。連れて来た友達の総人数が月火込みで奇数になるときに、僕が人数合わせに引っ張り込まれていたのだ。 でもそれも昔の話。 懐かしくもない。 「とにかく、女子が嫌いってことはない。好き嫌いは言わないというのがこれまでの僕の人生だったんだ」 そんな僕が。 クールでドライ、言うなれば鳥取砂丘とっとりさきゅうのような人間性を有するそんな僕が現在揺れているというのだから、考えてみればこれは大事件である。天地を引っ繰り返しかねない。 「それで私に恋愛相談ですか」 「うん。ですよ。て言うか、散々さんざん言ってきてなんだけれど、別にれっきとした解答を求めているってわけじゃねえんだよ。参考までにお前の事例を聞いてみようと思ったんだ。お前の彼氏、えーっと、蝋ろう燭そく沢ざわくんだっけ?」 「うん。よく憶おぼえていたね」 「名前だけな」 会ったことはないし。 名前だけ覚えているというよりは、名前以外は知らないのだ。 「お前はいつ、どの段階で、そいつのことを『好きだ』って判断したんだ? それを教えて欲しいってのが、本当のところだ」 「そんなのは、まあ──」 月火は言いよどみ、唇くちびるを尖らせて、やや黙った。 口ごもったというより、単に照れたのかもしれない。 可愛いなあこの野郎。 ちゅーしちゃおっかな。 「──なんとなくだよ」 「なんとなく」 「そう。曖昧。適当」 「そんなんでいいのか?」 「そんなんでいいんだよ。そんなもんだよ」 最後のほうの言い草は、なんだか投げやりでさえあった。それもまた照れ隠しということなのだろうけれど、しかし一方で、説明をあっさりと放棄したようにも見える。 諦めたのか。 兄を諦めたのか。 だとしたらそれは悲しい事実だ。 僕は往生際おうじょうぎわ悪く、抵抗を見せた。 「じゃあ、どの段階でっていうのはひとまず置いておくとして、どういう理由でっていうほうを、まずは聞かせてもらおうか。その蝋燭沢くんを、お前はどうして好きになったんだ」 「それもなんとなくだよ」 今度は即答だった。 しかしそれはやはり投げやりで、鬱陶うっとうしがっている風の返答でもあった。 あまり自分の話はしたくないのかもしれない──気持ちはわからなくはないけれど、しかし、ここまで深い話(?)になっておきながら、今更それは勝手というものだ。 「でも、本当になんとなくなんだもん。なんとなくでなんとなくでなんとなくなんだもん」 月火は拗すねたように言った。 なんとなくでなんとなくでなんとなくなんだもん。 「好きかなーって思って、好きだなーって感じて、好きだってわかる。そんな感じ」 「ニュアンスにもほどがあるだろ」 なんだその三段活用。 そんな感じと言われても、まったく感じられない。 「好きな理由にしたってさあ。そりゃ色々こじつけることはできるよ? 格好いいとか、優しいとか、背が高いとか、お金持ちとか、そういう理由付けは、色々可能だけどさ」 「…………」 好みのタイプの中に『お金持ち』が混じっていたことが、月火の人間性をわかりやすく示しているようにも思えたが。 重要なポイントはそこではなく。 むしろそれに続く、 「けど、そんなの全部嘘だもん」 という言葉のほうだろう。 「自分の気持ちを理性で理解するための、おためごかしって言うのかな。理由付けって言うよりは、こじづけだよ。好きだっていう結論ありきで、その結論に対して梯子をかけていくようなものだよ」 「梯子」 「梯子じゃなくてロケットかな。うん、ロケットを作ってる感じ」 月火はぽんと手を打った──どうやら彼女の中で、それは納得の行く、出来のいいたとえだったらしい。勝手に納得するとはずるい奴だ。 「ずっと一緒にいたいと思ったら、それはもう恋なんだと思うよ──こんな言葉を知ってる? お兄ちゃん」 「どんな言葉だよ」 「ヒキガエルを愛する者には、ヒキガエルが月に見える」 「……そんな言葉は知らないけど」 でも、意味は即座そくざにわかる。 恋に関して、そんなわかりやすい諺もあるまい。 好きになってしまえば、理由なんてどうでもよくなってしまう──という月火の謂いいも、また同じように理解できる。 月に至るためのロケット作りか。 確かに、『どうして好きか』『どこが好きか』なんてのは、的を外した質問なのかもしれない。同様に、どの段階から『好き』になるのかというのも、ズレた感覚なのだろう。 そんな厳密なものではなく。 むしろファジィ。 「……つーか、なるほど、そんな理屈みてーなことをごちゃごちゃ考えているから、僕は人を好きになったことがないんだな」 「ま、愛なき者というのは言い過ぎだろうけどね。人を愛することと、個人を愛することって、相反するものがあるからさ」 「あるか」 「うん。博愛ってさ、結局、誰のことも好きじゃないのとおんなじだからさ。公平と平等は、愛ではあっても恋ではないよ。かけがえのない誰か一人を選ぶことは、言ってしまえば差別だもん。博愛主義と差別主義が両立するわけないじゃん」 お兄ちゃんは博愛主義なのかもね、と月火。 む。 それは──なんだか、褒ほめられている気がしないな。 いいことを言われているようでも、どうだろう──なんだか、春休みを思い出してしまう。 春休みの。 僕の博愛主義が招いた結果を。 嫌でも嫌がらせのように思い出してしまう。 「全人類を愛する人って、聖人ってことになるんだろうけど──聖人が恋愛でどぎまぎしてる図って、想像できないでしょ?」 「できないな」 それでは俗世ぞくせに浸つかりまくりな気がする。 ふむ。 まあ差別主義ってのは言い過ぎにしたって、つまり恋愛ってのは、あくまで俗っぽいものであり、そうでなくてはならないのだろう。 博愛と違う。 まるで。 「全人類を相手取って恋ができる人がいるんだとすれば、それはそれで最強なんだろうけどね」 「人という存在そのものに恋焦こがれる──か。そりゃ難しいだろうな。難しいってうか、ただの無茶だろう」 「むしろ字面だけだと気の多い浮気者っぽいかな」 「ふむ」 ただまあ、そんな極端な話をしていても仕方がない。 概念や定義のことは一旦置こう。 あまり話を広げても回収しきれなくなる。 僕のクラスのHさんのことだ。 「まあ、お前の言う通り、僕は生まれてこの方誰に恋したこともない寂しい奴かもしれないけれど、そんな僕が、そんな僕こと阿良々木暦くんが今まさに、齢よわい十八にしてついに、恋に落ちたかもしれないんだよ」 「いや! かもしれないなんて言ってないで、もう決め付けちゃえばいいよ!」 月火が上半身を屈かがめて、僕の両肩にばしんと強く、力づけるように手を置いた。 そして実に力強い笑顔で断言する。 「かもしれるよ!」 「かもしれるんだ……」 「お兄ちゃんは恋に落ちました! 決定!」 「決定したのか!」 「そう! 予定は未定じゃない!」 ずいっと、僕に顔を近づけてきて、額を僕にぶつける月火。息遣いさえ感じるすさまじい距離感だった。 「お兄ちゃんはHさんのことが好き! 私が決めた!」 「お前に決められちゃしょうがない……!」 そのあまりの迫力に気圧けおされて。 僕はそう頷うなずかざるを得なかった。 いや、得なかったと言うより。 「…………」 そうだな。うん。 月火の言う通りだ。 いや、言う通りなのかどうかは、やっぱりさっぱり、全然ちっともわからないけれど──言う通りにしてみよう。 好きかもしれない、イコール好きでいいじゃん。 好きかなーって思って。 好きだなーって感じて。 好きだってわかる。 ずっと、一緒にいたいって思う。 そんな感じだろう。 「そうだな。よっし吹っ切れたぜ、月火ちゃん。切れない子供と言われるこの僕を吹っ切れさせるとは大したもんだ。僕は今の今まで、どうやらお前のことを見くびっていたようだぜ」 「いやいやいやいや。それほどのことはあるよおー」 照れる月火。 平手ひらてを顔の前でぶんぶん振って、にこにこしながら。 そんな可愛らしいリアクションを見せられてしまえば、もっと照れさせたくなってしまうのが人の性さがである。 人の性と言うより兄の性かもしれない。 照れる妹は可愛い! 萌え萌え! 「お前は最高の妹だ月火!」 「やだー。そんなことないよー」 「僕は昔っから、お前はいつかやる奴だと思っていた。そのいつかがまさか今日だったとは。五十を待たずマリラの域だぜ。まったく、お前の進化の速さは僕を驚かせてくれるよ。お前の存在感がでか過ぎて、これからは火憐ちゃんとか言われても、もう誰のことかわかんねーな」 「あはははー」 「さすが僕の妹だけのことはある」 「あれ? 自分褒めに移行した?」 月火が正気に戻った。 バレたか、目敏い奴だ。 この調子で『兄が褒められたら喜ぶ妹』に月火を調教しようかと目論もくろんでいたのだが、なかなかうまくはいかないものだ。 また、さりげなく火憐を落とすことで月火を上げてみたのだが、そこについて彼女はまるっきりスルーだったことは、問題点として明記しておくべきかもしれない。 冗談はともかく。 「礼を言わせてもらおう。ありがとう月火ちゃん」 「礼には及ぶよ」 こんな初歩的な質問を受けたのは、何せ初めてだったもんねー、と、月火は胸を撫で下ろすようにした。 「まあ、色々言っちゃったけどさ、お兄ちゃん。人を好きになるなんて、犬が吼ほえるくらい当たり前のことなんだから、そんな思い悩むことなんかないんだよ」 「そうか。当たり前か」 「うん。普通だよ」 「クラスに気になる女子がいるのは普通」 「普通!」 「授業中、黒板よりもその子のほうを見ちゃうのも普通」 「普通!」 「登下校中その子の姿を探してしまうのも、偶然会えるかなーとか考えてしまうのも、本を買うときに色々想像してしまうのも!」 「普通!」 「その子の胸を揉もみたいと思うのも!」 「違う」 会話が止まった。 「ん?」 「ん?」 お互い、腹の内を探るかのように視線を交わす。 なぜ会話が止まってしまったのか、両者共にわからないのだ。 「え? あれ? 月火ちゃん。お前、一体何を言ってるの?」 「えええ? わ、私の側がわですか?」 「お前も正座したほうがいいんじゃない?」 「あ、はい。わかりました」 困惑のままに正座する月火。 正座した兄と正座した妹が向き合った。 なんだここは、茶の席か。 忘れがちな設定だが、月火ちゃん、茶道部。 「いや、だからさー。そのHさんの胸部が非常に魅力的なので、触りたい、揉みたいって思うわけじゃないか。今そういう話をしているんだよ」 「……あれ? 私の頭が悪いのかな、何故なぜかお兄ちゃんの言っていることが、理解できるのに理解できない。台詞を聞いた感想が『聞いてねえよ』と『訊いてねえよ』の二通りしか思い浮かばない」 「はあ? お前は仕方のない奴だなあ。やれやれ、出来の悪い妹を持つとお兄ちゃんは苦労するぜ」 僕の評価が再度引っ繰り返った。 この手のひらの返しようは、我ながら身も蓋ふたもなくて最高だと思う。 「まあ、あんまり知られていないことと言うか、多分クラスで僕しか知らないことだと思うんだけれど、その子は実は巨乳だったりして、そりゃもう、揉むしかないよね!」 「ちょっとごめんお兄ちゃん、触るとか揉むとか、露骨ろこつな言葉を使うのをやめてもらっても構いませんか?」 「うん? そうか」 寛大な僕は妹の申し出を受け入れる。 「じゃあ、タッチするしかないわけじゃないか!」 「露骨でなくなって、可愛くはなったけど」 なんだかなあ、と月火は憂鬱に身を任まかせる。 僕を見る目が、兄を見る目じゃなくて変態を見る目になっているような気がするのは、果たして錯覚なのだろうか。 いやまあ錯覚だろう。 今トリックアートとかはやってるしな。 「で、つまりだ、要するに僕は気がつけば、Hさんの胸にタッチしたいということばかり考えているわけなんだが、これは恋でいいんだな」 「違う」 月火は断固として否定した。 端的たんてきでありながら、こちらの正しさを主張する気をなくしてしまうくらいに頑かたくなな口調だった。 ぬう。 この頑固者め。 僕は拳こぶしを握り締めて、しかしそんな月火に果敢かかんにも挑む。 「だがどうだ、好きでもない相手の胸にタッチしたいとは思わないだろう。だからこの気持ちは恋に違いないと思うのだ」 「お兄ちゃんがそんなことを本気で考えていたんだとすれば、そんな考えに確信を持たせてしまった責任を、私は感じざるを得ないね……」 月火は、まるで古代人が封じた破壊魔人を目覚めさせてしまった考古学者のような味のある表情を見せた。 責任を感じた結果、まさか自分の手で始末をつけようなどと思わなければいいのだが。 「お前の大好きな蝋燭沢くんだって、ずっとお前の胸を触りたいと思ってるんだぜ」 「それは思ってるだろうけど、だけどそれは集合論的に真というだけであって、蝋燭沢くんは私を含めた世界中の女子のおっぱいを触りたいと思ってるんだよ!」 「……」 会いたくねえ奴だな。 つーか、それを大声で叫んじゃえるお前っていうのもどうなのよ。 「だからお兄ちゃん。男の子が女の子のおっぱいにタッチしたいと思うのは自然な感情なんだから、気にしなくったっていいんだよ」 「…………」 なんだか別の方向の相談が始まってしまっているみたいだ。 恋愛相談から性教育の時間へ。 「違うとは言ったけれど、それは別の意味で普通なんだって」 「そうなのか」 「それは当たり前だよ」 「当たり前」 「それは恋じゃなくて性欲だよ」 「欲!」 欲か……。 それはよくないな。 「いやむしろ欲はあるんだが」 「古典落語の落ちみたいなことを言わないで。とんだ地口落じぐちおちだよ」 「今ので章が切り替わってもいいくらいの奇麗な落ちだったとさえ思うんだけど、なんだ、まだ話は続くのか」 「うん。これでは終われない」 月火は言う。 「と言うより、ある意味もう終わっちゃってる。お兄ちゃんが」 「何を言う。僕の人生はこれからだぜ」 「お兄ちゃんの人間性がこれまでなんだよ。あー、おふざけ半分とは言っても、私、残りの半分は結構真面目に相談に乗ってあげてたのになー。まさか実の兄から溢れるリビドーについての相談を受けていたとは思いもしなかったよ」 「リビドーとは失礼な。僕からの真剣な相談に対して」 しかもおふざけ半分だったとは。 ふざけるなと言いたい。 「だってそうじゃない。クラスの女子のおっぱいが気になって、授業中も黒板よりもその子のおっぱいを見ちゃって、登下校中もその子のおっぱいばかり探してて、本屋に行ってもその子のおっぱいのことばかり想像しちゃうとか。それが性欲じゃなくて何なのよ」 「ちょっと待て。単語が色々とすり替わっている」 大胆な紙面刷新さっしんが行われている。 どんなリニューアルだ。 「そう言われると、僕もそれは恋じゃなくって性欲だと思うし、そいつは兄じゃなくって変態だと思うけれど、しかし月火ちゃん、自分の思い込みの激しさを侮あなどっちゃ駄目だ。きっと今お前は、勘違いをしているに違いない」 「そう?」 「ああ。勘違いしないでよね。百歩譲って、Hさんの胸にタッチしたいというこの純粋な気持ちが性欲だったとしよう。ピュアな性欲だったとしようぜ。そういう側面を、今回の事件が少なからず有しているであろうことを認めるのに、僕もまあ、お前がそこまで言うならやぶさかではない。妹の顔を立てといてやるよ。だけどどうだ、月火ちゃん」 僕は一旦言葉を切って。 そして力を込めて、用意した台詞を言う。 「性欲なくして恋は生まれないんじゃないのかい?」 「黙れ。あ、ごめんなさい、私としたことが突っ込みのセレクトを間違えちゃった。死ね」 愚にもつかないようなことを名言っぽく言うな、と月火は舌打ちをした。 上品じゃない奴だ。 茶道部に入ってるという設定はどこに行った。 「死なないな。悪いがお前のお兄ちゃんは不死身だ」 「お兄ちゃんが不死身だったら私だって不死身だよ」 まったく、と言って。 まったくまったく、と言って。 月火はずいいっと、正座をしたままで、器用に膝ひざを摺すり合わせるようにして、僕との距離を詰めてきた。 にじり寄る、という表現が正しい。 「なんだよ」 「試してみようと思って」 「試す? 貴様、この兄を試そうというのか」 「うん。その程度の兄を試そうというんだ」 膝の皿同士がぶつかるほどのところで月火は移動を止めて、そしてそこで月火はぐいっと、胸を僕に突き出してきた。 「ほれ、触ってみ」 触った。 無言で。無表情で。 即決即断、即座にタッチした。 「ぎゃーっ!」 光速に匹敵するであろう僕のスピードに驚いたのか、悲鳴を上げて後ろ向きに倒れこみそうになる月火だったが、しかしその勢いのままに倒れると彼女は背後に設置されているベッドの角で頭を打ちそうだったので、僕は両手にぐっと力を込めて、なんとか月火の上半身を支えてやった。 いや。 つまりは月火の胸を、指が食い込むほどに、がっしりわしづかみにしたということなのだけれど。 タッチならぬキャッチである。 「痛いわーっ!」 恩知らず、とはこのことか。 危うく、ベッドで後頭部を強打しかねなかった危機から救ってやった、言わば命の恩人である僕に対し、月火は上半身をすさまじい勢いで僕のほうへと、さながら振り子のごとく起こしてきて、そのまま僕にヘッドバットをかましてきた。 額と額が衝突する。 視界の中で火花が散った。 それでも僕は月火の胸から手を離さなかった。 後ろに吹っ飛びそうになったのを彼女の胸を命綱いのちづなに防いだのだ。 「だから痛いっ! 離せ離せ! 離さんか!」 「離さんか? ああ、死んだ飼い犬の灰をばら撒いて桜を咲かせたというあのご老体のことか」 「言いがかりみたいな言葉遊びをしている心の余裕があるなら早く手を離せ!」 「それは常識から手を離せ的な意味合いかな?」 「常識からは既に手を離しているだろお前は! もっとありふれた意味合いだ!」 妹からお前呼ばわりされるまでもなく。 僕は後方に倒れ掛かった身体を起こしたところで、彼女の出っ張りに引っ掛けていた指を外したのだった。 「どんな兄なのよどんな兄なのよどんな兄なのよ。澱よどんだ兄なのよ? あーもう、言葉こんがらがってきたし」 ぷりぷり怒る月火ちゃん。 実にプリティだ。 「本当今、何の迷いもなかったよね。言われた瞬間、脳を経由しない反射神経で揉みに来たよね」 「何を失礼な。兄は妹の胸なんか揉まない」 「今思いっきり揉んだじゃん!」 「違う違う。むしろ逆だよ。逆転の発想だよ。お前の胸が、僕の手のひらを揉んできたんだ」 「何その気持ち悪い文章!?」 「実の兄の手を胸で揉んでくるとは、お前はとんだ変態妹だな」 「逆転も何も、その発想はありえないよ……」 胸で手のひらを揉むって、と。 月火はこめかみを抑えていた。 気付けば、スラップスティック的にひと悶着あった結果なのだろう、僕も月火も、正座が崩れてしまっていた。 ついに均衡きんこうが崩れたのだ。 「あーもう! お兄ちゃん、妹のおっぱい触り過ぎ!」 「なんだよ。なに怒ってんだよ。お前が自分から『触ってみ?』って言ったんじゃねえか。言わばお前が僕を誘惑ゆうわくしたんだ」 「誘惑」 「ところで『誘惑』と『語感』って、漢字で書いたらそっくりだよな」 「目のつけどころはいいけれど、そんなことで私の話は逸れない! 泣き寝入りすると思ったら大間違いだよ、今の事件はきっちりと火憐ちゃんに言いつけちゃうからね!」 「やめておけ。僕が原形も残らないぞ」 フルボッコにされてしまう。 月火を苛いじめると火憐は怒るのだ。 「その結果、火憐ちゃんの指のつけ根にかすり傷ができてもいいのか!」 「何を堂々と格好悪いことを……」 言ってじろりと月火は僕を睨にらむ。 殺人者の目だ。 「お兄ちゃんなんて、原形も残らなければいいよ。明日の朝は、またバールで起こしにくるからね」 「無駄なことだ。生憎あいにくだが、僕に凶器は通用しない」 月火の脅しを、鼻で笑う僕。 「僕は非実在青少年だ。条例で保護されている」 「格好いいーっ!?」 まあ。 自らの行動に恥じるところは一つもないが、しかしここは誤解を恐れておこう。 誤解というか、恐れているのは火憐なのだけど。 「じゃあ話を逸らさず、蒸し返して繰り返すぞ? お前が自分から『触ってみ?』とか、僕を誘惑したんだろうが」 「何よりもまずその似てない物真似がムカつく!」 阿良々木月火、ヒステリーモードだった。 とんだヒステリー小説だぜ。 …………。 駄目か、これでもまだ落ちないか。 僕としてはもうそろそろ次のコーナーに行きたいんだけど、章は切り替わらないか。 「私はもっと、井い口ぐち裕ゆ香かさんみたいな声だ!」 「個人名を出すな」 「そして私はお兄ちゃんを誘惑なんてしてねー!」 「したよ。こんな風に胸を突き出して。『ミーに触ってみー?』って」 「私を頭空っぽの寒いキャラ設定にするな! さすがにそんなキャラは欲してない! やめて、この本から読み始める人だっているんだよ!」 「なんと。そういう人がいた場合、僕の好感度が心配だぞ」 こっちはこれまで五冊分の積み重ねがあると思って、安全圏でふざけてるつもりなんだから。僕のいいところをたっぷり知ってもらってることを前提にしたうえでの狼藉ろうぜきなのだ。 「今やM78星雲にさえ読者がいるんだから、お兄ちゃん、振る舞いにはマジで気をつけて」 「それは本当にそうだな……」 宇宙問題になってしまう。 地球の平和は今や僕の双肩にかかっていると言っても過言ではないのだ。 「お兄ちゃんはなんだ。『触ってみ?』って言われたら、誰の胸でも触るのか」 「おいおい、僕をそんな節操せっそうのない奴だと思っているのか。心外だなあ」 やれやれとばかりに、僕は言う。 「そんな挑発的な台詞を言われようがどうしようが、僕が触るのは、Hさんと、お前の胸だけだ」 「私もHさんと同じ特別枠に入ってたの!?」 「ああいや、火憐ちゃんもだな」 「火憐ちゃんまで毒牙どくがにかけようというの? ええ? ちょっと待ってよ、私達、そんな人を兄と呼んでて大丈夫なの?」 「違う違う。兄だからこそだ」 理解の遅い月火に対し、僕はわかりやすく説明してやる。 「Hさんのことはともかくとして、お前達に関して言うなら、兄だからこそなのだ」 「ど、どういうこと……?」 「兄にとって妹の胸など、胸のうちには数えられないということだ。逆に言えば、妹の胸をいくら触ったところで、兄にとってそれは、胸を触ったことにはならないのだ。ノーカンなのだ。つまりいくら触ってもいいのだ」 「その三段論法は、もう兄と呼んでいいかどうかと言うより、人と呼んでいいのかどうかも不明なほどに、ありえない発想だよ……」 逆転させる前に飛躍しているよと、月火はがっくりとうなだれた。 理解は得られなかったらしい。 悲しいな。 ひょっとすると人間同士は、永遠に分かり合えないのかもしれない。 通信がこれだけ発達した現代社会においても、人と人との間には何も通じることもなく、人と人は信じあうこともないのか。 が、しかし、地の文における僕の社会風刺にもめげず、月火は気丈にも気炎にも、うなだれた顔をすっと起こした。目はまだ死んでいない。どうやらまだ抗議を続けるらしい。 しつけーな。 死ねばいいのに。 「仮に触ってはならない不可侵の存在こそがお前の胸だったのだとしても、所有者であるお前自信が許可を出したんだから、僕に責められるいわれはないだろう」 月火が何かうるさいことを言い出す前に、今度は僕から先手を打ってみた。つまり結局のところ、先ほどのスラップスティックは、言いだしっぺが月火であるというところに問題は帰するのだ。 何せ発端ほったんがそこなのだから。 「違うの!」 だが、月火は強硬だった。 「違うの違うの! 今のはツンデレだったの!」 「ツンデレ?」 いや、どこが? マリラを引き合いに出すまでもなく、僕はツンデレにはそこそこ詳しいほうだけれど、さっきの月火の言葉に、そんな要素はなかったように思うぞ。 「だからそれこそ逆転の発想なんだよ。私は規制の枠わくに囚とらわれてないの!」 「規制の枠には囚われろ」 既成な。 危ねーっつーの。 最近色々厳しいんだから、ルールの中でエロいことしようぜ。 「つまり逆ツンデレだよ!」 「逆ツンデレ? どういうことだ」 「つまり、普段がデレモードで、すごく親しげに接してきてくれて、肩に手を置いたり顔を近付けてきたりのスキンシップも平気で取ってくるんだけど、それを受けて『あれ? こいつひょっとして俺のこと好きなんじゃね?』とかなんとか思っていざ告白してみると、いきなりツンモードに変貌して『あ、いや、そういうつもりじゃないんです。本っ当やめてください。何を勘違いしてるんですか、調子に乗らないでくださいよ』って冷たく突き放すの」 「…………」 いやいや、それツンデレとか逆ツンデレとか言うよりさ。 割と見かける普通の女子じゃね? 「つまり逆ツンデレの私は、おふざけで『触ってみ?』みたいなことを言ってはみるけれど、実際に触られると『何本気にしてんのよ、ばっかみたい!』ってキレる属性なの」 「最悪じゃねえか」 怖いよ、逆ツンデレ。 どう接していいかわからねーよ。 「……っていうか、そもそも、本当はどういうつもりだったんだよ。どういう話の流れになると思って、お前は僕の前に胸を突き出してきたんだよ」 「まあ、おふざけっていうか、お試しっていうか、だから試してみようって言ったでしょ? ファイヤーシスターズ参謀担当たる私の計画としては、私が胸を突き出したら、お兄ちゃんは興味なさそうに『いや、そんな胸には興味がない』とか言って、自分の理論の正当性を主張しようとするけれど、そこで私が『妹の胸だからでしょ?』って突っ込みを入れるという、見事なラリーを開始するシーンだったじゃない」 「ああ。そういう振りだったのか」 「それなのに何を見事なリターンエースを決めてくれちゃってるのよ」 まったく、と月火は頬ほほを膨ふくらます。 どうやら兄妹の距離感が、若干ズレてしまったらしい。 「でもそんなありきたりな普通の展開よりも、僕が妹であるお前の胸にタッチしちゃったほうが、展開としては面白いぜ」 「うーん。まあそうだね。じゃあ許す」 許してくれた。 ありえないほどの求心力や、リーダーたる人望もそれゆえなのだろうか、しかし心配になるほどの器うつわの大きさだった。 「で、どうだった?」 「ん?」 「だから、どうだった?」 「ああ。なるほど、妹のおっぱいにタッチした感想を訊いているんだな」 まあ訊きたくもなるだろう。 自分が長い年月をかけて育てている所有物が、他の人間からしてどうなのかというのが気になるというのは、自然な発想だ。 ここでいい加減なおためごかしを言うべきではないと考え、僕はやや思案して、それから率直に、そして端的に、感想を述べた。 「七十六点のB評価!」 「微妙!」 将来に期待だった。 とは言えこの場合採点者であるところの僕は妹の胸にしかタッチしたことがないので、採点基準に信憑性しんぴょうせいがなかったりもする。 「で、結局、どういうことになるんだ?」 「どういうことって?」 「いや、『触ってみ?』って言われて触ってはみたけれど」 「だから物真似が不愉快だっつってんだろ!」 「その『お試し』とやらで、どういう結論が導き出されるんだ?」 「えーっとね」 月火は僕からの質問を受けて、考える。まるで訊かれるまでは何も考えていなかった不用意ささえ感じさせる、それは不思議な対応だった。 こいつ僕におっぱい揉まれたかっただけじゃねーのか? いや、揉んでないけど。 むしろ手のひらを胸で揉まれたんだけど。 とんだマッサージ。 「お兄ちゃん、欲求不満なんじゃない?」 「なんと!」 最低の結論が導き出された。 「ほら、そう言えばさっき、エッチな本が買えない、エッチな本が買えない、エッチな本が買えないって、言ってたじゃない」 「三回も言ってねえよ」 連呼なんかするか。 それは単なる失言だ。 うっかり本音をこぼしちゃっただけだ。 「それが逆効果なんだよ。まるっきりの逆効果。性欲を恋と取り違えてしまったお兄ちゃんは、そうやって欲求不満のインフレスパイラルを起こしちゃっているんだよ」 「インフレスパイラル……」 なんだそれ。 デフレスパイラルなら聞いたことがあるけれど。 「なんてことだ……インフレスパイラルだなんて…そんな007みたいな現象が僕の脳内で起こっているとお前は言うのか……」 「うん。だから妹の胸にだって見境みさかいなくタッチしちゃうんだよ」 「タッチしちゃうのか……タッチパネルみたいなその胸に」 「タッチパネルって平面じゃねーか!」 殴打おうだを受けた。 もしもこれで相手が火憐だったら僕は壁まで吹っ飛んでしまうだろうけれど、月火の細腕による攻撃なので、蚊に刺されたほどにも感じない。 ので、僕は引っ張った。 「はっ。つまりタッチパネルで、恋の暗証番号を入力するというわけだな」 「うまくないし!」 「そして預金を引き出すんだ」 「うまい!」 怒り心頭な妹ではあったけれど、しかしそこは僕の妹らしく、ジャッジは公平だった。 「問題だよね」 と、月火。 「これがまだ私の胸だったからよかったようなものの、だけどどうよお兄ちゃん、これ以上欲求不満が進行したら、いよいよ本命であるHさんの胸にも手を出しかねない」 「ふむ、文字通り手を出しかねないというわけか……というかお前の胸だったからよかったようなものなんだな」 「よかったでしょ?」 「悪くはなかった」 何の会話だ。 「しかし、そもそもその伝でんで行くと、僕はHさんから『触ってみ?』と胸を突き出されるという設定になるんだが……」 Hさんはそんなことを言わない。 想像もできねえ。 「いやいや、だからそんなことを言われなくとも、果敢にタッチしに行くお兄ちゃんなんだよ。策を弄ろうしてね。『鬼ごっこしようぜー、身体のどこかにタッチされたら鬼交代ねー』とか言って」 「浅い策だな……」 「色鬼いろおにとかやってね。Hさんのブラジャーの色を指定するの」 「浅いっていうか、その策こそ平面なんじゃねーか?」 いや。 色々思い出してみれば、いかにも僕が弄しそうな策だけど。 僕はゆっくり、言葉を噛み締めるように頷いた。 そうか、欲求不満か。 酷ひどい言葉で、実はいたく傷ついているんだけれど(泣)、が、しかし、言われてみれば納得できないわけでもない。 どころか、その通りだという気もする。 見事言い当てられたとさえ言えよう。 名探偵に真相を見抜かれた犯人とは、こんな気分なのだろうか──なるほど、みんなえらく潔いさぎよいわけだぜ。 すっきりした気分にさせてくれるじゃねえか。 「なるほどなー。そういうことだったのか」 「うん。危ないところだったね、お兄ちゃん。危うく、好きでも何でもない、たかが胸が魅力的だというだけのクラスメイトに恋をしていると勘違いするところだったよ」 「そうかそうか。これが本当の『勘違いしないでよね』ってことだな」 「この場合、Hさんにしてみればそれ、切実なお願いだよね」 「むう」 確かに。 もてあました性欲を恋と勘違いした挙句あげくに、しかも何かをまかり間違えて告白でもした日には、始末におえない。 災難としか言いようがあるまい。 それでも。 それでも、あるいはHさんの性格を考慮すれば──そんな災難でも、忍受にんじゅしてしまうのかもしれないけれど。 だからこそ。 僕は自分を律するべきなのだ。 律さなければならない。 「そうだな。危ういところを助けられたぜ、月火ちゃん。僕としたことが、危うく魔道に落ちるところだった」 「魔道って」 「カカカカカ。けだし勘違いも甚はなはだしかったわ──この第六天魔王こと阿良々木暦が、たかがおなごに恋をすることなどあってはならぬ!」 「落ちるまでもなく、既に魔道を歩む大魔導士という気がしないではないね……」 ところでその笑い方なんなのよ、と月火。 アシュラマン、と僕は答えた。 「さて、結論が出たところで、次は対策を打たないとな。欲求不満は放っておいたら大変なことになる。Hさんを僕の魔手から守らなければ」 「そうだね」 「タッチの差で真相に気付いたのは僥倖ぎょうこうと言うべきか」 「そうだね」 思いついたことをそのまま言ってみたが、これはスルーされた。 どうやら妹相手だからといって、なんでも言っていいわけではないらしい。 「お兄ちゃんが、Hさんを毒牙にかけた挙句におまわりさんに捕まっちゃって、『うわ~ん!おっぱいはもうこりごりだよ!』みたいなオチになることだけは避けなければね」 「おまわりさんに捕まったら、そんなほのぼのムードのオチじゃ済まないだろ」 「私としても、我が家から犯罪者を出したくはないよ。ファイヤーシスターズの名折れだよ。これまで築き上げてきた信用が台無しだよ」 「ふむ。真に怖いのは有能な敵ではなく無能な味方だとは、よく聞く話だな」 「無能な味方っていうか、有害な味方だけどね」 「そういう見方もある」 というか、別に僕はそもそもファイヤーシスターズの味方ではない。 一部では、戦隊ものにおける六人目のメンバーのような扱いを受けているらしいけれど(ファイヤーブラザーと呼ばれているそうだ。垢抜あかぬけねえ!)、そんな銀色とかの戦士になった覚えは一切ない。 「しょうがねえ。姑息療法こそくりょうほうとして、気が向いたときにお前とか火憐ちゃんとかのおっぱい揉んで、すっきりしとくか」 「そんな療法は実行されてはならない!」 「なんだよ。お前らファイヤーシスターズって正義の戦士なんだろ。だったら僕のために喜んで犠牲ぎせいになれよ」 「お兄ちゃんを犠牲にすることこそが正義という気がするよ」 そんな気ままな暇潰し気分でおっぱいを揉まれてたまるか、と月火は言った。 「じゃあどうするんだよ。無辜むこの民たみであるHさんがタッチされるか、お前ら姉妹がタッチされるか、どっちかだぜ」 「その二択だったら……、くううっ! わかった、私達をタッチしていい!」 自己犠牲精神に満ちたシスターズだった。 気持ち悪い。 「私達の胸を好きにしていいから、Hさんには手を出さないと約束しろ!」 「よし、約束しよう。いや、Hさんだけじゃない。お前達が犠牲になる限り、たとえ将来、リュックサックを背負ったツインテールで迷子なロリ少女を見かけたところで、僕はそいつに後ろから抱きついたりすることは絶対にないと、ここに誓おう」 「なんでそんなに具体的なの」 「なんでだろう」 不思議だ。 首を傾げざるを得ない。 宇宙意志を感じる。 「まあでも、約束というのはできる限り具体的にしておいたほうがいいだろう。そのほうが守りやすいというものだ」 「なるほど。じゃあその誓いは、絶対に破られることがないわけだね」 「その通り」 何故だ。 何の確証もない未来に対する約束なのに、どうも既に嘘をついているような気分になった。 「て言うか、そんな二択はないから」 「うん」 当たり前だ。 妹の胸を触るとか、大体、どんな罰ゲームだよ。 「そもそも欲求不満の解消なんて、妹の胸を目標に据えるまでもまく、いっぱいあるでしょ。妹の胸は最後の手段だよ」 「最後であろうと取ってはならない手段という気もするけどな」 じゃあ、ここで思考すべき問題は、いっぱいある解消法の中から、果たして何を選ぶのかってことになるよな。 「スポーツに勤いそしむとかー、インドアであっても熱中できる趣味を持つとかー、まあ一般的にはそんな感じかなあ」 「スポーツねえ。火憐ちゃんと一緒にジョギングでもしてくればよかったかな」 「二人三脚で」 「そう、二人三脚で──って、なんでだよ!」 多分引き摺られるわ。 結婚式のウエディングベールみたいな目に遭うわ。 「いやいや、火憐ちゃんのことだから、お兄ちゃんを引き摺らないように超スピードで走るんだよ」 「僕が浮くくらいのかよ」 忍者の修行じゃねーか。 まああいつは将来、お嫁さんというよりはしのびの者になりそうだよな。 まったく、久し振りにノリ突っ込みをしてしまったぜ。 「スポーツ却下。これ以上火憐ちゃんに劣等感を抱きたくない」 「小さい兄だな……」 蔑さげすむように月火がコメントを漏らした。 それは器うつわ的な意味合いだろうか、それとも身長的な意味合いだろうか。 いや、多分両方だな。 「じゃあインドアの趣味か」 「そうだね。お兄ちゃん、最近ゲームとかしてないよね?」 「あー。最近のゲームなー。最近っていうか最新のゲームかな。通信機能とかネット対戦とか、そんなんばっかりで、一人で遊んでも制作者の意図する面白さの半分も味わえない作りになってんだよ」 「あー。すれちがい通信とか?」 「それも含めて」 まあ、この辺田舎いなかだから、誰かとすれ違うことなんかないんだけど。 デパートのゲームコーナーに集合。 とんだヒーローショーである。 「最初から面白さが制限されてると思ったら、やっぱ興が削そがれるよ」 「一応うちもネット回線引いてるんだから、一階で遊べばいいじゃない」 「違う違う。そもそも僕は、ゲームは一人でしたい主義なんだよ」 対戦台とか大嫌い、と言ってのける僕。 僕の心は乱入禁止なのだ。 「ゲームを一人でしかしたくないって言ってる人に、恋はできないだろうなあ──」 感慨深げに月火が昔の話題を蒸し返しつつ、そして「じゃ、仕方ないか」と言う。 「妹の胸を揉め」 「もう最後の手段なの!?」 「違った。言い間違えた」 「今僕達はあらゆる何もかもを間違えている気がしないでもないけどな」 「じゃ、仕方ないか」 月火が改めて、言い直す。 「エッチな本を買えばいいよ」 「……」 結論はそれか。 「だから、お兄ちゃんは勘違いで、Hさんの目を意識しちゃってこの一ヶ月間、購入を躊躇してきたんでしょ? ひょっとしたらお兄ちゃんのことだし、心身の整理とか言ってこれまでの秘蔵のお宝も、紐で縛って捨てちゃったんじゃない?」 「な、なぜそれを」 この妹、随分いい勘をしてやがる。 それとも僕の行動は、そうも予測が容易たやすいものなのだろうか。 「それが欲求不満を増進させていたんだよ。だからエッチな本を新規に購入することで、その辺りの問題を解決しちゃおう」 「ふーむ」 聞いたときは引いてしまったが、しかしそれは言われてみれば姑息療法ではない、根本的な治療法なのかもしれない。 根治こんちが目指せる。 そうだな。 エロ本があれば恋なんてしなくていいじゃん。 万事解決だ。 いや、僕と月火は今、世界の解答に至ったんじゃねえ? さすが世界の解答だけあって、一歩間違えば人類を滅ぼしかねない思想だけど。 「なるほど……読書尚友どくしょしょうゆうというわけだな」 「うん。そして読書三到さんとうだよ。ページに癖が残るくらい読み込まなきゃね」 「いやあ、またも僕は気付かされてしまったぜ。さすが、恋愛相談の解決率百パーセントを誇る阿良々木月火だ。一生落ちないんじゃないかと思ったが、ついにこの章の終わりが見えたな」 「そうだね。アニメにしたら三話分の尺しゃくになりそうなくらい話しちゃったけど、これでやっと章が切り替わるよ。そうと決まれば善は急げだ、お兄ちゃん。丁度本屋も開くくらいの時間だし、今から買いに行けば? なんなら私も一緒に行くよ」 「いや、さすがにそこまでしてもらうわけにはいかない。既に十分力になってもらった。これ以上世話になるわけにはいかんよ」 ここから先は僕一人の戦いだ、と、格好をつけて言ってみたところで、しかし僕は、そこでとある事実に気付いてしまった。 「あ、やばい。無理かも」 「え? なんで? 私のナイスアイディアに何か欠陥が?」 「いや、お前のアイディアに欠陥はないんだけれど、しかし先立つものがない」 「先立つもの? 自殺する子供とか?」 「それは先立つ不幸だ」 うーん。 この、ボケなきゃ会話が進まないシステムというのは、手間取って仕方がないな。 「お金だよ」 「お金?」 「今僕は金欠状態なのだ」 チアノーゼと言えよう。 何せ財布の中には三百七十七円しかないのだ──財布の中に入っているお金を正確に把握している者は将来的にお金持ちになれる素質があるというけれど、この場合、把握しないほうが難しいほどに少ない金額である。 「どんな無駄遣いをしたのよ。こないだの誕生日、お祖父じいちゃんにお小遣いもらったじゃない」 「ゲーム買ったらなくなった」 「ゲーム買ってんじゃん」 的確な指摘だった。 まあ、文句を言いながらもやることはやるというのが僕の生きかたである。 「どんなゲーム買ったの?」 「アイマスと見せかけてアイスクライマー」 「どこに見せかける必要が……まったく、手の焼けるお兄ちゃんだなー。まったく、出来の悪いお兄ちゃんを持つと妹は苦労するよ」 先ほどの仕返しのような台詞を言う月火。 したり顔だ。 しかしゲームを買って僕の財布の残額を三百七十七円にしたのは僕の手柄なのだから、むしろそこででかい顔ができることについて、月火は僕にお礼を言ってもいいくらいなんじゃないだろうか。 「しょうがない、私や火憐ちゃんの秘蔵本を一冊提供してあげるよ」 「…………」 妹からエロ本とか提供されたくねえよ。 お下がりだかお上がりだか知らないけどよ。 趣味が合わなきゃ話にならないし、趣味が合ったら最悪だ。 「……でもまあ、一応聞いておくか。それ、どういう内容だ?」 「まあ、ヴァリエーションには富んでるつもりだけれど、基本、美少年同士が」 「よし、そこまでだ」 打ち切った。 腐った会話を打ち切った。 「最後まで聞かなくていいの?」 「最初から聞きたくなかった」 「お兄ちゃん、よく聞きもせずに人の趣味を否定するのはよくないんじゃない?」 「人の趣味を否定するのはよくないが、人の悪趣味を否定するのはいいんだ」 「読んだこともない癖にー」 ぶーぶーと、ブーイングの月火。 口を尖らせて。 どうやら僕の哲学に不満があるらしい。 「私はそんな偏見でものは言わないよ? お兄ちゃんの趣味はちゃんと逐一ちくいちチェックして、ちゃんと引いてるよ」 「チェックするなよ! そして引くなよ!」 随分いい勘してると思ったよ! 家捜しされてんじゃねえか! 「お兄ちゃんの趣味は、正直言って、やばい」 「うるせえ!」 お前に言われたくはない! そして言われるまでもなく、僕の趣味嗜好は極きわめてノーマルだ! くそ、また新しい隠し場所を考えないと……。 「それに読んだこともない癖にって言うけど、逆にお前としてはどうなんだよ、僕がその手の本を読んでいるという状況は、妹としては看過できるもんなのか?」 「腐男子兄、萌えるね!」 ぐっと指を突き出す月火。 駄目だ。 腐ってやがる、遅すぎたんだ。 そして、月火は「まったく、手が焼ける手が焼ける。ファイヤーシスターズだけに大火傷おおやけどだよ」なんて言いながら立ち上がって、すたすたと僕の部屋を出て行った。何も言わず無言だったところを見ると、多分すぐに戻ってくるつもりなのだろう。 まさかいきなり怒ったわけでもあるまい。 お前の私服がムカつく! とか、そんな理由で。 仮にそうだとしたら随分と殺伐とした兄妹関係だが、幸い、そんなまさかはなく、月火はすぐに戻ってきた。見ればその手には、奇麗に折り畳まれた千円札が三枚、握られていた。 そして月火はそれを僕へと差し出す。 「はい。これ、貸してあげる」 「え、ええ!? わたくしのような者に施ほどこしをいただけるのですか!?」 一瞬でへりくだる僕。 我ながら浅ましいにも程がある。 「うん。いや、貸すだけだからね? タッチパネルで預金を引き出せたわけじゃないからね? ちゃんと返してよ」 「も、もちろん! たっぷり利子をつけて返すぜ!法定利息の範囲内でな!」 「きっちりしてるな……」 「僕は借りは必ず返す男だ」 「借りが現金の場合はその台詞、格好よくない……」 考えてみれば今の僕は妹の前に正座して金を借りようとしている兄という図で、なんだろう、これ以上情けない図はない。 そんな情けなさに対して月火も興が乗ったのか、 「利子はいらないけどさ」 と。 そんなことを言い出した。 「その代わり、感謝の気持ちというものを、見せてもらおうかな」 「感謝の気持ち?」 「月火ちゃんありがとう、大好きだよって心を見せて欲しいと言っているのよ」 言って月火は、おもむろに靴下を脱ぎ出した。 脱ぎかたが無駄にエロい。 そしてカンフー映画のように片足立ちになり、あげたほうの足の甲を、ずいっと僕の鼻先に突きつけてきた。 そして凄すごみを込めて言う。 「舐なめろ」 舐めた。 「常に迷いがねえ!」 そのままカンフー映画のように鼻先を蹴られてしまった。 いやこれはマジで痛い。鼻血が出るどころか、鼻骨びこつが折れてもおかしくないレベルの攻撃を喰らってしまった。 「何をするんだよ!」 「それはこっちの台詞だ!」 「いーやこっちの台詞だね! この台詞だけは譲らないぞ!」 「譲れーっ!」 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い、と、月火は僕が舐めてさし上げた足の甲をごしごしと、忌いまわしい記憶と共に洗い流すがごとく拭きまくる。 「なんだよ、傷つくなあ、人の舌を汚いものみたいに。お前が『舐めてみ?』っておねだりするから、僕は嫌々舐めたんだろうが」 「嫌々のいの字もやの字も感じさせない積極性だったよ! そしてもう物真似にもなっていない! 私がそんなおねだりをしただなんて、いわれのない誹謗中傷ひぼうちゅうしょうだよ!」 「これ以上足を舐められたくなかったらその金を寄越せ」 「それはもう脅迫だあ!」 月火は三枚の千円札をばら撒いた。 餅もちに群がる子供のように、僕はそれを、空中にあるうちにキャッチした。 ばしばしばし、と。 銀行員のようにそれをチェックする僕。 「よしよし。三千円、確かに」 「なんでなけなしのお小遣いから貸してあげたっていうのに、私が借金を返した立場みたいになってるんだよ」 「僕のことは信用できないだろうから、今月の僕のお小遣いから自動引き落とし的に三千円お前に回すよう、パパとママに伝えておいてやる」 「ありがたい配慮ではあるけれど、そう思うんだったら、少しは妹から信用されるように頑張って欲しい」 「後ろ向きに善処ぜんしょする」 言って、僕は時計を確認する。 十時前。 なるほど、サイクリングにはいい時間だ。 僕は洋服ダンスを開けて、再び着替えることにした──部屋着から外着へ。なんかさっきからファッションショーみたいだ。 「お兄ちゃんさ」 まずジーンズをはいたところで、ふと、暇そうに僕の机の上をいじっていた月火が、こちらに声を掛けてきた。 なんだろう。 僕にお金を渡したんだから、早く消えたらいいのに。 何ならこの世からでも。 「いつ身体鍛えたの?」 「あん?」 「セミ腹」 言って月火は、僕のおなかの辺りを指指した。 「お兄ちゃんの裸ってそう言えば久し振りに見たけれど、昔はそんなに腹筋鍛えてなかったよね」 「ああ」 僕の腹筋は現在、六つに割れているのだった。そう言えば、この状態で妹の前で脱ぐのは初めてだったか。 こうなったのは春休みのことだから──なんと、僕は火憐や月火の前で一ヶ月も、裸になっていなかったのか。 迂闊だった! 妹に裸を見せていなかったなんて恥ずかしい! ……いやいや。 どんな変態だよ。 そしてさっきからやけに『どんな変態だよ』という系の一人突っ込みが多い気がするけれど、それこそが変態の証明かもしれない。 「実は今、腹筋に凝こっていてな」 「へえ。凝ってるんだ」 「そう。ビリーズブートキャンプを、腹筋プログラムだけやってる」 「なぜそんな偏かたよった肉体改造を……」 無論本当のことを伝えるわけにもいかないので、僕は適当な方便ほうべんを述べて、お茶を濁しておくことにした。 「腹がよじれるほどの面白ギャグを思いついてしまったので、お前達にそれを披露するまでの下準備をしているところなのさ」 「自分で言って笑っちゃうほどの面白さなんだ……」 「そう。お前達も死にたくなかったら、腹筋を鍛えておいたほうがいいぜ」 「ビリーズブートキャンプとか、コアリズムとかで?」 「いや、今のおすすめはモテレッチだな」 「モテレッチ!?」 オシャレ番長のお前には相応しいだろうと、そんなエクスキューズで誤魔化ごまかせたようで、「うーん、わかったよ」と月火は頷いてくれた。 頭がいい奴ではあるけれど(この設定は果たしてまだ有効だろうか)、兄の行動のすべてを詮索せんさくしようという奴でもないからな。 今回は相談したから応えてくれただけだ。 「じゃ、今日はありがと」 外出用の長袖のシャツを着終えたところで、僕はようやく、月火に普通にお礼を言った。 最初からそうしろという話でもある。 「いえいえー、どう致しまして」 「行ってくる」 「行ってらっしゃい」 見れば月火は僕のベッドで再び寝転んでいた。どうやらそのまま寝てしまうつもりらしい。人の二度寝を妨げておいて、なんて勝手な行動と思わないこともないけれど、まあ、明に暗に助けてもらったことだし、寝床ねどこくらいは提供してやるか。ちゃんとバールの始末はしておくように。 最後に僕は、月火に訊いた。 「月火ちゃん」 「なに」 「まあ今回は勘違いだったという結論が出たわけだけど、僕みたいな人間でも、いつか恋に落ちることがあると思うか?」 「あるんじゃない? 人間なら」 「そっか」 おやすみ、と。 月火の返事を受けて、僕は自分の部屋の扉を閉めた。 そして笑う。 うっすらと笑う。 人間ね。 なんっつーか、春休み以来──ただそれだけの、当たり前だったはずのカテゴリに、いちいち反応するようになっちまったな。 腹筋とか。 本当に腹がよじれそうな話──である。 「人間強度とか、今思えば、本当に滑稽こっけいで痛々しい話だよな」 強いこと。 強さ。 そういった概念もまた、春休みに打ち砕かれたものである──他ならぬHさんによって。 Hさん。Hさん。Hさん。 「カ──」 と。 薄笑いから、アシュラマンよろしくの高笑いに危うく移行しそうになったところで、 「ただいまー」 なんて声がした。 どうやら火憐がジョギングから帰ってきたらしい。意外と早かったな。家族内で鉄砲玉と呼ばれていることからもわかるよう、あいつは一旦出かけたらなかなか帰ってこない奴なんだけど。 最長記録としては、火憐が小学六年生のとき、ちょっとその辺散歩してくると言って、三日間帰ってこなかったという事件がある──ちなみにそのときは沖縄で発見された。 海を散歩するな。 警察が動いたじゃねーかよ。 「お帰りー」 家にいても邪魔なだけな妹だが、しかしそのときのてんやわんやの騒動を思い出せば、この早い帰宅は受け入れてやってもいいのかもしれない。 しょうがねえ、ちょっと顔を見といてやるか。 何様なのかわからないそんな心の動きを経て、僕は迎えの言葉を言いながら、早足で階段を降りて、玄関口へと向かった。するとそこでは、ずぶ濡れになったジャージ女、阿良々木火憐が、玄関口で靴を脱いでいた。 ……? ずぶ濡れ? 「え? 何、外、雨降ってるの? 僕、これから出掛けるんだけど」 でも、窓の外をそんなに気にしていたわけじゃないけれど、別に雨音とかしなかったし、それ以前に、普通に日光が照ってたように思ったけど。 天気雨? 「お。兄ちゃん。二度寝からお目覚めかい」 火憐は靴を脱ぎ終え、それを一旦揃えてから、玄関マットに踏み入ってくる。玄関マットをびちょびちょにしたと言ってもいい。 「エスタークと双璧そうへきを成すと言われる兄ちゃんの眠りを目覚めさせる大役を、月火ちゃん一人に任せるのは不安だったけど、なんだよ、うまくやったみてーじゃねーか」 「いやあ、まあ、うまくやったってことになったのかなあ……」 まあ、目覚めさせるという目的自体は果たせたとは言っても、月火は月火で、それだけのためには随分な犠牲を払ったような気がするけど。 下着姿でポーズを決めたり胸で手を揉んで足を舐めさせたりした挙句に、三千円巻き上げられているんだから。 僕の大切な妹を、誰がそんな目に遭わせたんだか。 許せんな。 「うんうん、月火ちゃんもいよいよ一人立ちの時期なのかね。姉として寂しい限りだぜ。でもまあ、褒めてやんねーと」 「月火ちゃんなら今、役目を終えて、僕の部屋で寝てるから今はそっとしといてやりな。褒めるんなら起きたあとでいいだろう。そんなことより、火憐ちゃん、傘持ってなかったのか?」 「んにゃ?」 火憐が怪訝けげんそうに目を細める。 「兄ちゃん、どうしたんだ? 兄ちゃんがあたし達のことを名前で呼ぶなんて珍しい。ついついちゃん付けしちゃうのが恥ずかしいからって、大きな妹とか小さな妹とか呼んでた癖に」 「ああ、もうその縛りはウザいから今回から外すことにした」 どうせ誰にも望まれていない設定である。 僕一人が我慢すればいいことだ。 「ふーん。時系列がしっちゃかめっちゃかにこんがらがっちゃってる気もするけど、まあいいや」 あまり複雑なことを考えられないという残念な仕様しようの火憐の脳は、大抵のことを『まあいいや』で済ませてしまうので、呼び名についてはさほど追求して来ず、 「いや、雨は降ってねーよ」 と言った。 「ゴールデンウィークの初日に相応しい、ピーカンさ」 「はあ? じゃあ何でお前そんなにずぶ濡れなんだよ。沼にでも落ちたか?」 「あたしは昇ることはあっても落ちることはないなあ」 キメ顔で言う火憐さん。 縛り以上にウザい妹だ。 「どんな面白いことを言っても、落ちない」 「それは地獄のようなキャラ設定だな……」 「豚もおだてりゃ気に昇るとはあたしのためにある言葉さ!」 「…………」 お前のためにある言葉がそれでいいのか? 肉体的にも精神的にもドM過ぎて言葉がない。 「お前が落ちようが昇ろうが知ったこっちゃねーから、じゃあどうしてそんなずぶ濡れになってんのか教えろ。まさかセーラーマーズあたりにでも火星に変わって折檻せっかんされたか」 「馬鹿なことを言うな、兄ちゃん。彼女はあたしの仲間だ」 「馬鹿なことを言っているのはお前だ」 「いや、これ汗だよ」 ほらほら。 と、火憐は僕に抱きついてきた。 ぐしょりと、水をたっぷり吸ったスポンジに全身をくるまれたような感触。 つまり。 「気持ち悪っ! 不愉快指数がぱねえ! ていうか汗臭っ!」 汗ええええっ!? これが全部!? 「こらこら兄ちゃん。年頃の女の子を相手に臭いとは酷いな」 「離せーっ! ぎゃーっ! 本気で不快、いやさ不愉快ーっ!」 渾身の力で僕は暴れたが、しかし無駄だ。 月火とは違って、体育会系のパワー系妹、火憐ちゃんである。 力ずくで引き離すことなどできるわけがない。 「うりうりー」 頬ずりをしてくる火憐。彼女の汗が潤滑油じゅんかつゆとなり、妙にすべりのいい頬ずりになってしまっていたけれど、僕としてはこの行為、頬ずりと言うよりはむしろ汗の塩分を顔面にすりこまれているかのようだった。 どんな垢すりマッサージだ。 「や、やめろ火憐ちゃん! 身長差を考慮しろ! 今お前はおっぱいで僕の顔面を挟み込んでいるんだぞ!」 「え? 本当? やだぁもー、恥-ずーかーしーいーっ!」 指摘してやると、あっさりと僕から離れ、恥じらいの表情を見せる火憐。 僕の命は助かったが、しかしお前の恥じらいの基準がわからん。 あれほど熱烈なハグをしておいて、何を照れる。 「それが全部汗だと……? マジかよ……いやでも、確かに汗だな、これ……」 ずぶ濡れとは言わないまでも、火憐に抱きつかれたことによって僕のほうもえらく湿らされてしまった。その水分を掬すくい取って舌で検分してみるに、本当に、正真正銘の汗である。 「妹の汗を舐めるなよ。キモい兄だな」 「川辺に出没する妖怪みたいな姿で帰宅した妹のほうがよっぽどキモいわ」 なんだっけな、あの妖怪。 濡れ女だっけ。 だとしたら思い切りまんまなネーミングだけど。 「ジョギングくらいでそんなに汗をかくものか? お前その辺でゴジラとでも戦ってきたんじゃねーだろうな」 「いや、あたしジョギングってそんなにしないから、加減がわからなくってさ。ペース配分を間違っちまったようだ」 「へえ」 ジョギングなのに全力疾走してしまったということか。 なるほどね。 しかし、明らかに身体にまとう水分量が、火憐の体重分を超えているような気がするんだけど……。 「意外と長かったな。42・195キロ」 「お前フルマラソンを走ってきたのか!?」 「だってほら、今日はゴールデンウィーク開始祝いのジョギングで、イメージは聖火ランナーだったから」 「聖火ランナーは42・195キロも走らねえよ!」 オリンピック競技のマラソンとごっちゃになってる! 「えー? でも、国と国とを繋ぐんだから、それくらいは走るんじゃねーの?」 「もっとたくさんの人数で区間を区切って走るんだし、そう考えたんだとすれば、42・195キロは短過ぎる!」 国と国との距離感が狭すぎる。 どんな町内運動会だよ。 「いや兄ちゃん。42・195キロは長かったよ」 「そりゃ長いだろうぜ。少なくともお前がそんな汗びしょになっちまうくらいにはな」 「うん。実感してる。それはこれ以上なく実感してる。いくら42・195キロとは言っても、精々百メートルの十倍くらいだと思ってたんだけどな」 「…………っ!」 怖い怖い怖い怖い怖い怖い! この妹の頭の悪さが怖い! ブルっちゃう! 「そっかそっか、疲れるわけだ。ようやくこんなにへろへろになった理由がわかったぜ」 何もわかっていない馬鹿がわかったとか言い出した。 とても心配だ。 「で、兄ちゃん。ゴールテープはどこだ。用意してくれてるんだろ?」 「してねえよ。まさか軽く二度寝している隙に自分の妹が軽くフルマラソンを走ってるだなんて、予想だにしてなかったよ」 「あれ? おかしいな。月火ちゃんに頼んでおいたはずなのに」 「月火ちゃんもまさか本気にするまいよ……」 あるいは意図的に無視したかだ。 仲のよい姉妹ではあるけれど、その辺、月火はクールなところがある。 付き合いが悪いとも言えよう。 「しょーがねーなー。月火ちゃんもあれで詰めが甘いんだから。やっぱまだまだあたしがいねーと駄目かー」 「空っぽで何も詰め込まれていない頭をお持ちなお前に、月火ちゃんもそんなこと言われたくねーだろうけどな」 「しかしゴールテープを切らない限り、あたしのランは終わらねえ」 火憐はもう一度「しょーがねー」と言い、それから僕に向かって、 「兄ちゃん。頭の上で輪っかを作ってくれ」 と言った。 「輪っか? 天使みてーにか?」 「違う違う。腕で、こんな風に」 「ああ」 火憐がやってみせた実例を受け、僕は言われた通りにしてやった。腕と肩のラインで、数字のゼロを作る形だ。何のつもりでこんなことをさせたのかはわからないけれど── 「とうっ!」 火憐がその場から跳躍した。 そして走り高跳びにおけるベリーロールよろしく、僕が作った腕の輪をすり抜けた。 イルカみてーに。 あるいは、火の輪くぐりのライオンのように。 僕の頭頂部をかすめながら。 針の穴を通すように──さながらオオスズメバチのごとき機動力で、すり抜けた。 「はいっ!」 そして見事に、着地してみせたのだった。 「兄ちゃんを貫いた! これをもってあたしのゴールとする!」 「怖いことすんなーっ!」 虚勢を張って怒鳴ってみせたものの、しかし僕の声はがたがたと震えていた。 内心描写的には、全身に鳥肌が立っているイメージだ。 「あー、疲れた。つーか喉のど渇いた。水水ー!」 「待てや! まだ話は終わってねーぞ!」 というかそんなぐしょ濡れのまま廊下を歩くな、と、水分を補給するためにだろう、リビングに向かう火憐のあとを、僕は追った。 追いついてみると、彼女はキッチンのシンクにポニテ頭を突っ込んで、蛇口からがぶがぶと、直接水を飲んでいた。 男らしい……。 こいつ既に男の中の男じゃねえの? 妹なのに。 「んぎゅ、んぎゅ、んぎゅ、んぎゅ、ぷはっ!」 五リットルくらいは飲んだんじゃないかというくらいに火憐は水を飲みまくり、そしてようやく、蛇口から口を離した。 「さーって。兄ちゃんから汗臭いとか言われて乙女心がずたずたに傷ついちゃったから、シャワーでも浴びてくっかな」 言って火憐はジャージを脱ぎ始めた。 その場で。 つまり僕の目の前で。 ……その行動のどこに傷つくような乙女心があるのだろう……兄妹だから気にしないというのはあるとしても、しかしどうだ、脱衣は脱衣所で行うべきではないのか。 「…………」 でも、あれなんだよなー。 こいつにも月火同様、彼氏がいるんだよなー。 瑞みず鳥どりくんだっけ。 知らんけど。 つまり乙女心はともかくとして、こいつはこいつで、恋心を知っているはずなのだ。 「なあ火憐ちゃん」 僕は言う。 駄目で元々という気持ちはあるけれど、しかしもしもかんばしい答が返ってきたなら、それはとてもラッキーというものだ。 「なんだよ兄ちゃん」 「ちょっと教えて欲しいことがあるんだけど」 「なんだ。ついに兄ちゃんも空手道を歩みたくなったのか」 「いや、教えて欲しいことというのは奥義おうぎとかじゃない」 一応は口調を真面目にして、僕は質問の内容を切り出した。 「お前さ、自分が恋をしているかどうか、相手のことを好きかどうかっていうのを、どんな風に判断する?」 「はあ?」 なんだ、恋愛相談かよ、と。 火憐は上半身裸になり、脱いだジャージとシャツ、スポーツブラをタオルのように肩にひょいと引っ掛けてから、 「顔見てこいつのガキを産みてーなーって思ったら、それが好きってことなんじゃねーの?」 と答えた。 ……とても男らしい回答ではあったけれど、しかし残念ながら、僕の参考にはなりそうもなかった。 003 妹達と遊んでいるだけでうっかり80ページ前後の、全体の紙幅の四分の一近くの時間を消耗してしまったので、ここから先は手っ取り早く巻きで行く。アニメから入った阿良々木ビギナーの皆さんはすでに脱落してしまったかもしれないけれど、まだ読んでる人は我慢してついてきて欲しい。諦めないで、頑張って! 愛すべき妹ちゃん、月火から資金三千円を巻き上げ──もとい借り上げ(のちに貸し剥はがしの目に遭うかもしれない)、火憐から適切なアドバイスを受けて(のちに生かされることがなさそうな適切だ)直後、僕は町にある唯一と言っていい大型書店に向かって、お気に入りのマウンテンバイクを走らせていた。 無論、エロ本を買うためである。 ゴールデンウィークだからといって決して心を不様に躍らせることなく、そんな日常的な目的のために外出する自分のストイックさに一種の感動さえ覚え、肩までどっぷりと自己陶酔に浸りながら、僕は精一杯ペダルを回していたけれど──そんな道中。 Hさんを見かけた。 もとい。 羽川翼を見かけた。 HANEKAWAさん。 「…………っ」 特に大した考えもなく、しかし僕は脊髄せきずい反射的に急ブレーキをかけて、車体をやや斜めに傾けて、タイヤを擦すり切らせながら(二輪ドリフト?)停止した。 「うおっ……おおおおお」 びっくりする。なんてタイミングだ。 まさしく羽川のことについて、妹と激しく議論を闘わせた直後に、そして羽川に対してつのる思いが恋ではなく欲求不満だという真実が判明した直後に、なにやらお散歩中と見受けられる彼女を目にしてしまうとは、これはとんだ偶然もあったものである。 なんだろう。 またぞろ、図書館にでも行くのだろうか──いや、ゴールデンウィークだから図書館は閉まっているかな。 とすると、もしや参考書を買うためとかで、本屋さんに向かう途中という線もあり得る──そんなもん、遭遇したら最悪だぞ。 計画は中止せざるを得ない。 この決意が、そして僕にお小遣いを貸してくれた月火の思いが、行き場を失ってしまう。命よりも大切な妹の思いを無にするなんて、ダム建設とかの公共工事を中止するよりもおおごとではないか。 「……ん。いや、大丈夫か」 よく見れば。 羽川の進行方向は、本屋さんとは真逆だった。こちらに気付く様子もなく、ペースを変えずに、信号を渡っていく最中である。 どうやら彼女の目的地は、本屋さんでもないらしい。 ふむ。 だとしたらどこに向かうのだろう? 「………………」 ここで一応、羽川──羽川翼についての説明。 羽川翼。 うちのクラスの委員長である。 委員長のなかの委員長──優等生の権化のような女。 三つ編みに眼鏡というその外装も、その内面をぴったり見事に裏打ちする。今日も、ゴールデンウィークなのに制服を着ているのも、校則を遵守じゅんしゅしているからこそなのだろうと思う。 すさまじく頭がよく、常に学年トップの成績を維持している──それも非常にこともなげに。試験のたびに悠々ゆうゆうとトップを取る彼女の名は、学年中に轟いているのだ。 そして性格もよく、公明正大で人望もあるという、なんと言うか、まあ、完璧超人のような恐るべき女子高生だ。 完璧という概念は、羽川の生誕を超能力で予知した古代の占術師が彼女をモデルに考えたのではないかと、僕は個人的に考えている。 僕のような落ちこぼれとは、本来別次元の住人と言うか、かかわりの持ちようもない彼女なのだけれど──しかし、つい先頃の春休み、僕は彼女とかかわりを持つことになった。 と言うか。 僕は彼女に命を救われた。 救命された。 その優しさに、身も心も打ちひしがれたと言っていい──だから、僕はそれ以来、羽川と友達となったのだった。 ……僕のことを不良と勘違いしているらしい彼女(羽川の中では、どうやら落ちこぼれと不良が同義らしい。落ちこぼれるということはサボっているということだという、一足飛ばしの理論なのだ)は、僕を更生させようと躍起やっきになっているようで、その勢いで僕はこの度たび、副委員長に任命されてしまっているが、それはとりあえずご愛嬌として。 春休みからの一ヶ月、羽川は僕ごときありふれた一般人と非常に仲良くしてくれているのである。 それを。 恋と取り違えてしまうほどに。 「ふっ。しかしまあ、ここはスルーだな」 まあ僕は高校生になってから友人関係にあまり恵まれておらず、そういう意味では人との距離感というものをつかむのが非常に苦手な人間なのだけれど、それでも休日に友達と会えば、普通に声を掛けるべきだということくらいはわかる。 それが友達というものだ。 そんな重くとらえることはない──しかし、今日、この日に限ればその限りではないのだ。僕には今、大きな使命がある。妹達の思いを乗せて(火憐は別に何も言っていないけれど)、本屋さんに向けてチャリを回さねばならないのだ。 ぐるぐるとな。 そうすることが結果的に、羽川を守ることにも繋がるのだ──月火と話しているときにも思ったことだが、胸のことはともかくとして、特にそういうことをするつもりもなかったけれど、もしも勘違いの挙句に何かをまかり間違って、僕から告白でもされてしまったら、きっと羽川は困り果てることになるだろうし。 いや、困り果てるというよりは、きっと僕に説教をして、その勘違いを正そうとでもするんじゃないかな。 告白して説教されるとか凹へこみそーだな。 それはそれで楽しそうだけれど。 『駄目だぞ!』とか言われて。 そういう予想を差し引いても、まあ羽川に声を掛けたいのは山々だけれど、ここはぐっと我慢して、ストイックに去っていくのが男というものだろう。 さらば羽川。 ゴールデンウィーク明け、教室でまた会おうじゃないか。 そのとき僕は、人間として一回り大きくなっていることだろう──成長した僕に間違って惚れるんじゃねーぞ、と。 新たにペダルを踏み込もうとしたとき。 再度、僕の足は止まった。 足というか──動きが止まった。 「……え?」 羽川が、ふと、道の角を折れ、方向を変えたのだ──その方向転換によって今まで横向きしか見えてなかった羽川を、僕は正面から見ることになった。 正面から。 そうすることで──僕は、羽川の左顔面を覆う、分厚いガーゼの存在に気付いたのだった。 絶句する。 それは、絶句するしかないような──見るからに痛々しい、治療跡だった。 顔の左半分がまったく見えない。 ちょっと擦り剥むいたとか、壁にぶつけてしまったとか、その程度の怪我けがに対する治療じゃ、明らかにない──テープによって留められた白いガーゼは、羽川の顔の左側を、完全に隠してしまっていた。 痛々しい、と言うより。 普通に痛い。 見ているだけで痛そうな── ずきんずきんと、痛みがダイレクトに伝達してくるような── いや。 それがただの怪我であるなら、僕は今すぐ羽川に駆け寄って、声をかけるべきだ。 心配するべきだ。 何があったのか、どうしてそんな怪我をしたのか、訊くべきだ。 つまずいてこけたのか、とか、電信柱にでもぶつかったのか、とか、いくらでも訊きようはあるだろう。 だけど──僕の身体は完全に固まっていた。 だって──いや、それは考え過ぎなのか? 春休みに経験した、僕のバトルまみれの思い出が、そんな粗暴な連想をさせるだけなのか? 大抵の人間は右利きで、そして右手で人間の顔面を殴れば、ちょうどあんなふうに、顔の左側だけを怪我することになる、とか── 「…………」 そのガーゼを除けば、まるっきりいつも通りの羽川の姿──三つ編みも眼鏡も、制服さえもいつも通りの羽川の姿は、逆に壮絶で。 逆に壮絶で。 実に強烈で。 そんな羽川の姿を視界に、固まってしまって動けない僕に、すると、羽川は気付いたようだった。 バレてしまった。 そりゃそうだ──横向きならまだしも、正面から向き合ってしまったのだ。こっちが羽川に気付いてしまっているのだから、羽川がこっちに気付かないわけがない。 それが、言うなればゴールデンウィークにおける、僕の最初の失敗だったんだと思う──ミステイクだったんだと思う。最初から声も掛かけずに去るつもりだったのなら、見て見ぬ振りをするつもりだったのなら、さっさと消えるべきだったのだ。 僕みたいな奴は。 消えてなくなるべきだったのだ。 それをせず、惚ほうけたように固まってしまったから──僕は羽川、はっきりと認識されてしまうことになるのだった。 「あ」 羽川は言う。 僕を指さして。 「やっほー。阿良々木くん」 そう言って、彼女は気さくに、僕のところに小走り気味に近付いて来る。 「いえー、元気してるぅ?」 その態度もまた──あまりにもいつも通りの羽川で、だからこそ。 左顔面のガーゼが、闇雲やみくもに浮かび上がって見えてしまうのだった。 「……やっほー。いえー。元気してる……」 と、返す僕の声は、ゆえにまったく、いつも通りのものにはならなかった。声が上擦うわずっていたし、こんな短い言葉なのに、ひょっとしたら噛んでしまったかもしれない。 「ん。あ」 と。 羽川は、そこで、失敗した──みたいな顔をした。 僕の、あまりにノリの悪い、棒読みにもなっていないぐだぐだのリアクションを受け、思い至ったのだろう──現在の自分の姿に。 もちろん、唇の端についたご飯粒でもあるまいし、自分の顔面のガーゼに羽川自身が気付いていないということもなかろう。 だから。 僕のリアクションの悪さが、一体何に起因しているのか、羽川にわからないわけがない──僕が失敗したのだとすれば、羽川もこのとき、失敗をしてしまったのだ。 羽川もまた、僕と同じように──僕に気付いたところで、決して僕に声をかけるべきではなかったのである。 そういうことだ。 羽川は完璧だけれど──失敗をしないわけではないのである。 いや、ひょっとすると、失敗ではないのかもしれない。 羽川は羽川で、その痛々しい怪我のことを忘れようとしていて──そんな風に努つとめていて、本当にうっかり完璧に、忘れてしまっていたというだけのことなのかもしれない。 だとしたら。 思い出させてしまったのは──僕だ。 僕のリアクション能力の低さだ。 むしろ。 「ん──えっと」 そんな風に羽川が口ごもることも珍しい。どうしたものか、このいかんともしがたい状況を果たしてどうクリアしたものなのか思い悩んでいる──というよりは、それは単純に、戸惑っているだけという感じだった。 ただ、僕にはわかるのだ。 羽川が、今、どうして戸惑っているのかがわかるのだ──それは、そんな状態の自分を見られてしまったことによる気まずさなんてどうでもいいものではなく、彼女は今、僕を戸惑わせてしまっていることに対して困っている。 そこをどうフォローして、僕の気持ちを楽にしようかと考えてる。 この状況で、彼女は。 僕のことを慮おもんばかっている。 自分のことではなく他人のことを思っている。 それがどうしようもなくわかってしまうからこそ──尚更なおさら僕はいたたまれなかった。 「えっとね、阿良々木くん」 「えいっ」 何か、釈明をしようとしたのか、それとも続く沈黙をまずは打破しようととりあえず言葉を繋いだだけだったのか、僕の名前を呼んだ羽川の台詞を、しかし遮さえぎるように──僕は動いた。 動いたと言っても、正直、そこに深い考えがあったわけではない──もっと正直に言うと、そこには何の考えもなかった。 浅知恵さえない。 ただ、そこにあったのは、そんな羽川の痛くも痛々しい姿を見ていられないという、非常に個人的な欲求だった。 顔面のガーゼを見たくなかったし。 僕のために困る羽川も見たくなかった。 だから。 だから僕は、実在すれば球界を席巻せっけんするのではと期待されるアンダースローの名ピッチャーをイメージしつつ、右手をすくい上げるようにして──羽川の、膝下まである長いスカートをまくりあげるという奇行に出たのだった。 俗に言うスカートめくりである。 「あひゃうっ!?」 そんな僕の奇行に、羽川は僕の頬に平手打ちを喰らわせた──女子としては当然の動作だ。素晴らしき即決即断、しかし、冷静に考えるのならば、彼女はそんなことをするべきではなかっただろう。 スカートをめくったといっても、それは手を伸ばせば互いの顔に触れるような(つまりは平手打ちが届くような)、結構な近距離でのことである。仮に僕をはたかなければ、つまりその衝撃で僕に片膝をつかせなければ、角度的にスカートの中身は、ほとんど見えなかったはずなのだ。 しかし、羽川の平手打ちはかなり手加減抜きな力加減で、まったくもって容赦というものがなく、現実として僕は片膝をつく──と言うかぶっ倒れてしまい地を這はい砂利をなめる姿勢になり、結果、ほどんど真下からの角度で、めくれ上がった、僕がめくり上げたスカートの中身を満遍なく拝めてしまう位置関係になってしまったのだった。 なってしまったと言うより、なりおおせたと言うべきか。 文字通り、拝む。 それは手を合わせたくなる光景だった。 と言うか本当に手を合わせて拝んだ。 反射的に、意図することもなく。 実際、これが神社だったなら、僕はお百度参りを毎日するだろう──否、この光景を目にできたというだけで、既に全ての願いが叶ったと言っても過言ではない。 なんとも霊験れいげんあらたかな。 そして僕は今朝、月火と交わした会話の一部を、ここで取り消すことになる。 羽川が着用していたその下着の色は、全てを塗りつぶす闇のような黒だったのだ──衣服の素材について詳しくない僕は、どうやってそこまでの黒さを演出しているのか、想像もつかない。 それほどのダークブラック。 鮮烈な黒。 想像を絶すると言っていい──下馬評を覆くつがえすと言っていい、それは、エロティックさだった。 そして僕が発言を取り消すならば、月火もまた発言を取り消さなくてはなるまい──僕が散々言ってもあいつはいまいちぴんと来ていなかったようだけれど、真面目で純粋で清楚のイメージが白だなんて、まったく画一的かくいつてきな見方だと、月火もこの映像を見れば、きっと納得してくれることだろう。 白だろうが黒だろうが。 身につける人間が同じならば──同じことなのだ。 そのダークブラックは、羽川の身体に密着した黒は、あまりにも真面目で、あまりにも純粋で、あまりにも清楚で──目がくらむようだった。 そしてエロと真面目と純粋と清楚が同居することだってあることを、そんな色が存在することを。 そんな人間さえも存在することを、僕と月火は心の内に牢記ろうきするべきなのだ。 兄妹揃って猛省するべきだ。 そもそもあのとき、下着の話からHさんの話題に飛んだのは、春休みに散々、二度に渡り三度に渡り幾度となく見る機会のあった、羽川の着用する彩いろどり華やかな下着の種類の多さに起因していたのだけれど──それにしても黒色までをその趣味の範囲に収めていたとは、羽川翼。 いやはや──正しく、恐るべき女である。 「……いや、恐るべきは阿良々木くんだと強く思います」 ターボエンジンの組み込まれた走馬灯のように色々考えながらぶっ倒れ続け、まるで起き上がる気配を見せようとしない僕に、羽川は、しかし既に落ち着きを取り戻したようで、非常に冷たい風に言ってきた。 「高校生になってスカートめくりって……何を考えてるの、阿良々木くん」 こら。 と、怒られた。 正面から真っ直ぐに起こられてしまうと、これはもうびっくりするほど言葉がない。 何を考えているのと言われれば何も考えていないと言わざるをえない。 僕は一体何をしているんだろう。 スカートめくりって。 今時小学生でもしねえよ。 「あのね、羽川」 「わかってるよ」 ほら、と羽川が僕に手を差し出してきた。 これに捕まるんだ! 的な意味合いらしい。 ぶっ倒れたとは言っても、別にそんな大ダメージを受けたわけではないのだから、手を借りなくても起き上がることはできただろうけれど、羽川から差し出された手を無下むげにできるはずもなく。 僕は握手をするように、その手をつかみ。 立ち上がる。 「…………」 なんだろうな。 こうして手をつかみ、手を繋いだときに、ちょっとどきどきするような気持ちも──単なる欲求不満の産物なのだろうか。 わからない。 「優しいね、阿良々木くん」 羽川は言う。 笑顔で。 ガーゼで半分隠れてしまっている笑顔で。 「優しくて、いい人だね」 「…………」 なんて言えばいいのだろう。 その笑顔は──怖い。 素直に怖い。 この状況で、僕に対し笑うことのできる羽川は──やっぱり、僕のような落ちこぼれとは『違う』ということを、思い知らされる。 違う、と言っても、それは違和感ではない。 むしろ畏怖に近く。 つまり怖い。 そう言えば、忍おし野のの奴は、もっと露骨に──羽川のこういうところを、『気持ち悪い』とさえ称していたのだったっけ。 「私はね、阿良々木くんのそういうところが好きだよ」 なんてことを、さらっと言う。 それはまあ、いつもの羽川なんだけれど──どうしてだろうな。 羽川から好きって言われると、嬉しいという気持ちももちろんあるけれど、だけどなんだか、傷つくような気分になるのは。 柔らかい刃物でえぐられたみたいな。 寂しい気持ちになるのは。 本当にどうしてなのだろう。 そして羽川は、 「歩こっか、少し」 と。 彼女は僕を誘い、返事を待たないままに、歩き始めたのだった。 戸惑いはあったものの、しかし、躊躇はなかった──僕は脇に停めておいた自転車のスタンドを起こし、ハンドルを持って自転車を押し、すぐに羽川に追いつく。 そして羽川の横に並ぶ。 男女二人で歩くときは、男性が車道側を歩くのがマナーだというのを聞いたことがあるけれど、しかし、この場合、それをすると僕が羽川の左側に回ってしまうので、やむなく、僕は彼女の右側に並んだのだった。 もちろん、もしも自動車が歩道に突っ込んできたら、身を挺ていして羽川を庇かばうくらいの気持ちはあるにしても──きっと羽川は今、左側に回って欲しくないと思ったのだ。 ガーゼの側に立って欲しくないだろうと。 そう思ったのだ。 「羽川」 並んだところで、まず僕は、当たり障さわりのないところから、会話を切り出した。 「どこに行くところだったんだ?」 「ん? んん」 羽川はそれに対して、 「別に」 と、答えた。 「お休みの日は、散歩の日。つれづれなるままに歩き散らしているだけだよ」 「……それにしたって、目的地くらいあるだろ?」 「ないよ。どこに行くつもりもなかったよ」 「…………」 「どこに行けるわけでもないしねえ」 「…………」 「どこにも行けない」 そう行ってから羽川は、 「阿良々木くんって──確か、妹がいるんだったよね?」 と、質問を返してきた。 唐突とうとつに話題を変えた──という風でもない。 「春休みにそう聞いた憶えがあるけれど」 「ああ……」 話したっけな。 よく憶えているな、そんなこと──と、感心するほどのこともないか。 羽川の記憶力のよさは、もうスーパーコンピューターばりと言っていいのだ。これまで交わした会話の全てを憶えられていても不思議ではない。 まあ対する僕も、これまでに見た羽川の下着を全て憶えてはいるがな! 「阿良々木くん、なにか変なこと考えている?」 「いや全然」 否定してから、 「そう、妹がいる」 僕は答える。探り探り。どうしてかような会話を羽川が振ってきたのか、精一杯考えつつ。 「いなくてもいいような妹が、二人」 「いなくてもいいって」 からかうようににやにやと笑う羽川に、「いやマジだって」と、僕は結構ムキになって主張した。照れ隠しで言っているんだと思われると心外だ。 僕はツンデレでも逆ツンデレでもない。 強しいて言うなら反デレだ。 「あんな迷惑な妹はこの世に二人といない──っつーか、まあ、二人しかいない。あいつらのせいで、僕の人生がどれだけ真っ当な道からズレてしまったか……どれだけズタズタにされてしまったか。それを思うと途方に暮れる。あいつらがいなければ、僕がどれだけまともな人生を歩めていたかと思うと、めまいさえ覚える」 「言うなあ。だけど、そんなこと言いながら、仲良しさんな気もするけどなあ」 羽川のにやにや笑いは消えない。 むしろ色濃さを増していく。 「パンツの見せ合いっことかしてそう」 「…………」 こいつは僕の何を知ってるんだ!? いや、別に見せ合いっこなんてしてないけれど……まるで今朝の僕と月火とのやり取りを見透かしたかのようなものの言いようだった。 だとすると、僕が自転車に乗って何をしにどこに行くつもりだったのかもお見通しなのかもしれない……恐ろしい話だ。 サトリの妖怪か。 ニックネーム、サティか。 「そんなことは断じてしていない」 僕はきっぱりと、男の中の男の顔で、かような返事をする。 画風としては、原はら哲てつ夫お先生系列。 「喧嘩ばかりだ。ここ五年ほど、口を利いてもいないな。話しかけられても、無視」 「嘘ばっかし」 「違う、本当だ。ボディランゲージでしか会話をしていない」 「仲良しじゃん」 「と言うか、ここ十年ほど、合ったことさえない。書き置きだけで会話をしているくらいだ。僕達はお互いのことをペンパルと呼んでいる」 「だから、仲良しじゃん」 確かに。 傍目はためには仲の良さそうな兄妹である。 「いやでも今日もなんだよ。今日も、今朝も正に、下のほうの妹と喧嘩をしてきたところだよ。胸で手を揉まれたりして、散々だった」 「胸で手を揉まれ……?」 「ああ! まったく、とんだてもみんだったぜ!」 僕は強い憤いきどおりを示したが、しかし残念ながら、羽川の同意は得られないようだった。 と言うか。 目を剥いて驚いている。 素だ……。 からかう調子がまったく消失している。 えっと、と僕は仕切り直す。 「まあ、言っても家族だからさ。険悪ってことはない。だけど色々迷惑をかけられているのも本当だ──とは言え、僕のほうからも、ちょっとくらいは迷惑をかけたこともあるだろうし」 「お互い様ってとこ? いいじゃん、それ。家族っぽくて」 「家族?」 「うん。ファミリー」 羽川の歩くペースは、まるで全てが計算ずくのように一定だった。僕は自転車を押しながら、それに合わせる。 「私が一人っ子だっていうのは、言ったっけ?」 「いや──聞いてないと思う」 けどまあ、今こうして聞いてみれば、そうだろうなって思う。あんまり羽川に、兄弟姉妹がいるというイメージはないよな。 「だからさ、阿良々木くん──私には家族って、いないんだよね」 そんな台詞を──羽川は普通に続けた。 それがあまりに普通過ぎて、僕は危うく聞き逃すところだったくらいだ。 相槌だけでスルーするところだった。 いない? 何が? 「おいおい羽川──兄弟がいないだけで、家族がいないは言い過ぎだろ。お父さんとかお母さんとか、お祖父じいちゃんとかお祖母ばあちゃんとか──」 「いない」 今度は、普通ではなく。 きっぱりと、強情な風に──羽川は言った。 頑なに。 「お父さんもお母さんも。誰もいないよ。私には」 「………?」 恥ずかしながら。 この時点では、羽川が何を言っているのか、僕にはまったくわからなかった。予想もできなかった──少し頭を回転させればわかりそうなものなのに、しかし。 それは、僕の持つ羽川のイメージと、まったく相反するものだったからだ。 その示す内容も。 そんな言い方も。 「家族は大切にしなきゃね、阿良々木くん」 「羽川……お前」 「いやいや、勘違いしないでよね」 羽川はツンデレ風の台詞を言ったけれど、この場合は、もちろん普通の意味合いだった。 「別に天涯孤独ってわけじゃないよ。そうだね、ごめん、言い過ぎた。言い過ぎと言っても過言じゃなかったよ。私にはお父さんもお母さんもいる。一つ屋根の下で暮らしている。三人暮らしなんだよ」 「ああ……そうなのか? じゃあ、でも──」 「ただ、家族じゃないだけ」 それだけ。 そういう羽川の足取りは──やはり変わらない。 「私のお父さんとお母さんは、本当のお父さんや本当のお母さんじゃないだけだよ」 「……本当のって」 「つまり嘘のってことだよね」 羽川は、妙にあっけなく言った。 それは、あえてそうしたというよりは、そういう発音しかできないという体だった。 「さて、と」 羽川は足を止めない。 「何から話そうかな──とりあえずは、昔々の十七年前、ひとりの可愛い女の子がいましたって感じかな」 「女の子?」 「私と同じ、十七歳の女の子だとお考えください」 「ああ……」 よくわからないなりに頷いてみると、羽川はそのまま話を続ける。 「ある日、その女の子は身ごもりました」 さらっと。 そんなとんでもないことを羽川は言った。 「み──身ごもる?」 「うん。妊娠したってこと。ちなみに相手が誰なのかはわかりません。なにせ恋多き女の子だったらしくって──で、産まれた子供が私なんだ」 「ちょ……」 僕は戸惑って、慌あわてて羽川の前に自転車ごと回り込み、彼女を止める。 「ちょっと待て。話の展開が急過ぎてついていけない──え? お前?」 「私」 「…………」 羽川に変化は、あくまでない。 実に普通の──普段通りの羽川翼だ。 「私生児ってことになるね。だから、うん」 「待てよ──話おかしいだろ。お父さんが誰かわからないって、おかしいじゃん。ついさっき、お父さんとお母さんと三人暮らしだって、お前、言ってなかったか?」 「あー、ごめんごめん。そのお父さんは、違うお父さん。生物学上の、血の繋がったお父さんが誰だかわからないってお話」 厳密にはわからないじゃないんだけど、そんなこと追求しても仕方ないしね──と、羽川は首を傾げ、彼女の立ちはだかった僕をひょいとかわすようにして、前に進む。 目的地がないのに。 前に進む。 「ちなみに、今のお母さんも、違うお母さん。私を産んでくれたお母さんは、すぐに自殺しちゃったから」 「自殺?」 「自殺。ロープで首をくくっちゃった。まあ、自殺の方法としてはありきたりだよね──場所がベビーベッドの真上だったっていうのが、ちょっと変り種だけれど」 モビールみたいだった、と。 羽川は言う。 それが取るに足らないことのように。 昔見た、ドラマの粗筋でも語るかのように。 自分の半生を語る。 本来記憶に残るはずもない頃の記憶を。 「ただ、自殺する直前に、彼女は結婚してたんだ。なにせ、彼女、天涯孤独の身の上で、子育てをする上で財政的に厳しかったらしくって──お金目当てでね」 「金……」 「愛情のない結婚も、場合によっちゃあ責められないけれど、この場合はどうなのかなあ。相手の男性にしてみれば悲劇だよね。悲劇っていうか、迷惑かな。だって、誰とも知れない相手との子供を、引き取らなきゃいけなくなったんだから。ああ、その人が私の最初のお父さんなんだけれど」 「最初の?」 「その人も、今のお父さんと違うんだよ」 「…………」 違うお父さん──か。 違うというのは、しかし、どこまでが──違うのだろう。 「お母さんの自殺の原因がなんだったのかは、正直、わからない。元々精神的に細い、感じやすい人だってのはあるらしいけれど──お金目当ての結婚生活を送るには、彼女はちょっと、恋愛に対してロマンチスト過ぎたみたいだね」 それでも被害者は最初のお父さん、彼のほうだと思うけどね──と、羽川は自らの見解を述べる。 そのクールな物言いが。 らしくもない冷たい物言いが。 いちいち僕の心をざわつかせる。 「その最初のお父さんっていう人、まあほとんど私、憶えてないんだけれど、これが真面目一本槍の、絵に描いたような仕事人間で──子育てなんてできない人だったんだって。で、また結婚。今度は子育て目当てってことになるのかな──だったらベビーシッターでも雇えばいいのに」 まあ、教育上、母親がいないのは子供にとってよくないとか考えちゃったんだろうね、真面目だから──と、羽川は、『最初のお父さん』とやらの行動にフォローを入れる。 「で、そのお父さんは、結局、働き過ぎで過労死しちゃったんだ。で、残されたお母さんっていうのが二番目のお母さんにして今のお母さんで、今のお父さんは、その人の再婚相手」 以上。 と、羽川は笑顔でまとめた。 その直後に「なんちゃって。嘘だよ。家に帰ったらあったかいスープと、優しいお父さんとおっちょこちょいなお母さんが待ってるんだ」と言えば、そのままそっちの言葉を信じてしまいそうな、たわいなさだった。 いや、実際。 とても嘘っぽい──荒唐無稽こうとうむけいな話である。 わけがわからないと言ってもいい。 複雑と言うほどでもない、図に描いてしまえば実にわかりやすい家系図ではある。 でも。 それが本当なら、羽川が今一緒に暮らしているという──一緒に暮らしているという、家族ではない父親と母親は。 「そう、今一緒に暮らしてるお父さんとお母さん、私とまったく血が繋がってないんだよ。言うなら赤の他人なの。あはは、血が繋がってないのに赤の他人って──吸血鬼が聞いたら笑いそうな話だよね」 「……笑えねえよ」 僕が言うのだから──間違いない。 もちろん、あの廃墟はいきょで今日も体育座りをしているであろう小さな女の子も、決してにこりともしないだろう。 もっとも僕は春休み以来、あの幼女が笑うところを見たことがないけれど。 「なんだそれ。どういう話なんだ?」 「みなしごハッチってことなんだけど。いやいや、もちろん、戸籍上はちゃーんと、父親と母親なんだけどね。お父さん、お母さんなんだけどね。でも、お父さんらしいこともお母さんらしいことも、あの人達は何もしてくれないし」 私はこんなに。 娘らしくしているつもりなのに。 そんな風に、ことのついでに付け加えたように聞こえた言葉は、あるいは聞き違いだったのかもしれない。 そんな一方的な愚痴みたいなことを、羽川が言うとは思えなかったからだ。 だけどどうだ。 それこそ、聞き違いならぬ勘違いではないのか。 僕が羽川の何を知っているというのだ。 羽川なら──困ったり悩んだりしないとでも、思っていたのか? 羽川翼は。 傷つかないとでも? 彼女なら、反省も後悔も、しないとでも? 嫌いも苦手もないとでも? 羽川は幸せで当たり前だとか──僕はそんな風に思っていたのか。 そんな、押しつけがましいことを。 「血が繋がってなくても家族になれるって──私も昔はそう思ってたんだけどね。色んな家庭をたらいまわしにされた結果辿たどり着いた家だったから、頑張って仲良くしようとか思ってたんだけどね。ままならないもんだよ、本当に」 ままならないし。 つまらないよ。 そう言ってから、羽川は唐突に振り返り、今度は彼女のほうが僕の前に回り込んで、道を塞ふさぐようにして、 「ごめんね、阿良々木くん」 と言った。 「今、私、意地悪なこと、言ったよね」 「え──いや、そんなことは」 この話の流れでどうして僕が羽川から謝られるのかわからず、僕は戸惑う。 していると羽川は、 「だってこれ、八つ当たりだもん」 と言った。 「いきなりこんなこと言われたって、反応に困るでしょう? だからどうしたって感じだし、そもそも阿良々木くんには関係ないし──でも、なんだか、ちょっと同情しちゃうようで、筋違いの同情しちゃう自分に罪悪感を覚えちゃうでしょう? 悪いことをしちゃったような、そんな……嫌な気分に、なったでしょう? 友達のプライベートを覗のぞき見しちゃったみたいで、重い気分になったでしょう?」 まくし立てるようにそう言う羽川からは、悔恨かいこんの情が溢れていて。 急に、とても気弱な表情になっていて──一つ取り扱いを間違えると取り返しがつかないほど壊れてしまいそうで──僕に反論を許さない雰囲気があった。 顔面のガーゼが、その雰囲気を引き立てるのだろうか。 「だから話したんだ」 羽川は言った。 「狙い通り。私、阿良々木くんで、憂うさを晴らした」 「…………」 「阿良々木くんを嫌な気分にして、憂さ晴らしをして、すっきりしようとした──愚痴ですらないもんね、こんなの」 本当に申し訳なさそうにそう言う羽川の姿は、正視に堪たえないものだった。 「欲求不満の解消だよ、こんなの」 「欲求──不満」 正直なことを言えば。 この時点で──僕にはおおよそアテはついていた。 元々危惧していた推測の正しさを──そしてその正しさの先の、見当がついていた。 羽川の顔面を覆うガーゼ。 その理由。 もしもそこに、僕が考えている通りの理由がないんだったら──羽川が突然、僕にそんな身の上話を始めるはずがないのだから。 そうでもない限り、憂さ晴らしなんて。 僕で憂さ晴らしなんてするはずがないのだから。 「でも──そんなこと、よく知ってるな、そういうこと、本人には、教えないもんなんじゃないのか? 二十歳の誕生日まで、秘密にしとくとか──」 「あけっぴろげな両親でね。小学校に入る前から、聞いていたわ。あの人達──本当に私のこと、邪魔みたい」 「……羽川」 意を決して──僕は訊く。 なあなあにできない。 そうすることが、はっきり答を出さず、答え合せもしないことが、きっとこの場合のベストなんだろうとは思うけれど── もう手遅れ。 僕は羽川の物語に、深入りしてしまっていた。 彼女の心に。 彼女の──家庭に。 僕は土足で踏み入った。 「その顔──誰にやられた?」 確証なんてない。 冷静に考えてみれば、考えてみるまでもなく、顔に怪我をする理由なんて、他にいくらでもある──誰かにやられただなんて、とんだ決め付けだ。 だけど。 「どうして、そんなことを訊くのかな?」 羽川は言った。 僕の質問を拒絶するのでもない、それはただ、不思議に思ったことをそのまま口にした、子供みたいな口調だった。 「どうして阿良々木くんが、そんなことを」 「……それは」 口ごもる。 多分それは、羽川がくれたチャンスだったのかもしれない──いや、チャンスなんて前向きなものではなく。 引くならここだと。 警告文を──最後通牒つうちょうを提示してくれたのかもしれない。 あるいは、威嚇射撃いかくしゃげきのように。 だけど──僕は引かなかった。 「それは多分、僕がお前の友達だからだろ」 「……友達」 「友達なら話を聞くもんじゃねーのか。こういう場合。よくわかんないけど」 何せ羽川はしばらく振りの友達だから。 距離感が──つかめない。 まるで3D映画のごとく、どこにいるのか──視差しさがある。 「んー、そっか。そうだね。そうかも」 羽川は、僕の言葉に、頷いた。それ以上僕を問い詰めようとはせずに、頷いた。 「そうだね。ここで話をやめちゃったら、本当に阿良々木くんで憂さを晴らしただけになっちゃうしね──スカートめくりとじゃ、割に合わないか」 「…………」 いや全然合うよ。 む